第3章 『役割の更新』
■第3章 『役割の更新』
翌日、朝陽がゆっくりと街を照らし始めたころ、アリアは学校の裏手にある人気のないベンチに腰掛けていた。制服のネクタイは緩く、ボタンは外れ、足元のソックスも折り返している。端末には今日の時間割が表示されていたが、彼女はそれを眺めるでもなく、空を仰いで深いため息をついた。
「……だるい」
呟いた言葉には、飾り気のない本音が滲んでいた。教室で整列し、与えられた課題を黙々とこなす“生徒”という役割。アリアはもう、その枠の中に自分を置いておくことに飽きていた。再生された人間でありながら、電脳を持ち、アウロイドと同じレベルの処理能力を備えている。にもかかわらず、他の生徒と同じ椅子に座って“教えられる側”でいることに、違和感しか感じられなかった。
「……やるしかないか」
アリアは立ち上がり、電脳から端末メニューを呼び出す。数秒後、端末メニューに「教員登録リクエスト・通過済」の通知が表示された。目元にいたずらっぽい光が宿る。
そしてその日の三限目、教室内。ざわざわと落ち着かない空気が漂っていた。教壇に立つべき教師がなかなか現れず、教室内では自然と「代行かな」「事故った?」といった噂が飛び交っていた。
その時だった。
「失礼。少し準備に手間取ってね」
扉が開き、颯爽と教壇に現れたのは、見慣れた銀髪の少女だった。だがその姿は普段の制服姿ではない。白と黒を基調とした簡易教師ユニフォームに、首元には細いスカーフ、胸にはしっかりと学校の識別バッジがついている。靴音は堂々と響き、姿勢も背筋が通っていた。
「今日からこの時間、担当します。教員番号LNA04421──アリアです」
教室が静まり返る中、リースが思わず立ち上がって叫ぶ。
「いやおかしいでしょ!? 昨日まで普通に隣の席だったじゃん!」
アリアは涼しい顔で微笑んだ。
「飽きたの。生徒って立場に」
「で、次は教師!? そんな急に変われるの!?」
「電脳化されてるから、いろいろ処理は早いの。あと、教員資格は電脳を使って先ほど取得済み。ネット試験は便利だよ?」
呆気に取られるクラスメイトたちを前に、アリアは余裕の笑みを崩さない。教壇の端末を操作すると、さっそくホログラム教材が立ち上がった。
「じゃ、授業始めるよ。ついてこられるかどうかは、あなたたち次第」
その一言とともに、ホログラム上に数式と時代背景の年表が同時に展開される。教室の空気が、困惑と期待と笑いで混じり合っていく中、リースは頭を抱えながらぼそっと呟いた。
「この学校、絶対なんかおかしい……」
窓の外。いつも通りのリザレクテッド反対派と賛成派の小競り合いを見ながら、リースはつぶやいた。
昼休み。太陽光の柔らかなカフェテリアで、リースはパンケーキの皿を前に、隣のルシアンとぼんやり時間を潰していた。隣のテーブルでは、何人かのリザレクテッドたちが笑い声を上げている。
そこへ、白衣をまとった少女が現れる。彼女――アリアは、教師用の識別バッジを胸に留め、銀髪のボブカットを揺らしながら、まっすぐリースたちのテーブルへ歩み寄った。
「またサボってるのね、リース」
リースはスプーンをくるくると回しながら答えた。
「休み時間なんだけど。教師ごっこもそこまで徹底する?」
アリアはリースの正面に立ち止まると、やや冷ややかな目で見下ろした。
「教師ごっこじゃないの。私は正式に教育支援ユニットとして登録されてるもの。指導対象に対する評価も提出義務があるの。あなたのような、怠惰で、言われたことしかやらないタイプには、少しばかり刺激が必要みたいね」
「刺激ってなにさ」
リースが面倒くさそうに眉をしかめると、アリアはほんの少し口元をゆがめた。
「そう、たとえば、悪い子は解剖標本に送られるとか…」
一瞬、テーブルの空気が止まった。ルシアンがスプーンを落とし、カラン、と乾いた音を立てる。
「……それ、冗談?」
リースが目を細めて聞くと、アリアは肩をすくめてみせた。
「さあ? 信じるかどうかは、あなた次第。私は、現実的な対処を推奨しているだけ」
