25_06_6日目⑥/踏み出す一歩は誰が道に
<6日目、夕方>
手応え皆無の教会巡礼がすべて終わり、俺たちはリーンベル教会に戻ってきた。
「アイシャさん。アイアトン司教は?」
「お部屋にいらっしゃいますわ」
*
部屋のドアをノックをすると、「入っとくれ」と返事があった。
司教は、暮れなずむ街の教会群を眺望できる窓辺の椅子に掛けていた。
夕焼けが、彼の横顔を赤く染め、表情が見えにくい。
ただ、見えるものもあった。
まだ陽も落ちきる前だというのに、彼の前にあるテーブルには酒瓶が置かれ、隣には小さなグラスが琥珀色の液体で満ちていた。
「今日は、紅茶じゃないんですね」
「そういう気分の時もあるんじゃ」
そう言う割に、アイアトン司教はグラスに手を伸ばそうとしない。
窓から注ぐ落陽の光が、グラスに満ちるお酒を透かして、机に淡い揺らめきを描いていた。
「お前さん、いける口じゃろう? テレーゼから聞いとるぞ。いい酒を持っておったとな」
「知人からの戴き物ですよ。ローテアド王国産の、かなり上等なお酒だったみたいです」
「ほう、北のローテアドの酒の味を知っとるか。ならば、飲み比べてもらおうかのう」
彼はおもむろに立ち上がると、壁の棚から、卓上のものとは別の酒瓶を取り出した。
「儂の故郷、ゾグバルグ連邦はテラロ地区で蒸溜された酒じゃ。なかなかの上物じゃぞ」
テーブルに新しいグラスが置かれ、透明なお酒がなみなみと注がれる。
「儂のいた教区の周辺は、テラロ地区の中でもあまり裕福ではない地域でな。皆、金がなく、特に貧民街などは、浮浪者と病人のはきだまりになっとった」」
彼は再び椅子に座った。
俺もテーブルの側へ歩み寄り、出されたグラスを手に取った。
本題には、まだ入れない。
入っちゃいけない雰囲気が、赤く染まった彼の顔から漂っていた。
彼も話を聞いてほしいのだ。
「そんな街を変えようとしたのが、アイシャと、それにパトリックじゃった」
「ジーラン枢機卿も?」
「儂とパトリックは、テラロ地区の教会で育った。幼子の頃からの腐れ縁じゃよ。後年になってアイシャも、テラロの教会孤児院に預けられるんじゃが……ふむ、この辺りは前にも話したんじゃったかのう」
頷いてから、グラスに静かに口をつけた。
上物と言うだけあって、おいしいお酒だ。
「うまい酒じゃろう。じゃがな、儂が神父になった当時は、こんないい酒は存在せなんだのじゃ」
彼は、酒瓶を手にとると、まじまじと見つめてから、かつての話を語りだした。
*
「当時、儂の教区の貧民街では、粗悪な蒸留酒が流通しておってのう。悪酔いしやすい安酒で、味も激マズ。だのに、住人たちは、そんなのを毎日ガバガバと飲んでおった。おかげで治安は最悪じゃよ。街路には酔いどればかりがたむろして、喧嘩はしょっちゅう、人死にさえもが日常茶飯事。なかには、生まれたばっかしの赤子をほっぽり出して酒に溺れる母親までもがいたくらいじゃ」
酒を手に入れるためなら、犯罪に手を染める者も少なくなかったと、司教は悲しげな顔で回想する。
その状況を一変させたのが、アイシャさんとジーラン枢機卿だったという。
「アイシャは前に話した通り、厄介事に首を突っ込みたがるお転婆な子でのう」
「街の問題児だったと、おっしゃっていましたね」
「うむ、あの子の行動理念がわからん大人の目には、そう映ったことじゃろう」
そして、後始末ばかりを引き受けてきた儂の目にものう、と司教は笑う。
「粗悪酒のときも、アイシャはとんでもない無茶をやらかしおった。きっかけはよくある不幸だったんじゃが、その元凶が酒であったと知るやいなや、あの子は酒屋やら酒造場やらに潜入し、何をどうこねくり回したか、一時期の間、街から酒という酒がなくなる事態を引き起こしおった。無論、誰の賛同も得ることなくじゃ。貧民街は暴動寸前、店や業者もブチギレ寸前。当然儂が後始末に駆り出されたんじゃが、あの時は、下げる頭があと2つ3つほしいと、本気で願ったわい」
