22_06_3日目④/招かざる客 上
<3日目、深夜>
作戦会議後の深夜。
部屋でうとうと眠っていると、肌に、わずかな空気の流れを感じた。
(……うぅん? 風……かな……?)
ドアがゆっくり、音もなく開いて、そしてまた、ゆっくりと閉じたようだ。
(……誰、だろ?)
寝ぼけた頭は上手く動かず、しかし、幸運なことに、こんなことを思い出す。
(あれ? ここのドアって、かなり軋む音がするはずじゃ――)
頭より先に体が動いた。
胴を勢いよく捻り、ベッドから転げ落ちる。
ほとんど無意識の行動は、俺の窮地を救っていた。
「痛っつ……」
ドスンと床に落ち、頭上では、ザクリと布を切り裂く音。
いや、裂いたんじゃない。
貫いたんだ。
ベッドには、深々と突き刺さったナイフと、その柄を握る黒い腕。
「くっ……誰だ!」
落ちた床から飛びのきながら、大声で叫ぶ。
ベッドの向こうで、真っ黒な装束の男が――それも、口布で顔まで隠した黒づくめの男が――鋭利なナイフを引き抜いた。
刀身までが黒かった。
(黒い法衣……なんて、聖教会にあったっけ?)
などと寝ぼけていられた時間は、すぐに終わる。
男はベッドを乗り越えて、俺に向かってナイフを振るった。
「うわっ!?」
刺突、刺突、とにかく、刺突。
黒い腕から放たれる刃が、漆黒の閃光となって俺を襲う。
「こ、のっ……!」
素早く迫る連撃を、後退しながら躱し、捌き、しかし、一歩ずつ壁際に追い詰められていく。
(……と、敵は思ってる!)
この至近距離、本当は、刃物を後退で躱すのは悪手。
ナイフの刃の進行方向、切っ先の未来位置へと移動してしまうことになり、高確率で斬られてしまう。
刀身が長ければ長いほど、下がれば刃に当たるリスクは増していく。
だから、すでに間合いに入られてしまったときに限っては、ナイフ相手は距離を詰めるのが実は正しい。
(後ろに逃げるド素人だと、弱い相手だと油断させて――)
ほどなく俺に隙が生まれた。
回避のために無理な旋回動作をし、上体がぐらりと右に傾いた。
これを狙って、黒いナイフが高速で迫り――
(かかった!)
体勢を崩したと見せかけ、後方に力の限り飛び退いた。
ヒュン、と鋭い風切音。
刃が空を突き、俺は背中を壁に強打。
が、その反動を殺さず前へ。
引き戻される刃先に向かって肉薄し、敵が体勢を戻し切る前に、ナイフを握る敵の右腕を両手でがっしり掴み取った。
(今だ!)
動きは止めない。
腕を取りつつ、更に踏み込み距離を潰す。
刃を避けて相手の右外側に回りながら、そのまま肘を極め――
「ぬあっ!」
「っ!?」
刹那、敵が渾身の力で体を捻った。
俺の動作を見切っていて、極める直前に腕を抜いたのだ。
(外された! でも!)
敵の姿勢も今ので崩れた。
この瞬間なら反撃は来ない。
体当たり気味に相手にぶつかり、強引に体を入れ替え壁際を脱出。
同時に、掌打で相手の顎に一撃……まではできずに、避けられた。
けど、ひとまずは間合いを遠ざけ、ナイフの届く範囲から離れることには成功する。
(距離は空いた……でもドアは遠い……遮蔽物はベッドくらい……)
素手対ナイフの格闘戦の基本原則。
まずは相手との距離を極力離し、障害物を利用する。
狭い室内だと、かなり厳しい……けど。
(案外と、体が覚えてるもんだ)
この知識、いや技能は、従軍予備学校時代の訓練の賜物だ。
長剣や短剣を使った格闘訓練。
その中に、自分が剣を抜けない状況の対処法も含まれていた。
無手状態での回避技能や反撃技法は、文字通り、身体に叩き込まれてきたのだ。
しかし――
(こいつ、明らかに手慣れてる)
敵は、ナイフの刃をチラチラ見せてこちらを威圧。
数センチほど踏み込んで、また後退してを繰り返し、じりじりと間合いを削ってくる。
位置取りも絶妙に上手い。
俺が出口まで走れる最短経路に、いつでも割り込める場所を選んでいる。
最初から逃げ道を断つのではなく、獲物が逃げ出す瞬間を狙っているのだ。
(回避はどうにか……でも反撃を浴びてくれない。なにより、ナイフ捌きも、身の運びにも、無駄らしい無駄がほとんどない)
ただ、違和感もあった。
俺が習った軍事格闘術とは、構えや動きの要所が違っているように見える。
(軍人の戦い方じゃない? 侵入の手際といい、気配の消し方といい、何者なんだ?)
