大鷲級航空母艦
架空戦記創作大会2025春お題➀となります。
大日本帝国海軍「大鷲」級航空母艦が、米国より購入した「エセックス」級航空母艦であることはつとに有名である。
1905年に終結した日露戦争の講和条約斡旋と、日本が領有した関東州ならびに満鉄沿線附属地における開発への米国資本投下を皮切りに、経済的、外交的接近から発展し、第二次大戦直前に成立した日米同盟の申し子たる存在とも言える。
第二次大戦は、第一次大戦において直接の戦場となり、その国土が大きく傷ついた欧州の国々(英仏独墺露伊)と、国土が戦場とならず債権国として利益を得て、さらには一部の地域を国際連合から委任統治領として獲得した新興国(日米)との戦いとなった。
満州など一部の地域を除き、欧州の国々と海を隔てて対峙する戦場が過半となったがゆえに、その戦いは主として海戦と空戦、そして植民地や島嶼部を巡る戦いとなった。
日米海軍も強力な海軍を有する国であるが、第二次大戦で敵国となった国々、特に外洋海軍を有する英仏独露伊もそれぞれに、強力な海軍を有していた。
これに対抗するため、日米海軍は戦時下においても増強を行ったが、ここで頼りになったのが米国の工業力であった。
戦車、航空機、艦艇。そのどれをとっても、性能的に突出したものはなくとも、実用的であり、なおかつ米国のみならず同盟国日本が必要とする量を生産できた。
戦争中盤頃から、日本国内では米国から購入或いは貸与された護衛空母や護衛駆逐艦、フリゲートに魚雷艇、揚陸艦(LST)や輸送船(リバティー船)を見かけるのは珍しいことではなくなり、それらは喪失を穴埋めするのみならず、戦力全体の増強に一役買っていた。
そんな中でも、帝国海軍は主力艦に限っては、当初国産艦で固める方針であった。
しかし、英仏独露(さらに地中海内に限ればこれに伊が加わる)中心とした欧州連合海軍の実力は侮り難く、開戦から1年ほど経過すると喪失や損傷により、主力艦に不足を来すこととなった。
この内戦艦については、第二次大戦中終に最強の名を死守した「大和」級、ならびにその改良型の「紀伊」級を計8隻建造し、強力な欧州連合の戦艦部隊を撃破する原動力となった。
一方でこれらの建造は、日本国内の造船設備のリソースを尽く食いつぶし、戦艦と並ぶ主力艦の空母の建造にさえ支障を生じさせた。
加えて第二次大戦が勃発すると、日本海軍の設計した空母は米国から輸入した各種艦上機を運用するには小型に過ぎたり、航空機用設備が貧弱であった。このため、大規模な改装を余儀なくされる艦が続出した。
この穴を埋めるべく、大日本帝国は同盟国アメリカから航空母艦の購入に踏み切った。
この要請にアメリカ合衆国は応じたものの、売却する空母に関しては二転三転することになった。
当初アメリカ海軍は、第一次大戦後の軍縮条約の結果として建造した中型空母の「レンジャー」と「ワスプ」を供与する方向で調整していたが、このうち「ワスプ」が計画俎上に乗ったところで、大西洋でUボートの餌食となってしまい、さらに「レンジャー」も英空母との交戦で大破し、早急な売却は難しくなった。
そのため、次に軽巡洋艦改装の「インディペンデンス」級空母を4隻売却する方向で動き、まず2隻が昭和18年4月に売却された。
改装の小型空母ゆえに出来たことだったが、売却直後から不満が続出した。
というのも、確かにカタパルトを搭載するなどして新型機の運用も可能であったが、やはり軽空母ゆえの取り回しの悪さに加えて、復元性がよろしくなく、加えて対空火器として高角砲を搭載していなかったことも、日本海軍には受けが悪かった。
結局日本側が購入した「インディペンデンス」級は、この2隻に留まった。「紅燕」「蒼燕」と名付けられたこの2隻は、半年ほど艦隊配備された後に、新編成の第一練習航空戦隊にまとめられ、アメリカ空母の運用設備を習得する練習空母的存在となった。
こうして「インディペンデンス」級が日本側の求める空母としては、実用面で不満がつのるものであったため、日本海軍は米国に今度は「ヨークタウン」級空母の購入を打診した。