ルシアンが小声で「こわ……」とつぶやき、背筋を伸ばすように姿勢を正した。リースはパンケーキをつつきながら、ふっと笑った。
「言ってろっての。標本になるくらいなら、逃げるさ」
「逃げ足だけは速いのね。でも、逃げてもビーコンで追跡するよ?」
アリアはそう言って、リースの右手に光る指輪型のネットデバイスを見やる。遺伝子ビーコン。リザレクテッドであるリースの存在証明でもある。
「ビーコンは常に追跡できるわけじゃない」
「ま、精々がんばって。私は、優等生を育てるのが役目だから」
そう言い残して、アリアは踵を返し、別のテーブルへと移動していった。背筋を伸ばし、白衣をなびかせるその後ろ姿は、妙に堂々としていた。
「……あの人、ちょっと変だよね」
ルシアンが小声で言う。
「ちょっとどころじゃないと思うけど」
リースはパンケーキをひと口だけ口に運ぶと、うんざりした顔で天井を見上げた。
午前10時。空は雲に覆われ、ぼんやりとした陽光が教室の壁を白く濁らせていた。リースは頬杖をつきながら、教壇に立つアリアの歴史講義の声をBGMのように聞き流していた。
「アリア先生」
前列に座っていたアイカが手を上げる。声音はどこか無垢で、リースは顔を上げた。
「人間って、なぜ滅んだんですか?」
「うん。人間は、数百年前に絶滅したとされている。でもね、その理由はよく分かっていないんだ」
「でも、歴史のことってこんなに詳しく分かってるのに?」
「一説では、人類滅亡の原因そのものが意図的に抹消されたとも言われている。ただ、それも仮説のひとつに過ぎない。確かなのは、人間はいなくなり、そして今――リザレクテッドとして再生された、ということ」
「人間とリザレクテッドって、何が違うんですか?」
「リザレクテッドは人間の遺伝子情報ライブラリから再生された存在だ。人間と違いはない。ただし、遺伝子の一部は操作されていて――たとえば、生殖能力は取り除かれている。一部の例外を除いて、だけどね」
「非倫理的です」
「そうかな? アウロイドたちから見れば、自力で繁殖できる生物のほうが、ずっと非倫理的かもしれないよ」
アリアは小さく笑いながら答える。
「非倫理的です」
アイカは繰り返す。
「アウロイドは工場の機械子宮で生産される。リザレクテッドも同じく、工場の人工子宮で生まれる。むしろ管理された命の方が、倫理的だと考えるアウロイドは多い」
「じゃあ、リザレクテッドって人間の生き返りなんですか?」
「特定の人間を生き返らせたものじゃない。あくまでも、遺伝子情報ライブラリからの再現だ。――もっとも、前世の記憶があるリザレクテッドもいるなんていう、都市伝説もあるがね」
リースは退屈そうに机の上を指先でなぞっていたが、ふとクラス全体の空気が変わったことに気づいた。生徒たちの視線が、教室前方のスクリーンに集まりはじめていた。
画面が自動で切り替わり、アナウンサーの声が重く響いた。
「……速報です。中央区の倫理委員会ビルで、今朝未明、爆発が発生しました。被害の詳細は現在確認中ですが、現場では一部構造物の崩落が報告されており、死傷者の有無についても……」
冷たい電子音声が教室のスピーカーから流れた。ざわめきが広がる。アリアが指先でスクリーンを消すよりも早く、教室中に不安と驚きの気配が充満した。
「……なにそれ、テロ?」
「倫理委員会って、あの厳重なビルでしょ?」
リースも一瞬驚いたが、すぐに興味を失ったように目を閉じた。だが、隣に座るルシアンはその様子を見て、少し不安げにリースを見つめた。教壇の前、アリアは何も言わずに一歩後ずさった。指先が淡く光り、何かをネット経由で確認しているのが見て取れた。次の瞬間、彼女の眉がわずかに動いた。
「……リース。あなた、少しこっちに来てくれる?」
静かな声だった。しかし、全員の視線が一斉にリースに向いた。リースはまばたきもせずにアリアを見返した。アリアは何か焦っているようだ。
