五十二 ギロの魔術師・バウとギロの闘犬(三)
ゼップは敷地の隅に建てられている粗末な木造の小屋から数個の首輪と口輪、人の背丈位の調教棒を持ってきた。その棒は人の背丈くらいの長さで、棒の先には槍先とかぎ爪を組み合わせた武器が取り付けてられていた。革紐が雑に巻かれている。粗末な造りから、ゼップの手製である事が伺えた。
「ゼップ、珍しい武器を持っているな」
「これか?」
「バトルフックとも違うな。ゼップ、その武器は何処で見つけてきのだ?」
バトルフックとは歩兵が使う、先端がかぎ爪になった槍の事で、騎馬兵の鎧に引っかけて落馬させる為の武器だった。
「これは何年も前に鉄屑を売っている爺さんから取り上げたのだ。だから俺に聞かれても困る」
「あいつら、此処まで商売に来ているのか?」
「なにに使うのか判らないが、病気で無ければ犬の死骸でも持っていくぞ。トッシュも引き取って貰うか?」
「冗談はよせゼップ。ゴミ掠いの連中は北の村に住んでいるらしいが、どうやって生活をしているのだ?」
「噂では集めた鉄屑を溶かして鉄塊に変えてから売り歩いているそうだ」
「鉄屑なんてその辺に落ちている訳ではなかろうに。集めるのも大変だろう」
「トッシュのその剣も引き取って貰ったらどうだ?同じ重さの酒を貰えるぞ」
日頃寡黙なゼップにしては珍しく饒舌だった。一番信頼していた闘犬バニッシュに制裁を加えなければならない心の重さがそうさせていた。
ゼップの飼育場ではゴミ掠いの人達から残飯を買っていた。残飯といっても、腐って肥料にしかできない物もあれば、家畜の餌にできる物もある。北の村に住む人達はゼップの望んだ残飯を別のバケツにより分けていてくれていた。以前はゼップ自ら町の食堂や路地裏の民家、農家を廻って犬の餌を調達していたのだが、それは大変な時間と労力を要する仕事だったのだ。最近は、餌集めの手間が省ける様になり、犬の世話にかける時間を十分とれた。
北に住む老人達へ支払う金が必要になったもののそれは僅かな額であり、その額を上回る利益を闘犬達から得る事ができた。
しかし、ゼップはいつも汚れた格好でおり、闘犬の飼育が儲かる仕事には見えていなかった。手にしている道具はどれも粗末な手製だった。
トッシュは飼育場に繋がれている他の犬とバニッシュを見比べた。どちらの犬も体型は似ているが、繋がれている多くの犬は頑丈な鼻面をしていて口も大きかったが、バニッシュの鼻は潰れていた。不思議に思いゼップに聞いた。
「バニッシュは他の犬と違って鼻が潰れていて顔の皮がたるんでいるぞ。闘犬場で顔を怪我した事があるのか?」
「トッシュ、良く気がついたな。この犬はバリアン大陸の犬ではないのだ。他の大陸で飼われていた犬種だ」
「どうやって手に入れたのだ?」
「船乗りが置いていった犬の二代目なのだ。鼻が低いから口輪も手作りをした」
ゼップはそういって、染みだらけの革紐が付いた口輪をトッシュに振って見せた。その口輪の先には一部に錆が浮いた鉄製のかごが付いていた。
「革紐の口輪ではすぐに外れててしまうので鉄製かごにしたのだ」
ゼップはそうトッシュに説明した。
バニッシュの親犬はゼップが飼っていた軍用犬だったのだが、トッシュには言わずに済ませた。ゼップはダンク王の軍隊にいた事がある自分の過去を話したく無かったのだ。
かぎ爪の調教棒と口輪を持ったゼップは網で囲われた闘技場へ入ると、バニッシュへ調教棒を向け、呼び寄せた。
