第2章 『学ぶ者たちの違和感』
■第2章 『学ぶ者たちの違和感』
朝の光が差し込む部屋で、リースは布団をかぶったまま動かない。ユノの声がドアの向こうから響く。
「リース、起きて。今日は初登校でしょ」
「あと五分……」
「三分ね」
渋々ベッドを出たリースは、制服に着替え、鏡の前でぼんやり自分を見る。緊張なのか、眠気なのか。どこか現実感のない顔がそこにあった。
数十分後、送迎車が玄関前に到着。ユノがリースの襟を直しながら言う。
「何かあったらすぐ教えて。無理はしなくていい。サロンの時間になったら私も行くから」
「うん」
リースは頷いて車に乗り込む。ドアが閉まり、車が発進する。窓の外に流れる景色を見つめながら、リースはほんの少しだけ、背筋を伸ばした。新しい日常のはじまりだった。
教室の空気は静かだった。人間の子どもたちがかつて騒がしく過ごしたであろう空間には、今、再生された“人間”たち――リザレクテッドが整然と座っていた。全員がリザレクテッドの証である遺伝子ビーコンのリングをはめ、同じ制服を着て、端末を机に並べ、姿勢だけは正しい。だが、表情にはどこか張りつめたような硬さがあった。リースは窓際の席に腰かけ、教室を見回す。自分と同じ年ごろに見える少年少女が何人か目に入るが、誰も彼も視線を合わせようとはしなかった。まるで、お互いに干渉しないことが最初に刷り込まれたルールであるかのようだった。
それでも、数分後。授業が始まる前のわずかな時間に、斜め前の席に座る少女がこちらを向いて声をかけてきた。
「……あんた、新入り?」
リースは反射的に頷いた。
「うん、今日から」
「ふーん。名前は?」
「リース」
「私はアイカ。ここのやり方、慣れるのにちょっとかかるよ。気をつけて」
「なにを?」
「教師に反抗しすぎると、帰されたりする。注意されても黙ってうなずいといた方が安全。あと、無意味に“前の人生”の話はしないこと」
「前の……?」
「覚えてる子はまれにいる。でも誰も得しない。そういう話題は、やめといた方がいいってこと」
アイカはそれだけ言うと、すっと前を向いた。リースは少し口を開けたまま、しばらく黙っていた。意味のあるような、ないような忠告。それでも、教室の空気には確かにそうした“沈黙のルール”が染みついているように感じられた。
(前の人生? リザレクテッドは特定の人間の生き返りではないはず…??)
その直後、別の机から別の声が飛んでくる。
「君、例の“特殊個体”?」
振り向くと、今度はやや細身の少年がリースを見ていた。年はリースより若いか。髪は短く、表情は淡々としている。
「……なにそれ?」
「噂で聞いた。生殖能力があるリザレクテッドが、一人だけ入ってくるって。君のこと?」
「……知らない」
「そう」
それきり少年――名前はまだ聞いていない――はそれ以上何も言わず、端末の画面に目を戻した。リースは小さく息を吐いた。居心地の悪さと、不思議な距離感。そして、どこかで自分が“注目されている”という感覚。初日からこれなら、先が思いやられる。
ふと見ると、整然としていたはずの教室の中、独りいらいらしている様子の少女が目に入った。銀髪ボブカットにサイドテールの少女。彼女は端末を机に打ち付けたり、何やら不穏な様子だ。
窓の外では、無機質な樹木が揺れていた。再現された自然の中で、再現された人間たちが、今日もそれぞれの居場所を探していた。
昼休みのチャイムが鳴った。生徒たちは一斉に立ち上がり、食堂へ向かう者、デッキで食べる者、それぞれが無言のまま動き出す。リースは手にしたランチパックを持って中庭へ出た。天気は良かった。人工的な環境に、それだけは本物だった。
中庭の奥、敷地のフェンス越しに、声が聞こえた。プラカードを掲げた数人のアウロイドたちが校外で抗議活動を行っている。
「再生人類に未来はない!」
「生命への冒涜を止めろ!」
「生殖可能個体の停止を!」
