七十二 北の村人・老女ソフィー(二)
ヒルダやギギ、グルーが出かけた後、一人になったソフィーは、暖炉の前でまどろみながら、ジーナの事を思っていた。
三年前、ローゼンがジーナを伴ってケリーランス公国へ行った時、ジーナはまだゴボウの様に痩せたがりがりな少女だった。ソフィーは、ジーナが北サッタ村を離れる事に反対だった。しかし、ジーナがここやって来て十三年の歳月が流れ、保護者のローゼンが『連れて行く』というのであれば仕方のない事だった。
『十三歳の誕生日を迎えるまではその地から動かしてはいけないよ。』
それが従姉妹の遺言であった。嵐の中を、ローゼンに抱かれてきた幼子のジーナそしてジーナが着ていた服に紛れていた、生まれたばかりの黒ネズミ。二人ともずぶ濡れだった。粗末な子供の服と、わずかな銅貨。そこには王家とのつながりを示すものは何もなかった。そんなジーナの全財産を包んでいた布。その布についていた、書き殴った様な模様。国の言葉ではなく、古代語でもないそれは、ソフィーが子供の頃に従姉妹と作り出した二人だけの暗号だった。魔術師として古代語を覚えるようになってからは思い出す事もなかった。そこに書かれていたのは、コリアード王家の城で魔術師をしていた従姉妹の遺言だった。今は亡き従姉妹がどの様な裏付けがあってそのような言葉を残したのか、ソフィーは何も聞いていない。尤も、幼いジーナが首都に行っても何ができる訳でもない。ダンク王の一軍に簡単にひねり潰されてしまうだろう。
ローゼン、従姉妹、そして自分。三人の決め事。『ジーナが大人になるまでは、本人に何も教えない。』それだけは意見が一致していた。
もう一つの秘密、それはジーナの年齢。ジーナがこの地、北サッタ村へ来た時の本当の年齢は二歳、それから十四年、今のジーナは十八歳になっている。ダンク王が即位する前の王であるエリック三世がイノシシの群れに襲われて十一歳でこの世を去った時、妹のニーナ姫はまだ二歳だった。その事件があってまもなく、ダンク王はバリアン大陸の隅々にまで軍隊を派遣した。明らかにされていないがその目的は、ある秘密の書を探しているとの噂だった。しかしソフィーは、ニーナ姫の探索もその目的の一つであった事は間違いない、と思っていた。 北サッタ村にも軍隊がやってきたが、この地に該当する子供はいない。村で唯一幼女だったジーナは四歳の誕生日少し前の三歳と称していたので、その探索の対象から逃れたのだった。魔術を使わずに村人を信じ込ませるのにソフィーは大変苦労した。ボロボロの服を着て、風呂にも入っていず、兵士達が近づいても逃げようとしない幼子が探索の対象には見えなかっただろう。魔術を使えば、ジーナに辛い思いをさせずに済ます事が出来たかも知れない。しかし、不用意に魔術を使うと、首都ハダルにいるガマガエル魔物のゴランが持つ嗅覚に嗅つけられる恐れがあるとソフィーは思ったのだ。ガマガエル魔物というあだ名を付けたのはソフィーの従姉妹の魔術師だった。それから十四年、ニーナ姫の今の年齢は十六歳のはず。しかしジーナの今の年齢は十八歳。この事も含めてジーナに出生の秘密を明かすのはまだ早い、とソフィーは思っていた。
ジーナが何も知らずに大人になって、幸せな結婚をして、平凡な一生を送る事が彼女にとって一番幸せな事かも知れない、とソフィーは思うのだった。
陽が昇って少し経った頃ソフィーが住む家の扉がノックされた。扉の向こうにいるのが誰なのか知っていたソフィーはその扉に向かって言った。
「おはいり」
暖炉に座ったままのソフィーの声は小さかったが聞こえたようだ。扉が静かに開けられ、少女と犬の姿が逆光に映し出された。
がりがりに痩せたジーナの姿を想像していたソフィーだったが、その影は小柄ながらもたくましく、武器となる杖を持った姿だった。その影に寄り添うバウまでたくましく映っていた。ソフィーはもう一度ジーナの全身を見つめ直してから声をかけた。