しかしこの時「ヨークタウン」級は、ネームシップの「ヨークタウン」が英艦隊との戦闘で戦没し「ホーネット」が大破してフィラデルフィアの海軍工廠に入居中で、残る「エンタープライズ」は艦隊配備中で、即座に売却できる状況になかった。
さらに言うとそれよりも古い「レキシントン」と「サラトガ」はそれぞれUボートの雷撃と、英独空軍機の雷爆撃により、既に撃沈されていた。
こうなると、供与できる空母は最新鋭の「エセックス」級しかなかった。しかし、驚くべきことに米国はこの「エセックス」級空母2隻の日本海軍への売却を決定したのであった。
これには米国内でも反対論が起きたが、しかし米国側がこの最新鋭空母の売却に舵を切ったのは、客観的な検討を行った故であった。
後にほぼ月に1隻竣工したことから月刊空母などと揶揄された「エセックス」級であるが、実際この時点で既に6隻が竣工し、10隻以上が建造中であり、さらに20隻近い建造計画まで存在していた。
これこそ米国の恐るべき工業力のなせる業であった。
半面、そんな米国と言えど「エセックス」級空母を運用するのに必要な2000名以上の乗員を養成するのは、一朝一夕では無理だ。
もちろん、時間を掛ければそれも可能だが、それ以上に早いスピードで「エセックス」級空母は造船所から吐き出されてくる。
加えてこの時、既に米国では「エセックス」級の後継となる装甲空母「コンスティテューション」級の建造計画も進められており「エセックス」は最新鋭とは言え、技術的には目新しいものでもなかった。同級の設計は、突き詰めれば前級「ヨークタウン」級のモデルチェンジ版に過ぎないものであった。
こうした事情ゆえに、日本海軍への売却が承認されたのであった。
昭和18年8月、フィラデルフィア海軍工廠において、完成したばかりの2隻の「エセックス」級空母が日本海軍に引き渡され「大鷲」「高鷲」と命名され、米国に派遣されていた艦長以下乗員が乗り込み、軍艦旗の掲揚が行われた。
なお、この2隻はいずれも日本海軍への売却が竣工直前に決定したため、日本海軍向けとして手が加えられた点は、艦首への菊花紋章の据え付けと、艦尾への艦名の書き込みくらいであった。
だから乗り込んだ艦長以下日本人乗員がまず行ったのは、艦内の必要箇所への日本語の書き込みであった。
なお、艦の操作に関しては事前にマニュアルの翻訳と、先に竣工済みの「エセックス」級空母への乗り込みによる訓練が進められるとともに、乗員に極力米国製艦乗艦経験者が集められるなどの配慮が行われたこともあり、明け渡し1週間後には試験航海が行われている。
そして翌月フィラデルフィアを出港した2隻は、ノーフォーク海軍基地に立ち寄り、ここで対日供与物資を搭載した。その後南下してパナマ運河経由で太平洋へ抜け、途中同じように米国から購入、或いは貸与された艦艇を組み込みながらハワイで補給を行い、最終的に開戦後日本側が占領したトラック島泊地へと到着した。
ここで2隻は、正式に第6航空戦隊を組んだ。
同艦は搭載機も偵察機の「彩雲」を除いたすべての機体が米国製(F6F艦戦、SBD艦爆、TBF艦攻)で固められており、艦首の菊花紋章と掲げている軍艦旗以外は、ほぼ米国の「エセックス」級空母そのままであった。
トラック島到着後2隻は軽空母の「千代田」「千歳」「日進」とともに、次期作戦に向けての慣熟訓練を進めた。
そしてトラック島到着から2カ月後の昭和18年12月、整備のために日本本土に回航され、両艦はそれぞれ1カ月ずつドック入りした。この際に、日本側の造船関係者による調査も行われている。
この調査で判明したのが「エセックス」級が米国製航空機を組み合わすことで、高い実用性を発揮する空母であるということだった。
米国製の艦載機は主翼を根元から折り畳めるなど、それまで日本海軍が運用していた日本製の機体よりも遥かにコンパクトな面積で収納することが出来た。その一方で、大馬力かつ大重量の機体であった。
