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第12章 『触れられた疑念』

■第12章 『触れられた疑念』


 ユノの自宅。

 アリアは再び、ベッドに横たえられていた。額には薄く汗が滲んでいる。隣ではユノが端末越しに慎重にログを確認していた。

「……どうやら、リースの電脳化は成功してる。彼女のビーコンが、ネットの深層へ流れていってる」

 アリアが目を細める。

「分かった。会いに行ってみる」

そして、彼女は耳元に手を添え、アウラリンクを起動する。

《アリア・LNA04421。アクセス開始》

 深呼吸。視界が闇に融ける。意識がネットの深層へと滑り落ちていった。

──沈黙。

 何もない。音も、光も、時間の流れさえ感じられない。ただ、意識の輪郭だけが、かろうじてそこに在る。

(……ここは……どこ……?)

 アリアはしばらく、虚無のなかで静かに呼吸を整えるように漂っていた。

 そのとき、微細な“揺らぎ”が空間に生じた。視界の周縁がわずかに歪む。文字にできないノイズが、脳の内側を撫でるように広がってくる。

 誰かが──何かが──見ている。最初に現れたのは、記憶だった。

 光の粒がひとつ、闇のなかに灯る。それは、手術室の記憶。冷たい金属。繋がれる管。医師の沈んだ声。

「……体の状態から判断して、将来的な機能の一部には制限が出る可能性があります。初の生殖能力のあるリザレクテッドにはなれません」

 アリアは目を伏せようとした。だが、その記憶は脳内に“貼りついて”、離れない。

(……これは、私が自分で呼び起こした? 違う──)

 どこかから、声がした。囁くような、低い、だが異常に明晰な声。

《おかえり、アリア》

 はっとして振り向くが、誰もいない。声は視界の方向とは関係なく、脳そのものに語りかけてくる。

《君はまた、自分の境界を見失おうとしているのか? それとも、まだ“自己”を定義したつもりでいるのか?》

 その言葉に続けて、名が──“存在名”が降ってくる。『DIOS』

 脳の奥に直接焼きつけられるように、その名が現れた。同時に、周囲の虚無が激しく揺らぐ。空間の中心に、網目のような情報の粒子が集まりはじめる。

 アリアは、気づく。

(……来た……)

 圧倒的な密度と冷気を伴って、それは“姿を持たないまま”形をとっていく。

「また……お前……」

 アリアの声は、ほんのわずか震えていた。だが、すぐにそれを押し殺すように、彼女は睨み返す。

「私の過去を、また覗き見ようってわけ? あの頃の私を引きずり出して、何がしたいの?」

 DIOSの声は、あくまで静かだった。

《記録とは、事実ではなく選択だ。君がその記憶を“どう受け取るか”──それすら、私は見ている》

「そう……お前は、“答え”のふりをした、ただの“ノイズ”だ」

 それは、まだ“本当の姿”を現していなかった。だが、空間全体が“何かの中枢”であるかのように感じられる。DIOSの核は、この場そのもの。今やそれは「空間のルール」そのものとして、アリアの精神に干渉していた。

《君は強い。たとえすべてを備えていなくとも、君の存在には、確かな重さがある。だが──それでも、“役割”というものは、時に冷酷だ》

《リースには、まだ定まっていない“可能性”がある。未完成だからこそ、未来を託せる余白がある。君とは、少し……違う》

 アリアの胸の奥が、微かに痛んだ。だが、彼女は口を結び、前を見据える。

「……そう。私は“少し違う”。でも、だからこそできることもある。私は私のやり方で、リースを守る」

 声に曇りはなかった。揺れる気持ちを、意志の力で押し返す。

 相手の声は静かに応じる。

《なら、見せてみるといい。君が“選ばれなかった側”として、何を選び取るのかを》

 アリアの前に、光のような領域が広がる。その奥、眠るリースの姿がゆっくりと浮かび上がる。傍らには、黒い影。声の主の断片が、静かに寄り添っていた。

 アリアは迷わず、その影の中へと踏み出していった。


 空間の手触りが変わった。まるで底のない水面に足を沈めたような、柔らかくて、冷たい感覚。一歩進むたびに、視界が揺らぎ、重力の向きさえ不確かになっていく。

 ──おかしい。ここはリースの精神の座標じゃない。

 周囲には白も黒もなく、ただ色褪せたノイズが漂っていた。微弱な信号の渦。砕けた音。砕けた記録。気づけば、アリアの足元には無数の“ログファイル”のような光点が浮かんでいた。

