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第9章 『赤い識別』

■第9章 『赤い識別』


 翌朝。空は薄曇りで、かすかに湿った光がガラス越しに差し込んでいた。教室にはまだゆっくりとした空気が流れている。ルシアンは窓際の席であくびを噛み殺し、リースは無言で端末を起動していた。

 何も起こらなければいい──そんな期待が、どこかにあった。

 だが。


 午前9時53分。

 天井スピーカーから、音が鳴った。

 《……プルル……カチ》

 一拍の沈黙。そして、それは流れた。

《緊急アナウンス:コード・イエロー発令。全リザレクテッド個体に対する一時保護措置を実行します。本日10時をもって、全個体は中央管理機関にて再評価を受けていただきます──これは強制です》

 声は冷たく、感情がなかった。ただ、通知という形を借りた命令だった。

 次の瞬間、クラス中の遺伝子ビーコンが一斉に点滅した。緑だったリングが、すべて、ゆっくりと赤へ変わっていく。

──識別中。対象確認。追跡開始。

 電子音が微かに鳴った。

 リースは自分の指輪を見つめる。ビーコンの縁が赤く脈打ち、まるで心臓の代わりのように脈動していた。

「……やっぱり……昨日の、あれ……」

 ルシアンがつぶやいた。声はかすれ、ほとんど音になっていなかった。

 誰も言葉を返さない。教室全体が、機械によって一瞬で塗り替えられたのだ。

 そこにいた“リザレクテッド”は、もう“識別番号”としてしか扱われていないような感覚。

「“保護”って言ってるけど……これは“隔離”ってことだよ」

 その言葉には、驚くほど冷静な響きがあった。そして彼は、誰に言うでもなく、しかし明確に──アリアを見ていた。

 リースがその視線に気づいて顔を上げる。

 アリアは教卓の脇に立ったまま、全身に力を込めて立っていた。額にわずかな汗。目の奥には眠っていない人間特有の翳りがあった。

「……私は、知らなかった。今、初めて聞いた」

 そう言ったアリアの声は、震えていた。けれど、レインの目は一瞬たりとも彼女から逸れなかった。

「でも、昨日──“あなたの口から”出た言葉だったよ。所有の凍結、回収の開始……全部、今と一致してる」

 アリアは答えられなかった。その沈黙が、何よりも雄弁だった。

 クラス内の空気は、もう“授業”とか“生活”とか、そんな言葉ではくくれないものに変わっていた。

 リースはそっと、アリアの背中を見る。その細い肩が、わずかに揺れていた。

「発令のタイミングがあまりに正確すぎる。誰かがこの流れを意図的に操作してる」

「DIOS……?」

 リースが問いかけると、アリアは答えなかった。ただ、黙ってうなずいた。

 そのとき、校舎の外から轟音が響いた。

──ガゴンッ……ガガガガ……

 生徒たちが一斉に窓に駆け寄る。見えたのは、無人の回収車両。鈍く光る装甲ボディに刻まれた「中央倫理管理局」のエンブレム。後部からは、複数のドローンと識別スキャナーが展開されていた。

「……もう、来た」

 ユノが教室のドアを開けて入ってくる。表情は冷静に保たれていたが、その手に握られた端末は強く歪むほど握られていた。

「リース、あなたも対象に含まれてる。……私が引き渡しに立ち会うことになる」

「……ほんとに、引き渡すの?」

 リースの声は低かった。怒りでも悲しみでもない。ただ、確認したいだけのような響き。ユノはその問いにすぐには答えず、しばらくリースを見つめ、それから言った。

「……止められなかった。でも、信じて。私は、ここで終わらせない」

「分かってる。ユノがそういう顔するとき、本気だってことくらい」

 教室の扉が自動で開いた。外には、すでに数人のリザレクテッドがドローンに誘導され、静かに列を成していた。

 遠くで、誰かが泣き叫ぶ声が聞こえる。そしてその列に、リースも加わることになる。気がつくと、アリアの姿はそこにはなかった。

(逃げた…?)