これらの機体を仮に日本海軍の空母で運用するとなると、甲板強度の強化や、エレベーターの取り換え、着艦用装置一式の強化などの改装が必要であった。
加えて日本海軍の機体に比べて大重量である分、強度もある米国製のこれら機体は、塩害にも強いため甲板への露天係止にも向いていた。そして「エセックス」級空母は飛行甲板の面積が長方形で一杯にとられており、滑走路としても駐機場としても優れたものとなっていた。
もちろんカタパルトも備えているため、大重量の機体発艦に何ら問題はなかった。
こうした飛行機を扱う上での取り回しの良さは、日本海軍の艦政本部関係者に大いに刺激となり、後に建造される改「大鳳」型や「大和」型戦艦以上の船体規模を有し、戦後もジェット機に対応して長く運用された二代目「蒼龍」型の設計へと活かされることとなる。
整備と調査も終えた昭和19年1月「大鷲」と「高鷲」の2隻は一路日本本土を出撃、南下してパラオへと向かい、そこでトラック島から西進してきた3隻の軽空母と合流した。
そして6隻は米領フィリピンを通過し、スンダ海峡をとおりインド洋へと向かった。
既に開戦以来の日米両軍の進撃により、欧州各国が支配していた植民地は軒並み日米の占領するところとなり、インドネシアとベトナムなどは既に日米両国を含む一部の国々の承認の下で独立し、その他の地域でも独立準備委員会が立ちあげられていた。
また豪州は昭和18年2月に日米と休戦条約を結び、欧州連合から脱落していた。
このため、この時期日米のアジア方面での戦略は、露西亜帝国による北方方面からの侵攻に備えつつ、英国のアジア方面への進出拠点であるセイロン島の無力化とインドの脱落に向けられていた。
もちろん、英国側はこの日米側の戦略を打ち崩さんと、植民地奪回を目指す仏や独と組んで、セイロン島の戦力と、アッズ環礁の東洋艦隊(独仏も加えた欧州連合艦隊)を増強して待ち受けた。
このとき欧州連合艦隊の戦力は戦艦6、空母5,巡洋艦18隻からなる強力なものであったが、3カ国海軍の寄せ集めであることに加えて、5隻の空母(英3隻と独2隻)の艦載機が合計しても230機と少なかった。
対して日本側は2隻の「エセックス」級だけでも200機近い艦載機を擁しており、さらに3隻の軽空母も100機近い艦載機を搭載していた。
なお、日本側の3隻の軽空母は、いずれも大戦開戦後に米国製機の運用を前提に改装されており、やはり偵察用の「彩雲」を除き、全ての機体が米国製で固められていた。
しかも艦載機の性能は、欧州側の艦戦であるHe120やホーカー・ファイアボルト艦爆、Re2006艦攻といった機体は、最高速度や武装、爆装などはいずれも米国製機を上回っていたが、欧州製の機体に共通する航続性能が日米の機体の半分から3分の2という弱点を抱えていた。
このため、この第三次セイロン島沖海戦でも、日本機動部隊のアウトレンジ攻撃を許すこととなった。
もちろん、欧州連合側も手を拱ていたわけではなく、セイロン島の基地航空隊は潜水艦との連携を試みて、その不利を払拭しようと試みはした。
しかし、基地航空隊は洋上に送り出す攻撃隊に随伴するべき護衛戦闘機が不足しており、そして潜水艦隊は独英伊の三か国全ての艦を動員しても、日本機動部隊に対抗するには数が不足していた。
また日本側もペナンや 諸島駐留の基地航空隊を有していた。これらは米国からの技術供与で性能が向上した二式大艇や「銀河」陸上攻撃機に加えて、購入したP38戦闘機(日本名「熱風」)の護衛を受けて長距離索敵や攻撃に充当可能であり、欧州連合基地航空隊と互角以上に戦える実力を有していた。
次に切り札と目された欧州連合の潜水艦隊は、この時期大西洋で米国と中南米各国、さらには日本の派遣艦隊との戦闘に忙殺されており、インド洋方面へ充分な数を回せなかったのだ。
加えて、日米同盟以前は対潜・対空装備に欠けていた日本の各種艦艇も、この頃には米国から供与の電子技術や対空・対潜兵装を搭載しており、欧州連合の航空機や潜水艦にとって強敵になっていた。