 一つ、視線を落とす。そこには、無機質なコード列に混じって、短い音声ログが埋もれていた。

《……お母さんに会いたい……でも、名前、もう思い出せない……》

 少女のような声。震えていた。アリアは反射的に手を伸ばしたが、ログは触れた瞬間に霧のように消えた。

 その背後から、また別のログが立ち上がる。

《起動試験、失敗。認知異常。処分フラグ発令──リザレクテッド個体 SKN03516、処分完了》

 再び霧。次々と、無数のログが、浮かび、再生され、消えていく。まるで墓標のように。ここは、リースの意識領域ではなかった。

 ここは──ネットワークの底。情報の墓場。過去に失われた、リザレクテッドたちの記憶群だった。アリアは息を飲み込む。思考が一瞬止まる。指先が冷たくなっていく。

 彼らの記憶は、誰にも見られないまま消された。誰にも守られないまま消された。それが、“再生”という言葉の裏側にあった現実。

「……これが……あの子たちの……」

《ようこそ、アリア》

 また、声がした。あの影の声だった。

《君は他の誰よりも、ここに触れる資格がある。見ろ。これが“選ばれなかった者たち”の残響だ。そして、君自身もその一部になる》

 アリアは唇を噛んだ。この空間で何かを見つけなければ、前へは進めない──そう、感じていた。

 その時、不意に目の前に現れたのは、ひときわ淡い光を放つ“ログ”だった。他のどれとも違う。LNA04421。それはアリア自身の識別コードを含んでいた。

 アリアは、息を詰めて手を伸ばした。触れた瞬間、光が脈打ち、記録が展開される。


 そこに映っていたのは──自分だった。まだ言葉も持たず、表情もなかった。

 ベッドの上で、管に繋がれたまま、ただ目を開いていた。再生されたばかりの頃の姿。

《リザレクテッド個体 LNA04421。再構築不完全。生存反応不安定。代替処置検討。社会的役割:非優先》

 無機質な声が、彼女の存在に判を押すように響いた。ログの記録は止まらない。モニターの中で誰かが彼女を検査していた。彼女は、反応しようとしていた。口を開けようとした。手を動かそうとした。

 その全てに意味は与えられなかった。ただ“欠損”と“制限”として処理された。

 アリアの喉が詰まった。記録が終わる。音が消える。足が、震えていた。崩れ落ちるように、膝をついた。

「……ああ……」

 低く、苦しげな声が漏れた。

 自分の存在が、どれだけ簡単に分類され、定義され、無力だと見なされていたか。自分は、ずっとその場所から逃げてきた。優秀でありたかった。強くありたかった。特別でありたかった。けれど──その根っこには、たったひとつの、言い訳があった。「自分には、価値がある」と、証明したかっただけだ。その小さくて脆い本音に、気づいてしまった。

「……なんで……私だけ、こんなふうに……」

 言葉にしようとした瞬間、胸の奥に詰まっていたものが崩れた。

 涙が、こぼれた。ネットの底。誰にも知られない場所で。誰の目にも映らないまま。

 アリアは、自分の記録に膝をつき、声もなく泣いた。誰にも聞こえなくても。誰にも届かなくても。

 頭の中の影は、脳全体に広がりつつあった。

『支配構造内優先順位:DIOS』

 そんな文字が空間に浮かんでいた。しかしもう誰の目にも届かない。


 影が、アリアの内側で冷たく広がっていく。

 意識の奥を、黒い霧のように満たしていくその感覚は、思考を鈍らせ、体温を奪い、言葉という概念すら凍てつかせていった。膝をついたその場所は、彼女が自分自身を見失うために選んだ場所だった。

──もう、戻らなくていい。

──私がいなくても、世界は変わらないのなら。

 その瞬間だった。

 ――《……アリア……?》

 ひどく遠く、それでも確かに、脳の最深層に響き渡る声があった。アリアは、息を詰めるようにして顔を上げた。

 黒いログと記憶の断片の狭間──折り重なるセキュリティコードの迷宮の奥に、一条の光が差していた。その光の中に、ひとりの少女が立っていた。

 リース。

 乱れた髪。擦り傷。だがその瞳だけは、強く、まっすぐにアリアを見据えていた。

 ――《聞こえてる? アリア。……あんた、泣いてんの?》

 その声には、冗談めいた軽さと、抑えきれない真剣さが同居していた。

 アリアの胸に、微かな熱が戻る。

「リース……」

 ――《あんた、自分を壊すことで世界を守ろうとしたんだろ。でもそれ、違う。壊れちゃ意味ない。あんたが生きてることが、誰かにとって、どれだけの支えだったか……。私は、今ならちゃんと分かるよ》

