第1章 『目覚めの手続き』
■第1章 『目覚めの手続き』
ユノはリースを車の後部座席に乗せ、自動運転モードに切り替えた。目的地はユノの自宅。リースの新しい生活が始まる場所だった。車が静かに発進すると、車内に柔らかな音楽が流れ始める。リースは窓の外を眺めながら、見慣れぬ都市の景色に目を細めた。しばらく沈黙が続いたのち、ユノが軽く笑いながら声をかける。
「着替えとか、生活用品とか、何もないものね。すぐに揃えてあげる」
ユノは電脳をネット接続すると、ネットモールにアクセスした。サイズは事前にデータで把握されている。リースの体に合った衣服や下着、室内用のスリッパ、簡易な洗面用品など、必要最低限のものをリストアップしていく。リースは静かにユノの動きを見つめていたが、やがておずおずと口を開く。
「……私、何を着ればいいのか、よく分からない…」
「気にしなくていい。最初は私が選ぶけど、慣れてきたら自分で選んでいいの。好きな色とか、形とか、きっと出てくるから」
リースは不思議そうに小さく頷いた。車は滑るように高架道路を進み、やがて高層区域から住宅区へと降りていく。低層型アウロイド居住区の一角にある、ユノの自宅。白い外壁に囲まれた一軒家に近い形状の住居は、機能美と快適さを兼ね備えた静かな建築だった。到着の通知と同時に車が停止し、ユノはリースに手を差し伸べて降車を促す。
「着いたよ。ここがあなたの新しい家だよ」
リースは小さく息を吸い、コートを握りしめたまま車を降りた。玄関に向かう途中、二人の前に一台の配達ポッドが滑るように近づいてくる。ユノが先ほど注文した品が、早くも届けられていた。ボットは無言でユノの電脳と同期し、荷物を静かに玄関前に置いてから回れ右して去っていく。
「さすが仕事が早いな。ほら、これ全部あなたの」
ユノは手際よく荷物を室内へ運び入れながら言った。リースは玄関先で立ち尽くしていたが、ユノに促されるまま中へと足を踏み入れた。新しい環境。新しい空気。そして、自分だけの空間。そのすべてが、彼女にとって初めての体験だった。
夜になり、ユノの自宅は静けさに包まれていた。リースはソファに座り、届いたばかりの衣服の袋を膝に抱えたまま、所在なげに室内を見回していた。照明はやや落とされ、天井からの間接光が柔らかく空間を照らしている。そんな中、キッチンから出てきたユノが声をかけた。
「リース、お風呂、入っておこうか。身体、まだ冷えてるでしょう?」
リースは少し驚いたようにユノを見上げ、それから遠慮がちに頷いた。
「……はい。でも……どうすれば……」
「大丈夫。シャワールームに案内するから。使い方も簡単。お湯の温度は自動で調整されるし、ボタンを押せば流れる。身体を洗ったら、新しい服を着てこっちに戻ってきて。準備はできてるから」
ユノはそう言って、バスルームのドアを開ける。リースは着替えを両手に抱えて立ち上がると、おそるおそるユノの後をついていった。シャワールームの明かりが灯ると、リースの目がわずかに見開かれる。清潔で、白を基調とした空間。無機質なはずのそこに、不思議な安堵が広がっていた。
「ここで全部脱いでシャワーを浴びて。脱いだ服はここに。濡れた髪はタオルでちゃんと拭いてね」
「……はい。やってみます」
ユノが出ていくと、リースはゆっくりとドアを閉めた。しばらくしてシャワーの音が静かに響きはじめる。ユノはその音を背に、寝室の準備に取りかかった。ベッドは一つ。元々ユノは一人で生活していたため、もう一つベッドを用意する時間はなかった。それでも、問題はないとユノは思っていた。
やがてシャワーの音が止み、間もなくバスルームのドアが開いた。湯気の向こうから現れたリースは、薄手のパジャマに着替えていた。髪はタオルでざっと拭かれ、まだ少し湿っていた。ユノはタオルを手に取って近づくと、自然な手つきでリースの髪を拭き始める。
「ちゃんと乾かさないと風邪ひくよ」
