六十八 ギロの魔術師・異界への扉(二)
シャロンが捜索しようとしていた二階はまだ灯りがなく、暗かった。通路はハンスとフーゴがギロから連れてきた子供達であふれている。
「ハリー、魔術師様が来たみたいだよ。こんな夜更けになんだろう。」
「何かあったのかな?フロルはあの魔術師様を知っているかい?」
「たまにギロの町で見かけた事はあるよ。魔術師長のシャロン様だろう。」
子供達が次第に賑やかになってくる。
「お前達、じゃまだ。下にいろ。」
シャロンは子供達をどなりつけながら得意の触手、人の心を探る触手を子供達に向けた。彼らの心からは恐怖と緊張しか感じない。次に後ろに立つ若い魔術師、ジーナにその触手を伸ばした。そこでも何も感じる事は出来なかった。その触手はジーナの心の入口でうごめいたあと消えただけだった。
『ジーナ、シャロンが探りを入れて来たぞ。ブロックしなくて良いのか?』
『大丈夫だったみたい。きっと彼が怪我をしているせいね。』
シャロンは、最初から格下に見ていたジーナが鈍感なだけの男だと思ったのだ。次に一階にいるレグルスに触手を向けたが軽くはねのけられた。当然の事だった。次にその隣に立つ女、エレナへ触手を伸ばそうとした。ちょうどその時、子供達がシャロンの横をすり抜けて一階へ駆け下りた。そんな誰かの体がシャロンの痛めている左腕に当たった。
「う!」
うなりを上げたシャロンは思わず右手を剣に向けた。
『子供達が危ない』
そう思ったジーナは魔術を放った。
剣を握ろうとしたシャロンの右手が何かに弾かれた。その手をしばらく見つめていたシャロンは一階に立つレグルスを見ていった。
「何をした?」
何の事を言っているのか判らなかったレグルスは黙ってシャロンを見つめる。一時の静寂な時間。
『ジーナ、何をしたのだ?』
アルゲニブが心に話しかけてきた。
『バリアを使ったの。』
『子供にか?』
『違うわ。レグルスの剣にバリアを張ったから彼の右手が弾かれたってわけね。』
アルゲニブにも気づかれない早さで、しかも守りの魔術であるバリアを敵の剣にかけて攻撃を止める頭の良さにアルゲニブは感心した。
『その手法は使えるな。』
『うん、そうね。』
しかし、どのような技をかけられたのか、シャロンは知らなかった。後ろを来る若い魔術師の仕業とも思っていなかった。レグルスが何かの魔術を自分の右手に放った、と思ったのだ。
やがてエレナの方を向いて言った。エレナの心に触れる余裕は失せていた。もし、エレナの心を読まれていたら、彼らがここまで追って来た女ドーラがここから逃げた事を知られてしまったかも知れなかった。
「女、灯りをつけろ。」
子供達が、怯えた目でシャロンを見ながら階段を下りていき、代わってエレナがあがって来た。
「病人がいるのは何所だ。」
「北側の奥の部屋にいます。」
エレナは左手通路の奥を指した。
「ではこちら側から捜索する。」
その指示に従い、右手側、南側通路の方を向いたエレナは、通路の燭台を灯しながら南端の部屋へ案内する。通路の突き当たりは石壁になっている。
子供達が寝ていた部屋のベッドの上は散らかっていた。中に入ったシャロンは誰も居ない部屋の隅々まで見回している。そして、ベッドに敷かれている藁の中に人が隠れているとでも思ったのか、四つあるベッドへ次々に剣を突き刺した。ベッドの上に乗っているシーツに穴が開いてしまった。ジーナはシャロンの後ろからそのやり口を見ているだけで手出しはしなかった。
『ジーナ、やりたい放題ではないか、いいのか?』
異界の指輪であるアルゲニブがジーナの心に話しかけてくる。
『いいのよ。シーツは買い換えればいいだけだから。』
『勝手に塔へ来たくせに。好きにさせて怒らないのか?』
『ここはシャロンが気の済む様にするのが良いと思うわ。』
『短気なジーナにしては冷静だな。』
『あら、私はいつも冷静よ。』
『私に対してはいつも怒っているではないか。』
ジーナの心に怒りが沸いてくる事を感じた。やはりジーナは短気だと改めて思ったアルゲニブは黙っている事にした。
全てのシーツに傷をつけられてはたまらない。エレナは次の部屋では先にベッドのシーツを全てとった。ベッドに敷かれた藁がむき出しになる。
「シャロン様、どうぞ」
そこまで言われてはさすがのシャロンも藁に剣を突き刺す気にはならなかったらしい。部屋の中を見回したあと、その部屋を出た。