 一瞬、嫌な考えがリースの頭をよぎる。しかし、すぐその考えを頭から振り払った。

(アリアならなんとかしてくれる!!)


 中庭には、すでに数台の回収車両が展開されていた。識別ドローンが校内ネットワークとリンクし、登録されたリザレクテッド個体を次々にスキャンしていく。

「登録個体確認。指示に従ってください。登録個体確認。指示に従ってください──」

 無機質な音声が繰り返されるたびに、生徒たちはますます沈黙し、アウロイドの教師たちでさえ動揺を隠せずにいた。

 その中で、ただ一人、叫んだ者がいた。

「ふざけるなっ!」

 その声が響いた瞬間、あたりの空気が一変した。セフィラ──背の高い男性型アウロイド。赤みを帯びた鋭い瞳が、回収班の中央を貫くように睨みつけていた。

「誰が“保護”だ。誰が“管理”されるべきだ。貴様らは自分が何をしているか分かっているのか!?」

 周囲が息をのむ。スキャン中のドローンが一瞬処理を止め、セフィラに警告を向ける。

《妨害行為を確認。規定に基づき、制止を行います》

「やってみろ。私は自分のリザを手放さない。“所有者”とは、守る者の名だ!」

 すでに複数の回収員がセフィラを取り囲み、拘束の準備に入る。その間にも彼の言葉は止まらない。

「リザレクテッドはただの“標本”じゃない! 彼らは生きている! 感情を持ち、選ぶ権利がある! それを、一方的な命令で消そうとするのかっ!」

 ユノがリースを連れて通りかかったとき、ちょうどその場面に出くわした。

「……セフィラ……!」

 リースが足を止める。セフィラの声は、怒号というより、魂の叫びだった。だが、回収班は容赦しなかった。

 機動型の拘束具が射出され、セフィラの腕と足を絡め取る。彼の体は地面に叩きつけられ、なおも抗おうとするが、圧力がかけられ動きを封じられる。

「やめて……彼は、何も──!」

 リースが叫ぼうとするのを、ユノが押しとどめた。

「見て。今は、動かない方がいい。次に止められるのは……あなただから」

 リースは唇を噛みしめた。セフィラはなおも地面にもがきながら、遠ざかるリザレクテッドたちの背を見て、最後の力で叫んだ。

「選べ、リザたちよ! お前たちの生き方を! 従うだけが、生きてるってことじゃない……!」

 叫びは、拘束音にかき消されていった。セフィラはそのまま、管理車両へと連行されていく。

「リース、すぐ弁護士を立てる。悪いけど今は我慢して」

 ユノが絞り出すように言う。

「…うん。分かった…」

 リースは力なく、回収車両に乗り込んだ。


 空はさらに曇りを深め、まるでこれから起きることを予告するかのように重たく沈んでいた。

 校舎裏のモニタールーム。教員専用のネット接続ポート前で、アリアは一人端末に向かっていた。彼女の指先は落ち着きなく動き、内部ネットにアクセスログを残さぬよう、複数のルートを介して遠隔情報を取得していた。