結果から言えば「大鷲」級の初陣は、日本側の勝利に終わった。日本側も巡洋艦「阿武隈」と駆逐艦2隻の損失を出したものの、空母の損傷は至近弾による小破止まりだったのに対して、欧州連合は空母2隻他巡洋艦以下も含めて10隻余りを喪っている。
この海戦での勝利は、インド亜大陸東側の制海権、すなわちベンガル湾の制海権を日米軍がほぼ手中に収めたことを意味していた。
そしてこの5カ月後の1944年6月、米軍の援軍も受けた合同作戦によりセイロン島が陥落し、アッズ環礁の英海軍基地も陥落し、欧州連合軍はアラビア海西側にまで制海権を後退させた。
このインド洋を巡る作戦に於いて「大鷲」級はその空母としての高い能力を発揮した。それは自然と「エセックス」級空母の追加購入という流れを産み出した。
1944年末時点で、日本海軍はようやく「大和」型戦艦の4番艦である「飛騨」を竣工させていたが、引き続き51cm砲を搭載した「紀伊」級4隻の建造に着手しており、相変わらず空母に避ける建造リソースは少なく「エセックス」級の長所を取り入れた改「大鳳」級の「白鳳」と「海鳳」の起工に何とか漕ぎ付けたところであった。
そのため、相も変わらず今スグ使える空母や巡洋艦の不足に喘いでいた。
一方米国はと言えば、装甲空母「コンスティテューション」を起工したとはいえ、その1番艦が竣工予定なのは1945年夏ごろであり、逆に次々と造船所から吐き出されているのは「エセックス」級空母であった。
もちろん、空母だけでなく戦艦に巡洋艦、駆逐艦や護衛駆逐艦に各種輸送艦艇、果ては魚雷艇までもが満遍なく出来上がり、巨大工業国アメリカの底力を見せつけていた。
そんな米国でも、さすがに人間の養成は時間を食うので、完成した艦艇に対して乗り込む乗員が間に合わないという現象が真面目に起きていた。
だから日本側の新たな購入打診にも即対応可能で、新たに1944年12月に2隻の「エセックス」級が日本側へと売却された。
この2隻は「白鷲」「青鷲」と命名され、即第8航空戦隊を組んで戦線に加わった。またこの2隻からは新たに、日本製の「烈風」とF4U「コルセア」が戦爆として、日本製の「流星」が艦攻(艦爆兼用機)として艦上機に加わった。
「烈風」は米国より供与された大馬力発動機技術と排気タービン技術によって開発された出力2500馬力を誇る「誉」35型発動機を搭載し、陸上戦闘機として開発された「紫電」戦闘機の空戦フラップ技術や米国製戦闘機の機体構造や操縦席周りの艤装などをフィードバックした機体で、艦戦としては大柄であったが最大爆装1,5トン、魚雷も搭載可能とされた艦戦攻とも言うべき機体に仕上がっていた。
もちろんカタパルト装備で重量級機体の着艦も耐えうる「大鷲」級なら、その運用に何ら問題はなかった。
この4隻の「大鷲」級に加えて、純日本製の「大鳳」に、開戦以来のベテランであり、米国製機体運用可能な装備の改装を終えた「瑞鶴」「翔鶴」に6隻の中小型空母を動員し、さらに米国太平洋艦隊の「エセックス」級空母2「インディペンデンス」級2隻を加えた日米連合艦隊は1945年4月にマダガスカル島攻略作戦を展開、合計3隻の空母を失いつつも出撃して来た欧州連合艦隊を撃破し、同島に日米6万の兵を上陸させることに成功した。
そしてこの作戦中3番艦の「白鷲」が、フランス空軍機から発射されたドイツ製誘導爆弾の被弾により、格納庫と飛行甲板を全損して大破している。
しかしながら、同艦はその後火災の消火に成功し、無事に日本占領下シンガポールのドックにまで辿り着いている。
大戦中「エセックス」級空母は米国の「フランクリン」は失われたが、これは英艦隊との戦闘で中破し、後退中を21型高速Uボートの雷撃を許したことによるもので、空爆のみで致命傷を負った艦はなく同級のタフさを見せつけている。
もっとも、これは欧州連合の空母艦載機を含めて、雷撃機の能力が低く、航空雷撃が低調であったのも、味方している。
