26_05_作戦名、闇夜の兎狩り(ナイト・ハント)
<Side:帝国軍野営地>
静かな気配の夜だった。
ゆるやかな風が雲を流し、月の晴れ間と雲間が交互に移ろう、明暗が変転していく夜だった。
何度目かの雲間が晴れて、月明かりが大地を煌々と照らし出した頃、ラクドレリス帝国軍の野営地のひとつ、大隊指揮司令本部の天幕の中に詰めていた大隊指揮官は、不意に外の様子を気にかけ始めた。
「妙な気配だ」
「宵瘴の驟雨でありますか? 指揮官殿」
俗なことを尋ねた若い部下に、熟練の指揮官は、不快感を露わにした。
「あんな御伽噺は信じておらん。勘が働くのだ、こういう夜はな」
彼は、軍服の胸ポケットから、琥珀色の喫煙具を取り出し、火を付けた。
「仮に獲物が、ヴィリンテルという穴蔵に隠れていたとして、そろそろ痺れを切らすとは思わんか?」
「例の情報ですか? 諜報部が緊急で伝達してきたとかいう……」
「それもあるが、一流軍人の経験則だ。神の加護などより、遥かに役に立つ」
口に咥えた喫煙具から、白い煙が立ち上る。
真実、彼は神への信仰が薄く、聖教の教えよりも、合理的な思考を優先させる軍人だった。
「しかし、本当でしょうか。今日明日のうちにも動く可能性があるなどと……」
「真偽のほどはわからんが、間者をヴィリンテルに潜入させた手腕は、素直に評価すべきであろう」
「せめて、もっと早くに情報を届けてほしいものですね。明日はアーノルド皇子が視察に来られるというのに」
「その間隙をついてのアクション、という見方はできるやもしれんな。応対に追われた我らが指揮を疎かに……などと、浅はかな知恵を絞ったとするなら、筋は通る」
白煙を吐き出しながら、大隊指揮官は頭上の月を流し見る。
「それに、我々も人のことをとやかく言えん。成果が上がっていないという意味においてはな」
部下は言葉を謹んだ。
「他の情報も教えておこう。南部から、若手の部隊が増援に来ることが決まったそうだ。皇狼部隊という名がついたらしい」
「皇狼部隊……? 聞いたことがありませんが……」
にわかに首を傾げながら、部下は自分の記憶を辿った。
「確か、新たな増員は、北のバローセ川の橋に検問員として配置したのでは?」
「そちらとは別枠だ。働きを期待された部隊なのだろう。我々と違ってな」
ふっ、と自嘲気味に笑った大隊指揮官。
部下は、何か裏側があることを察した。
「指揮官殿。若手、というのは?」
「従軍予備学校の制度改正のことは、貴様も聞いていよう。そこで育てたという特別部隊について」
「ああ、アレですか。妾腹皇女の子飼い兵団――」
瞬間、部下の男の鼻先に、琥珀色の喫煙具が突きつけられた。
「滅多なことを口にするな。特に、戦地ではな」
若い兵士の養育機関、帝国従軍予備学校。
入学者は、戦時に徴兵される一般市民とは違い、いわゆる職業軍人としての雇用希望者だ。
従来の予備学校は、粗暴な言動が目立ちがちな職業軍人に入隊前から教育を施すことで、規律遵守と命令服従の精神を叩き込むことを主たる目的とした教育を施していた。
が、少し前に帝国軍部は制度を変えて、教育課程の大幅な見直しを敢行した。
通常の兵士の育成とは一線を画す、過酷にして峻烈な訓練が、入学者には課されるようになったのだ。
「内実はどうあれ、訓練課程の改訂はアメリア皇女ではなくアーノルド皇子の主導だ。無論、例の特選部隊の編成に関してもな」
課程改定後の卒業生、その第1期生こそが、この度、彼らの作戦に投入されることになった特選部隊なのである。
「我が軍のトップである皇子を、上官の前で批判するような不敬があれば、戦線の最前列に送られても文句は言えんぞ?」
若い部下は、顔を青ざめ竦みあがった。
上官からの命令は、兵士にとって絶対の鎖。