スピーカー越しの声が校内にも響いていた。周囲の生徒たちはそれを見ても誰も何も言わず、視線を避けるように昼食をとっていた。リースはその一団をぼんやりと見つめていた。何か言葉が書かれたプラカードがひとつ風で揺れる。“おまえたちは作られただけの存在だ”。その言葉が目に焼きついた。
「気にする必要ないよ、それ」
不意に背後から声がした。振り返ると、銀髪の少女が立っていた。銀髪ボブカットにサイドテール。制服の着方はだらしなく、シャツの裾もズレている。だがその眼差しは、不思議と澄んでいた。リースより少しだけ年上か。
「アリア。ま、名乗るほどじゃないけど」
リースはきょとんとした表情でその子――アリアを見た。
「彼らは、ほとんど決まり文句しか叫ばないから。内容は聞く価値ないし、ああやって騒いでるうちは大丈夫。本当に危ない奴らは、黙って手を打ってくるから」
「……アリア、いつから見てたの?」
「さっきから。昼飯サボってふらついてたら、君がボーッと突っ立ってるから目に入っただけ」
アリアはポケットに手を突っ込んだまま、フェンスの向こうを一瞥した。
「君が“その個体”だって噂、知ってる。気にするなって言っても無理かもしれないけど……誰がどう思おうと、君は君だから。それ以上でも、それ以下でもない」
リースは少しの間だけ沈黙し、それから一言つぶやいた。
「……アリアも、リザレクテッド?」
彼女の耳の後ろにはアウラリンクのポートがある。しかし遺伝子ビーコンもはめている。本来は相容れない要素のはずだ。
「うん。でも電脳化されてる。いろいろ事情があってね。詳しい話はまた今度」
「ふーん……」
短いやりとりのあと、二人の間に奇妙な静けさが流れる。抗議の声はまだ遠くで続いていたが、それは次第に、無意味な機械音のように聞こえはじめていた。
「じゃ、また見かけたら声かけるよ。新入りちゃん」
アリアは手をひらひらと振って立ち去る。その背中を、リースは少しだけ目で追った。フェンスの向こうにいた“誰か”よりも、今そこにいた“誰か”の言葉のほうが、不思議と胸に残っていた。
敷地の外に目をやると、先ほどの反対派に加え、今度は賛成派の姿も見えた。彼らはプラカードを掲げ、反対派とやり合っている。中には「Give me Resurrected!!」と書かれた手作りの看板を持つ者もいた。
(人間は商品じゃない。でも、だとしたら……リザレクテッドって何?)
そんな疑問が、リースの中で浮かんでは消えた。
「ねえ。何の話してるの?」
すっと別の声が入り込んできた。始業前に話しかけてきた、あのクラスメイト――アイカだった。
「別に」
リースは少し口をとがらせてそっけなく返す。
「デモが気になるの? でも気にしちゃダメ。私たちはちゃんと保護されてるの。危害なんか加えられたら、倫理委員会が絶対に許さないんだから。それにね、私は――」
アイカはそこで一度身をよじり、両手を胸の前で組んで、恍惚とした笑顔を浮かべた。
「私は――ユリシアさんに守られてるの! ユリシアさんって、私の所有者ね。優しくて、いつも私のことを一番に考えてくれるの! 私はユリシアさんに所有されて、とっても幸せ!!」
その目はまっすぐで、濁りがなかった。リースは返す言葉を失い、少しだけ目をそらした。
(幸せ、か……)
自分にはまだ、それがどういうものなのか分からない。ただ、誰かの手の中にいることで笑える感情があるのだとしたら――それは、うらやましいようで、少し怖くもあった。
放課後。生徒たちがぞろぞろと校舎を出ていくなか、リースは半ば引っ張られるようにして、指定された“サロン”へと向かっていた。サロンといっても、教室のような硬さはなく、居住空間に近い落ち着いた雰囲気の共有スペースだ。窓際には観葉植物が並び、中央にはソファやテーブルがゆったりと配置されている。リザレクテッドと、その所有者たちが放課後を共に過ごす、いわば“交流の場”だった。
リースは、その空気にまだ馴染みきれないまま、ソファのひとつに腰を下ろしていた。隣にはユノが座り、手元のカップからハーブティーの蒸気が立ち上っている。
「この空間、なんか落ち着かない」
