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第3話 お前、部活辞めろ

 私は日本で女子大生となった。視力は幼少期の手術のおかげでまだ見えるほうだが、それでも0.01しかない。眼球のなかには人工レンズを入れ、視力矯正とともに、その目の見た目も一般人と同じように見せることができている。


 この病気は目が≪≪白く≫≫見えるのだ。黒目がない。人工レンズを入れていなければ、私の顔を見たたいていの人は嫌悪感を抱くだろう。それが私の最大のコンプレックス。人工レンズを付けていることすら、私は誰にも知られたくないのだ。だがこの人工レンズは瞳がすこし浮き出るように見えてしまう。それは伊達メガネをかけることで周囲をごまかしていた。


 幸い、大学に入って2年が経つが、案外誰にも気付かれていないらしく私は安堵していた。夢だった映像研究部に入ることもでき、私生活は非常に安定していた。今もこうして、大学3年生の倉橋先輩から私や後輩含め、映像制作における指南を受けていた。


「ここでカメラワークの切り替えを行えば、あたかも前後のシーンが繋がりを持ったように視聴者には見える。こうやって前のカットの先入観を持たせると、次のカットが同じものでも別の意味を持つようになる。これをモンタージュ理論と言って――」


 倉橋先輩の赤ペンがホワイトボードに滑らかに理論を説明する図を描く。私は机に広げたノートにペンを走らせ真剣に話を聞くフリをしながら、頭のなかでは全く違うことを考えていた。


 大学から与えられた、部室棟とでもいうべき新学生会館の一室で倉橋先輩のアドバイスをよそに、私は世界を想像していた。思い描けばそれを現実にすることができる、私にとって映像研究部とは夢のような部活動だ。この生活も2年目に差しかかり、私個人としてはとても充実した時間を送っていたつもりだった。


「あ、痛っ!」


 刹那せつな、後頭部に衝撃が走る。厚さ3センチはあるだろう編集ソフトの解説書が私の横にそっと置かれる。衝撃でずれた眼鏡を正位置に直すと、寝ぼけまなこで倉橋先輩を見上げる。


「ふみ、話を聞け、話を。2年目だろが。後輩のお手本となれよ」


 ペン先を向けられた私は「はい?」という生返事をしてから周囲を見回す。いまだ見慣れぬ顔つきの大学生が5人、私と同じように席に座ってにやっとしていた。今年大学に入ったばかりの後輩たちだ。私は笑われたのだと理解すると、頬が異様に紅潮した。しゅんとして視線をノートに落とした。


「視線落とさなくていいから、前を見とけ」


 倉橋先輩は半ば呆れたように頭を掻くと、何もなかったようにホワイトボードに再び赤ペンを走らせた。後ろ姿しか見えないが、倉橋先輩の爽やかに短く整えられた黒髪はさながら学校の教師を彷彿させた。途端にペンを持つ手が止まる。社会や数学を勉強する感覚に陥り、私のやる気スイッチはオフになった。


 私は先輩に気付かれないようにそっと目蓋を閉じ、再び夢想に走る。


 空想の世界では誰も病気にならない。子どもも大人も平等に幸せを享受しながら、その生を遂げる。映像制作の世界で、私の専門分野はフィクションだ。世界観から登場人物、ありとあらゆる全ての事象に対して、私は神さまとなることができる。


 そう、誰も傷つくことはない。誰も苦しむことはない。そんな世界を願って。


「あ、痛っ!」


 刹那、額に衝撃が走る。長さ8センチはある赤ペンが私のノートの上にそっと置かれる。眼鏡の位置はずれなかった。


「学習能力ってものが欠けているのかお前はよ……」


 辺りを見渡すと後輩たちが口元を隠すように押さえているが、頬が緩んでいるのが見えて「うぅ、また笑われた」とこうべを垂れた。

]

 視線をノートに移そうとしたとき、あれ、と私はノートが机の上にないことに気付いた。同時に、倉橋先輩が私のノートを手に取り、内容を読んでいることに気付く。ノートに書いていたのは倉橋先輩がホワイトボードに書いていた内容ではなく、先程想像していたフィクションだった。


「なあ、ふみ。お前あとで少し残っとけ」


 ノートに視線を移したまま倉橋先輩は呟くと、ちょうど部室の壁に掛けられた時計が午後5時を告げる。編集講座はお開きになり、私と倉橋先輩だけが静まり返った部室に取り残された。


 倉橋先輩は後輩が全員帰ったことを確認すると、後ろ手に部室の扉に鍵をかける。部屋はパソコンから放出される熱で十分に暖まっていて、2人とも上着を脱いで椅子に掛けていた。


 不思議と心臓がどくんと跳ね上がるのがわかった。私は倉橋先輩に対して愛情めいた感情を持ち合わせたことはない。しかし、意識したことがないわけではなかった。


 倉橋先輩は私と対面した位置にある椅子に乱暴に腰掛けながら、インスタントコーヒーを飲み始めた。男性特有の喉仏のどぼとけに思わず目が向いてしまう。見続けていると、倉橋先輩は「お前も飲むか」といて、用意していた2杯目のインスタントコーヒーを私に差し出した。飲みたいわけではなかったが、遠慮する必要もないので素直にお礼を言って受け取る。大学に入って一人暮らしを始めてから久しくコーヒーは飲んでいなかったが、意外と苦くて喉を通らない。やっぱりいいです、なんて言える訳もなく、決心して一気にコーヒーを飲み干すと、倉橋先輩が私をじっと見つめていた。

どぎまぎする心の内を悟られないように、私は平静を装いながら尋ねた。


「それで、一体どうしたんですか」


 倉橋先輩の視線が一瞬手元のコーヒーに落ちる。私は神妙な面持ちで倉橋先輩の返事を待った。





「ふみ。お前、部活やめろ」

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