心臓の音4
日野は亜里沙に歩幅を合わせるわけでも気を遣う様子もなく自分のペースで歩いている。
亜里沙は多少の苛立ちを覚えたが懸命に日野にスピードを合わせた。
多少都会に出たところに2階建てがあり、日野が止まった。
「亜里沙、着いたぞ」
「ずいぶん立派なビルね」
「∞」を追っている組織と聞いたのでアウトサイドな見た目かと思ったが案外普通のビルだ。
普通にクリーンな仕事をしている職場と言われても違和感ないだろう。
日野は自動ドアの中にひとりでに入っていく。
「…もう少し気を使ってくれてもいいんじゃないの」
と小声で愚痴を漏らしながら日野の後を追う。
ビルに入ると内面もいかにも会社という感じだった。
心地よい温度に保たれている。しかも芳香剤のいいにおいがする。
それに加えて受付のカウンターもあり、ブラウンのショートカット可愛い受付嬢までいるのだ。
日野はスーツの胸ポケットからカードを取り出すと
「春は夕暮れ」
「どうぞ、あちらのエレベーターをお使いください」
どうやら合言葉のようだ。
「日野さん、そちらの方は?」
「ああ、新人だ。中々いい目をしているだろ?」
「ええ、とっても可愛らしいお嬢さんね」
亜里沙は表情一つ変えずにその場に立ち尽くした。
「あら、緊張しているのかしら?」
「いいえ、よろしくお願いします」
この受付嬢は多少新人をいびる癖があるのか、いやらしい目つきで亜里沙を見つめている。
まぁ、亜里沙も負けじと睨み返しているのだが…。
その時亜里沙の肩をポンっと日野がたたく。
「雪、この子のカードを作ってやってくれ。俺は先に上がって報告してくるから」
「了解です」
そういって日野はエレベーターで先に行ってしまった。
「では、カードを作りましょうか!名前はなんていうのかしら?」
「東雲亜里沙です」
「亜里沙ちゃんね、とってもいい名前!あっ、私は鏡雪よ。そうね…雪ネェって呼んでちょうだい!」
「え…急に言われましても…」
「決定ね!」
日野の前では秘書みたいな涼しい雰囲気の彼女だったが、面倒見のよさそうな頼れる姉御肌の一面もあるようだ。
多分、人によって最適な雰囲気を作れる人なのだろう。
世渡り上手というべきなのだろうか。
とにかく亜里沙の中の彼女の第一印象は良い意味で変わった。
3分ほどぼんやり立っていると
「亜里沙ちゃん、できたわよ!」
「ありがとうございます」
「お礼をするときは相手の目を見てするのよ。…あと相手の名前ちゃんというのよ!」
そういうと亜里沙の手からカードを奪った。
絶対に雪ネェと呼ばせたいだけだ。
彼女のいやらしい目線を見ればわかる。
「あ…ありがとうございます。……雪ネェ…。」
「いい子ね~よくできました!」
そういって亜里沙の頭をおもむろになでる。
亜里沙はすぐに手を振り払ったが特別気分が悪くなるわけでもなかった。
なんだか、凄く懐かしいような…。
一瞬亜里沙の頭の中に母が頭をなでてくれたシーンが映し出された。
「あら、いやだったかしら?」
「つい反射的に…」
「ならよかったわ。日野さんが乗ったエレベーターで上に行ってね」
そういって亜里沙にウインクをすると雪ネェは書類の整理を始めた。
亜里沙はとってつけたようなお辞儀をするとエレベーターに向かった。
なんであんな人がここで働いているんだろう…?
と、亜里沙はエレベーターの中で疑問に思ったが答えが出ないまま扉が開く。
心臓が緊張でドキドキしている。
エレベーターの扉が開ききる間、亜里沙の心臓の音は最高潮を迎えた。
心臓が痛い。亜里沙は緊張からくる痛みに耐えていた。
その時、母が頭をなでてくれてことを思い出した。
「亜里沙、大丈夫よ…」
エレベーターの扉が開ききるとさっきまでの緊張はいつの間にか消えていた。