「まあ、最初はみんなそう。こっちはこっちで気を遣うからね」
ユノが苦笑しながら言ったその時、リースの隣にひょいと現れた影があった。
「ねえ、君、リースだよね?」
突然の声にリースが顔を向けると、そこには金髪の少年がにこにこしながら立っていた。やや小柄で、どこか中性的な雰囲気をまとった少年だった。
「……そうだけど、何? 授業前にも話しかけてきたよね」
「僕、ルシアン。前から会ってみたかったんだ。君って、ちょっと特別らしいじゃん」
「そういうの、好きじゃないんだけど」
「だよね。でも実際、注目されてるよ。僕も気になってたし」
言いながら、ルシアンはリースの手元のカップを覗き込む。
「それ、いい匂いだね。ちょっとだけ……」
「だめ」
「ちょっとだけ」
「やだ」
そんなやりとりを交わしながら、リースはルシアンの調子に合わせて声のトーンを少し緩めていた。ルシアンがカップに手を伸ばすと、リースは素早く引っ込める。
「甘えんな、ガキ」
「えー、僕もう12だよ?」
「ガキだよ、それ」
ユノが苦笑しながら見守る中、部屋の一角から強い視線が注がれていた。
黒いローブに身を包み、深紅の瞳を持つアウロイドの男性──ルシアンの所有者である、セフィラだった。彼はゆったりとした姿勢でソファに腰かけ、リースとルシアンのやり取りをじっと見つめていた。その目は、まるで神聖な儀式を見守るかのように、熱と静けさを湛えている。リースがルシアンの肩を小突き、ルシアンがふざけて背中を丸める。笑いながら言い合うふたりの姿を見つめるその表情は、崇拝と憧憬の入り混じった複雑なものだった。
「……これが、命か」
低く、誰にも届かない声でセフィラが呟く。言葉に感情は乏しい。だが、その胸の奥には、確かに熱を孕んだ信仰に近い何かがあった。
ユノがリースの髪をなでてやると、ルシアンが「僕もやりたい」とふざけて手を伸ばし、リースに跳ね除けられる。
「うるさい。さわるな!」
「やだ、触りたい」
「セクハラで訴えるよ」
「じゃあ、今度弁護士ごっこしようか。でも、リザレクテッド同士じゃあ罪になるかな?」
他愛もないやり取り。だがセフィラの目には、それが人間という存在の最も美しい形に映っていた。管理でも記録でも再現でもない、“ただそこにある時間”。彼は誰にも気づかれぬよう、そっと目を細めた。そしてその場を離れることなく、変わらず静かに、ふたりのやり取りを見つめつづけていた。まるでそれが、自分の存在意義であるかのように。
サロンの中は、放課後とは思えないほどに彩り豊かだった。肌の色も、髪の色も、目の形も、それぞれが意図的に設計されたものばかり。まるで誰もが違う物語を持ち、違う時代から来たかのようだった。リースはふと、それらの姿を眺めながら思った。
「ねえ、ユノ」
「ん?」
「アウロイドって、やっぱり……その、見た目、自由に決められるんでしょ?」
「うん。出荷時に基本の形はあるけど、あとから好きに調整できるよ。骨格も体格も、髪色も瞳の色も。医療用や労働特化のモデルはある程度決まってるけど、私たちみたいな一般型は、かなり自由」
ユノの容姿は女性で、20代前半ほど。リースは自分の膝を見下ろしながら、小さく頷いた。サロンを歩いている一人のアウロイドが、鮮やかなピンク色のショートヘアに、左右で色の違う瞳をしていた。すれ違いざま、リースと軽く目が合い、ふっと笑って去っていった。
「じゃあ、ユノもその姿、自分で選んだんだ」
「うん。そうだよ」
「……なんで、それにしたの?」
ユノは少しだけ考えるような顔をした。何かを思い出すように、視線を空に泳がせ、それからリースの方に向き直った。
「落ち着いて見えるようにしたかったんだと思う。きつくもなく、子どもっぽくもなくて、どこにいても目立たないくらい。でも、必要なときには誰かの前に立てるくらいには、ちゃんと見える。……まあ、そういうバランスを狙って作った、つもり」
「へえ……」
「なんで、そんなこと聞くの?」