子供達を泊めている3部屋、アランが泊まっている部屋を回った。勿論誰もいない。次に二階武器庫の扉を開けた。粗末な武具が置いてある武器庫だ。
「ここの武具はどうしたのだ?」
シャロンは振り向いて魔術師姿のジーナに言った。
「知らない。私が来たときはこうなっていた。」
「ここには十人以上のコリアード軍兵士がいた筈だ。正規軍の武具はこんなに粗末なものではないぞ。」
確かにそこにあるのはどれも粗末な鎧や兜ばかりで、錆が浮いている剣や、歪んだ鎧まであった。
「私が来た時にはすでにそうなっていた。レグルス殿に訊いてほしい。」
ここの武具が粗末な物になってしまったのは、世間に疎かったルロワがギロのならず者に騙された結果だったのだが、その詳細は誰も知らなかった。
「若僧のお前には武器の事は判らんのだろうが、正規軍の武具はもっと良きものなのだぞ。」
シャロンはジーナが扮している、若い魔術師ケルバライトを見下して言った。ジーナは無言だった。
コリアード軍に配布される武具はここにある物よりは良質かも知れないが、一般的なもので、決っして良質とは言いがたかった。大勢の兵士へ支給するのだからそれは仕方の無いことだった。だから金に余裕のできた兵士は、アランの様に自分専用の剣を調達するのだった。
ジーナが首都ハダルの南にあるケリーランス公国にいた数年間、鍛冶屋を営むローゼンの元で武具の扱いを教わっていた事をシャロンが知る訳はなかった。魔術師シャロンよりはジーナの方が武具についての知識が豊富であった筈だ。
武器庫を出た三人は次に食堂へ入った。数時間前に子供達が食事会を行っていた所だ。竈の火は落ちていたが、部屋全体はまだ温もりが残っていた。テーブルの上も、竈の鍋や料理に使用した器具も片付けられている。
「ここには棚に入りきれない程の食器類があったはずだ。何所へやったのだ?」
シャロンがここの塔にいた十数年前にはここ、二階の兵士用の食堂は食器や料理器具が常にテーブルや竈附近にあふれていた。それは横着な兵士達が、食器類のかたづけに無頓着だった為だったとは気づいていなかったようだ。
エレナは近くの棚を空けた。そこには大きさがそろえられた食器がぎっしり詰まっていた。
「今は三階の食堂を使用しています。一部はそちらへ移動しました。それから棚へいれる食器の大きさを整理したら入りました。食器や器具が出しっぱなしなのは不衛生ですから。」
「この塔全体を手入れするほど大勢の使用人がここにいるとは思えないが?」
ますます不機嫌になったシャロンは言った。
「皆がかたづけてくれます。使い終わった時にきれいにする様にしています。」
シャロンは振り向くと魔術師姿のジーナに向かっていった。
「おまえも下働きの口か?」
エレナが代わって答える。
「ケルバライト様も、レグルス様も協力して下さいます。」
ギロの館では使用人や見習い以外の者が洗い物をする等考えられない事だった。ましてや魔術師が洗い物をする等論外だった。それでは威厳が保てなくなる。
エレナは更に北の奥にある部屋へと案内した。その部屋には薬草の匂いが充満していて、ベッドの上には包帯に巻かれた男が寝ていた。エレナは気づかなかったが、シャロンは、それが魔族兵士である事にすぐ気づいた。ベッドに寝ている兵士はシャロンに気づいて立ち上がろうとしたがすぐ横になった。
「ゲオルギーか?」
寝たままの魔族兵士が手を上げたがシャロンは無視して続けた。
「そんな筈はないな。俺が宿舎もろとも焼き殺したのだからな。ここの生き残りか。ルロワ事件の時に皆消滅したと聞いていたが、生き残りがいるとは思わなかったぞ。」
疫病かも知れないと思ったシャロンは調べもそこそこにその部屋を出て次の部屋へ向かった。
ゲオルギーは、与えられたこの部屋で毎日を過ごしていた。まだ動けない彼がこの部屋から出る事はほとんど無かった。
今日の塔内は、夕方から多くの子供達の声が聞こえてきたり、兵士達の声が聞こえたり、騒がしかった。事情を知ろうにも、いつもは数回包帯を取替えてくれる小柄な女性も今日は顔を見せていない。そう思っていると、突然戸が開き、ギロの魔術師長シャロンが部屋へ入ってきて自らがガサの町入口にあった兵士の詰め所を襲撃し、兵士達を焼き殺した事を吐露して部屋を出たのだ。