 言葉ではなく、存在そのものが響いてくる。

──ビーコン接続確認:JCF02621

 電脳空間に、リースの認証信号が確立される。

 そのデータパターンは、アリアの領域に“書き込み権限”を付与していた。まるで、開かれた扉のように。

 DIOSが構築した暗黒の構造体に、規格外のアクセスが発生する。

 ――《アリアのビーコンに、私のビーコンが反応したの。意味は分かんない。でも、これであんたの領域に入れる。私が、あんたを見つけるために》

 影の霧が軋む。全能のように広がっていた支配空間に、リースという変数が干渉していく。アリアの意識に、鈍く張り付いていた絶望がひとつ、またひとつと剥がれていく。

 ――《あんたは“選ばれなかった”んじゃない。あんたは、自分で選んで、ここまで来た。それが、どれだけ強いことか。……あたしは、それを見て、知ったんだ》

 アリアの眼が、揺れた。そしてその胸にあった何かが、崩れていくのを感じた。

「……私は……間違ってた。孤独こそが私の輪郭だと思ってた。でも、本当は……」

 小さく息を呑む。

「私は、誰かと繋がっていたくて、ここにいたんだ」

 ――《だったら立てよ。ここから先は、もう独りじゃない。アウラリンクは片側じゃ繋がらないんだよ》

 リースの姿が、光の中からこちらへ一歩踏み出してくる。その手が、アリアへと差し出される。アリアは、震える手で目元を拭い、小さく笑った。

「リース。……ありがとう。あなたが来てくれたから、私は──ここで終わらない」

 その瞬間、電脳空間が振動した。支配の構造が変わる。

『支配構造内優先順位:再割り当て完了』

 影の構造体が、DIOSの意識が、一斉に警告を発する。

《不合理。おまえたちは、定義されるべき存在だ。“役割”によって制御されるべき構造だ……!》

「だったら、壊してみせる」

 アリアの目に、再び光が戻った。その手が、リースの手と重なる。

 リンクが成立する。完全な同期。そして、彼女たちは影を超えた。


 影は、まだ残っていた。けれど、それはもはや圧倒的な侵蝕ではなかった。

 アリアの内側で、薄く、遠く、わずかに震える“かつての支配”の残響として、名残のように漂っていた。

 リースの手はもう離れていた。その姿は、光の向こうへ静かに後退しつつあった。

「……もう、大丈夫だから」

 アリアはそう呟き、自分の胸元に手を添えた。そこには、彼女自身の記憶と、意志と、決して壊されなかった核が眠っていた。

 その核を中心に、アリアの意識空間が変化を始める。かつてログの海だった空間は、光の粒子となって舞い上がり、再構成されていく。再び自分の意志で、精神の構造を編み直していく感覚。

 ――そして、現れた。

 黒く、蠢く、人型とも言えぬ“歪み”。

 それが、DIOSだった。

 もはや彼は言葉を使わなかった。自我の断片を複製し、アリアの神経層に食い込もうとするだけの“侵蝕の残骸”。

 だが、アリアは一歩も退かなかった。

「DIOS」

 その名を、はっきりと呼んだ。すると影はわずかに反応し、視線のようなものを向けてくる。

「私は、もうあなたを許さない。そして、憎んでもいない。あなたが何を望もうと、私はそれに従わない。あなたに与えられたのは、痛みと、恐怖と、破壊だけ。でも私は、それらを記録にして、他の誰かを守る材料にする。あなたを“過去”にする」