バニッシュは短い泣き声を上げ、震えながら近づいてきた。幼い時から育ててくれたゼップに逆らう事は出来なかった。ゼップはバニッシュに鉄のかごで出来ている口輪を付けた。他の犬に噛みついて怪我をさせない為だ。ゼップがその作業を行っている間、バニッシュは媚びるようにゼップの顔を見上げ続けていた。
口輪を付け終えたゼップは、かぎ爪をバニッシュへ向けて振るった。ゼップは犬の訓練を行う時、常にかぎ爪の棒を使ってきた。子犬の時から使用する事でかぎ爪に対する恐怖心を植え付けるのだ。一度付いた恐怖心は死ぬまで抜ける事はなく、調教には有効な道具となるのだ。
調教棒を見たバニッシュは闘犬場の隅に下がった。条件反射だった。
一度飼育場へ戻ったゼップは三匹の犬を連れて再び闘技場へ入った。連れてきた犬たちに長い鉄製の棘がついた首輪を巻いた。
飼育場に繋がれている他の犬たちが興奮したのか騒ぎ始めたがゼップは無視した。
網越しにトッシュが話しかけた。
「ゼップ、犬たちが騒いでいるぞ」
「ああ、繋いであるから大丈夫だ」
「変わった首輪だな」
「敵の犬が首に噛みつくのをこの首輪で守るのさ。長い棘は武器代わりにもなるしな」
この首輪は犬たちの首を守ると同時に凶器としても使える物だった。秘密の仕事の時にはこの棘に毒を塗って人間を襲わせる事もあるのだが、ゼップはそこまではトッシュに説明しなかった。
入口の木戸を内側から閉めたゼップが三匹の犬達の鎖を外すとバニッシュへゆっくりと近づいていった。
先に入れられていたバニッシュは事態に気付いて身構えた。三匹対一匹の睨み合いが続いた時、ゼップが調教棒で木戸を叩き号令を掛けた。
一匹の犬がバニッシュの短い鼻面に飛びかかってきた。バニッシュは開いた口へ頭を突進させた。頭突きをしようとしたのだ。鼻に噛みついた犬の歯が浅く食い込んだが、口輪に使われている鉄の網が上あごに引っかかり、外れなくなった。二匹は闘犬場の中央で激しくもみ合った。
ゼップがバニッシュヘ調教棒を突き出そうとした時、バニッシュの口輪が外れた。噛みついていた犬が口から血を垂らしながら甲高い泣き声を上げ、ゼップが立つ戸口へ突進した。ゼップが思わず避けると突進した犬の衝撃で扉が開いた。頭が良いバニッシュはその機を逃さなかった。ゼップの頭上を越え、戸の外へ向かった。ゼップは調教棒をバニッシュへ向かって突き出した。手応えはあったが、バニッシュは飼育場の外へ走り去った。何処かに怪我を負ったのだろう、血の跡が点々と付いていた。
昼間フーゴやハンスと共にフレッドの倉庫で荷役作業をしていたハリーとフロルは周旋屋の裏にある部屋に戻っていた。部屋といっても、平屋の物置の中を薄い板で仕切り、二メートル四方の空間を幾つか作っただけのものだった。
窓が開け放しの部屋の空気は冷え切っていた。木の板で作られた窓を閉めると部屋の中が薄暗くなり、板の隙間から夕日が差し込んでいた。燭台が一つあったが、周旋屋の女主人は短くなった蝋燭を週に一本支給するだけだったので無駄に使う事は出来なかった。
地面に敷いた板から冷気が体へ這い上がり、壁の隙間からは秋の風が吹き込んでいた。ハリーは、寒さしのぎの為に板壁の隙間の藁屑を詰めなおした。それでも冷たい風が吹き込むのを止める事はできない。気晴らし程度の効果しか無かった。
薄暗い中に座った二人はジーナから貰ったパンとスープを懐に抱き、同室のニックが仕事から戻るのを待っていた。
「フロル、今日の昼はご馳走を食べる事ができたね」
「うん、残りを持ち帰る事が出来たからニックに食べさせる事が出来るよ」
ニックとはこの部屋で暮らす二歳年下の少年だった。三人は三年前に同じ馬車でこの周旋屋へ連れて来られた仲間だった。