残された兵卒長ゲオルギーは我を失う程の衝撃を受けていた。自分達を襲撃したのはシャロン魔術師長だと聞かされていたが、信じてはいなかった。魔族兵士は主人のために命を投げ出すのが習性だが、主人も自分達の世話をし続けると思っていた。
シャロンが部屋へ入って来た時には自分のためにわざわざ見舞いに来たのだ、と思いうれしさがこみ上げ、思わず立ち上がり敬礼をしようとしたのだが、激痛のため、声が出ず、再び横になった。
シャロンが自分の名を呼んだので、手を上げて合図を送ったのだが、聞かされたのは、自分達を襲撃したのがシャロンだった、というシャロン自身の言葉だった。言葉にならない言葉を飲み込んでじっとしていた。
ゲオルギーの部屋を出た三人は通路を奥へ進んだ。突き当たりは石壁になっている。
「ここが二階の最後の部屋です。」
エレナはそう言って部屋の扉を開けた。そこには老人が横たわっていた。シャロンはその男にも見えない触手を向けたが生気を感じ取れない。
「この男は死んでいるのか?」
「いえ、生きています。私とレグルス様で毎日お世話していますから。」
「女、お前は疫病が怖くはないのか?」
「いいえ、だれかがお世話をしなくてはいけませんから。」
エレナはそういうと、その老人に近づき、ずれていた布団を直してその胸にそっと手を当てた。
「ずっと寝たきりなので皆、心配しています。」
これで二階の全ての部屋を回った事になる。三人は一階の大広間へ戻った。
一時間もの時間をかけたシャロンだったが、地下牢を調べる事なく、塔の隠し部屋を調べる事もなくまた、何の収穫を得る事も無く魔術師の塔を去った。
塔に再び静寂が戻った。
ギロの魔術師長シャロンと兵士一行を見送った後、深いやけどを負っているゲオルギーの事が心配になったジーナは、女性の姿に着替え、薬草と新しい包帯を手にしてからゲオルギーの部屋を訪れた。彼はベッドに起き上がっていた。彼はジーナに気づくと話しかけてきた。
「ジーナ、いつもありがとう。ジーナはいつも私に優しくしてくれるね。」
「とんでもないです。怪我をしている人をみたら助けてあげるのは普通の事だもの。」
「私が怖くはないのか?」
「なぜ?」
「私は普通の兵士ではないのだよ。実は突撃兵士なんだ。聞いた事あるだろう?」
「知っていましたよ。あなたをここへ運んで来たケルバライト様がそうおっしゃっていたから。」
「そうか。そのお方はケルバライト様とおっしゃるのか。私は気を失っていたからどうやってここへ来たのか知らないのだよ。そのお方は時々くる若い魔術師様かね?」
「はい、そうです。」
「あの魔術師様は緑色の不思議な瞳をしていたね。」
その問いには答えずにジーナは言った。
「ゲオルギーさんは、私が初めてお会いした時には一階の空き部屋にいました。そこではお世話が大変なので、二階のこの部屋へみんなでお運びしたんです。」
「私がいたガサの兵士詰め所からこの塔まではかなりの距離がある。ケルバライト様はなぜ私をここの塔まで運んでくれたのだろう。大変だったろうにね。」
そう言われてジーナは困った。ガサの町にある兵士詰め所が火事で焼けた時、唯一生き残っていたこの男を運んだのは魔術師姿だったジーナだが、たいした考えがあった訳では無かった。それに今は魔術師姿ではない。ジーナは黙って包帯を巻き続けた。
「ケルバライト様と言う名には聞き覚えがあるんだ。」
ジーナの手が止まった。
『アルゲニブ、どうしょう、この人ケルバライトを知っているんだわ。』
『大丈夫だよ、ジーナ。たまたま同じ名前なだけなんだから。』
『だってあなたのご主人様でしょ、平気なの?』
『今の私のご主人様はジーナだけだ。』
『ちがうでしょ、友達よ。』
つっこむのはそこじゃないんだけど、と思いながらアルゲニブは黙った。ゲオルギーが話を続ける。
「私のいた世界では魔族と人間族がいるんだ。私は魔族で人間族ではないんだよ。怖くなったかい?」
「いいえ、あなたは私たちと同じ。ここの塔で生活する人はみんな仲間よ。」
ゲオルギーの心に温かさが広がった。
「そうか、ありがとう。私の世界の人間族にケルバライト様という高名な魔法貴族がおられるんだ。勿論、ここにいる小柄で若い魔術師様とは違うがね。ところで、ジーナは私達を襲ったのはシャロン様だと言っていたね。」
「はい、ケルバライト様がそうおっしゃっていたの。」