アイシャさん、一体、何をしたんだろう……
「事態の収拾のために、最終的に動いたのがパトリックじゃ。前にも言ったが、あの頃のあやつは、各教区を束ねる司教の立場。貧民街の状況にも、酷く頭を悩ませておった。特に、粗悪酒絡みは最悪でな。手軽に酔える安酒を買うため窃盗や強盗が頻発しとって、親が我が子を殺してでも金を得ようとする事件まで起きておったんじゃ」
その状況を変えうる楔が、ひとりの少女によって打ち込まれ、これをジーラン枢機卿……当時のジーラン司教がうまく活用した。
彼は、飲酒を禁止するのではなく、反対に、酒造産業への大掛かりな公共投資を画策した。
聖教会の伝手を使い、多くの貴族や国の役人、大手の商会にも働きかけ、国の公金と教会献金を原資にして、半国営の大規模酒造場を建造したのだ。
粗悪な安酒ではなく、おいしくてアルコール度数の低い高級酒を大量に生産できる体制を整え、テラロ地区の地場産業として定着させるに至ったという。
「この新酒造場で、貧民街の連中をいっぺんに雇用したんじゃ。初めは問題ばかり起こしよったが、給料と一緒に作った酒も支給されるとわかるや、あやつらはそこそこ真面目に働くようになった。酔いが回るのに時間がかかるなどと文句を言い出すバカタレもおったが、酔える酒よりうまい酒のほうがいいと、身体に覚え込ませたんじゃ」
毒をもって毒を制す。
ジーラン枢機卿がやりそうな手だ。
「よく実現できましたね。教会のお金を特定の産業に回すだなんて、反対意見も多く出そうですが」
「そこはほれ、『酒は神からの賜り物』じゃからのう」
「ああ、『同時に捧げ物』でしたっけ?」
確か、テレーゼさんも言ってた言葉だ。
とすると、教会関係者には、お酒に理解ある人間が多いのだろう。
「それに、地元の酒がうまい分には、誰も文句を言わんわい。まあ、酒の味を知らんかったアイシャは、納得しかねておったがな」
酒のために悪事に手を染め不幸を積み重ねた人たちが、酒のためにまじめに働くようになったなどという事実が、幼いアイシャさんには簡単に信じられなかったそうだ。
現に、規模や件数こそ減ったものの、その街での酒に絡んだトラブルは、今もって根絶には至っていないそう。
「潔癖とは少し違うんじゃが、あの子はそういう〝人間の人間たる理不尽〟を、なあなあに許容できん性分でなあ」
「そういえば、アイシャさんも自分のことをこう言っていました。『子どものころから今に至るまで、人の顔色をうかがうのが、大の苦手』だったと」
アイアトン司教はグラスを手に取り、中のお酒をくゆらせた。
「利口な子じゃからなあ。人の感情におもねることができんでも、それでも人に寄り添うために、自分のほうを変容させる。良くも悪くも、アイシャの美点であろうがなあ」
自分のほうを変容、か……
「じゃあ、あの口調の変化……いえ、性格の使い分けも」
「使い分け……のう。それもアイシャが言ったんじゃろう?」
肯定すると、司教は意味ありげに笑い、お酒を少し口に含んだ。
「あの子は昔から、自分自身を便利な道具じゃとみなしておる節がある。ゆえに、お前さんには共感を覚える部分があったはずじゃ」
「俺に、ですか?」
「お前さんも、目的達成のためになら、自身を駒として扱えるタイプじゃろ? そのくせに、信仰心とも正義感とも微妙に異なる、自分の芯を強く持っておる」
「……色んな人に、言われますね」
ここ最近は、特に言われる。
「アイシャも一緒じゃ。自分の性格を……いや、他者とのコミュニケーション方法をしょっちゅう使い分けとるくせに、一本通った芯だけは変えず、曲げず、貫き通す。砂の一粒さえも取りこぼすことがあってはならんと、己の身を粉と砕いてでも」
