六十三 ギロの魔術師・偽りの契約書(二)
食事が終わり、若い者達が食卓の後片付けを始めた時、レグルスはアランとジーナを呼び止め、自室に招いた。
「ケルバライト殿、この契約書の仕掛けは、書かれた文字が、時間をおいて現れたり、消えたりする術だと思う。」
レグルスはそう言って小瓶をジーナに見せた。
「これは異国で用いられている珍しい液体だ。時間がたつと文字が現れたり消えたりするのはこの液体の調合によるものだと思う。」
そう言うと、紙片を取り出し、その液体で文字を書いた。そこにはなにも書かれていない。
「すこし待ち給え。」
無言で紙を見つめる。やがて紙に文字が浮き上がってきた。
「魔術ではないのですか?」
ジーナはレグルスに聞いた。
「ケルバライト殿は祠祭師について何か知っているかね?」
ジーナが黙っていると、アランが答えた。
「確か、星を見、月を見、太陽を見、地を見て天を知る。だったと思います。星や太陽の運行を見て、季節を知り、天候の予測をする人達だと聞いた事があります。」
「アラン、その通りなのだが、彼らは、独特な知識によってそれを行っていたらしい。魔術師会では、一部は魔術と重なるその知識の出所を問題視したのだ。」
レグスルは説明を始めた。
何処かの大陸に最初の祠祭師が誕生した。その者は大変博学で、農民の中から頭の良い者を弟子にとり、その知識を教えていった。その弟子がさらに弟子をとりやがて祠祭師の系列が出来上がっていったのだという。
魔術師仲間の口伝によれば、最初に誕生した祠祭師がその知識を記録した“知識の書”なる書物があって、ダンク・コリアード王はその書を探していたのだという。また、別の説では、初めて知識の書を手にした者が最初の祠祭師になったという口伝もあったが、それでは知識の書を書いた者が存在しなくなる。
「結局そんな書物は何処にも発見できなかったらしい。バリアン大陸には存在しないか、そんな書物は元々存在しないか、という事になってその探索はやめてしまったらしいのだ。」
ジーナが質問する。
「それが、この液体とどの様な関わりがあるのですか?」
「これはある祠祭師から密かに手に入れたものなのだよ。随分昔になるがね。その祠祭師が、知識の書にそれらの秘密が書かれていると言っていたのだ。彼はその書物の存在を信じていた。」
「では、魔術でこの文字を元に戻す事は出来ないのですね?」
ジーナは落胆した。何らかの魔術で契約書を元の三年に戻す事ができるのではないかと思っていたのだ。
「その通りなのだが、この液体には欠点がある。」
レグルスは卓にあった噐の水を数滴紙に垂らした。水滴の動きに沿って文字が流れ、紙から落ちてしまった。水に濡れた白い紙があるだとなった。
「もし、問題の契約書がこの液体を使って作られた物ならば、水を使って無効にできる。アランの持つ契約書の十という文字が消えたのは水滴の効果だ。」
アランは改めて契約書を広げて見る。十という時の痕跡はどこにも無かった。
「拭いたりしてはいけないよ。液体が広がってシミを作るからね。」
ジーナはアランを見ていった。
「アラン、一日時間がほしい。対応を考えてみよう。」
それでレグルスの部屋での話し合いは終わった。
深夜。男物の衣服に着替える。マントは旅でいつも着ていた裏表で色の違うものにした。黒い色を表にして着る。逃げる時にマントの色を変える事で追っ手の目をごまかす事ができる。しかし、このマントにはもっと違う特徴があった、武器を隠すための袋が縫い込まれていた。ギロの町へいくのだ。ごろつき達と戦うかも知れないのだ。ジーナは得意の投げ矢やナイフをそのマントに仕込んで出かける事にした。
そして竹で作られた水筒も忘れない。
塔の外に出てバウを読んだ。黒毛に変色したバウが現れる。
「バウ、ハンスの行った先を探しにいくわよ。」
ギロの詰め所を嫌ったジーナは、今は廃墟となった祠祭師の館跡を通って海岸の南側へおり、そこから海岸沿いにギロの町へ入った。とがめる者はいなかった。魔術師の館が近づいてきた。ジーナは建物の裏側をすり抜けた。馬小屋には白馬エニブの姿が見えた。一声ないたのは、ジーナに気付いたからなのか、偶然かは判らなかった。
バウが地面の臭いを嗅ぎながら先をいく。ジーナは目立たないように少し離れて歩いた歩いた。魔石の腕輪が持つ力を使いながら、周囲の気配には十分に気を使った。
ある建物の前でバウがとまった。ハンスが説明していた平屋で大きな家。家というより倉庫だ。建物の内部に多くの人はいるようだが、皆子供のようだ。大人がいそうなのは入口隣りの部屋だけだ。
『ジーナ、その探る術は私以上だな。』