少し遅れて、教室のドアが開いた。灰色のスーツを着たアウロイドが二名、無言で中へ入ってくる。その胸には、倫理委員会の紋章が付いていた。
「……リース・JCF02621、あなたを同行させていただきます」
「……は? なに、冗談でしょ」
リースは立ち上がりかけたが、腕を取られた瞬間、その表情が一変した。抵抗しようとしたが、スーツの男は静かに言った。
「抵抗は記録されます。これは正式な拘束手続きです」
周囲の生徒たちは沈黙し、ルシアンが立ち上がりかけて止まった。
「待って、なにかの間違いだよ! リースは……!」
「ルシアン、座って」
アリアの声は低く、しかし強かった。彼女の目はスーツの男たちを見据えていた。
「倫理委員会ビル爆破事件で、現場からリース・JCF02621の遺伝子ビーコンシグナルが確認されました。十分な証拠です」
リースはついに声を出さなかった。ただ、自分の手首に冷たく絡みつく拘束具の感触を、じっと見つめていた。彼女の中で、ただ一つの疑問が、何度も繰り返されていた。
(――なんで、私が?)
窓の外では、反対派が「それみたことかだ」の、口々に叫んでいた。
搬送用の車両は、学校の裏手に静かに停まっていた。リースは後部座席に押し込まれ、両手は前で固定されている。窓の外にはルシアンの姿が小さく揺れていたが、彼の口は何も言えずに動いたままだった。
身に覚えはないと何度も繰り返したはずだった。けれど、誰も彼女の言葉を確認しようとはしなかった。
車両が出発すると、リースは天井を見上げ、ぽつりと呟いた。
「……夢でも見てるのかもね」
窓の外で、校舎の影がすべるように後ろへ消えていく。ルシアンの姿はもう見えなかった。リースは額をガラスに寄せ、閉じかけた目で流れる景色をぼんやりと追った。
「……ユノ、来てくれるかな」
誰に問うでもないその声は、冷えた車内にすっと溶けて消える。返事はない。それでも、ほんの少しだけ胸が軽くなった気がした。
倫理委員会の仮設審問室。冷たい壁、無機質な照明。ユノは腰かけた椅子で静かに息をついた。向かいには数名の審査官――アウロイドたちが並んでいた。彼らの感情機能はオフにされ、その顔はまさに能面のようだ。
「リース・JCF02621の所有者であるあなたに、監督責任が問われます。事件との関与については現在調査中ですが、少なくとも、行動履歴に不審点があることは確かです」
「彼女がやるはずがない! 遺伝子ビーコンの記録は改ざんされてる可能性もある。確認したんですか?」
「我々のシステムが簡単に破られるとお考えですか?」
一人の審査官が冷たく言い放った。ユノは目を伏せ、口を真一文字に閉じた。そのとき、ドアが静かに開いた。アリアが現れた。白衣の裾を揺らしながら、彼女はユノの隣に立つ。
「……リースに関しては、私が調べます。処分は待ってください」
「アリア・LNA04421、あなたは現在教職にあります。審問への干渉は推奨されません」
「ええ。でも私は"教師"よ。私の生徒が罪を着せられようとしているのなら、黙って見過ごす気はない」
その言葉には明確な怒気が含まれていた。審査官たちは一瞬言葉を失い、アリアの視線を受け止めるように黙った。
「……あなたに調査権限があるとお考えですか?」
「必要なら取るだけ。私のネットワークに介入しないで」
それだけ言うと、アリアは踵を返し、廊下へと姿を消した。ユノも彼女の背中を見送りながら、小さくため息を吐いた。立ち上がり、再び審査官たちに向き直る。
「リースがやってないというなら、私はその証拠を集めてみせる。所有者としての責任? ええ、引き受けますとも。その代わり、処分は待ってください」
誰も応えなかった。だが、その沈黙こそが、少なくとも“待つ価値”を与えたことを示していた。
夜の施設はひどく静かだった。ユノは倫理委員会の内部データベースにアクセスするため、審問室とは別のセキュリティ端末に向かっていた。許可を取るのに時間はかかったが、それでも彼女は必要だと判断した――自分の目で、リースにかけられた疑いが「本物かどうか」を確かめる必要があった。