わかることはひとつ。
初撃が失敗したのに退かないってことは、今ここで、獲物を必ず仕留めるつもりでいる。
(ちくしょう、こっちは身に寸鉄も帯びてないってのに……)
ナイフ相手に徒手空拳じゃ分が悪すぎる。
そうでなくても、ナイフ格闘は防御に徹すると死傷する確率が高くなる。
なのに、こちらの反撃は当たりそうにない。
(せめて、冷静さを欠いてくれれば……)
黒い男が先に仕掛けた。
床板を強く踏みつけて、ダン! と大きな音を出す。
その音に怯えた俺は、ドアへと向かって一目散……と見せかけて、頭から真横のベッドに飛び込んだ。
前回りで受け身を取りつつ、ベッドを乗り越え床に着地。
敵は一瞬つられたが、すぐさまターンし追いかけてきた。
その背後の敵を確認せず、俺はベッド脇のサイドテーブルに手を引っ掛け、思い切り後ろに向かって振り投げる。
が、男は難なく静止し、これを躱した。
しかし、止まったことで間合いが再び大きく開き、敵はひと呼吸置かざるを得なくなる。
(今だ!)
求めていたのは、敵の動きが停まる状況。
この機に俺にできることは――
「寝込みを襲う卑怯な真似とは、神の信徒が聞いて呆れるな!」
できること、口先による挑発。
……しょぼいとか言うなよ?
「それとも! お前の信じる神様は、卑劣を是とする暴虐の邪神か!?」
怒らせるための、冷静を欠かせるための俺の話術は、
「……」
敵に一切の効果を発揮しなかった。
(……あれ?)
落胆よりも、まず疑問。
(こいつ、神様を冒涜されたのに怒らない……?)
聖教の信徒じゃないのか?
いや、それは考えにくい。
けど、少なくともヴィリンテルの住人じゃない。
この国に住まう人間ならば、無反応なんてあり得ない。
(外部から雇った傭兵……いや、暗殺稼業の人間か……?)
だいたいの見当は固まった。
しかしそれは、現況を打破する糸口にならない。
「シッ!」
「うおっと!?」
再開される刺突、刺突。
肩を起点に、腕を鞭が如くにしならせて、高速で刃の先端をぶつけにきている。
どうにか線を外して避けるも、かなり厳しい。
(こいつ、急所を狙ってこない……?)
これは致命傷にはならない斬り方、体の何処かに小さな傷がつけばいいって刺し方だ。
この戦法が意味することは――
(くそっ、刀身に毒が塗布されてるな)
致死性か、あるいは麻痺性の毒薬か。
身をもって確かめてしまった瞬間が、俺の命運の尽きる時。
(おまけに、こいつの動き方……)
攻撃方法は全部刺突。点の攻撃だ。
線である斬撃よりも軌道が見えず、おまけに、モーションに入る前から肘と手首を不規則に小刻みに動かして、攻撃の初動を読ませない。
敵は不意打ち専門ではなく、正面戦闘にも馴れている。
(タイミングも、狙ってくる場所も教えない気か。だけど――)
躱せている。
そう、自分でもびっくりだけど、全ての刺突を避けられているのだ。
(こいつの攻撃、確かに起こりがわかりにくい。でも、ケヴィンさんたちのそれに比べたら、ずっと見えやすい)
街での模擬戦を、間近で熟練の特殊部隊の訓練を見てきたことが、俺の目を、こいつの動きに順応させてくれている。
だったら、あれをやるしかない。
(不安は、身体がついてきてくれるか……)
ここで暗殺者が刺突を止めて、間合いを離し静止した。
息をついた、のではない。
連撃では埒が明かないと、次の一撃で確実に仕留めるべく構えを変えたのだ。
(……上等だ)
暗殺者は、摺り足でわずかに左右に動き出す。
肩を揺らして、腕を揺らして、そして姿勢は前傾に。
やはり俺の先手を誘発して、一瞬で距離を詰める気だ。
(今はお飾り司令官で、あげく、偽貴族までやってるけど――)
対して俺は、腰を落として立ち位置を固定、懐を深くしたうえで、
(――俺だって、帝国の従軍予備学校で、厳しい訓練を積んでたんだ!)
両腕を頭の高さに上げて、構えを見せた。
(さあ、来い!)
暗殺者が俊敏に動いた。
重心を前に傾けて、ひと呼吸で俺に肉薄する。
敵は狙いを絞っていた。
鋭いナイフが閃光と化し、俺の身体に迫りくる。
(そう、腕で頭を守っていれば)
刺してくるのは、ガラ空きの腹部――
「ここだ!」
ガードは陽動、そして武器。
俺が狙うは相手の手首。
上げた両腕を手刀に変えて、交差させながら振り下ろす!