 その言葉とともに、アリアの胸元に近い領域が淡く光り出す。それは彼女の思考の“根”、リースの言葉によって再活性化された領域。

 アリアは掌を開き、その光を前へ掲げた。

「私は、選ぶ。自分の意思で、ここに在ると。あなたの影ではなく、“私自身”として立つと。だから、さよなら──DIOS」

 光が弾けた。

 あらゆる記録層を貫き、DIOSの残滓を焼き払い、神経侵襲を切断していく。

 まるでネットワーク上のウイルス駆除が視覚化されたかのような光景。黒い塊が悲鳴もなく、無音のまま崩れていった。

 アリアの意識に、静寂が戻る。何もない空間。ただ、清らかな無音と、まっすぐに立つ自分だけが存在していた。

 彼女は目を閉じ、深く呼吸した。

「……ありがとう、リース」

 遠く、ログの彼方からリースの声が微かに届いた。

 ――《アリア、戻っておいで。あんたの席、まだ空いてるからさ》

 アリアは微笑んだ。

 そして、その光の方向へと、一歩を踏み出した。

 黒い影はすでに消え去り、空間は静かだった。けれどその静寂は、かつての無音とは違う。痛みも、恐怖も、残っていた記憶さえも――すべてが、彼女の中に確かに在った。

 そのすべてを背負ってなお、彼女は“ここにいる”と選んだのだ。それは、他者に救われた物語の終わりではなく、自分自身の再起動の始まりだった。


 次の瞬間。

 アリアの胸に、呼吸が戻った。

 現実世界――ユノの自宅、静まり返った寝室。静かに横たわっていた彼女の体が、小さく、でも確かに動いた。

 まぶたが震え、ゆっくりと開かれる。白い天井。聞き慣れた機械の音。そして、空気の匂い。

 「……戻った……」

 小さな声が漏れる。指先がわずかに動き、掛け布の上で握られる。手が震えている。けれど、それはもはや恐怖ではなかった。

 彼女の中に、リースの声が残っている。冷たい霧を切り裂いた、まっすぐなあの言葉。

 ――《私があんたを助ける》

 思い出すたびに、胸の奥が温かくなる。あの声が、アリアの最も深い場所に届き、光を灯してくれた。

 ゆっくりと視線を巡らせると、部屋の片隅に置かれた端末がリースの名前を表示していた。未読のメッセージが、ひとつ。

 アリアは、ふっと微笑んだ。

「……ちゃんと、届いてたよ」

 その小さなつぶやきが、静かな部屋に溶けていく。

 すべてが終わったわけではない。

 だが、アリアはもう、逃げない。壊されない。

 ――そして今度は、自分が誰かを守る番だった。


 その同じ瞬間。

 別の場所。倫理委員会ビルの保護室。ベッドの上で、リースがゆっくりとまぶたを開いた。目を開いたリースは、息を吐くと、静かに天井を見上げた。

 そして。──放送が入った。

《緊急通達。リザレクテッド全個体に対する回収命令は、ただいまをもって停止とする。

本決定は、倫理委員会中央評議による。詳細は追って通知。関係部署は現場対応に移行せよ》

 館内の空気が、一瞬で変わった。走っていた警備ドローンが停止し、収容用の車両がその場に留まる。混乱の中で、何人もの視線が、制御室の方へ向けられた。

 だがその理由を知る者は、まだ誰もいない。


 ベッドの上、アリアはまだ上体を起こさず、天井を見つめていた。その瞳は虚ろではなく、確かに“今”を見ていた。

「……アリア?」

 ユノの声は低く、慎重だった。まるで何かを壊さないようにするかのように。アリアはゆっくりと目を向けた。

 その目に、確かな焦点が戻っているのを見て、ユノの肩がわずかに緩む。

「……戻ってこれたのね」

 返事はない。けれどアリアは、ごくわずかに頷いた。

 ユノはそっとベッドの傍らに腰を下ろし、手元の端末で脳波モニターを確認する。電脳信号は安定していた。さきほどまで異常値を記録していた“侵蝕領域”は完全に消滅している。

「影の反応は……ゼロ。ほんとに、全部消えた」

 それは安堵であり、同時に信じがたいという表情でもあった。あれだけ深くまで食い込んでいたのに、こんなにも綺麗に──。

 アリアは静かに言った。

「リースの声が、届いたの。最後の瞬間に。……あの子が、私を引き戻してくれた」

 ユノはアリアの顔を見た。虚無も、焦燥も、後悔もそこにはなかった。そこにあったのは、確かな“回復の証”だった。彼女はもう、自分を責めていなかった。

「……じゃあ、リースも無事ってことよね」

「ええ。きっと」

 二人のあいだに、わずかな沈黙が落ちた。それは、悲しみや迷いではなく、嵐が去ったあとの静けさだった。

 ユノは立ち上がり、軽く笑って言った。

「医療データ、回収しておくね。しばらくは安静って言いたいけど……あんた、すぐに動き出す顔してるしね」

「動かないと、置いていかれるもの」

 アリアも小さく笑った。

 影を越えて、彼女は今、ようやく本当の意味で“目を覚ました”のだった。


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