リースは少しだけ身をすくめたが、されるがままにじっとしていた。やがて髪がある程度乾くと、ユノは満足そうに微笑んだ。
「さあ、今日は疲れたでしょう。もう寝ましょうか」
「……ベッド、一つ……?」
「うん。ごめんね、今日は用意できなかったの。嫌じゃなければ、一緒に寝よう。大丈夫、私は寝相いいから」
リースはためらった様子を見せたが、やがて静かに頷いた。ユノは布団をめくってリースを迎え入れ、自分も隣に身を横たえた。照明が消え、部屋は闇に包まれる。しばらく沈黙が続き、やがてリースがぽつりとつぶやいた。
「……なんだか、変な感じです。こうして、誰かと眠るの」
「私も。けど、悪くない」
ユノはそう言って、リースの肩にそっと布団をかけ直した。リースは静かに目を閉じる。その呼吸は次第に落ち着き、深く、安らかなものに変わっていった。ユノもまた、穏やかな吐息を漏らしながら、隣に眠るその小さな存在の温もりを感じていた。今夜だけは、互いの孤独を埋め合うように、同じ夢の中にいた。
数日が経過した。リースはユノの家での暮らしにすっかりなじんでいた――いや、なじみすぎていた。最初の数日は遠慮がちにしていたが、三日目を過ぎたころからその態度は一変し、今では下着姿で平然とリビングを歩き回り、ソファに寝転がってはネット動画を延々と再生していた。食事も、ユノが用意した栄養食を半分ほどつついては途中で飽きたように放り出し、スマートスクリーンの前に張りついている。
ネットの掲示板では、審査や抽選に落ちたアウロイドたちの恨み節も流れている。「もしリザレクテッドが手に入ったら自分はああしたい」だの「こうしたい」だの、かわいらしい願望から、背筋が寒くなるような欲望まで、千差万別だった。
「リース、着替えなさい。せめて服ぐらい着て。あと動画ばっかり見てないで、外に出ることも覚えた方がいい」
ユノが苦言を呈しても、リースは気だるげに足を揺らしながら、視線を画面から外そうとしない。
「外、暑いし、つまんないし……ネットで全部見られるし……」
「体を動かすことも必要だ。あなたの体は人間そのものなんだから、感覚を使って――」
「分かってるけど、めんどくさい。服も動くのもぜんぶ」
リースはそう言ってソファに横になり、枕を抱きしめた。ディスプレイの中では誰かがゲーム配信をしており、コメントが絶え間なく流れている。その映像と音声に夢中になっているようで、ユノの言葉はほとんど耳に入っていない。
ユノはため息をつきながら、背もたれに体をあずけた。目の前にいるのは、科学と倫理の粋を集めて蘇らせた“人間”だった。何百年も前に絶滅したはずの存在。その再来に、どれほど多くのアウロイドが夢を見たことだろう。人間性の復権、感情と創造の再獲得。それはこの時代の最先端であるはずだった。
だが、いま目の前にいるリースは、まるでその理念を嘲笑うかのように、自堕落に、気ままに、怠惰に過ごしている。
(……これが人間。絶滅しても仕方なかったのかもしれない。落ちた連中に見せてやりたい)
そんな考えがユノの胸をよぎり、すぐに首を振って打ち消す。だが完全には拭えなかった。ソファでゴロゴロするリースを見ながら、ユノは静かにコーヒーを口に運んだ。温かさが喉を通り過ぎる一瞬だけ、かすかに希望が揺らいでいた。
ユノは最初こそ真面目だった。朝は同じ時間に起こし、栄養バランスの整った食事を用意し、日中は散歩や簡単な学習プログラムを提案する。リースに“健全な生活”を送らせようと努力を重ねていた。しかしリースはことごとくそれを無視した。朝は起きない。食事は気分次第。学習コンテンツには一切興味を示さず、端末を抱えてソファで眠り、夜中までネット配信を眺めて過ごす。どんなに言っても改まる気配はなく、むしろリースの自堕落さは日に日に進行していった。
ある朝、ユノはふと気づく。自分が毎日説得するたびに、リースの返答は同じだということに。
「分かったら起こして……あとでやる……寒い……おなか空いてない……」