異界の指輪であるアルゲニブがジーナの心に話しかけてくる。
『これは魔石の腕輪が持っている能力よ。私の力ではないわ。』
ジーナは深い眠りのイメージをその二人に送る。
『ジーナは催眠術もやるのか?』
『気休めよ。集中出来ないから、少し静かにしていて』
アルゲニブは静かになった。扉には鍵がかかっていた。腰のポシェットから金具を出し、扉の隙間に挟んで鍵をあけた。静かに部屋へ入る。真っ暗だが、緑色に変化した目が闇の中での視界を保ってくれている。寝ているのは男と女だ。その男には見覚えがある。ギロの町でエマを襲おうとしてジーナに傷つけられた男だ。
女の枕元に鍵のかかった木箱がある。その木箱をたぐりよせ、錠を開ける。数年のケリーランス生活で覚えた盗賊の技だ。中にあったのは、契約書の束だった。
その中からハリーという名の入った契約書を探す。あった、三枚綴りの契約書に、ハリー、フロル、ニックの三人の名が書いてある。同じ日に作られたものなのだろうか、どの契約書も同じ日付で年数も同じ十三年になっている。竹筒の水を契約書に垂らして紙を持ち上げると文字が紙から流れ落ちた。レグルスが言った通りになった。 ジーナは三枚の紙の細工された文字を洗い流してしまうと、その契約書を箱に戻して鍵をしめ、建物を出た。バウは外で待っていた。
これで準備はできた。さっそく明日交渉する事にしよう。もう急ぐ事はない。ジーナはガサの町へゆっくりと向かった。
『ジーナ、かくれろ』
アルゲニブが注意した。魔術師の館を通り過ぎた所だった。何の事か判らず立木の陰に隠れる。
『空を見ろ』
魔術師の館をカラスの一群が飛んでいた。やがて巨大な鳥が窓から南へ向かって飛んだ。
『アルゲニブ、あれは何なの?まるで巨大コウモリだわ』
『わからん。あの真っ黒な者がジーナにも見えるのか?』
『そうよ。アルゲニブがくれた緑色の目のおかげよ』
深夜の真っ黒な生物は一般の人では見る事ができないのかも知れない。その生物はガサのへ向かってとんでいった。少し間をおいてからジーナは道に出た。
『さあ、かえりましょう』
しかし、その生物がとびさった方向から目が離せない。
やがて遠くに赤い光が立ち上った。
『火事かも知れないわ。急ぐわよ』
『ジーナが走っても間に合わないぞ』
魔術師の館で飼われている白馬エニブを思い出したジーナは館へ戻り、エニブを馬小屋から出した。エニブは会えた事が嬉しいのかさかんにジーナに鼻面をすり寄せてくる。馬具を着けている暇はない。手綱を持つとそのまままたがって馬を走らせた。ギロの歩哨を強行突破するしかない。
『アルゲニブ、一時でいから誰かに変装出来ないかしら。私は小柄だからすぐにガサの町の者だと知れてしまうわ。』
『見えるだけでいいんだな。』
『たたかうわけじゃないから見かけだけでいいのよ』
『わかった。後で文句を言わないでくれ。』
馬上のジーナには何の変化も感じなかった。そのまま検問所を突破した。大声でさわぐ歩哨達の声が遠ざかる。久しぶりに運動できる事が嬉しいのか、エニブは全力で走った。
カテナ街道をそのまま南下してガサの町に入る。火がだんだん大きくなってきた。燃えているのはガサの町入口にある警備兵の詰め所だった。ジーナはさらにエニブを急がせた。エニブは火を怖がる事なくその建物に近付いていく。手前でエニブを止めた。木造の大きな建物が火に包まれている。上空の気配にジーナは空を見上げた。先ほどの巨大コウモリが上空で炎に向かって手をふっている。その度に炎が大きくなった。その技は炎の矢とは異質の魔術らしい。
ジーナはその巨大コウモリに向かって投げ矢を投じた。意表を付かれたコウモリの羽を貫いた。その薄い膜に亀裂が出来ている。それは姿勢を崩しながら体をジーナに向ける。
「何者だ。」
その者は声にならない声を出した。ジーナは答えない。
「じゃまをすると命がないぞ。」
そう言うと空中にあるその者は、まるで物を投げる様に右手を一振りした。ジーナの目の前に突然炎の玉が現れた。ジーナ達が使う炎の矢は手元で発生した炎が敵に向かって矢のように進んでいく。しかし、今敵が使った術は、相手の目前に炎の玉が発生する術だった。
驚いた白馬エニブが棒立ちになる。ジーナはエニブの心に直接話しかけて落ち着かせた。空中に浮かぶ怪物が再び手を振った。ジーナがバリアを張る。それはエニブをも守る大きなものだった。目の前で発生した炎の玉はバリアの外壁をなめるように後ろへ流れてゆく。そしてその炎はジーナの姿をくっきりと映し出した。
『アルゲニブ、私の姿を見られたわ。どうしよう』
『ジーナ、大丈夫だ。まだ私の術が効いている。あの距離だとジーナ本来の姿が判らないと思う。でも近づくなよ。』