絶対的な彼女の理念。
弱き者たちに救済を。
「では、アイシャさんにとって、メレアリア聖教は」
「自身と同じく、目的達成のための道具、なんじゃろう。あの子が見ておる神様というのは、人の心を救済するための便利な騙し絵で、だからこそ、アイシャは誰より神を信仰しとるんじゃ」
……マルカに感謝すべきだろう。
俺は以前、アイシャさんのことを、神様を疑う人間だと言い放とうとした。
疑う側の人間であることと、神様を縋りつきたいほどに欲することは、決して矛盾しないというのに。
救いは万人には届かない。
人は平等ではありえない。
だからこそ、自分が全霊で動かなければ……でも。
それでも助けられない誰かのことを、どうか、助けてあげてほしい――
マルカが力づくで止めてくれていなければ、俺は彼女のすべてを踏みにじる言葉を、本人に言い切るところだった。
「シスターとしては、いささか歪んでおるがのう」
アイアトン司教は苦笑した。
口は笑って、目は悲しげに。
その、沈痛なまでの悲哀の顔で理解した。
だからアイアトン司教は、自分を金の亡者であるように、聖教を金儲けの道具だと割り切っているように見せていたのだ。
アイシャさんを肯定するため。
アイシャさんの味方であるため。
そして、アイシャさんの居場所であるために。
「とはいえ、歪んでおるのはどちらなのか、儂にはよくわからんようになってしもうた」
彼はグラスを、再びテーブルに置き戻した。
コトンと音がし、中身が小さく波を打つ。
ここからが、彼の最も話したい……聞いて欲しい本題なのだ。
「今のパトリックも、メレアリア聖教を……神を、道具として認識しておるようじゃった……いや、あやつも昔から、危うさが垣間見える男ではあったんじゃ」
以前、司教は言っていた。
まだ神父だった頃、若かりし日のおふたりは、メレアリア聖教の未来について、ひいては人々の未来について、よく討議したと。
話しているうち熱を帯びて、ケンカのようにさえなっていた、と。
「ケンカと言っても、致命的な価値観の隔たりなどではなかったんじゃ。目指すべき方角が同じなのは、長い付き合いで知っておったし、なにより、これは人々の幸福にどう至るべきかの過程の違いだと、互いにわかっておったからのう」
ただ、その討議は、月日を経るに従い様相が変わっていったと、アイアトン司教は回想した。
***
『世界とは実に面妖だ。1足す1が2になるくらいで収まっておればよいものを、いくつもいくつも足し合わさって、10が100に、100が1000に、万に、億にと、永々無窮に膨らんでいく。それも、悪い方向ばかりにだ』
『聖職者らしからぬ発言だのう、パトリック。お前さん、最近、妙に毒気が溜まっておりゃせんか?』
『愚痴を零したくもなる。今の教区に赴任してから、私の耳には、住民同士の醜悪な揉め事しか入ってこなくなった。懺悔と言う名の数々の誹謗中傷、聞くに耐えん』
『むう、本心を打ち明けてもらえることこそ神父の面目躍如だろうに。まあ、気持ちはよくわかるがのう』
『世の中は、平穏を望むにはあまりに複雑に出来過ぎている。国籍、民族、主義、思想……単色に染まっているはずの一本の糸が、幾重にも折り合い縫い合わさり、いつしか怪奇複雑な模様の布地に変わっている。世界とは、怪奇なる織り機に他ならん』
『人が糸で、世界が織り機か。まあ、言い得て妙かもしれんなあ』
『問題なのは、布地の模様だ』
『布地なあ……この場合は、社会全体を指しとると捉えてよいのか? だったら模様は、それはそれは複雑にならざるを得んだろう』
『あまりに複雑であるがゆえ、布地は各所で撓み、綻び、出来映えに偏りが生じてしまう。何度修繕を試みようとも、形がないゆえ触れようがなく、直すことも、裁ち切ることさえできはしない』