大戦中に損傷を受けた「エセックス」級は、装甲化されていた上甲板以上の構造物に損傷を受けることはあったが、機関部などの重要部である艦体内部への損傷はいずれも受けずに済んでいる。同艦の防御力に加えて、マニュアル化されたダメコン能力の高さが活きている。
マダガスカル島陥落以後、主戦場は大西洋ならびに中東方面、そして満州方面となったが、最終的に1946年初頭までの海戦による欧州連合側の水上艦艇部隊の壊滅により、シーパワーを失った欧州連合が講和を申し出たことで、実質的な日米連合の勝利となった。
その原動力となったが、量産型正規空母と言うべき「エセックス」級であることは、ほぼ間違いない。
しかしながらその「エセックス」級も、艦隊空母としての実用期間は意外と短いものに終わった。と言うのも、第二次大戦時にその端緒を見せていたジェット機の時代が本格的に始まったためだ。
当初はレシプロ機と然程の差がなかったジェット機であったが、徐々に機体は大型化し、レシプロ機の運用を前提とした空母では、運用が難しくなった。
加えてペイロードの大きなジェット機は、搭載する爆弾やロケット弾(後にミサイル)の威力が増加したため、飛行甲板に装甲を施している方が有利と考えられるようになり、それは必然的に艦の大型化を促した。
そのため第二次大戦後、列強国における空母のスタンダードは大戦末期に出現した「コンスティテューション」に端を発した、後の世でスーパーキャリアと呼ばれる超大型空母の時代へと移行していった。
さらに第二次大戦後独立、或いは経済力を蓄え海軍力強化に動き出した後発国においては、造修設備などの関係から、逆に「エセックス」級空母は大型過ぎと倦厭されてしまい、英国の「コロッサス」級や「インディペンデンス」級、日本海軍が建造した各種軽空母の方が好まれる事態になった。
かくして、米国における「エセックス」級は1950年代以降急速に空母としては退役が進められ、ヘリと搭載した対潜用空母あるいは強襲揚陸艦へと転用されていった。
一方日本海軍に売却された4隻の内、大破損傷した「白鷲」が終戦から2年後に退役してスクラップ処分となったものの、残る3隻は後継艦完成まで現役空母として踏みとどまった。日本の国力では、ジェット時代対応の空母を揃えるまでに、時間を擁した結果だった。
もちろん「大鷲」級が空母としても、軍艦としても非常に使い易い艦であったことや、戦時建造艦艇でありながらその仕上がりが良かったこと、そして米国製艦艇の多くと同じく、居住性が優れていたのも見逃せない。
後継艦完成後の3隻は、戦前の日本製空母が早期に退役する中、揃って全てが強襲揚陸艦へと転用された。これは島嶼を抱えるゆえに、早期に陸上戦力を展開させられて、なおかつ限定的でもエアカヴァーを提供できる艦が必要とされたゆえである。
そのため航空機用格納庫の一部を舟艇格納庫や乗艦陸兵居住区に、航空機搭乗員や整備員用居住スペースが舟艇要員スペースへと転用されている。
その一方で特徴的な艦橋前後の連装高角砲は退役のその時まで残置され、第二次大戦時の面影を強く残していた。
1980年代に入ると、さすがに性能面での陳腐化や各部の老朽化が進んだが、広く散らばる日本領土を守る上で、揚陸戦用艦艇の需要は高かったこともあり、修理や改装を続けながら運用された。
最終的に、最後まで残った「高鷲」が後継艦に交代する形で退役したのは1999年のことで、同艦は実に55年間も現役にあった。
そして、戦後も現役を続けた3隻の内「青鷲」は漁礁化も兼ねた実艦標的として処分されたが、残る「大鷲」と「高鷲」はともに民間に売却され、それぞれ佐伯と松山でミュージアムシップとなっている。
大戦中の艦艇は全国各地に残されているので、そうした面では珍しくない存在である。しかしながら、2隻とも大戦中の「エセックス」級の面影を残しているので、現在でも日米の戦争映画に良く登場するのは、艦艇ファンにはよく知られている。
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