「ジーナの言うとおり、私たちを襲ったのはシャロン様だったよ。」
ジーナは話しを聞きながら包帯と薬草の交換を続ける。
「何の縁もないここの人たちが優しく接してくれるのに、私のご主人であるシャロン様が私を裏切るとは思っていなかった。」
しばらく沈黙が続いた。ジーナの治療が終わった時、ゲオルギーが口を開いた。
「申し訳ないが、レグルス様をお呼びしてくれないか?」
「判りました。少しまってて下さいね。」
その思い詰めた姿にジーナはすぐにレグルスを呼んできた。
「ゲオルギー、どうしたのかね?」
「レグルス様、ご存じのとおり、私は魔族兵士です。こちらの世界の者ではありません。」
「それは承知しているが、その事は誰にも言っていないし、気づいている者はいないと思う。安心していいのだよ。」
ゲオルギーはジーナの方をちらっと見た。
「ジーナはケルバライト殿の妹なのだ。だから心配はいらない。」
「レグルス様、そういう事ではないのです。」
ゲオルギーは自分の話を始めた。
「私は異界で最下位の奴隷種族なのです。生まれてから死ぬまでご主人様にお仕えするのが生活の全てなのです。」
「でも、ゲオルギーさんは魔力を持っているのでしょう?」
魔力を持ちながら最下級種族だという事がジーナには不思議に思えた。
「向こうの世界では全ての種族が少なからず魔力を持っているのです。歩いたり、息をしたりするのと同じ事なんです。しかし私たちの種族は蝋燭の灯を揺らす程度の魔力しかありません。それでもほとんどの人が魔力を持たないこちらの世界では魔術師の仲間とみられる事もあります。」
「どうしてこちらの世界へ来る事になったのかね?」
「こちらの世界に来れば、兵士種族の扱いをしてもらえる、と元のご主人様からいわれたのです。その通り、こちらでは兵士として過ごす事が出来ました。こちらの世界でのご主人様から時々命令される事さえこなしていれば、自由に振る舞う事もできました。」
「ほう、それで?」
レグルスは話しの続きを促した。
「私はこちらの世界での主人を失いました。」
「シャロンなら生きているぞ。今日会ったのではないかね。」
「シャロン様は、私が死んでしまったと思っている様です。私はご主人様に裏切られたのです。そして、私の部下達はシャロン様に焼き殺されてしまったのです。もうシャロン様に従う事はできません。」
「それでは、だれか新たな主人を迎えるということかね?」
「いえ、そうではありません。私はこの世界に未練が無くなりました。レグルス様が、シャロン様など足下にも及ばない偉大な魔術師である事は噂で知っています。私を元いた世界、異世界へ戻してはいただけませんか。」
つかの間の静寂。しばらく考え込んだレグルスが重たい口を開いた。
「その為には異界の扉を開かなくてはならない。」
レグルスはルロワに幽閉される以前の事を思い出していた。それは塔の四階にある古代の魔法陣で研究をしていた時の事だ。自分の血を練り込んで作った、魔石のかけらの指輪。それと生物を魔方陣の中央におき、定められた手順で古代語を唱えると、異界の扉を開け、異界に漂う意識をその生物に宿らせる事が出来るのだ。
異界に協力者がいれば、ゲオルギーの様に特定の者を呼び出す事が出来るが、協力者がいなかったレグルスにはそれが出来なかった。
ルロワはレグルスを幽閉した後、レグルスが行っていた儀式を真似て不完全ながらも彼の魔族兵士を生み出していたのだ。
こちらに呼び出された異界の者を戻す魔術は知っていた。その為には研究していた時よりも大きな魔力が必要となる。また、実際に行うのは初めての事なので不安はあった。
「その魔術は死と背中合わせだ。失敗すると二度と生き返る事は出来ないがいいのかね。」
「レグルス様、こちらの世界に私の生きる場所はありません。その魔術で死んでも悔いはありません。」
レグルスはため息を一つしたあと、ジーナに言った。
「一人ではその魔術を使う事は出来ない。ジーナ、ケルバライト殿を呼んでもらえないだろうか。」
「わかりました。」
ゲオルギーが再び口を開いた。
「あの若い魔術師様で大丈夫なのでしょうか?」
ここの優しい住人達を疑った訳ではないが、ギロの魔術師長シャロンでもできないであろう高度な魔術を若い魔術師が行えるのだろうか。
一抹の不安が心をよぎったのだ。