第10章 『リンクの彼方で』
■第10章 『リンクの彼方で』
空はまだ明るさを残していたが、ユノの足取りは重かった。
裁判所での審理請求は、形式上は受理されたものの、実質的には保留。回収命令の正当性を問うには、さらなる証拠と時間が必要だという通告を受けた。カデルワンは「想定内だ」と言って別れたが、ユノの胸に残ったのは、ひたすらな苛立ちと虚無感だった。
自宅玄関のセキュリティーロックに手をかざすと、低い電子音が鳴ってドアが開く。
「ただいま……」
誰もいない部屋。ソファの上には、朝慌ただしく出ていったときのままのブランケットがかかっていた。ユノはジャケットを脱ぎ、無言でダイニングに向かう。冷蔵庫からペットボトルを一本取り出し、無造作に水をあおる。
そのとき──ふと、背後に気配を感じた。
「……帰ったの?」
振り返る。遺伝子ビーコンを付けた人物──そこにいたのは、アリアだった。銀髪のボブが微かに濡れている。逃走時に受けた傷だろうか、左の袖口には焦げたような跡がある。だが彼女の瞳は、まっすぐユノを見据えていた。恐れも、迷いも、そこにはなかった。
「……どうやってここに入ったの?」
ユノが低く問いかけると、アリアは少しだけ微笑んだ。
「ここのセキュリティー、甘い。突破は簡単だった」
「勝手に入らないで。今、君がここにいるって知られたら、私まで処罰対象になる」
「なら、見つからなければ問題はないでしょ」
アリアはそう言うと、テーブルに置いてあったモバイル端末を手に取った。そこには、数時間前に報道されたユノとカデルワンの入廷映像が、リプレイとして流れていた。
「……ユノ、ほんとに提訴したんだね。あれだけ人目を集めて。自分が危険だって分かってるのに」
「当たり前でしょ。私が守らなきゃ、リースは戻ってこない」
ユノの声は鋭くなったが、アリアは微笑を崩さず、そのまま椅子に腰を下ろした。
「じゃあ──今度は、私があんたを手伝う番だね」
「……逃げてきたあなたが?」
「逃げてない。正確には、“位置を変えた”だけ。戦う場所は、まだ残ってる」
ユノはしばらく黙っていたが、やがて小さくうなずいた。
「……分かった。だったら──次は、決定的な証拠を掴む。リースが罪に問われた根拠も、ハッキングの犯人も……すべて明らかにする」
「そのために、私もネットに再接続する。今度は、やられない。あいつのノイズ、今なら──私の中で、制御できる気がする」
アリアの瞳に、再び静かな光が灯る。
「それは賭けになる」
「賭けじゃない。希望」
ユノは小さく息をつき、アリアの向かいに座った。裁判所では動かせなかった現実。だが、ここから再び、ひとつずつ壊していくのだ。
キッチンカウンターの端に置かれたホログラム投影機が、軽く振動した。無言のままコップを洗っていたユノが、その振動に気づき手を止める。アリアもソファから顔を上げ、ゆっくりと振り返る。
「……また始まった」
投影が始まると、室内の空気が一気に軽薄な色に変わった。
《はーい、みんな元気してた? 今日の特別配信は“学校崩壊とリザ大騒動の裏側”! 例の回収命令、どうして出たか、私なりに独自分析してみたよ~!》
画面に映るのは、華やかなライトエフェクトの中で笑顔を振りまくリセル。背景には、故意にモザイク処理を施された校舎や教室の映像が流れ、その合間に当事者たちの名前が伏字になりつつもほぼ特定できる形で表示されていた。
《そもそもね~、あれは“倫理委員会内部の派閥争い”なんじゃないかなって。私も詳しいことは言えないけどぉ、なんか“ある教師”が外部に不正アクセスしてたとかしてなかったとか~》
アリアがため息をつき、ソファから立ち上がる。
「“ある教師”って私のことだよね。遠回しに言ったつもりでも、分かる人には分かる」
「腹立たしい。ぼかして喋ることで責任は回避しつつ、噂だけは確実に撒いてる」
ユノは濡れた手をタオルで拭きながら、苦々しい表情で画面を睨んでいた。
《あとね! これはかなり衝撃的なんだけど、リザの一部には“繁殖実験用に選別された個体”がいるって話、ほんとっぽいんだよね~。その中には、あのセンパイもいるとか……。はあ、これってもう純愛なの? 管理社会の闇なの? どっち!?》