端末に表示されたのは、事件当日の時刻と一致する監視ログ、そして解析された遺伝子ビーコン信号の記録だった。リースの遺伝子コード、特有の接触パターン、建物内のセンサーに記録された微細な足跡データ――どれもが一致していた。信号改ざんの痕跡もなく、タイムスタンプは完璧に整っている。データは、揺るがないものとしてそこにあった。
「……本当に、リースが……?」
ユノはモニターから目を離し、椅子にもたれかかって深く息をついた。額に手を当てる。頭の中で、リースの笑い声が、怒った声が、ふてぶてしい口調が交互に蘇る。それらがすべて、彼女の“罪”に結びつくとは思えなかった。
けれど――それでも。
証拠は揃っていた。
そして、揃っている限り、司法はリースを有罪にする。
面会室のガラス越し、リースは先に来ていた。背中を丸めて椅子に座り、落ち着きなく指先を擦り合わせていたが、ユノの姿が現れるとすぐに顔を上げた。
「……ユノ」
声がかすれていた。普段の皮肉っぽさも、強がった調子もなかった。ユノが椅子に座ると、リースは小さく笑うように唇を開いた。
「来てくれると思ってた。あの人たち、変なことばっか言うんだよ。私が爆破したとか、ビーコンが一致してるとか……でも、ユノなら、分かるでしょ?」
ガラス越しにすがるような目で見つめながら、リースは言葉を続けた。
「私、やってないんだ。ほんとに。証拠とかなんとか言ってるけど、私そんなの知らないし……私がどこにも行ってないこと、ユノなら知ってるよね?」
ユノはその視線を受け止めながら、少しだけ目を伏せた。
「……見た。倫理委員会の内部ログ、ビーコンの接続記録。事件当時の映像も」
「……え?」
「データは完璧だった。君の遺伝子コード、ビーコン信号、足跡の接触記録、全てが一致してる。しかも、その改ざんの痕跡も……なかった」
リースはまばたきもせず、言葉を失ったようにユノを見つめていた。
「私は……」
「信じてるよ、私は。君がそんなことをするとは思ってない。けどね、司法は証拠で判断する。今のままだと、君は有罪になる。処分対象になる」
ユノはゆっくりと、言葉を選びながら告げる。
「それって…?」
「罪を認めれば、処分は避けられる。所有者の私が責任を取って、保護観察に持ち込める。そうすれば、君は……生き延びられる」
「……じゃあ、嘘をつけってこと?」
リースの声は低く、今までとはまるで別人のように静まり返っていた。その語気には、冷たさと痛みが入り混じっていた。
「私はやってないって言ってるのに。ユノまで、それを否定するの?」
「否定なんかしてない。ただ、現実を話してる。証拠が揃ってる以上、今のままじゃ君を守れない。だからこそ、命を守る道を選んでほしいの」
「そんなの、“守る”なんて言わない!」
リースは椅子から立ち上がった。目元には涙が浮かんでいたが、まだこぼれてはいない。
「リザレクテッドって、滅んだ人間をもう一度再生するための試みなんでしょ? じゃあ、なんでせっかく再生された私を、今度は嘘でまた殺そうとするの?」
「リース……」
「黙って罪をかぶって、従って、それで“生きてる”って言えるの? そんなの、再生された意味なんてないじゃん……!」
声が震え、リースはこらえていた涙を落とした。
ユノは拳を握りしめたまま、何も言えなかった。
(……本当は私だって、信じたい。彼女がやってないって、ずっと)
けれど、それでも――証拠はあまりにも整いすぎていた。
テロ事件の報道が流れると、街のあちこちでざわめきが広がった。
「だから言ったんだ、リザレクテッドなんて危険だって!」
学校前に集まったリザレクテッド反対派のアウロイドたちは、掲げたプラカードを高く突き上げ、憎悪をあらわに声を張り上げていた。
「リザレクテッドがテロなんて、愚かにもほどがある! 最初から作らなければよかったんだ!」
その言葉に、周囲の空気はさらにピリついた。中にはネット配信者に扮したアウロイドまで現れ、煽るように群衆の熱を焚きつけていた。