「フロル、このスープが入った壺、まだ暖かいよ」
「嘘だろう、随分時間が経ってしまったから冷めているんじゃないの?」
「ほら」
ハリーは胸に抱いていた壺をフロルに渡した。
「本当だ、暖かいや。でもどうしてだろう。ハリーが抱いていたからかな?」
「ジーナは魔術師の塔にいるんだろう、これは魔術かも知れないね」
フロルは胸に抱いた壺から柔らかい暖かさが体に広がっていくのを感じていた。
「でも、ドーラには見つからない様にしないと取り上げられてしまうよ」
ドーラとは周旋屋の女主人でトッシュの女だった。
「今日の人足頭は優しい親方だったね、ハリー」
「ホルガーさんだろう。大男で怖い顔をしているけれどね」
「それにしてもフーゴ達はなんで荷役仕事なんかしているんだろう。牛の肉を食える位だから貧乏とも思えないけれどな。ハリーはどう思う?」
「仕事で失敗して罰を受けているのかも知れないよ」
今日初めて会ったフーゴ達の話題に終わりは無かった。
物置の扉が乱暴に開けられ、外の陽が部屋を明るくした。ハリーは慌ててパンが入った袋を体の後ろに隠した。フロルは隠し損なったスープの入った壺を抱えたままだ。
ハリー達がいる部屋に上半身裸の少年が転がり込んできた。ニックだった。鞭の跡なのだろう、背中が傷だらけになっている。
「ニック、お客様の荷物を落として台無しにした罰だ。おかげで半分しか金を貰えなかった。今夜は食い物抜きだよ。おや、ハリー達はもう帰っていたのかい?仕事はちゃんとやったのだろうね」
使用人を罰する鞭を手にしたドーラが怒りの言葉をまくし立てながら部屋に入ってきた。
「はい、ドーラさん。人足頭のホルガーさんが明日もこいといってました」
「ハリー、あのうるさいホルガーがあんた達を気にいったというのかい?信じられないね」
「嘘ではないです、トッシュさんに聞いて貰えば判ります」
「穀潰しのトッシュかい? あいつは足を怪我する迄はましな男だったのに、最近はすっかり役立たずになっちまった。お前達トッシュと一緒に帰って来たんじゃないのかい?」
「いいえ、トッシュさんがいないので二人で帰って来ました」
美味しそうな匂いに気付いたドーラの目が、フロルが抱えている壺を見た。
「なんだい、その壺は」
「今日行ったホルガーさんの倉庫で出た昼食です。余ったのでもらいました」
ハリーが慌てて説明したがドーラの鞭がスープの入った壺を持つフロルの手を打った。
フロルの手から壺が床に落ちて割れ、残っていた肉入りスープが床に飛び散った。
「牛の肉じゃないか。そんな物が人足達に出される訳はないだろう、何処かの食堂から盗んだんだね。嘘を言うんじゃないよ。」
「明日もホルガーの所で働かせるかどうかはトッシュに確認してから決めるからね」
ドーラの動きが一瞬止まった。犬の騒ぐ声が風に乗って聞こえて来たのだ。ドーラは乱暴に扉を閉めて出ていった。部屋は再び暗くなった。
「ニック、大丈夫かい?」
フロルがニックに服を着せようとしたがハリーがとめた。
「フロル、背中の血が乾かないうちに服を着せると張り付いてしまうよ」
「ごめんよ、ニック」
フロルは手にした上着をニックの側に置いた。
「ありがとうハリー、フロル、いつもの事だから大丈夫だよ。何を持っていたんだい?」
ハリーは背中に隠していたパンをニックに見せた。
「今日いった作業場で出た昼飯の残りさ。貰ってきたんだ。でも牛の肉が入ったスープ、勿体なかったな」
「大丈夫だよ。食べられるよ」
ニックは床に散らばった肉を口に入れた。
「汚いよ、ニック」