「……お前が言うな」
リースの顔を思い浮かべながら、ユノが低く呟いた。アリアは投影装置の再生停止ボタンに手を伸ばしかけて──やめた。
「……視聴数、見て。前回の配信の、倍以上いってる」
「……“正しい情報”より、“面白い断片”が消費される。昔と何も変わってない」
二人の間に、重く沈んだ沈黙が流れた。
《というわけで! このあと私は、いよいよ“逃亡中の元教師”と“実験用リザ”の行方を追跡する旅に出まーす! 配信は不定期になるけど、チャンネル登録して待っててね!》
ユノは、最後まで軽快に締めくくられたリセルの声に背を向けて、キッチンの明かりを落とした。
「……もう、止めるだけじゃ足りないね」
アリアもうなずいた。
「彼女はただ騒いでるだけじゃない。情報の流れそのものをコントロールしようとしてる。悪意じゃない分、タチが悪い」
「動くしかないね。こっちも。リセルよりも早く、真実にたどり着かないと──また誰かが壊される」
二人の視線が、閉じられたホログラム投影機の向こうで重なった。
虚像と誤解が社会を包み込む前に、真実を取り戻さなければならない。
リセルの配信が終わってしばらく、室内には言葉のない沈黙が戻っていた。ユノはソファの背にもたれ、タブレットを操作していたが、ふとアリアの方に視線を向けた。
そのとき、アリアが唐突に切り出した。
「──ユノ、お願いがあるの」
「……なに?」
アリアは一歩踏み出し、真剣な顔でユノを見つめた。
「私の電脳をスキャンして。できる限り、深層まで」
ユノの手が止まった。
「……本気で言ってるの?」
「もちろん。今の私には、それが必要なの」
ユノは無言のままアリアを見つめ返し、やがて目を伏せた。
「……それって、自分の脳を裸にするようなものだよ。プライバシーの問題以前に、負荷も大きい。スキャン内容は一部でも記録に残るし、たとえ私が消しても、君自身に影響が出る可能性もある」
「分かってる。でも──もう“自分を守る”段階は過ぎた!」
アリアの声は静かだった。だが、その静けさの裏にある決意は、明確に伝わってくるものだった。
「私、あの時の記憶が一部抜けてる。でも断片的に残ってるノイズの奥に、“何か”がいるの。放っておけば、また支配される。そうなれば、今度こそ、私は……」
彼女は言葉を切り、わずかに目を伏せた。
「……私の中に、ハッキングの断片が残ってる可能性がある。だったら、誰かに見てもらうしかない。私が正気でいられるうちに!」
ユノはしばらく黙っていた。タブレットの電源を落とし、静かに立ち上がる。
「……分かった。でも、私は専門家じゃない。私自身も、正式な許可を取ってやるわけじゃない。……だから」
「信頼する。私も、あなたも」
アリアのその一言に、ユノの目がわずかに揺れた。
二人の間に、言葉はもう要らなかった。これから見るものがどれほど深く、痛ましいものであろうとも──逃げることだけは、しないと決めていた。
そこは、アーカイブ保管庫だった。誰も見ない。誰も管理していない。ネットの底に放置された、データの死骸たち。
リセルは、ホログラムの皮を脱いで素の姿に戻っていた。映像記録の一つに手を伸ばすと、脳内のインターフェースに映像が流れ込む。
灰色の部屋。感情の抜け落ちた声。並べられた子どもたち。
「対象個体C群、B群と同様に、失敗例として廃棄」
「理由:感情反応過多、外見が想定基準を逸脱」
「実験的所有先での逸脱行動あり」
リセルは、笑わなかった。笑えなかった。
画面の中にいる少女は、どこか彼女に似ていた。髪色も、身長も、瞳の大きさも違うのに、“同じように生きようとした表情”をしていた。少女は、カメラを見つめて、微笑んでいた。あの笑顔が、どうして“失敗”だったのか。
「バカみたいに“いい子”だったくせにね」
リセルは呟いた。誰にも聞こえないように。
廃棄対象の映像は、そのまま無言で終了した。
“記録は残っていない”そんな形式の裏側には、誰も語らない痛みが山ほどあった。それを掘り起こす者も、知りたいと思う者もいない。