「さっきから見てたら、いろんな人がいるなって思っただけ。赤い髪の人もいたし、羽が生えてるみたいな服の人もいた。みんな“自分をこう見せたい”って思って、その姿になってるんだよね?」
「そうだね。見た目は、自己定義のひとつだから」
「私……この見た目、選んでないから」
リースは自分の髪に触れる。青みがかった長い髪。その色も、長さも、肌の色も、背の高さも――最初から決まっていた。選んだ記憶などない。ただ“そう作られた”というだけ。
「文句があるってわけじゃない。でも、選べるってことが、なんか……遠いなって思った」
ユノはリースの言葉に、少しだけ静かに目を細めた。
「選べるってことは、間違えることもあるってことでもあるよ。いまの私は、たぶんリースの前に立つための姿として、悪くなかったと思ってる」
「またそういうこと言う」
「本当だってば」
リースは視線をそらし、そっと笑う。誰かの選んだ姿と、誰かに選ばれた姿。その間にあるわずかな距離を、ほんの一言で少しだけ埋められたような気がした。周囲のアウロイドたちの色彩が、ゆるやかに揺れながら、夕暮れの光ににじんでいた。
「じゃあさ、電脳って何?」
「電脳はね、アウロイドの“脳”のこと。直接ネットにつながる仕組みがあって、情報のやり取りも全部、脳内でできるの」
「ふうん……じゃあ、端末なしで動画見られたりするの?」
「見られるよ」
「いいなあ」
「でも、そんなにいいことばかりでもないよ。脳をハッキングされる危険もあるから」
ユノは微苦笑を浮かべた。
「リース。ユノをそんなに困らせちゃダメだよ」
ふいに背後から声がして、リースが振り返る。立っていたのは銀髪の少女、アリアだった。サロンの入口付近、壁にもたれるようにして立っている。だが、周囲に誰かの姿は見えない。
「……アリアの所有者は?」
リースが尋ねると、アリアは短く答える。
「いないよ」
「今日は一人で来たってこと?」
「違う。“いない”の。ずっと」
「……え?」
リースが一瞬言葉を詰まらせる。アリアはつま先で床を軽く蹴りながら、どこか誇らしげに続けた。
「私は所有されてない。リザレクテッドだけど、電脳化してるから人権がある。つまり、誰のものでもない。自由に生きてる。少なくとも、制度上はね」
「え、なんで電脳化してるの? ユノと同じってこと? アウロイドなの?」
「リザレクテッドだよ。なんで電脳化してるのかは秘密だよ」
遺伝子ビーコンを付けた右手をひらひらさせながらアリアは答える。
「なんだか凄い」
「すごいかどうかは見る人による。でも私は気に入ってるよ。束縛されるのは苦手だから。電脳化してるとはいっても、生身の脳にチップを埋め込んだだけだしね」
リースは黙ってアリアを見つめた。アリアの姿は、確かに誰よりも自由に見えた。制服は崩して着ているし、髪型もサイドテールがゆるく揺れている。きちんとした誰かに育てられているというより、自分で“選んで”そうしているような印象だった。
「……いいな、自由で」
「自由ってのはね、リース。うまくやらないとすぐ孤独に変わるよ」
アリアはそう言って、肩をすくめた。
「でもね。孤独って、ぜんぶが悪いわけじゃない。ときどき、自分の考えをちゃんと聞ける時間にもなる。所有されてない私には、それがたくさんあるってだけ」
言葉は軽くても、そこに滲む何かにリースは胸の奥が少しざわつくのを感じた。アリアの自由は、ただの解放ではなく、選び取ったものだ。所有されること、守られることとは違う、別の形の強さ。
「ふうん……ちょっとズルい」
「ズルいって言った?」
「うん。だってこっちは、勝手に生まれて、勝手に誰かの“所有物”になって。選べる自由なんて、最初からない」
「でも、文句言えてるじゃん。そうやって自分の立場に気づいてるってだけで、もう全然違うよ」
アリアはウインクして、リースの肩を軽く叩いた。
「じゃあ、また。私は自由人だから、気が向いたら来る。気が向いたら消える」
ひらひらと手を振り、アリアはサロンの奥へと去っていく。足取りは軽く、迷いのない背中だった。