「ハリー、そのパン僕も一切れ貰っていいかい?今日は飯抜きだったんだ」
ハリーがパンを一切れニックに渡すと床に僅かに溜まっているスープへ付けた。こぼれたスープを吸い、濃い茶色に変わったパンをニック食べた。床の砂が付いたのか、口の中に苦い土の味と砂の嫌みな舌触りが広がった。それでもフロル達が持ち帰ってくれたスープの美味しさを感じる事はできた。
「フロル、美味しいよ」
悔しさから、惨めさからか、それとも二人の友情に対してなのか判らない涙がニックの頬をつたっていた。
そんなニックにかける言葉を知らないハリーとフロルは黙って硬くなりかけたパンをかじった。無言の一時が過ぎ、ニックは冷え切った体に上着をはおった。
「食器の欠片を拾わないと怪我をするね」
もうじき完全に陽が沈んでしまうと思ったフロルは窓を開けて部屋を明るくした。三人で壺の欠片を拾い始めた。細かい欠片は床板の隙間から下に落とし、大きな欠片は部屋の隅に集めた。
「フロル、この欠片暖かいよ」
ニックは手にした欠片をフロルに渡した。
「嘘だろう」
その欠片から温もりを感じた。
「他にもあるかな?」
三人が見つけたのは二個だけだった。その表面には見慣れない絵が描かれていた。フロルが蝋燭を灯してかざすと、ナイフの先で削り取っただけの頼りない文様である事が判った。
「これ、魔法陣じゃないかな?」
三人は顔をつきあわせて確認した。
「ニック、一つは怪我をしている君が持つといいよ。こっちは僕とハリーで使うよ。でも朝までには冷めてしまうかもね」
フロルは一つをニックに渡した。
「蝋燭が勿体ないよ」
ハリーが蝋燭を消すと部屋は再び暗くなった。
ゼップの飼育場から逃げた闘犬のバニッシュは藪の中を走っていた。普段は平気な茂みの折れ枝が左足の傷に触って痛かった。バニッシュが探していたのは昼間出会った強い犬と、心の中に話しかけてきた不思議な少女の匂いだった。戦わずに自分に負けを認めさせたあの犬なら自分を救ってくれるかも知れないと思ったのだ。ゼップの飼育場とギロの港町しか知らないバニッシュは陽が暮れて闇となった中を、ひたすら匂いを求めて彷徨った。バニッシュを探しているのか、後ろを犬の騒ぎ声が追ってくる。
後ろの鳴き声が近づく度に水の匂いを探して川を渡った。冷たい流れが傷を洗ったが、気にしている余裕は無かった。
バニッシュが犬と少女のハッキリした匂いを嗅ぎつけたのは、傷ついた左の後ろ足が完全に動かなくなる頃だった。
石造りの塔が目の前に建っていた。
昼の労働が終わったフーゴとハンスが馬車を引いてガサの町はずれにある魔術師の塔へ戻ったのはそろそろ陽が暮れようとしている時だった。夕食の席で、白馬のエニブが港町ギロにある魔術師の館へ引き取られた事を怒りを交えて報告したがジーナは驚かなかった。その事は鍛冶屋のダンも、検問所のクライドも忠告していた事だった。
魔術師の塔の主であるレグルスの所へ修行に来ていたビルも皆と食事を共にしていた。ビルに言わせると、ダンが作る食事は、塔で食べるエレナの食事と比較にならない程まずいのだという。『今までは平気だったじゃないか』そういう誰かの声に席にいた全員が笑った。
最近では用が無くても塔に寄り、食事を済ませてから帰るのが日課になっていた。 ビルが居なければダンは居酒屋で酒を飲みながら食事をするのだろうとジーナは思っていた。
疲れ切っていたのか、フーゴとハンスは食事が終わると早々と部屋へ引き下がったので、塔は陽が沈んだ頃には静まりかえってしまった。
ジーナは魔術師姿になり、裏山でバウを相手に杖術の鍛錬をしてから塔の隠し部屋へ戻った。