どんなに理不尽な配置転換であろうとも、拒否をしたならば敵前逃亡、銃殺刑が待っている。
だから、上官がどの皇族を支持しているかを見誤れば、待っているのは二者択一の死の命令。
ましてや、ここは任務地、つまりは戦場。
武器は敵兵のみならず、背後の味方も持っている。
アーノルド皇子を強く信奉する者の耳に入れば、その時は……
「安心したまえ。私は戦地で戦力を無為に削ぎ落とすことはしない主義だ。たとえ、後の内部政治の障害となりうる者であろうとな」
命拾いしたのか、それとも、ただ死期が伸びただけなのか。
上官の硬い声からは、なんとも判別できなかった。
「失言を消し去りたくば、己の責務を全うせよ! 後方支援だから目に見える成果が出せんなどとは断じて言わさん! 存分に役立ち、自らが有益な軍人であることを証明するのだ!」
「はっ! 粉骨砕身で任務に当たります!」
部下の男が全力で敬礼した、その時だった。
「報告! 林の地面に轍を発見いたしました! 昨日までは……いえ、今日の昼にはなかったものです!」
待ちに待っていたこの報に、大隊指揮官は血湧き肉躍らせた。
「案内せよ! 私自ら現地へ向かう! 馬を用意せい!」
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「こちらです、指揮官殿」
現場についた指揮官は、これが獲物の残した痕跡であることを確信した。
林の土が、車輪によって踏まれている。
その幾重もの踏まれ方から、馬車が15台以上はいると見積もれた。
――だが。
「奇妙だな」
確かに車輪の痕跡だが、しかし、馬車のものとはどうも違う。
既存のどんな車輪よりも大きく、何より馬の蹄の跡もない。
おまけに、この轍の跡はよく見ると、あまりにぐねぐねとうねっている。
ふたつの轍が平行ならば、それで1台の馬車だと見做せよう。
だが、ここの跡にはそれがない。
まるで、何匹もの大蛇が先を争い進み合ったかのようではないか。
「この辺りなど、木立のギリギリを通っている。だというのに、木に損傷が見当たらぬ……」
幹には傷が付いておらず、枝の一本も折れていない。
これはあまりに不自然だ。
「密集する木々を小回りを効かせ回避しながら、かつ高速で走り抜けた……としか思えんな」
車輪のひとつひとつが独立可動しているのか?
それならば説明がつかないこともない。
が、そんな高度な操舵装置を使う馬車など、聞いたことがない。
そも、馬が曳いている形跡がないのはどういうことだ?
標的どもはこの暗い森で、どうやって走行ルートを見極めている?
見極めたとして、そこを正確かつ高速に蛇行操縦ができる集団とは、何者だ?
「万事が不可解……だが」
これを可能にする技術がある、そう考えるより他にない。
でなければ、これは自分の考えの及ばない、人知を越えた現象だということになってしまう。
「神の奇跡を相手取る……か。ふん、忌々しくも、面白い」
大隊指揮官は伝令を呼び寄せ、あらかじめ決めていた符牒のひとつを彼に授けた。
「至急全軍に通達せよ! 『野兎は神の息吹に愛された』! これより本作戦は、〝闇夜の兎狩り〟に移行する!」
暗い林の静寂を、笛の音が貫いた。
やけに甲高い音を発するその笛は、訓練を受けた者ならば、数キロ先でも聞き分け可能な軍事用。
騎馬兵団を中心に、探索範囲をより広範に、樹海の奥まで拡げていく。
「早馬隊は、誰が残っている?」
「はっ。ランジット隊が仮眠待機中です」
「全員を叩き起こせ。早駆けして森を迂回し、ヴァーチ・ステップを哨戒中の部隊にも合図を送るのだ」
笛の音が、次から次に連鎖する。
林へ、森へ、草原へ。
あたかも不可視の血液が、巨大な身体を巡るように。
膨大な数の軍勢が、今、一体の魔物となって動き出す。