残されたリースは、少しのあいだその背中を見送ってから、ぼそりと呟いた。
「……やっぱズルい」
だがその声に、どこか小さな憧れが滲んでいた。
「ユノ、私には……人権って、ないの?」
「ん?」
リースはそっと尋ねた。声は小さいが、その問いには曖昧な不安と、確かめたいという強い気持ちが滲んでいた。
「電脳を持てば、人権がもらえるの?」
ユノは一瞬だけ黙った。リースの目を見て、言葉を選ぶように答える。
「リザレクテッドの人権は、いまのところ制限されているの。電脳を持つ存在には人権が認められるけど、リザレクテッドが電脳化されること自体、原則として認められてないの」
「……じゃあ、なんでアリアは?」
リースの疑問に答えるふうを装いながら、ユノは背後で電脳を立ち上げ、静かにアリアのプロファイルへアクセスする。指先だけで情報を読み取りながら、口調は変えずに続けた。
「アリアはね……特殊な事情があったみたい。健康的に、電脳化しなければ生きられなかった。処置は例外として承認されたらしい」
「人権がほしくて電脳化したわけじゃないってこと?」
「そう。生きるために必要だった。それだけ」
リースは静かに頷いた。納得しきったわけではない。けれど、アリアのあの“まっすぐな自由さ”には、それだけの重さが裏にあることを、少しだけ理解できたような気がした。
帰り際。校門の前では、リザレクテッドたちとその所有者たちが順に迎えの車や移動ポッドに乗り込んでいく。リースもユノと並んで校門を出たところだった。
そのとき、風を切る音とともに、一台の自動走行バイクが滑り込んできた。銀髪の少女──アリアが横乗りの姿勢でバイクにまたがり、片手を軽く挙げて現れる。白い制服の裾をなびかせ、またどこか誇らしげな表情を浮かべていた。
「じゃあね、リース。また明日」
「うん。バイバイ」
リースが手を振ると、アリアはバイクを旋回させて走り去っていく。電動音は静かで、すぐに風の中に溶けていった。
その姿をしばらく見送ってから、リースはぽつりと呟く。
「……人権って、やっぱりちょっとうらやましいかも」
ユノは足を止めて、隣のリースを見下ろす。
「たしかに、リザレクテッドの人権は制限されてる。でもね、そのぶん倫理規定がびっしりある。制度としては、しっかり保護されてる」
「うーん。守られてるのと、自由なのって、ちょっと違うんだよね」
リースのつぶやきに、ユノは明確な答えを返さなかった。ただ、何かを思案するように目を細めると、そのまま車のドアを開けてリースをうながした。
放課後の空気はやや冷たく、空はすでに夕色に染まり始めていた。リースは乗り込んだシートに身を沈め、最後にもう一度、アリアの消えていった方向を振り返った。あの背中には、自分にない何かが確かにあった。
日の暮れた街中を、アリアのバイクが静かに駆けていく。アリアはその後部に横座りし、手も添えず、ただ風を感じながら思考を巡らせていた。運転者は、いない。そもそも、このバイクにハンドルは存在しない。
(加速しろ)
そう考えるだけで、自動走行バイクは滑るようにスピードを上げる。バイクとアリアの電脳は接続されており、彼女の意思がそのまま指令となってバイクに伝わる。コマンドを入力する必要すらない。ただ“望む”だけで十分だった。
自分の体のことを、アリアはよく知っている。本来なら──最初に生殖能力を持って生まれたリザレクテッドは、自分だった。けれどその命は、生まれた時点ですでに尽きかけ、普通の身体では生きていけなかった。
だから、アリアは“改造”された。重度の障害を持つ体はサイボーグ化され、生きながらえた。今の自分の内側には、生身の臓器はいくばくかしか残っていない。多くが人工臓器に置き換えられ、全身の制御には高度な電脳が仕込まれた。その代償として、彼女は生殖能力を失った。
それでも──
(私は、生きている)
誰かにそう伝えるわけでもなく、胸の奥でだけ呟いたその言葉は、バイクの振動と共に夜の街に溶けていった。風がアリアの髪を揺らし、遠くのビルの明かりが、彼女の瞳に無音の反射を描いていた。