ジーナは羽織っていた魔術師のマントを脱ぐと、昼に見た磁石の魔法陣を思い出しながら刺繍を始めた。黒い質素なマントだったが、様々な魔法陣が黒糸で刺繍してあった。この刺繍は全てジーナがしたものなのだ。ジーナの唯一女らしい趣味だった。
蝋燭一本の暗い室内だったが、異界の指輪であるアルゲニブがジーナの瞳を緑色変えてくれるおかげでジーナは暗闇でも刺繍ができる程良く見えた。最近ではジーナが意識する前に瞳の色が変わっていた。明るい昼間は透き通るような黒色の瞳になった。
ジーナの足下に座ってふさふさした尻尾を振っていたバウが突然立ち上がった。
バウが外に出たがっている事に気付いたジーナはマントを羽織り、文様の杖を手にしてから隠し部屋の戸を開け、大広間に出た。目を閉じて周囲の気配を探った。塔の住人達は寝ているが外に動物の気配を感じた。
バウが犬用に作られた小さな鉄扉の留め金を鼻で押し上げて外へ出た。ジーナも住人用の木戸をあけて外に出る。正面大扉の脇にある木戸の下にバウ用の小さな鉄扉を付けたのはニコラ老人だった。その扉ができる前はバウが出入りする度に誰かが木戸を開閉しなければならなかった。ニコラは小動物が出入りできなくする為にバウ用の鉄の扉にバウの鼻で外したり引っかけたり出来る留め金をつけたのだ。
昼間見た茶色の大型犬が塔から出てくるバウとジーナを見つめていた。
闘犬のバニッシュは目の前に現れた犬と人物を不思議そうに見つめていた。匂いは昼間出会った犬のものなのに毛の色が黒く、昼間とは違った威圧感を持っていたのだ。
黒いマントを着た小柄な人物は少女の匂いがしたが、別人にも思えた。
バニッシュの戸惑いに気付いたジーナはバウに白毛に変わる様、指示した。白くなったバウを見て安心したのか、尻尾を尻に巻き込み左の後ろ足を引き摺りながら近づいてくる。
遠くで犬の鳴き声が聞こえると尻を引き、腹ばいになってバウの目を見ながら小さな鼻声を出した。大きな体が小刻みに震えている。
バウは立てた耳を前後に動かして遠くで聞こえる犬声の方向を探している。犬の居場所が分かったようだ。バウがジーナを見上げて二声吠えた。バニッシュが野良犬とケンカをしたのだと軽く考えたジーナは、逸るバウに心で許しのサインを送った。その瞬間にはバウは走り出していた。残されたジーナとバニッシュはその方向を見つめた。白毛のバウが走りながら黒毛に変身してゆくのが遠目に確認できた。
ジーナはバニッシュに話しかける。
「いくわよ。バウの跡を追ってちょうだい」
意味が通じたのか、バニッシュは鼻先を地に付けながらバウの跡を追い始めた。
ジーナは、片足を引き摺りながらも走ってバウを追いかけるバニッシュの後ろをついていった。
バウは逃げてきた時のバニッシュの匂いを逆にたどりつつ複数の犬の鳴き声がする方向を目指して走った。毎日塔の裏山周辺を散歩しているバウは、その獣道が港町ギロへ通じている事に気付いていた。また、バウと共に山道で鍛えられているジーナがこの程度の獣道を苦にする事なくついて来れる事も判っていた。
突然枯れ草の空き地へ出た。ジーナが良く鍛錬をしている場所に似てはいるが、違う所だった。
狼の血を引くバウは夜空に向けて特有の遠吠えを行った。騒がしかった犬の鳴き声が止んだ。
バニッシュが逃げた後、ゼップはバニッシュを追いかける事にした。トッシュは飼育場を早々に引き上げていた。
闘技場でバニッシュと戦わせた三匹の犬のうち、二匹は戦意を喪失しており、うち一匹は口に怪我をしていた。バニッシュが逃げた後に血の付いた口輪が落ちていた事から誤って鉄の口輪を噛んで怪我をした事は容易に想像できた。