「……やっぱり。中央管理ノードが回収指令の上書きを受けてる。しかも出所は……不明な上位コード」

 背後で扉が開く音。監視役のアウロイドが一人入ってくる。

「アリア・LNA04421。あなたにも回収命令が出ています。施設内からの外出をお控えください」

 アリアは端末を閉じ、静かに振り返った。

「……分かりました」

 そして、にこりと笑った。

 だが次の瞬間──アリアは、机の下に隠していた小型ドローン装置を起動する。

「──分かるわけないでしょ、あんたたちには!」

 機器が発した閃光が、監視役の視覚センサーを一瞬白く染めた。その間に、アリアは壁際の非常口を解錠。廊下に出ると、反対方向から聞こえる足音を無視して全力で駆け出す。

「警報作動。対象リザレクテッド、脱走行動を確認。確保班を──」

 警報が鳴るより早く、アリアは建物裏手の搬入口にたどり着いていた。そこには──彼女のバイクが待っていた。

 自動操縦モード。脱出用に予め用意されていたものだ。

《乗車、アリア・LNA04421。逃走経路を計算中。――開始します》

 彼女は迷いなくバイクに飛び乗る。

「ごめんね、ユノ。リース……。でも、まだ止められるかもしれない」

 駆動音が高鳴り、車体が地面を蹴るようにして加速する。背後で数機のドローンが警告を発しながら追尾を始めた。だがアリアは、それを振り返らなかった。

 彼女の目には、すでに別の場所──真実へと通じる何かが見えていた。

 回収車両の窓から、逃走するアリアの姿がリースの目に映った。リースはヒーローでも見るかのように、アリアの姿を見つめる。

(アリア! がんばれ!!)


 警報が鳴り止んだあとの南棟は、不自然なほど静かだった。すでに回収車は複数校舎に展開しており、対象となったリザレクテッドたちは無言で連行されていた。その中に、レインとルシアンの姿もあった。ふたりは、並んで歩いていた。左右にアウロイドの警備員。声はかけられない。かけられても、今は返せなかった。

 校舎の端の搬入口。そこに、無人の車両が一台待機していた。マットグレーのボディに記された管理ナンバー。開かれたドアの内側には、沈黙だけが漂っていた。

「……乗れ」

 機械音声の案内が短く響く。レインが一歩、車内に足を踏み入れる。その背中を、ルシアンが黙って追った。ふたりは、向かい合う形で座席に腰を下ろす。

 ドアが静かに閉まった。車両が発進してもしばらく、誰も何も言わなかった。モーター音だけが、タイヤの回転とともに耳を撫でていく。

 やがて、ルシアンがぽつりとつぶやいた。

「……アリア先生、逃げたんだって」

 レインはうなずいた。ほんのわずかに。

「すごいよな、あの人……」

 レインは何も返さなかった。でもその視線は、ルシアンの顔を見ていた。ほんの少し、滲んでいた。

「ねえ、レイン……僕たち、どうなるのかな」

 レインは、しばらく黙っていた。そして、目を伏せながら、絞るように言った。

「分からない。でも……ちゃんと怖いと思ってる。僕は」

 その声はかすれていた。でも、言葉としてはっきり届いた。ルシアンはうなずいた。目元を拭って、無理に笑って見せた。

「……僕も。ほんとは、すごく怖いよ」

 ふたりは、しばらく何も言わなかった。ただ、車内の空気に身を委ねながら、同じ不安の中にいた。

 外では、雨が降り始めていた。車窓に流れる水の筋が、まるで涙の跡のように見えた。でもそれを、ふたりは何も言わずに眺めていた。


 翌日。大型ホログラムディスプレイが、街頭や駅構内、あらゆる公共空間に浮かび上がっていた。画面には、「速報」の赤いテロップとともに、建物の正面玄関が映し出される。中央都市区・倫理管理庁附属裁判所──。

 報道番組のキャスターが、緊張した声で読み上げる。

《続いてのニュースです。昨日のリザレクテッド回収命令を受けて、本日午前、ユノ・KPU03627氏が代理弁護人とともに裁判所へ入廷しました》

 画面の奥。建物正面の階段を、二人の人物が並んで上っていく。一人は、黒のジャケットに身を包んだユノ。表情は冷静ながら、眉の間には強い意思の線が刻まれている。その隣には、光沢のあるダークグレーのスーツを着たアウロイド──カデルワン。背筋をまっすぐ伸ばし、周囲の視線を意に介することなく歩いている。

《ユノ氏は、生殖能力を持つリザレクテッド、“リース・JCF02621”の所有者であり、今回の回収命令に対して“違法性および合理性の欠如”を指摘。急きょ、審理請求を行ったとされています》

