24_07_5日目⑥/それは、奇蹟と呼ぶに値する出逢い
卓上の燭台が灯されて、部屋の中が、仄かな橙色に染められる。
小さく揺らめく橙色の火は、テーブルを挟んで座る俺と教皇様の顔をも照らし、ふたりの顔に、暖かな色味と、濃い陰影とを共存させた。
「衛兵たちなら心配はいらぬ。日頃、私はふと、夜半にこうして灯りをつけては、神に祈ったり、読書したりと、よくよく彼らを困らせてきた。昔は室内にまで様子を見に来ておったが、今では誰も気にしなくなった」
蝋燭に火をつけ終えた教皇様は、こう言って俺を安心させつつも、
「まあ、叫び声が聞こえでもすれば、その限りではあるまいがな」
脅かすようなことを、しかし、微笑みながら口にする。
ただの冗談なのが瞭然なくらい、好々爺とした朗らかな笑顔。
公務の時の穏やかな威厳からは大きく掛け離れた、至って普通のご老人にしか見えなかった。
「……じいちゃんとは、どういったご関係なのですか?」
「そも、アロウナイトという新たな姓は、私がバートに授けたものだ」
教皇様は、爺ちゃんのことを〝バート〟と愛称で呼んだ。
蝋燭の火のように暖かな声色が、しわしわの唇から、歌のように流れてくる。
「おそらく君は、聞かされていまい。ヴァーラルカ島での出来事を」
「ヴァーラルカ島……」
地名だけなら知っている。
先の大戦中、帝国兵だったじいちゃんが派遣されていた、激戦区だった島の名前。
「私とバートは、あの戦場の島で出遭った。当時の私は神兵で、バートは帝国軍の部隊長だった」
懐かしむような、慈しむような語り口。
まるで、川底から綺麗な小石を選んで拾い上げるかのように、教皇様は遠い日の記憶を澄んだ目で見つめている。
「バートは優秀な部隊指揮官だった。いくつもの戦場に局地的な勝利をもたらし、不敗隊長と呼ばれていた。そしてバートは、地獄のような戦地において、英雄と賞賛するべき人道的な行いにより、多くの人命を救いきった」
英雄?
俺のじいちゃんが?
「だが、皮肉にもその英雄的行為が引き金となって、バートは祖国の軍を追われることとなった。軍の命令に背いた彼は、華々しい戦果の記録も抹消され、後世に名を伝えてもらえぬ『語られない英雄』として世を去った」
知らない。
俺は、ひとことだって聞いてない。
あまりに唐突すぎる話が、頭をぐちゃぐちゃに掻き乱していく。
「……じいちゃんは、戦地でのことを、詳しくは」
震える喉から、どうにか言葉を紡ぎ出した。
教皇様は、そんな俺の様子を見ながら、橙色の明かりの中で片頬笑んだ。
「そうだろうとも。戦後数十年に及んだ私との手紙も、君に見られぬよう、全て燃やしていたに違いない」
「手紙、ですか?」
「ああ、伝書鳩でな」
教皇様はベッドから立ち上がると、静かに窓辺へと歩いていき、カーテンを開いて外を眺めた。
窓のすぐそばには、数日前にベランダから飛ばしていた伝書鳩の、小さな鳩舎があるらしかった。
「この国の伝書鳩の養成技術と暗号技術は、私が戦地から持ち帰ったものなのだよ。人を殺すための軍事技術でも、扱う者次第で誰も死なさず、幸せをもたらすことができる……そんなことを、若き日の私は証明したかった。青臭い夢だろう? そこにバートを巻き込むことで、彼の傷心が少しでも和らいでくれないかと、そういう企図も密かにあった」
小さく首を振った教皇様は、カーテンを元に戻すと窓に背を向け、再び俺と相対した。
「バートは、己が過去を誰にも語らぬと決めていた。故に私も、これまで誰にも彼の過去を話したことはない。だが、バートは空に旅立った。そして、その戦友の忘れ形見が現れた。私は悩んでいる。バートの生き抜いた証を、あの島で起こったことを、君に話してしまうべきか」
「お聞き、したくは、あるのですが――」
奥歯をぐっと噛みしめる。
本当は、何を差し置いてでも知りたかった。
だけど、それは今じゃない。
「――俺には今、為さねばならないことがあります」
喉の震えが収まった。
思考もクリアになってくる。
俺の言葉に、一挙一動に、多くの人命がかかっている。
教皇様との対話の時間は、このためだけに使われなくてはならないのだ。
「強い目だ。弱者を守るべく立ち上がる者の瞳の輝き。バートと瓜二つだよ」