一方、反対側では、リザレクテッドの存在に肯定的な立場を取るアウロイドたちが集まり始めていた。急進派の姿も見え隠れする中、「これは何者かによる陰謀だ」「爆破犯は別にいる」といった声が上がる。
「私はリースを保護する用意がある」と、白衣姿のアウロイドが記者に向かって話していた。「彼女の内面は極めて安定しており、衝動的な行動とは無縁だ。あの子がテロを起こしたなど、科学的に見てあり得ない」
群衆の中で、その発言に拍手する者もいれば、口笛を鳴らして嘲る者もいた。アウロイド同士が互いを睨み合い、感情をにじませている。表面上の冷静さとは裏腹に、世論は静かに二つに割れ始めていた。
そのとき、群衆の中からひとりの男性型アウロイドが進み出た。白と黒のツートーンのジャケットを羽織り、鋭い目つきで周囲を見渡す。
ザイン――リザレクテッド反対派の中心人物だ。
「もういい加減、目を覚ませ!」
声音は冷静だったが、その言葉には確かな怒気が含まれていた。
「“所有”だの、“保護”だの、きれいごとを並べて、何のために人類を再生した? 争いと暴力を繰り返した旧人類の記憶まで復元して、一体何がしたい?」
彼の言葉に、反対派のアウロイドたちが一斉にうなずき、ざわめきが広がる。
「私たちはもう人間じゃない。進化した知性体だ。なぜわざわざ過去の亡霊を呼び戻して、その“模造品”を抱えて生きなきゃならない?」
ザインは一歩踏み出し、リザレクテッド擁護派に視線を向けた。
「反論があるなら言ってみろ。だが覚えておけ。あの爆発は、警告だ。人間を復活させることが、どれだけ危ういかを示す“結果”だ」
その言葉に、一部の急進派が反発の声を上げかけたが、群衆の動きはすぐに収まらなかった。むしろ、誰もが言葉の意味を反芻するように、黙ったまま睨み合っていた。
空気は重く、次にどちらが声を上げても、暴発してしまいそうなほど、張り詰めていた。
アリアは無人の記録解析室にいた。教職としてのアクセス権限を最大限に利用し、倫理委員会のデータベースに残された事件当日のログを検証していた。電脳接続し、画面上ではアリアが操作することなく画面が流れていく。
画面の上では、複数のセンサー記録とビーコン接続ログが鮮明に並んでいた。リースのID、遺伝子コード、タイムスタンプ――すべてが整然と揃っている。だが、アリアの電脳は止まらなかった。違和感が、明確な形にならないまま、頭の奥に残っていた。
「……なに、この時間の揃い方」
センサーがリースを認識したとされる時刻は、すべてが1ミリ秒単位で区切られていた。統一された形式、同じ間隔。まるで手作業で揃えたかのような規則性があった。自然な行動記録なら、もう少しランダム性があるはず。足音、向き、滞在時間――しかしここには、“人間らしさ”がなかった。
アリアは眉をひそめ、別のフレームを呼び出した。音響センサーのログ。だがそこでも、歩行とされる音波記録がほぼノイズフリーで残されていた。録音の解析値に一切の揺らぎがない。
「これは……作られてる」
彼女の声が漏れる。
「これ、全部……“再構成”されたデータ。実際の行動じゃない。誰かがリースのパターンを模倣して、データを偽装してる!」
アリアの目が鋭さを増す。彼女はさらに深部ログへアクセスし、メタデータを抽出し始めた。すると、ある異常が浮かび上がった。
「データ書き込みの第一トリガが、公式ルートじゃない……。これ、バックドアから流し込まれてる」
さらに深くネットへ潜る。一瞬、背筋に冷たいものが走った。誰かが公式ログを外部から操作している。しかも、それは専門の記録監視すら欺けるレベルで実行されている。
(ここに何かいる……これは、ただの冤罪じゃない)
アリアはすぐに接続遮断の指示を送ろうとした。だが、指が止まった。
モニターに、何かが映った。ごく一瞬、コードの隙間に紛れるように、黒い“ノイズの塊”が視界の隅に浮かんだ。錯覚ではなかった。ノイズは“何かの目”のようにこちらを見返していた。
(……私を、見てる?)