『いやいや。おるだろう。これに触れられるお方が、ただお一人だけ』
***
「それは……神様のことですか?」
「そうじゃ。違いがあるからまとまらぬのなら、同一の価値観を与えてやればよい……あの時の儂は、そういうふうにパトリックに説いてやった。すなわちは、神への信仰。宗教組織の本懐は、人々に倫理と道徳を根付かせ、社会に規律を生み出すことじゃ。あ奴が聖職者としての道理を知らんはずはなかったが、当時の儂の本心を伝えることに意味を持たせたつもりじゃった。じゃが、あ奴はこの道理を、幾分か飛躍させる算段を立てておったようじゃ」
***
『ダニエル。最近の私は、こんなことを考えるようになった』
神の不在は証明されては決してならない。
神なき世界に繁栄はない。
人は繁栄を続けなければならない。
故に、神を創りあげた。
人が人たる以上、また、人以外たりえない以上、神は神たる標として万世に必要とされ続ける。
『……他の神父に聞かれたなら、異端審問ものだのう』
『我々が神の代弁者なのではない。神を我々の代弁者として創り上げるのだ。現実が単純化されない以上、人々が目指すべき場所こそを単一とすればよい』
***
「人々を救済するためには、神を指標とするのではなく、指標を偶像と化するしかないと、パトリックは本気で考えおった。儂に言わせれば破綻が目に見えておったのじゃが、あ奴の才覚が、人脈を構築する能力が、そうはさせなんだ」
無論、紆余曲折はあったろうがのう、とアイアトン司教は天を仰いで、瞳を閉じた。
「その後、パトリックは優れた手腕と巧妙な働きかけによって、司教へと出世した。上の者からの覚えも良く、多くの赴任地で実績を残し、聖教会の運営にすらも口を出せるようになった。つまりは、各国の情勢にさえ影響を及ぼすほどの、高度な政治的宗教的判断にじゃ」
こうして彼は、聖教会での不動の地位を手に入れた。
すべては、人の心の革新のため。
「長い時を経て、儂も司教に昇進したが、その頃には、パトリックはとうに枢機卿となり、本国で辣腕を振るっておった。聞こえてくるあ奴の噂は、遠い世界のことのようで、もはや縁も遠くなったと、他人事だとして割り切っておった」
そんな矢先、司教にも転機が訪れた。
***
『わ、儂が本国の教会の管理者に抜擢されたじゃと!?』
寝耳に水の話じゃったが、思い当たる原因が、ひとつだけあった。
『アイシャ! お前さん、またやりおったな!?』
『いえいえー、大したことはしていませんよー。ダニエルさんの人徳の賜物なんじゃないですかー?』
『しれっと白状しおってからに!」
断ろうとも考えたが、これも、神からの思し召し。
なれば、儂もすぐ側で祈ってやろうと決めたのじゃ。
高潔なる我が友の、救われぬ魂のために。
***
「さて、儂は何をしたらよいのかのう?」
「え?」
唐突に、アイアトン司教は椅子から立ち上がった。
驚く俺に苦笑をもらして、「まったくのう」と首を竦める。
「どうせ、なるようにしかならんのがこの世の理じゃ。が、それでもどうにか足掻きたいなら、使えるものは全部使って進む以外に手立ては無かろう。ま、アイシャは気乗りしとらんじゃろうが」
こんな状況で、自分を駒として見だしたアイアトン司教。
アイシャさんが乗り気じゃないことまで、しっかり言い当ててしまった。
「よろしいの、ですか?」
「長いこと動いておらなんだから、足腰が固まっておるかもしれんがのう」
司教は、腰をポンポンと後ろ手で叩いて、「凝っとるのう」とおどけてみせる。
しかし、その態度とは裏腹に、瞳には強い光が宿っていた。
「あ奴の信念が世に大道を通わすか、それとも、儂の信ずる者たちが正道を拓き往くか。久方ぶりの討議じゃな」