《同伴しているのは、高度自律型アウロイドであるカデル・ZGV03654氏の第一体“カデルワン”とみられます。複数体で知られるカデル氏が直接関与するのは、極めて異例です》

 ユノが階段を上りきり、記者たちに短く一礼する。

「ご質問はすべて、審理後に対応します。今は個体の尊厳を最優先に考えて行動しています。……それだけは、明言しておきます」

 その言葉に続いて、カデルワンも短く視線を上げる。

「制度を守るとは、命令に従うことではない。“正しさ”を問い直すことこそが、我々に与えられた倫理です」

 記者たちのフラッシュが光る。カメラの奥で、その映像を見つめていた人々の間に、ざわめきが広がっていた。

 画面が切り替わり、スタジオに戻ったキャスターが静かに口を開く。

《回収命令をめぐる議論は、今後さらに拡大していくとみられます。リザレクテッドの“所有”という概念そのものが、今、大きく揺らぎ始めています》


 夕方の街角。中央地区にほど近い広場に、反対派アウロイドたちが集まりつつあった。いつものように抗議プラカードを掲げている者もいれば、すでに手持ちの拡声装置で叫び始めている者もいる。だが、今日の彼らはどこか様子が違っていた。表情に、確かな“熱”が宿っていた。

 大型スクリーンに映し出されたのは、「リザレクテッド回収命令施行」の文字。ニュース番組の背景に、無人回収車両が学校に入っていく映像が流れている。

 その瞬間、誰かが叫んだ。

「ついに来たぞ! 回収が始まった!」

「制度が崩れる前に、正されるべきだったんだ!」

「偽りの人類など、AIが支配するこの世界には不要!」

 ざわめきは歓声へと変わり、広場の片隅では即席のスピーカーが設置され、反対派のリーダー格と思われる中年型のアウロイドが演説を始めた。

「我々は警告してきた! リザレクテッドの存在が、我々の秩序を乱し、倫理を腐らせることになると! だが今日、ついにこの世界が答えを出したのだ!」

 背後のビルのスクリーンが切り替わる。そこには、遺伝子ビーコンを読み取られ回収されていくリザレクテッドたちの列が、無音の映像で映し出されていた。

 誰かが拍手を始める。やがてそれは全体に広がり、歓喜のような波となって、広場全体を包み込んでいく。

「彼らは生きるべきではなかった。再生された存在に、未来を語る資格はない!」

「私たちは、真の進化の担い手! アウロイドの世界に、人間の亡霊はいらない!」

 その声は、どこか恍惚とすら感じられた。


 夜。施設の廊下はやけに静かだった。

 リースは独房のような一室で、壁にもたれかかっていた。端末は没収され、ビーコンリングだけが、薄く脈打っている。色は赤。識別済みの証。

 どれだけの時間が経ったのか分からない。寝たわけでもない。けれど目を閉じて、何度も頭の中で昨日の記憶をなぞっていた。アリアの声。リセルの映像。ルシアンの叫び。何もかもが、現実なのに現実じゃないようだった。

──“保護”だって言われても、これはもう“捕まってる”ってことだよね。

 誰かが言った言葉が、頭の奥に残っていた。レインだったかもしれない。

 そのとき、空調の音の合間に、かすかな電子音が鳴った。リングが一度、赤く明滅した。何かを告げるように、けれど何も言わずに。

 リースはそれを見つめながら、ただつぶやいた。

「ねえ、アリア……あれ、本当に“あんた”だったの?」

 返事はない。けれど、ふと耳の奥で、誰かの息づかいのような気配を感じた。それが想像だったのか、誰かのノイズだったのか、それすら判断がつかない。

 けれどそのとき、リースはなぜか──眠ったほうがいいかもしれない、と初めて思った。

 リングの赤は、もう点滅をやめていた。


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