爺ちゃんとの間に血の繋がりがないことを、きっとこの人は知っている。
だから、今のは本心からの賛辞なのだと受け取ることができた。
「少しだけ、その貴重な時間を頂戴させてくれないかね? バートの秘したる過去ではなく、それ以外の幾つかについて、君に話しておこうと思う」
教皇様の青い目が、昔を探るじいちゃんの目と重なった。
*
「私とバートは戦地で出会った。バジェシラ海のヴァーラルカ島……これは聞いていようか?」
「南の大陸からオムスケイル国が攻め入ってきた時、祖父はその島にいたと」
俺たちの住む北のセラクネイス大陸と、その南方のバジェーダー大陸。
この2大陸を隔てるバジェシラ海の真ん中には、ヴァーラルカ島と呼ばれる小さな島がある。
「当時、戦況は混沌としていた。オムスケイル国は、その圧倒的な兵力数をもって、このセラクネイス大陸の南岸全体に戦火をもたらした。国を問わず、南の海岸線上に港を構えた都市に対して見境なく船で攻め込んだ。帝国にも、連邦にもだ」
オムスケイル国が展開した、膨大な軍事力任せの強引な多面作戦。
その作戦において、侵攻拠点のひとつとなったのが、ヴァーラルカ島だった。
島は、進軍してきたオムスケイル軍に要塞を築かれて、兵站所として本国から武器や食料が輸送され、大量に備蓄されていた。
何隻、何十隻もの敵軍艦がこの島で補給を受けて、セラクネイス大陸の各港湾都市へと攻撃を仕掛けては占領を繰り返し、戦線をどんどん拡大していったのである。
「無差別的な侵攻を受けたセラクネイス大陸の諸国は、軍事同盟を取り結び、協力して外敵の排除に乗り出した。多くの国々を取り纏めるのに、各国に根を張るメレアリア聖教会が仲介に走ったのは、言うまでもなかった」
この同盟が、反転攻勢の契機となった。
多くの港を取り戻したセラクネイス大陸の連合軍は、ヴァーラルカ島の敵補給基地を最重要攻撃目標として設定。
制圧部隊を大量に送り込み、多くの兵士の血が流された。
「島は、戦争のあらゆる要素で満ちていた。鉄と硝煙、血と腐乱した肉の塊、そして、島の空気を満たし尽くす、怒りと恐怖が混淆となった兵士たちの断末魔」
若かりし日のじいちゃんは、帝国軍の部隊長として、この島の攻略戦に参加していた。
教皇様も、聖教会の神兵として――それも、聖骸部隊の一員として、ヴァーラルカ島に上陸していたのだ。
「あの戦争の最中、私はバートから、一生をかけてでも返すべき大恩を受けていた。戦後、軍人を辞めたバートは、戦いとは無縁の平穏な暮らしを渇望していた」
だからだろうか。
じいちゃんと俺は、人里から少し離れた鄙びた土地に、人目を避けるように暮らしていた。
暮らし向きは決して悪くはなかったけど、とにかく不便な場所だった。
買い物とか、役所での手続きとかには、馬車で数時間もかけて町まで行かないといけなくて、人並みの生活を送っていたとは、ちょっと言いづらかった。
……そんなことを伝えたところ、教皇様は突然楽しげな笑い声を零した。
「なに、君にはすまないことをしたと思ってな」
くくく、と笑いを噛み殺して、教皇様は、こんな事実を俺に明かした。
「その鄙びた土地と住居は、私がバートに与えたものなのだよ」
ギクリとする俺。
同時に驚いた。
あの湖畔の家が人から貰ったものだったなんて――それも、教皇様からの贈り物だったなんて――じいちゃんは一言だって言ってなかった。
「戦地でのせめてもの報いにと、私は彼に安住の地を用意した。帝国の領地の中で、バートが安心して隠遁生活を送れる土地と住まいを見繕った……いや、見繕ってもらったが正しい。聖教会の伝手をいくつも頼り、色々な人間に多大な借りを作ったが、そのことを後悔したことは、今日まで一度としてありはしない」
じいちゃんの生活が落ち着いてから、ふたりは、伝書鳩で手紙を送りあうようになったという。
「手紙のやり取りは長らく続いた。バートの暮らしに大きな変化は起こらなかったが、日を追うごとに、年を追うごとに、彼の心が静謐な境地に落ち着いていくのが、その筆致から伝わってきた」
言い換えれば、終戦直後のじいちゃんは、心に大きな傷を負っていた。