接近戦で直接決着を付けたがっているジーナの心を読んだアルゲニブがそう話しかけてきた。
『判ったわよ』
ジーナはアルゲニブの忠告に素直に従う事にした。
『おい、またくるぞ。』
『判ってるわよ。エニブ、じっとしているのよ。私が守っているからね。』
エニブに心で話しかけながら、アルゲニブとも会話をしてコウモリの様な怪物を相手にする。ジーナにはとても疲れる作業だった。
『アルゲニブ、無駄話をしないで手伝ってよ。』
アルゲニブはジーナへかけた虚像を強化した。これはきっとジーナの術をも強化するに違いないと思ったからだ。その理由を今説明している暇はない。
怪物が作り出した炎の玉が大きさを増して襲いかかるが、それ以上にバリアが巨大化した。
『さあ、いくわよ。エニブ、しっかり支えてね。』
『ジーナ、抑えぎみにな。』
『何をいっているの、アルゲニブ』
ジーナはその巨大コウモリに向かって力を込めて炎の矢を投じた。燃えさかる地上の炎に負けない程の灯りが周囲を照らした。馬上から撃ったためか、ジーナの炎の矢は巨大コウモリに直接当たらず、左側をかすめて遠くへ飛んでいった。数羽のカラスが巻き込まれて下で燃える兵士詰め所へ落下した。巨大コウモリの衣服にも火が燃え移ったようだ。その魔物が衣服をぬぎすてたのか、小さな炎の塊が落ちて再び上空は闇となった。
『ジーナ、加減してくれ。ジーナの炎で町中が火事になっちまう。』
『そんな魔力は私にないわよ』
ジーナの一番恐ろしい所は自分には魔力が無いと信じ込んでいる事だった。そのおかげでアルゲニブは何度も危機回避をやらされてきた。
ジーナが乗るエニブの直前に巨大な火の玉が現れた。ジーナは全力でバリアを張った。アルゲニブが作り出していた仮の姿が映し出される。マントを着て、黒い帽子を被った大柄な男の姿だ。手に持ったダガーも巨大化していた。
その攻撃を最後に巨大コウモリは北へ去った。
『アルゲニブ、バリアありがとう。』
自分の手柄ではないのだが、アルゲニブは反論しなかった。
『さあ町の人達を起こしましょうか。』
『いや、もう殆ど燃えつきている。他に燃え移る心配もないからほうっておこう』
アルゲニブがそういった。
ジーナは白馬から降りて燃えている兵士の宿舎へ向かった。油をまいたのだろうか。炎は建物全体を包みこんでいる。
『危険だ。まだ燃えているぞ。』
ジーナは意識を集中して気配を探る。
『誰かいるわ。生きてるわよ。』
『アルゲニブ、私をガードしてね。』
ジーナは炎の中に入っていく。アルゲニブのバリアだろうか、ジーナの体を卵の様な形の空間が守っていた。
竈や鉄の食器がある部屋へ入っていく。
『ここだわ。』
それは建物の中に作られた大きな水槽だった。
『飲み水をためていたのね。』
のぞき込むと、一体の魔族兵士が水の中に倒れていた。炎の熱さから逃れようとしたのかも知れない。気を失っているようだ。
『ジーナ、魔族兵士を助けるのか?』
『そうよ。まだ生きてるもの。』
その魔族を抱えて炎の中を出た。魔族兵士が防具を着ていなくて良かった。着ていたら重くてジーナの体力では運べなかっただろう。
その男をエニブの背に乗せて魔術師の塔へ向かった。塔へついて魔族兵士をおろす。ジーナは白馬エニブに話しかけた。
「エニブ、一人で帰るのよ。いつかきっと迎えにいってあげるからね。」
話が分かったのか、寂しそうな瞳をしたエニブは無人のまま去っていく。
魔族兵士は一階の空き部屋に寝かせた。兵士をかかえては、二階への石段を上れなかったからだ。
ギロの魔術師長シャロンは三階の隠し部屋にある出窓から部屋に入った。衣服は脱ぎ捨てられ、人としての擬態も解けて原型に近い姿となっていた。シャロンの使い間であるカラスたちはその数が半減していた。
椅子に腰掛け一息いれる。腕の痛みは取れなかった。羽根代わりの薄い膜には裂け目が出来ていた。触ると激痛が体を貫く。当分安静にしていなくてはならない。
白馬に乗った男。あれはだれだったのか。あのような大柄な魔術師はこの周辺にはいない。その男はシャロンの術を完全に跳ね返した。ガサにある兵士宿舎を燃やし尽くす程の炎を跳ね返されるとは思わなかった。
ジェドの死はガエフのアランとヴァルの仕業だろうと想像はつく。
彼が連れていた屈強な兵士とは、ガサの魔族兵士である事は、早朝会いに来た兵卒長ゲオルギーの報告で明白となった。魔族兵士の宿舎を燃やし尽くした。魔族の擬態を維持している指輪も灰となり、証拠は完全に消えたに違いない。この処分は速やかに対処せねばならなかった。それが首都ハダルにおられるゴラン様のご意向だったのだ。