「ジーナ、本当にジーナなのかい?」
「ソフィーおばあさん、ただいま。」
遠慮がちな小声でジーナがが答える。
入って来たのは間違いなくジーナとバウだった。ソフィーは、三年間ジーナに会う事も無く、声を聞くこともなく過ごし、最近ようやく噂を聞く様になり、夢の中で想像していたジーナが現実に目の前にいる事にこみ上げるものがあった。
ジーナの記憶にあるソフィーは自分より背の高い人だったが、暖炉の前で揺り椅子に座っているソフィーは一回りも二回りも小さくなって、離れていた年月以上に老けて見えた。ケリーランス公国での三年は、ジーナにとって、あっという間だったが、北サッタ村で静かに暮らしていたソフィーにとっては長い三年だったのかも知れない。ジーナはそう思った。大柄な男たちに囲まれていたジーナは、百六十センチに満たないとはいえ自分の身長が伸びた事に気づかなかった。
ジーナは灰色の汚れたドミノを頭に被り、同じ色の外套を羽織っている。その衣服から僅かに異臭がした。カテナ街道の外れで、汚物を運んでいた荷車を押してあげた時についた飛沫のせいなのだが、ソフィーはその事を知らない。ジーナが着る物に無頓着なのは、ソフィーもローゼンもジーナのような年頃の娘が一番興味を持つ、おしゃれを教えなかったからだし、同年代の話し相手がいなかったからでもあった。それでもソフィーは、こまめに洗濯をして、清潔でいるように躾をしたつもりだった。汚れきったジーナを見たソフィーは悲しくなった。三年の間にジーナに何かあったのだろうか?「ジーナ、そんな汚れた格好をして、苦労しているのかい?」 ソフィーは優しく語りかけながら立ち上がり、ジーナに歩み寄る。
ジーナもその格好のままソフィーに歩み寄り、その老いた体を優しく抱いた。ソフィーもジーナも涙を抑える事が出来なかった。 しばらくそのままでいたが、やがてソフィーはジーナを体から離した。「ジーナ、ローゼンはどうしたんだい?まだケリーランスにいるのかい?」
「お婆さん、ローゼンは死んだわ。」
ジーナは首を横に振り、ソフィーの手を握ってローゼンについて語り始めた。
「ケリーランス公国の南に大きな滝があるの。ローゼンはその滝壺に落ちて死んだの。」
「本当かい?」
「ええ、その時わたしはローゼンが滝壺に落ちる所を見たの。そのあとしばらくケリーランス公国にいたけれど、その頃仲間だった人達ともちりぢりになってしまって。そこに長居をするのは危険だと思ったの。それでガサの町まできたのだけれど、いろいろあって....」
ジーナはその時の光景を忘れる事ができない。ジーナが差し出す手はまったく届かず、とっくに剣を手放した右腕をジーナの方に向けながらなにか叫んでいたローゼン。落ちていくに従って次第に小さくなってゆくローゼンはそれでもジーナから視線を離す事は無かった。ジーナに向かって何かさけんでいるローゼンだったが、滝の水音にかき消され、ジーナの耳に届く事は無かった。あの時ローゼンはジーナに何を言いたかったのか、遺言であった筈のその言葉を聞き逃した罪悪感をジーナは未だに捨てる事が出来ずにいる。
ローゼンの死を告げられたソフィーは目を閉じてしばらく瞑想した後、ジーナの瞳を見つめて言った。
「ジーナ、ローゼンが死んだとは私には思えないねぇ。」
「ソフィーお婆さん、ありがとう。でもローゼンが居ないのは現実だもの。」
「でもジーナ、生きているかも知れないよ。」
まっすぐ滝壺に落ち、体がその渦に巻きこれながら沈み、浮かんで来る事は無かった。ジーナはそこまで見届けていたのだ。
「私、ローゼンが消えるのを見ていたのだもの。現実は現実よ。心の整理はついているつもり。ありがとう、おばあさん。」
