第9話 そらの恋心
~Side そら~
体育館全体を包むような、剣道の独特な臭いが辺り一面を緊迫した空間に仕立てていた。
試合場は1辺を9メートルとする正方形だ。その外側に相対するように1組5人の列が互いを敵視し、団体戦がいままさに行われている。私が通う高校の横断幕には「心技一体」と大きく書かれており、その横断幕の向こう、観客席の保護者席に姉のふみが座っているのを試合前に確認していた。
先鋒、次鋒、中堅。そして、たったいま副将戦が終わった。副将戦は私の高校が負け、試合結果は現在1対0で劣勢だ。私の出番である大将戦で勝てなければ、試合後に飛んでくるのは激励ではなく叱咤の声。私はこんなところで燻っているわけにはいかない。
「大将、前へ」
主審の合図を皮切りに、私は前方の相手を見据えた。明らかに雰囲気が違う。大将だけあって、その体は先鋒や中堅よりもガタイがしっかりしている。年齢は私と同じなのだが、相手から発せられる威圧感は唯の女子高生には見えない。竹刀を握る左の小手に力が入る。
私はひと呼吸置いてから礼し、左の腰に竹刀を帯刀したまま右足から試合場に足を踏み入れる。立ち止まることも、逃げることもこれで許されなくなったのだ。1歩、2歩……3歩目で腰を下ろしてつま先立ち、蹲踞をした。距離が近くなったことで、表面しか見えなかった面の内まではっきりと見えるようになる。百戦錬磨の剣豪のように相手の目は鋭い。私の初めに繰り出す一手を先読みでもしているようだった。主審が合図するまでの気の抜けない時間が途方もなく長く感じる。
「――はじめっ」
主審の一声に私と相手は素早く立ち上がり竹刀を鋒より少し手前の位置で交じわらせる。だが、両者が距離を詰めることはしない。ここで焦って距離を詰めてはいけない。狙ってするのなら別だが、それは素人の考え方だ。
「やああああ!」
2階の観客席まではっきりと届くような声を出し、威嚇の意思を示す。判定の際もこの声の度量、覇気が少なからず関係している。生半可な気持ちで叫ぶだけでは意味がないのだ。
先に仕掛けたのは向こうだった。竹刀の鋒で私の竹刀を弾くと、怒涛の勢いで突進してきた。私はここから起こりうる先の可能性を考える。小手面を繰り出すのか、それとも面と見せかけての小手なのか、はたまた胴を取りにくるのか。1つだけ可能性を潰すなら簡単なことだが、全ての可能性を潰すとなると、なかなか難しいところがある。
だが答えは明瞭。平たくいえば、技を打たせなければいいのだ。
突進を仕掛けてきた相手に対して、私は1歩後ろに引くことで相手の重心を傾けてから、押し返すように前方に一気に力を込める。無論、重心のずれた相手は踏みとどまることができず後ろによろけてしまう。そこに畳み掛けるように私は大振りの面を打った。
流石は大将だけあって、私の面は持ち直した竹刀でしっかりと受け止められる。私たちは仕切り直すように再び距離を空けると、鋒より少し手前を交わらせた──。
試合が終わり、礼をして試合場を後にする。団体戦の勝利を仲間のみんなと分かち合ったあと、先程の試合で相見えた敵高校の大将が近寄ってきた。数分前までは敵だったが、いまはもう敵ではない。完敗だったよ、と笑いながら悔しそうに話をし始めた。
「そら、あんたやっぱし強いよ。流石、推薦組だけあるね」
「梨奈も十分強かったよ。ま、私が勝ったけどね」
ふふん、と鼻を鳴らすと小椋──いつもは梨奈と呼んでいる──は私の腰を後ろから小突くように叩き、どこかへ行ってしまった。普段は同じ塾に通う同級生だが、剣道つながりで試合のたびに顔を合わせ、それから仲良くなった。
梨奈は高校の仲間と反省会をするのだろう。私も仲間のもとに駆け戻ると、試合の反省会を早々に済まませ、中谷顧問のところに駆け寄った。
講評を聞く際、剣道部は正座をする。中谷顧問の反応は「相変わらず強いな。よくやった」というだけで、まずまずといったところだろう。怒られないだけマシだ。
でも、私が気にしているのは……こういってはなんだが顧問ではなかった。正座したまま体の向きを変え、監督の隣にいる男性に一礼する。学校で練習試合を部内でするたびに大学終わりから来てくれる、1つ上の浩一先輩だった。浩一先輩は「立っていいよ」と私に声をかけ、それに従って立ち上がる。私の身長は女子の中でも比較的背が高いほうだったが、浩一先輩の身長は私よりも少し高い。自然と上目遣いになりながら会話を続けた。
「浩一先輩! 私の試合どうでしたか」
「うん。竹刀を振ったあとの反応も速くなってたいたし、なにより確実に当てたいところを狙えてきている。十分すぎるほど上手いよ、そら」
「あ、ありがとうございます!」
私は再び一礼すると、浩一先輩の隣の椅子に座った。椅子に座って見る景色は普段正座しているときとは少し違っているように感じた。たかが数十センチの違いなのになぜだろう。
すると、目の前にピンク色の水筒が差し出される。
「これ、そらのだろ? ちゃんと水分補給しておかないとブッ倒れちまうぞ」
「あ、ありがとうございます!」
私は熱で惚ける頭を下げると、水筒を両手で受け取った。
「そんな気遣わなくたっていいって。俺が主将だったときもそうだけど、もう少し緩く生きてみてもいいんじゃないか? 休憩してるときくらい肩の力抜けよ」
はあ、と生返事をしてから、浩一先輩の言う通り、深呼吸して肩の力を抜いてみる。すると、する前と比べてだいぶ肩から荷物が降りたみたいに軽くなった、すごい。
浩一先輩の横顔をチラリと見る。気付かれないうちにすぐ前を向いて俯くと、跳ねる気持ちを抑えながら胸に手を当てた。そうだ、お礼を言わなければ。もう一度深呼吸する。
「浩一先輩……私」
声をかけようとして、すぐやめた。浩一先輩は他の女子部員にもアドバイスや激励をしていた。激励を受けた女子部員は「ありがとうございます!」と言って興奮気味に後ろに下がると、小さな声で「浩一先輩ってカッコイイよね!」と徒党を組んで話に花を咲かせていた。浩一先輩もその会話に気付いているとは思うが、別段ニヤついたりするわけではない。むしろ、どうすればいいか困っているようにも見える。
「ははっ……ああいうのって、どう答えたらいいんだろな」
「こうすればいいんですよ。ああいうのは……休憩そろそろ終了! 次、個人戦の応援!」
主将である私の特権、大きな声で命令するのは強制的に浮かれる女子部員を従わせる。これにより、私が浩一先輩と話す時間も強制的になくなるわけだが、背に腹は代えられない。浩一先輩にはしっかりと指導してもらわないといけないのだから公私混同はしてはいけないと肝に命じる。
「そら、さっき一瞬俯いてたろ。お前も休んどけ」
えっ、と私は単純に驚きのあまり声が出なくなった。さっきの一瞬を見ていたのだろうか。気付かれていないと思ったのに。
浩一先輩は配置についた部員に向かって「部長は抜きでやってくれー!」と叫ぶと、普通なら不平不満が飛び出すものだが、武道の嗜みとして力強く「はい!」と返事が返ってくるだけだった。
浩一先輩はニッと微笑むと、私は先輩の顔が直視できなくなっていた。心が明らかに揺らいでいた。
私は、浩一先輩のことが好きになっていた。