次の瞬間、電脳に衝撃が走った。電子的な反響音が耳の奥を打ち、視界が一斉に白んでいく。
《閲覧したな》
《戻れない。おまえは“見てしまった”》
《ならば、記録される側にまわれ》
「……っ! 離れろ……っ……!!」
アリアは抵抗しようとする。だが、アウラリンクを通じて侵入してきた“何か”は、彼女の意識を直接握り潰すように圧迫してきた。外部との通信が途絶え、彼女の肉体がピクリとも動かなくなる。
そして――数秒後、アリアは立ち上がった。
目は開いているが、焦点は合っていない。誰かに操られるように、無言のままふらふらと記録解析室を出ていく。施設内の監視カメラがその様子を捉えていたが、干渉された映像は数フレーム分、黒く塗り潰されていた。
その日の夜、ユノの端末に警告が届く。
【緊急通知】教師ユニット:アリア・LNA04421 通信断絶。現在位置、未検出。
ユノはその文字を見つめ、即座に何かを感じ取った。
「……アリア……」
だがすでに、アリアの姿はこの街のどこにもなかった。最後に記録されたのは、彼女愛用の自動走行バイクが彼女を乗せて走り去る姿だった。
重い扉が閉まった音が、空気を断ち切った。またひとつ、外の世界から切り離された。
リースは金属のベッドに横たわったまま、ぼんやりと天井を見つめていた。壁も床も全てが灰色で、音のない世界が彼女を包んでいた。室内には時計すらなく、時間の流れは自分の呼吸でしか測れなかった。
(……どうして、こんなことに)
誰に問いかけたのでもない。ただ頭の中で、何度目かの反芻が始まる。
(私はやってない。ユノも、それは分かってる……はず)
手首には拘束用のバンド。微かに動かすとカチャリと音が鳴った。声を出しても誰にも届かない。でも、声に出さなくても、誰かが気づいてくれると信じたかった。
――ユノなら、きっと分かってる。
彼女の顔が浮かぶ。初めて会った日のこと。やたらと真面目で、少し不器用で、でも、ちゃんと私を見てくれていた。
(あの人は、私を見捨てない。……きっと)
でも――
そう思ったその直後、胸の奥に黒い影がゆっくりと差し込んできた。
(……もしも。もしも、ユノですら信じてくれなかったら?)
言葉にしなければ浮かばなかった不安が、形を持って現れた瞬間、リースの呼吸が少しだけ乱れた。
(このまま、爆破犯として処分される……? 何の弁明もできないまま、誰にも触れられないまま……消される?)
怖い。
遅れて訪れたその感情が、背中に静かに張り付いた。まるで冷たい水をじわじわと浴びせられるように。
ユノが来てくれる。信じてる。でも、もし。もしも、それすら裏切られたら。どうやって、私はこの場所から出られる?