このままではバニッシュが野犬となり、町の人達に迷惑をかける可能性がある。悪い噂がたってはゼップの仕事は成立しなくなる。ゼップはバニッシュを連れ戻す事に決めた。
飼育場の中で尤も強い犬数匹の鎖を手に持ち、バニッシュの後を追わせる事にした。左手に数本の鎖を持ち、右手には調教棒を持った。どの犬にも長い鉄の棘が付いた首輪を嵌めた。
逃げたバニッシュの姿を見ていた犬達は興奮していて落ち着きがなく、大きな吠え声を出していた。
バニッシュは怪我をしている。急ぐ事は無かった。犬たちは、藪の中を這い、川を渡ろうとした。ゼップは忍耐強く犬たちの後ろを歩いた。周囲はすっかり暗くなっていた。ゼップは月が出ている事に感謝した。
何度か川を渡った時、近くで狼の様な遠吠えを耳にした。犬たちが立ち止まった。どの犬も振り上げていた尻尾を下げている。ゼップが調教棒の先で犬達の尻を突いた。犬たちは再び歩き始めたが、その歩みはゆっくりとしたものになった。
いきなり広場に出た。木々生えていない、自然にできた枯れ草の空間だった。ゼップが連れている闘犬にも負けない黒い大型犬が月明かりを背にして立っていた。肩の筋肉が盛り上がっている。良く手入れをされている毛並みから、野犬ではない事が想像できた。
この犬が相手では自分が連れて来た犬たちが躊躇するのも無理はないとゼップは思った。怪我をしているバニッシュを追いかけてきてこの黒犬と出会ったのが偶然ではない気がした。
ゼップは仕事柄、港町ギロの殆どの飼い犬を把握してる。この様な立派な犬であれば知らない筈は無かった。また、隣のガサの町には大型犬を飼える様な商人は住んでいない筈だった。
ゼップが連れてきた犬たちと黒い犬の睨み合いが続いていたが、ゼップの犬二匹は尻尾を又にはさみ、鼻声を出しながらゼップを見上げている。すでに戦う気力を失っていた。残った二匹は黒犬に向かおうとしていた。
バウは目の前に現れた数匹の犬と棒を持つ人間を見つめていた。バウが唸りながら犬たちを睨むと、そのうちの二匹はバウに背を向けてしまった。気をつけなければならないのは犬たちではなくて棒を持った人間である事をバウは悟った。
棒を持った人間が号令をかけると、犬たちの中で一番大きい犬がバウに向かって飛んだ。バウもつられて飛ぶ。
向かってきた犬よりも数段高く飛んだバウは、先に着地した犬の背中に着地すると、前足で邪魔になる首輪を引っかけ、首筋の柔らかい所を噛むと、五十キロはありそうな大型犬を振り回した。噛まれた犬は甲高い声で啼いた後、地に横たわった。首から流れ出る血で地面が赤く染まった。
バウは力を入れすぎた事に気付いたが遅かった。横たわった犬は動く気配が無かった。意味なく戦う事と不要な殺し事はバウの飼い主であるジーナがもっとも嫌う事だった。この事が知れるとジーナに嫌われるかも知れないと思ったバウは悲しげな鳴き声をあげた。
港町ギロの闘犬の中でも十位以内には入る自分の犬が一撃で倒された事にゼップは驚いていた。
この黒い犬を闘犬に使えば間違いなく一位になれるに違いない。だが客に賭けさせる事で成立している闘犬の商売はでは、目の前にいるような強すぎる犬では賭けが成立しないかも知れないとも思った。
ゼップはもう一匹の犬をけしかけて見た。また一撃で倒されてしまうだろうか。