だから、リセルは顔を変えた。名も捨てた。「自分なんていない」と思えば、笑えるようになった。
「いいよ。全部冗談にしてやる」
「“リザレクテッドなんてくだらない”って、私が先に言ってやる。だって、その方が、痛くないから」
もう一度ホログラムを起動して、自分の顔を“リース”のものに戻す。にっこり、ふざけた笑顔でカメラにウィンク。
「はいはい、お望み通りの“所有物”でーす」
外見だけが、本物になっていく。
けれど、その内側では、怒りも哀しみも全部、冗談にして燃えていた。
ユノのベッドルームにアリアが寝かされている。アリアのアウラリンクにはケーブルが接続され、ユノの端末に繋がっていた。ユノは無言でスクリーンを見つめている。アリアの意識は安定剤によって軽く落とされ、電脳スキャンの準備は整っていた。
「始めるよ……」
微かな振動と共に、診断ユニットが作動を始める。内部では無数の神経波パターンが解析されていた。神経信号のスキャンが進み、アリアの電脳が持つ膨大な記録の層が、一層ずつ剥がされていくように映し出されていく。
──記憶層、整合性良好。
──感情パラメータ、軽度の不安定。
──外部干渉ログ──あり。
──識別不能コード、反応中。
「……来たよ」
ユノの額に一筋、冷たい汗がにじむ。画面の奥、アリアの思考領域の最深部。そこに、明らかに異物と分かる黒い“影”が、まるで根を張るように広がっていた。
「……静かすぎる。これは……潜伏型か」
影は攻撃的な兆候を見せず、思考領域に巧妙に同化していた。単なるウイルスのように隔離することも、パッチを適用することもできない。
「除去コマンド……拒否。応答なし。干渉コードがない……」
ユノは声を押し殺して、再度アクセスルートを変えて試みる。しかし、黒い影はどこか“知性”を持っているかのように、あらゆる接続に対して反応しないまま沈黙していた。そして、それでも確実に、アリアの“中心”に触れていた。まるで、人格そのものに同化しようとするかのように。
「これ以上は……危険」
精神構造が軋む音が、微弱な警告として表示される。ユノはためらい、しかし決断する。
「──アリア。目を覚まして」
安定剤を中和する指令を送り、スキャンを終了する。機器が音もなく静止した。
数秒後。
アリアのまぶたがゆっくりと開いた。
「……終わった?」
「いいえ。……終わってない。むしろ、始まったところ」
ユノは疲れた表情でモニターを見つめたまま、淡々と続けた。
「あなたの中に、“何か”がいる。外部からの侵入だけじゃない。もうすでに、あなたの精神の一部として──融合し始めている」
アリアは黙って起き上がり、深く息を吸い込んだ。
「やっぱり……。感じてた。どこかに、誰かが“いる”感覚」
ユノはアリアの視線を見据えた。
「知ってた? リザレクテッドって、ただの再生人間じゃないんだよ? “人間以上”の個体もいるの。しかもその存在は、全部――隠蔽されてる」
リセルは、カメラの向こうにいる誰かに微笑みかけるような視線を送っていた。白く整えられた顔、感情豊かに動く瞳。唇の端に乗せた笑みは、真実を語る者の余裕と確信に満ちていた。
「ねぇ。真実を知ることって、そんなに怖い? 私は怖くないよ。だって、私は嘘をついてないもん」
その映像を、ユノは無言で見つめていた。リセルの映るホログラムが室内の空気を染めている。暗い室内、ユノの目だけがわずかに光を反射していた。
再生時間はすでに15分を越えていた。だがユノの姿勢は一度たりとも崩れず、まるでその一挙手一投足を観察するように、冷たい視線を送っていた。
(声の抑揚、視線の向け方、間の取り方……完璧な“構成”)
電脳内で、情報分析アルゴリズムが静かにリセルの映像をスキャンしていく。ユノの電脳には警告も表示されていた。「感情誘導リスク:高」──それでも、ユノの心拍は平常通り。
「……うまいね。でも、“うまい”時点で、それは作り物だ」
ユノはそう呟くと、ホログラムを指先で払った。映像が霧のように消える。
静まり返った部屋に、リセルの残像だけがわずかに残った。