「かたや、戦地から戻った私は、神兵から神父へと転身した。各国の教会に志願して、荒んだ地域で神の教えと戦争の悲惨さを説いて回った。戦地で目の当たりにした惨劇と悲痛を世界から消し去ろう……などと、青い夢を見てな。思うに、私自身も、あの戦争にずっと囚われ続けていたのだ。しかし、このことは逆に良かったのかもしれない。私はあらゆる紛争地域に派遣され、人々への貢献に病的なまでに尽力した。聖教会での地位が自然と上がり、それを報じる度にバートは、返信で我が事のように喜んでくれたよ」
神父から司教へ、司教から枢機卿へと職位が上がり、そして、そんな長い歳月を越えてもなお、2人のやりとりは絶えることなく続いたという。
「私が教皇になると決まった年に、バートの暮らしにも変化があった。孤児の赤子を育てる、そう手紙にあったのだ。あれには驚いた。私たちはもう年老いていた。父親どころか、祖父以上に歳が離れている」
その赤子というのが、他でもない、俺のことだった。
「私は助力を申し出た。教皇の地位についた今ならば、帝国の聖教会支部に支援を強く要請できる。あるいは、バートとその赤子をヴィリンテルに住まわせる選択さえも可能だった。しかし、バートはそのどちらをも断ったよ。『誰にも頼らず、自分の手で命を育みたいのだ』と言ってな」
「じいちゃんが、そんなことを……」
「私はそれ以上、何もバートに言わなかった。幾十年もの時を経て、バートはようやく、私が与えた姓に込められた意味を、真に継いだのだと悟ったからだ」
「真の意味、ですか?」
教皇様は一度目を閉じ、少々の沈黙をおいてから、ゆっくり天井を仰ぎ見た。
「『アロウナイト』……愛する祖国に見放されども、その眼差しは矢を射んとする騎士が如く、高く、鋭く、誇らしくあれ……ヴァーラルカ島での彼には確かにあった強き信念を、傷ついてしまった気高き大志を、バートはようやく取り戻したのだ」
君のおかげだ、と、教皇様は俺に向かって、ゆっくりと頭を下げた。
万感の想いが籠もった嗄れた声が、優しく湿り気を帯びていた。
そして、あたふたと慌てふためく俺の様子を眺めてから、楽しげな笑いを今一度零した。
「これで、話はお終いだよ。老人の退屈な昔話だったかもしれないが、私が君に助力を申し出る根拠として、信じてもらえるだろうかな?」
通信機の向こう側から、息を呑む気配。
誰も彼もが固唾をのんで、俺と教皇様のやりとりを聞いていた。
望外の幸運が、あちらから舞い込んできたのだから。
「ひとつ、お尋ねしてもよろしいですか?」
けれど、俺はある問いを差し挟んだ。
たとえ交渉にヒビが入ろうとも、俺にはあとひとつだけ、どうしても知らねばならないことがある。
「どうして、俺がバートランドの育てた孤児だとわかったのですか? 手紙のやりとりだけであったなら、俺の顔を見たこともなかったはずです」
教皇の地位に就いたクリストフ=デュレンダールが、そう易々とじいちゃんのもとを訪ねられたとは思えない。
俺の顔を見たことがあったはずがないのだ。
俺の容貌について、じいちゃんからの手紙に記されていたのか。
それとも教皇様は、リーンベル教会内での俺たちの会話を、密かに――
「言ったろう、バートとの出逢いは神のお導きだった。なれば、その孫との邂逅も、運命に等しい必定であるはずだろう?」
旧い戦友の孫が、それも年老いてから育てた孫が、過去の事情を何ひとつ知らずに、自分の前に現れる。
しかも、太古のオーバーテクノロジーを駆使しなければ侵入できないセキュリティを破ってだ。
そんな、本来絶対にありえないはずの出来事を、奇蹟にも等しいはずの巡り合わせを、教皇様は必定であると断言した。
これ以上、確かめることは何もなかった。
「さて、今度は私が、君の話を聞く番だな」
優しげなその声には、哀願するような響きもあった。
きっと、この邂逅は俺だけじゃなく、教皇様にとっても必要なことだったのだ。
「勇敢なるベイル=アロウナイトよ。君は私に、聖教会の最高権威者に、いったいどんな英雄的行為を望むのかね?」
湖のように深い黝い目が、俺の目をじっと見つめていた。
俺の知るじいちゃんにはなかった、静かで強い、揺るぎない瞳。
(でも、わかる)
やっぱりこれは、じいちゃんと同じ目だ。
若き日のじいちゃんと教皇様は、同じ何かを見つめながら、共に戦場を駆けていたはずなのだから。