強く言い切るジーナの言葉にソフィーは話題を変えた。
「ところでジーナ、ローゼンはいったいケリーランスで何をやっていたの?」
間を置いてジーナは答えた。
「盗賊。世間では義賊と呼ばれていたけれど盗賊に変りないと思う。」
「あのローゼンが盗賊になるなんて信じられないわ。何があったの?」
「分からない。聞かされていなかったもの。ただ、王家に関わる人達に戦いを挑んでいた様な気がする。」
ソフィーはローゼンがなぜそんな無謀な事を考えたのか、信じる事ができなかった。
「ローゼンがいなくなってからジーナはどうやって生活していたの?」
ジーナは、二ヶ月かけてガサの町に来た事、町で数ヶ月過ごしている事をかいつまんでソフィーに語った。但しアルゲニブとの出来事や、魔術師の塔でのルロワに関わる出来事、魔術師としての自分の事は話すのを避けた。
「ジーナも苦労したんだね。」
「ソフィーおばあさん、私、おばあさんに呼ばれたような気がして、それでここへ戻って来たの。体の具合は大丈夫?」
「ジーナ、私は大丈夫だよ。それより、お前が『呪われた少女』なんて噂されているのを聞いて、心配になって呼んだんだよ。でも、よく私の呼びかけに気づいたねぇ。」
「夢の中でお婆さんが私を手招きしているんだもの。きっと私を呼んでいるんだ、と思ったの。でも、私が呪われている、と思われている事を知らなかったわ。」
『呪われた少女。』そう呼ばれている事をジーナはソフィーから言われて初めて知ったのだ。悪口や良くない噂は本人には届きにくいものなので、ジーナが知らなかった事はしょうがない事だったのかも知れない。
ソフィーがジーナの噂を初めて耳にしたのは三ヶ月ほど前、まだヒルダがここにやってくる前だった。ソフィーの家に食材等を届けている近所の人が伝えたものだった。「ジーナによく似た娘を見たよ」
とか、
「バウに似た犬を連れた娘がガザの町に居たよ。」
等という噂を多く聞く様になったので、
『ジーナが一人でガサの町に帰っている。』
事を確信した。
ソフィーは、何故ジーナが一人でガサの町にいるのか心配だったので、機会ある毎にジーナの消息を求める様になった。ソフィーは目立たない様にジーナの様子を探っていたつもりであっが、家に出入りする人達がすすんでジーナの噂話を聞かせる様になっていた。ヒルダがソフィーの家にやってきたのはそんな頃だった。
ガサの町はすぐそばだ。やがて元気な顔を出すだろうと思っていた。しかし、ジーナはなかなか姿を現さなかった。ジーナの魔力が強くなってる事は時々ジーナから漏れ出るイメージが届く事で知る事ができた。
だが、ジーナはその事に気付いていない。このままゆくとあのガマガエル魔物にジーナの存在を嗅ぎつかれるかも知れない。ソフィーにそんな思いがつのってゆく。
それでもソフィーからジーナに連絡をとろうとはしなかった。ソフィーの存在が元でジーナの身元が判明してはならない。ジーナに会いたい気持ちはあったが、我慢していたのだ。
そんなジーナが時々夢に現れる様になった。ちょうどその頃聞こえてきたのが、『ガサの町にいるジーナという娘は呪われていいる。』という噂だった。
そしてジーナが禁断の魔術を使っていたあの夜。それは異界の扉を開く古代語の詠唱。その危険な技に、僅かではあるがソフィーは力を貸した。ジーナの魔力をこれ以上放置する事に危険を感じたソフィーはついにジーナを呼び寄せる事にしたのだ。
ソフィーはジーナを上から下まで見て言った。
「ジーナ、お前は呪われているよ。知っているのかい?」
「え!」
驚いたジーナは自分の体を見下ろした。しかし、普段と変る所は無い。バウはそんなジーナの仕草を不思議そうに見上げている。
ソフィーはジーナの右手を痩せた両手で握って言った。