別の犬がバウに飛びかかってきた。その犬は用心しているのか、飛び方は慎重だった。バウは飛び下がってその攻撃を避けた。この犬は先に攻撃した犬よりも動作が鈍そうだった。先ほどの失敗もある。バウは攻撃を外した犬へいきなり反撃をする事はやめ、逃げ回る事に決めた。そのうちに疲れて諦めるだろうと思ったのだ。闘犬がバウに噛みつこうとするが、バウの早い動きにはついていけなかった。
黒い犬の戦いを見てゼップは不思議に思った。自分がつれて来た犬が明らかに格下なのに、黒犬は攻撃を加えようとはしていなかった。何故か逃げ回るばかりだった。それでもたまには攻撃を続けるゼップの犬の顔を前足で払っている。
その様なもみ合いが暫く続いた後で黒犬が闘犬を睨みながら低い声で唸った。ゼップの闘犬は尻尾を巻いてゼップの元へもどってしまった。
黒犬の後ろの茂みから人が現れた。背の低い魔術師だった。魔術師の姿を認めた黒犬はその横へ移動した。息を切らしている様子も無かった。ゼップが連れてきた犬の完敗だった。
魔術師が黒犬の主人である事は明らかだった。
魔術師の後ろへ隠れる様にしてバニッシュも現れた。
ジーナは空き地に倒れている犬と、両手両足に毛皮を厚く巻いた男を交互に見た。倒れている犬の飼い主のようだ。他にも三匹の犬が男の周囲にいた。
バウからは戦いの様子とその結果を詫びる心が伝わってきた。
「その犬の飼い主はお前か?」
ジーナ倒れている犬を指し、男の声でゼップに話しかけた。
「俺はギロの町で闘犬を飼っているゼップだ。魔術師様の犬が俺の犬をかみ殺してしまった」
ゼップは、かつてはダンク・コリアードに仕える騎士だった。ダンクは二十年前まではバリアン大陸の中央北、ガナラ山の東側に位置するバレモル高地にいた。同じコリアード家でも不毛の土地をその領地としていたのだ。しかし十数年前に前王が事故で死亡すると首都へ入り、王の座を継いだのだった。
ゼップはそんなダンク王の側近を主人に持つ騎士だったのだが、魔術師達の陰謀と策略についていけず、放浪の身となった。特にダンクの専属魔術師であるゴランは顔を見るのもいやな相手だった。
そんな訳で今はバリアン大陸の西北にある港町ギロで闘犬の飼育をして生活していた。ゼップの過去をしる者はいなかった。
ゼップにとって魔術師会は最もつき合いたくない集団だった。
「ゼップ、申し訳無いことをした。しかし、先に攻撃したのはそちらの犬の様だ。私の犬が責任をとる事もないと思う」
「では魔術師様の後ろにいる犬を返してくれ。その犬は俺の飼育場から逃げた犬なのだ」
「この怪我をしている犬は戻りたくないといっている」
犬は人間の言葉を話せない。変わった事を言う魔術師だとゼップは思った。
「だが、野犬になって町人や民家を襲っても困る」
「ゼップが許してくれるなら魔術師の塔で飼おう。野犬にはしない」
ゼップは魔術師の後ろにいるバニッシュを見た。怪我を負った後ろ足は満足に動かせないようだ。もう闘犬としはて使えないだろう。しかしこのまま魔術師に取られるのも癪に障る。どうせ払わないだろうが、試しにふっかけてみようと思った。
「金貨三枚で譲ってやる。嫌ならその犬をこっちへ寄越せ」
「判った。明日誰かに持って行かせよう。バニッシュは私が連れていく」
そう言い残してジーナは来た道を戻った。バニッシュがその後ろを歩き、黒い犬がさらに後ろを歩いていった。
魔術師がバニッシュと出会ってから幾らも時が経っていない筈だ。それなのに魔術師とバニッシュは古くからの主従の様にふるまっていた。
闘犬バニッシュはどの様にして魔術師の存在を知る事ができたのか、魔術師はバニッシュという闘犬の名をどの様な魔術で知り得る事が出来たのか、ゼップは不思議でならなかった。