繰り返されるその言葉に、何かがぷつりと切れるような音がした。諦めた、というよりも、どこか滑稽に思えた。完璧な再生体に宿った“中身”がこれなのだとしたら、もはや期待するだけ無駄だった。ユノは静かにため息をつき、その日から方向を変えた。
「ねえ、リース。今日はドレス着て、パーティーしましょう」
「パーティー?」
「うん。私たちだけの。でもドレスコード厳しいよ。変な服じゃないと入れない」
「意味わかんない……でも面白そう」
リースはついに立ち上がった。ユノはネットから奇抜な衣装を大量に取り寄せ、部屋中に並べた。原色の羽がついたワンピース、1980年代風の銀ラメスーツ、意味もなく巨大なリボンがついたサロペット。リースは楽しそうに鏡の前でポーズを取り、ユノはカメラを構えて笑った。再生人間に何を期待するかではなく、どこまで“遊べる”かという視点に切り替えたのだ。
そのうちに、就職面接ごっこが始まった。AI審査官役のユノが、だるそうなリースに尋ねる。
「志望動機は?」
「だるいから働きたくない」
「志望部署は?」
「布団の中」
「勤務開始は?」
「今日じゃない」
あまりに即答でぐうたらなリースに、ユノは机を叩いて笑い転げた。リースもつられて笑い、二人はそのまま床に倒れこむ。
遊びも長くは続かない。ユノはやがて、リースに飽きはじめた。新しい服も、コスプレも、ゲームもすべてやり尽くした。今ではリースはリビングの一角、特製のクッション台に座らされ、まるでフィギュアのように扱われていた。ユノは彼女の髪を結い、ポーズを整え、定期的に写真を撮る。リースはただ、それに身を任せている。
「何されてもいいけど、退屈なのはやだ」
「だったらもっと動きなさい」
「でも面倒くさい」
そんな会話すら、もはや日常の一部になっていた。だがある日。ユノがキッチンでコーヒーを飲んでいると、背後から小さな物音が聞こえた。振り返ると、そこには床に座り込んだリースがいた。着ていたルームウェアは乱れ、髪は乾ききらずに肩に張りついている。だが、ユノが目をとめたのはその顔だった。俯き、目を伏せたまま、リースの肩がわずかに震えていた。
「……リース?」
声をかけても、返事はない。静かに歩み寄ってしゃがみこむと、リースは顔を隠すように両手を膝に押し当てた。
「なんで……なんで私、再生されたの……?」
かすれた声だった。だが、その言葉は明確だった。ユノは言葉を失ったまま、しばらく動けなかった。
「毎日寝てばかりで、好きなことしかしてない。……それなのに、なんで……? 人間って……そんなに意味のある存在だったの……?」
ユノは、胸の奥がきゅっと締めつけられるような感覚を覚えた。あれだけ好き勝手に過ごしていたリースが、こんなふうに自分の存在に戸惑っているとは思いもしなかった。軽い遊び相手のように扱っていたのは、自分の方だったのかもしれない。
「ごめん。私……リースの気持ち、何もわかってなかった」
ユノはそっと彼女の肩に手を添えた。リースの体はかすかに震えている。感情が言葉にならず、滲み出すように伝わってくる。
「再生された意味……私にもはっきりとはわからない。でもね、リース。あなたが何かにならなきゃいけないなんて、私は思ってないよ。ただ……この世界を“知る”ことから始めてもいいんじゃないかな」
リースはゆっくり顔を上げた。目の周囲が赤くなり、涙の跡が頬を伝っている。ぼんやりとした瞳で、ユノを見つめたまま、わずかに口元を動かす。
「世界を、知る……?」
「うん。たとえば、学校に行ってみるのはどう? リザレクテッド向けの教育施設があってね。人間としての感覚を育てるための場所。あなたみたいな子たちがいるの」
リースは目を伏せ、少し考え込むような沈黙を置いたあと、小さく頷いた。
「……行ってみる」
その言葉がどこか頼りなく、それでいて力強く響いた瞬間、ユノの胸に淡い安心が広がった。ソファに寝転がっていた少女は、いま初めて“起き上がろう”としている。彼女の再生が、本当の意味で始まろうとしていた。