「ジーナには二体の魔物がとりついているよ。一体は帽子を被った貴族風の男だねぇ。もう一体はよく判らないけれど黒いもやのような物だよ。ジーナ、大丈夫なのかい?」
心の中に異界の指輪であるアルゲニブが話しかけてきた。
『ジーナ、私の事が知られてしまったぞ。だれなんだ?このお婆さんは。』
『私を育ててくれた人よ。』
『ジーナがよく話しを聞かせてくれたソフィーおばあさんか?』
『そうよ。』
ジーナが微笑みながらソフィーに言った。
「ソフィーおばあさん、それは私の友達よ。」
「友達?」
魔術師として生きてきたソフィーには異界の魔物がジーナにまとわりついているのがはっきりと感じる事ができたのだ。そんな魔物の事を『友達』と言うジーナをソフィーは不思議そうに見つめた。
気付けばジーナが扉を開けてからずいぶんと時が経っている。居間はすっかり冷え切っていた。
「ジーナ、寒いから部屋にお入り。」
ソフィーはそう言って暖炉に寄り、薪をくべてから暖炉ののそばにある揺り椅子に座った。
「バウ、おいで。」
ジーナは、バウを部屋に呼び入れ、戸を閉めた。バウは部屋に入ると、ソフィーに寄り添いその手を嘗めた。
「あんた、元気だったかい?ちゃんとジーナを守ってくれていたたのかい?」
ソフィーはやさしく話しかけながらバウの頭を撫でる。
『アルゲニブ、あなたを私以外の人に紹介するのは初めてね。』
『ジーナ、秘密のままにしておかなくて大丈夫なのか?』
『ソフィーおばあさんなら大丈夫よ。私に古代語の子守歌を聞かせてくれた人だもの。それにもう知られてしまっているじゃないの。』
ジーナは、揺り椅子に座るソフィーの前に立った。
『アルゲニブ、あなたをソフィーお婆さんに紹介するわね。』
そうアルゲニブに話しかけると、アルゲニブの指輪を外してソフィーへ差し出した。
「この指輪はなんだい?」
「私の友達なの。名前はアルゲニブ。」
「アルゲニブ?指輪の名前かい?」
指輪の名前。高度の技を持つ魔術師であるソフィーでなければその意味に気付く事はできなかったろう。
ソフィーはジーナから指輪を受け取り、両手のひらで包み込む。指輪の意識がソフィーに話しかけてきた。
ジーナは、大きく目を見開いたソフィーを見つめていた。じっとその姿勢を崩さないソフィー。
ソフィーがアルゲニブと何を話しているのか、その会話はジーナには聞こえてこなかった。また、ジーナはその内容を探ろうとは思っていなかった。
長い時が過ぎた。
ソフィーがジーナへ指輪を戻し、ジーナに言った。
「ジーナ、もし私が出す問題を解く事ができたなら、私の持つ全てをジーナに譲るわ。但し、ジーナが十八歳になったら、だけれどね。あなたの保護者のローゼンが居ないから、後見人にはこのアルゲニブになってもらう事にしたけど、いいわね。」
「ソフィーおばあさん、私はもう十八歳よ。」
「ああ、ごめんよ。私も歳をとって耄碌したのかも知れないわ。ジーナが二十歳になった時、あなたが自分の事を自分で責任が取れる様になったら、そうしたらあなたの後見人のアルゲニブからその事を伝えてもらうわ。」
「ソフィーおばあさん、今ではいけないの?」
「そうねぇ...でも私の持つ全てといっても、この小屋と僅かな持ち物だけなのよ。今ジーナに渡しちゃったら、私が生きていけないでしょ?」
そう言ってソフィーはその内容を曖昧にした。
「あと二年間たってジーナが大人になるまでの間、あなたを見守ってくれる後見人が必要なのだけれど、それをローゼンに頼むつもりだったの。でも、ローゼンがいないので、ジーナの友達のアルゲニブにその役割を頼むつもりよ。」
そう言って、ジーナの指に戻ったアルゲニブの指輪を優しく撫でた。
「ソフィーお婆さん、私は何もいらないわ。ただ、ソフィーお婆さんが元気でいてくれるだけいいの。」
「ありがとう、ジーナ」
ソフィーはそう言って目頭を押さえた。