赤い糸
誰にも言ったことは無いけど、私赤い糸が見えるんです。
あ、こいつ何変なこと言ってるんだって思ったでしょう?
私だって知人や友達がそんな事言ったら、こいつ頭大丈夫か?と思います。
だから誰にも言ったことがないんです。
私の両親はとても仲が悪くて、私が物心ついたころからすでに喧嘩ばかりでした。
父は酔って帰ってきては、母を怒鳴り、ある時には殴ったりしていました。
父が言うには母と暮らすこの家にまっすぐ帰って来るのは苦痛なので、ついつい途中でお酒を飲んでしまうのだそうです。
そうして酔っぱらって帰ってきても、やっぱり母の顔を見るとイライラすると言っていました。
でも、休日などには私には優しくしてくれたり、お酒を飲んでいない時に母と笑いながら話していることも有ったので、好きで結婚したんだろうに、なんで仲良くできないのかなぁと思っていました。
私が小学校4年生の時、いつも通り酔って帰ってきた父が口ごたえをしたと母を殴りました。
勢いよく殴りつけられた母が倒れました。
打ち所が悪かったのか母の頭からは血が流れ出て、私は驚いてタオルで母の頭を押さえつけたのですが、中々血が止まりませんでした。
それに慄いた父が車を出して、母は手術して入院することになったのですが、父も母も原因は父の暴力だとは誰にも言いませんでした。
頭に白い包帯を巻いて、腕にも大きなガーゼが貼って有り、白いベッドの上に座る母はとても痛々しかった。
なので、夕暮れの薄明るい病室で私は母に言いました。
「お母さん、お父さんと離婚すれば?」
私の問いかけに母は虚ろな顔をして答えました。
「何度も別れたいって思うんだけど、その度にお父さんのいい所を思い出して、やっぱり別れない方がって思うのよねぇ」
私はじっと母の左手の小指を見ました。
母の左手の小指には赤い糸がぎっちりと巻き付いていました。
そしてその糸の先を私は知っていました。
父の左手の小指です。
母の左手の小指から繋がる赤い糸は、父の左手の小指にぎっちりと何重にも巻き付いているのです。
私は手をハサミの形にして、母の左手の小指に巻き付いている糸をチョキンと切るまねをしました。
ふわっと赤い糸が消えました。
「ねぇおかあさん。子供の私が言うのもなんだけど、またこんなことがあって今度こそお母さんが死んだりしたら、私どうしていいのかわからない。
もしお母さんが一人で私を育てられないっていうのなら、私をお父さんのところに置いて行っていいから、お母さんが望むようにして」
今思えば小学生にしてはませた言い方です。
母は何も言いませんでした。
ただ薄く笑っただけでした。
けれど、退院する時に迎えに来たお母さんのお父さん、つまり私のおじいさんは母を連れて実家に帰って行きました。
まるで母には、私の姿は見えなかったようでした。
私は病院の出入り口で車に乗ってこちらを振り返りもせずに帰って行く母を見ていました。
おかあさん、さようなら。
いつもやさしくしてくれてありがとう。
こんどはたすけてあげられないからしあわせになってね。
その日私は一人で家に帰りました。
がらんとした家で私は一人で父を待ちました。
「お母さんはどうした?」
帰宅した父が私に聞きました。
「お母さんのお父さんが迎えに来て、二人で帰って行ったよ」
「そうか」
父は何も言いませんでした。
その日から私と父の二人暮らしが始まりました。
私は拙いながらも、学校から帰ってきてから掃除をして洗濯をして料理をしました。
父はお酒を飲むこともなくまっすぐ家に帰ってきて二人でご飯を食べて過ごしました。
それから間もなく母は弁護士を立てて、私の両親は離婚しました。
後に聞いた話によると私を置いて行く代わりに慰謝料も財産分与も請求しないと言うことでした。
家に残った母の物はすべて捨ててくれてかまわないと言うことでしたが、父が高価なものだけ母の元に送りました。
下着や普段着化粧品やバッグや靴などの日用品はすべて捨てました。
アルバムに貼ってあった、お父さんとお母さんと私が写っている写真も全て捨てました。
その後も私は赤い糸が見えていました。
中学生の時に、クラスで一番頭が良くてカッコイイ男の子の左手の小指には何本もの赤い糸や黒や深緑色の糸がたくさん巻き付いているのを見て、一人に一本じゃないんだと知りました。
ある暑い日、クラスの女の子と上級生の女の子とがその男の子を巡って喧嘩になり、弱々しいと思っていたクラスの女の子が急に椅子を振り下ろして、上級生の女の子の頭に怪我を負わせたのを見たとき、糸を切ってあげればよかったとは思いました。
まさかこんな結果になるなんて思いもしなかったのです。
結局、その三人は学校に来なくなってしまったので、その後どうなったのかわかりません。
高校生の時は、自分の担任の先生と隣のクラスの女の子のお互いの左手の小指が太いロープのようなもので結ばれているのを見ました。
ずるずると引きずっているこの二人の左手は、疲れないのだろうかと思いました。
でも担任の先生は私達が入学する前に結婚して子供も生まれたばかりだったはずなので、どうするつもりだろうと思っていました。
二学期が始まる直前、この二人は本物のロープでお互いの身体を結び高層マンションの廊下から飛び降りました。
女子生徒は妊娠していたそうです。
なんて迷惑な二人だと、私は思いましたが、学校は大騒ぎで始業式の後一週間、学校が休みになりました。
先生の奥さんは生徒の親にずいぶんと糾弾されたようですが、何がどうなっているの誰もわからなかったので、親御さんもそのうちにどこかへ行ってしまいました。
私以外は、本当に誰も気が付いていなかったのでしょう。
クラス担任でもないし、教科を持っているわけでもなく、入学してからわずか半年足らずのことでみんな謎に包まれているようです。
私はこの二人の接近を知っていました。
はじめは細い糸だったのに、五月末には太くなりはじめて、夏休み前には登山のザイルのように太く硬くなって行くのを見ていました。
それから私は意識して、クラスメイトや友達の左手を見るようにしました。
ほとんどの人の指には、赤い糸が結ばれていましたが、大きくてもせいぜい毛糸くらいの人ばかりでほとんどの人はミシン糸くらいの細さです。
その糸の先が誰に繋がっていたのかは、捜さないことにしました。
一部の人の左手には全く糸が付いていないか、赤じゃなくて黒だったり深緑だったりしていました。
思うに黒は恨みなのかもしれません。
深緑は妬みでしょうか?
そして、自分の左手を見ても赤い糸は見えません。
それは自分には結ばれる縁がないのか、それとも自分の糸は見えないのかそれは私ではわかりません。
仲良く歩く家族連れの両親が太い綱で結ばれていたり、お互いが別の人に繋がっている家族もありました。
ただ、大学を卒業して勤め始めた会社で、女性にしつこくしている男性やセクハラをしてくる上司の左手の糸をすべて切ったことがあります。
その男性は仕事中にも関わらず、女性を追いかけ回していたりしてとても怖かったのです。
上司のセクハラは、胸が大きいねとかトイレの前で待ち伏せされて長かったけど便秘?とか言われるのでイヤでした。
私が糸を切った事で、彼らの人生をどう変えるのかわかりませんが、しつこい男性は地方に行くことになり、上司は通勤電車の中での痴漢がばれて捕まり、離婚になって会社を辞めました。
今は穏やかになった父と私はまだ二人で暮らしています。