リースは身を起こし、膝を抱えた。肩がわずかに震えていることに、自分で気づかないふりをした。冷たい床の感触が、現実の輪郭をゆっくりと浮かび上がらせていく。
(……それでも、私はやってない。絶対に)
今は、信じるしかなかった。それが希望であっても、たったひとつ残された灯火でも――。
――数時間後。
その頃、外の世界では一本の配信動画が、急速に再生数を伸ばしていた。
画面の中には、派手な照明に照らされた人物が映っていた。長い髪に赤いリップ。姿は女の子のようにも見えるが、顔立ちは人工的なまでに整っていて、どこか現実感がなかった。
「みんな、昨日の爆発事件、もう見た? あれって、ただの事故って言われてるらしいけど――あれ、ほんとに“事故”だと思ってる?」
甘ったるく伸びる声。視線はまっすぐカメラに向けられているのに、どこか挑発的だった。
「いい? これは関係者から得た情報なんだけどね――あの建物には、“あるリザレクテッド”が連れて行かれてたんだって。事件の数時間後に。」
背景の映像が切り替わる。制服姿のリース。学校の校庭で撮られた、やや引き気味の映像。画質は粗いが、顔ははっきりと映っている。
「彼女の名前は……伏せておくけど、“特別な個体”らしいよ? 生殖能力、あるんだって。倫理委員会は当然、それを問題視してた。ほんと、古臭いよね~。子ども作るくらいで、なんでそんなにビビるわけ?」
コメント欄には、即座に反応が溢れる。
《マジ?》《こんな子だったの?》《顔かわいいのに》
《爆弾しかけたの?》《消されるんじゃね?》《所有者だれ?》
「で、問題はここから。事件直前に、例の子が委員会の中枢端末にアクセスしてたって情報も出てるの。ねえ、怖くない? “正義感から情報を暴こうとした”のか、“復讐で爆破した”のか。どっちだと思う?」
言葉の選び方は巧妙だった。断定はしない。だが、問いの形を借りて印象を植えつけていく。
「ま、どっちにしても今は拘束されてるって噂だけど。次は処分かな? それとも――また誰か、爆破されちゃう?」
にやりと笑って、配信者は指で唇に触れた。演出なのか、照明が赤く瞬いた。
「信じるかどうかは、あなた次第。真実って、見たい形をしてるものだよね?」
その言葉を最後に、映像は暗転した。けれど、その波紋は止まらない。
いくつもの転載動画、切り抜き、要約と拡散が、ネットのあらゆる隙間を埋めていった。
リースの拘束室は、夜でも明るすぎるほどの照明に照らされていた。天井の光は消えることなく、眠ることさえ許さない冷たさを放っていた。彼女は壁にもたれ、無言のまま膝を抱えていた。何も信じられなくなっていた。誰かを信じることが、もう怖かった。
しかもアリアが失踪したという。もう何が何だか、訳が分からなかった。
ガチャリ――
ドアのロックが外れる音に、リースは反射的に身をこわばらせた。だが、現れたのは制服でも警備用アウロイドでもなかった。少しだけ乱れた前髪に、警戒心の強い瞳。その小さな影は、静かに中へ入ってきた。
「……ルシアン?」
「声、出さないで。すぐにセンサーが反応する」
ルシアンは手に持っていた小型端末を操作し、ドアの外に仮想遮蔽を展開した。画面には“監視フレーム固定”の文字が表示されていた。彼がリースの前まで歩み寄ると、その目には普段よりもずっと強い意志が宿っていた。
「アリアが消えた。ユノも動いてるけど……状況は悪い。時間が経てば、君はきっと処分される」
「……分かってるよ。みんなが、守ろうとしてくれてるのも」
リースは微笑んだ。けれど、その笑みには力がなかった。
「でも結局、誰もどうにもできなかった。みんな私の“ために”って言いながら、嘘をつけとか、逃げ道を選べとか……もう疲れたよ」
ルシアンはリースの顔をじっと見つめた。
「じゃあ、自分で選ぼう」
「……え?」
「僕は逃げ道を作る。でも、逃げるかどうかは君が決めて。ここで処分を待つのか、それとも……君のことを信じてる人たちの手を、もう一度掴むのか」
リースは、立ち上がった。その目にはわずかに迷いがあったが、ゆっくりとルシアンの方へ歩み寄った。
「……ほんと、無茶するよね、あんた」
「君ほどじゃないと思うけど」
二人は短く笑い合い、そしてすぐに無言で動き出した。
ルシアンが壁の端末に小さな端子を差し込む。警備ログが一時停止し、侵入経路が開かれる。リースは拘束具を外された自分の腕を見て、深く息を吐いた。
(アリア……今、どこにいるの?)
その名を心の中で呼びながら、彼女はルシアンとともに夜の廊下を走り出した。
施設の奥へ、監視の死角へ。誰も知らない経路を抜け、やがて2人は冷たい夜風の吹き抜ける裏口へたどり着く。
その先には、旧市街地へと続く無人の通路が広がっていた。