迫るナイフの、それを握る右手の付け根をめがけ、全速力で打ち降ろした。
バシィ!
快音と、そして手応え。しかしナイフは弾けない。
これしきで得物を取りこぼすほど、この暗殺者は未熟じゃない。
(けれど、俺の狙いはそれじゃない――)
手刀はナイフの速度を殺すため。
そして、敵の手首に絡めるため。
勢いを弱めた凶刃を、俺は右脚を引いて半身で躱し、同時に、手刀に使った両手を使う。
交差させた手で敵の手首を挟み込み、外向きに素早く捻り上げる。
「ぐっ!?」
暗殺者の腕が捻れ、ナイフもぐるりと外転した。
その刃の腹が、俺の上腕に当たった瞬間、
「今!」
力を加え、ナイフ本体を梃子に変える。
作用点は、暗殺者が握るグリップ部。
バチンと音がし、今度こそ手からナイフが弾け、床の上へと転がった。
「なにいっ!?」
暗殺者から驚きの声。
つまりは、隙。
動作が遅れた相手を尻目に、床のナイフを奪い取った。
(よしっ! 武装解除成功!)
すぐにナイフを構えながら、心の中で喝采を上げる。
上出来なくらいの上出来だ。
運も大きく味方してくれた。
(さっきの武装解除。暗殺者はあれを拘束術だと誤認したはず)
その前の、壁際を抜けた直後の腕捻り。
あれが功を奏していた。
俺が今回も関節を取りに来たのだと、そう思い込んでしまったのだ。
(腕を極める動作と見れば、瞬時に離脱に意識が向かう。あいつはそういう修練を積んだ人間だ)
だが拘束はなく、次の瞬間、手からナイフが弾けていた。
これは完全に意識の埒外、思考も一瞬停止する。
必然、ナイフの再確保も、ワンテンポ遅れてしまう。
完璧な流れだった。
「さあ、まだ続けるかね?」
余裕を持った貴族の演技で、相手に退散を促した。
が、暗殺者は動じない。
黒い装束の懐から、もう1本、同じ形のナイフを取り出した。
(ああくそ、予備のナイフくらい持ってるか)
喜びは一瞬で薄れた。
今ので逃げ出してくれたなら、それで万々歳だったのに。
ごちる間も与えられず、俺もナイフを相手に向ける。
(どちらも毒付き。先に切り傷をつければ勝者。負ければ死……)
有利ではない。
けれど、状況はシンプルだ。
おかげで思考が冷えていく。
心臓の音が大きくなり、しかし反対に、呼吸は深く、静かに、落ち着いていく。
(先の先を取るしかない。相手もそれを狙っている……)
相手の初動、技の起こりを見極めて、それより早く一閃できれば。
じりじりと間合いが狭まり、互いに重心を落した――その時。
「突入!」
ドアが勢いよく跳ね開き、武装したケヴィンさんたちが雪崩込んできた。
振り向いた暗殺者の腕をナイフごと捻じ上げ、数人がかりで体重を乗せて床に押し潰す。
あっという間に拘束し、ナイフもしっかり奪い取った。
「襲撃者確保! ジューダス様の無事を確認!」
一瞬の出来事に、俺はポカンと固まったまま、ナイフを下げることも忘れていた。
徒手対ナイフの格闘戦の基本原則として、作中では
①距離を離す
②遮蔽物を利用する
のふたつを書きました。
が、一般人がナイフで襲われた場合には、ここに、
③大声で周囲に助けを求める
というのも加わります。
逃げられる状況であれば、戦わずに全力で逃げることがまずは大事です。
ただし、逃げられないのに背を向けたり、防御に徹してしまうと高確率で死んじゃいますから、
(相手からすれば刺したい放題ですから)
戦うという選択肢を完全に放棄することはおすすめしません。
なお、軍人や警察官は戦う義務を負っている人たちなので、逃げるという選択肢は原則ありません。
(例外は戦略戦術としての撤退や陽動など、「戦う」の範疇としての「逃げる」)
誰にでも守るべきものはありますが、彼らはそれを職責として特に定められており、そのために遂行するべき命令があり、また、そのために訓練を積んでいる人間です。
税金という国民のお金によってそれが成立している以上、国民の負託に応える義務が彼らにはあります。
作中でベイル君の意識が割と積極的に戦闘に向いていたのは、
従軍予備学校で受けた軍事訓練で「敵前逃亡は悪」と徹底的に刷り込まれていたから……なんていう理由だったりします。
もっとも、こちらは「国民の負託」というよりも、「皇帝陛下の御為に」という帝国主義的な発想ですけれど。




