四十七 ギロの魔術師・ギロの荷役仕事(二)
翌朝、ジーナは隠し部屋のベッドで目覚めた。部屋の高い所にある空気穴から僅かに灯りが差し込むだけの隠し部屋では、黒毛となったバウが見習魔術師達を起こして散歩に出る騒がしさが、目覚めの合図となった。近頃は、ジーナが長期に部屋を借りているタリナの宿よりも魔術師の塔で寝泊まりする事が多くなった。それは一階が居酒屋となっているリナの宿は深夜でも騒がしくて落ち着かないからだ。静寂が好きなジーナは塔の静かな環境が気に入ってしまったのと、ニコラの作ったベッドが快適だったからだ。
ジーナは薄暗い中で蝋燭を付け、二人の為に準備した長さ四十センチ前後の二本のダガーの手入れを始めた。
ダガーに埃や塵が付いていない事を確認してから、油を染み込ませた柔らかい布で刃を丁寧に拭ってゆく。布が黒く汚れるのは古い油が取れでゆく為である。清潔な布で汚れた油をぬぐい取ってから、再び油を染み込ませた布で刃全体に新しい油の膜を作って錆ない様にするのだ。
次に柄の緩みや巻かれている革の具合を確認した。
刃物の手入れ法は、今は亡きローゼンがケリーランスで鍛冶屋を開いていた時に教わっていた。この様な簡単な手入れでは刃に浮かんでいた曇りは取れなかったが、今はこの程度で良いだろう。
魔術師姿となったジーナはそのダガーを持って隠し部屋を出、竹林へいった。小柄なフーゴに与えようと思っていた軽い両刃のダガーは、切れ味が鋭く、何の動物か分からない角で作られた柄は手によく馴染んだ。
一方、太っているハンスの為に用意した重たいダガーは刃先側に重心があり、勢いで竹を切る事が出来た。また、刃が広く、厚い事から、剣との打ち合いにはまけそうになかった。
尤も、今の見習魔術師の腕では、剣との打ち合いどころか、逃げ回るのが精一杯かも知れなかった。
遠くから犬のバウが近づいて来るのを感じた。バウの気配は魔石の腕輪の力を借り無くても感じる事が出来たし、心で強く思えばバウは何処にいてもジーナの元へ戻ってくる事ができた。
沼でおぼれていた赤ん坊のバウを救ったのはジーナが八歳の頃だったが、バウが十歳になっても若犬の様に元気なのは、ジーナが持つ魔石の腕輪の影響なのかもしれなかった。
まだ鍛えられていない見習魔術師二人との散歩では物足りないバウはジーナがいると決まってじゃれついてきた。特に、ジーナが魔術師姿の時には遠慮する必要が無い事を知っているらしく、殆ど全力で飛びかかってくるのが常だった。
ジーナは手にしていた二本のダガーをまとめて腰の鎖ベルトに差し、文様の杖を構えた。
ジーナを見つけたバウは高く跳躍すると、数メートルも飛んできた。バウの息を感じるまで引きつけてから、ジーナが横にそれると、後ろへ着地したバウはジーナの背へ再び跳躍した。
ジーナは手にした杖を後ろに突き出してバウを牽制する。
息を切らしながら漸く山を下りてきたフーゴとハンスはジーナとバウの戦いを、目を凝らして見ている。バウとジーナにとっては遊びなのだが、少年二人には遊びの限度を超えている様に見えていた。シンディとバウのじゃれ合いとは比べものにならない程激しかった。
フーゴとハンスにはとても真似が出来ない激しい戦いは、シンディの時と同じくバウとジーナが抱き合って終わった。
「フーゴ、ハンス、散歩をありがとう」
ジーナは、アルゲニブが作り出す低い男の声で話しかけた。
ハンスは汗を手で拭いながら言った。
「ケルバライト先生、とんでもありません。散歩をさせられているのは僕たち二人の方です」
僅か一週間ではあるが、この塔へやって来たときよりも二人が逞しく見えた。
ジーナは両刃の軽めのダガーをフーゴに、重い片刃のダガーをハンスに渡した。
「この二本は大切な物だから無くさないように大切に使って欲しい。剣と戦う時に、むやみに打ち合うと刃こぼれがするから気を付けてくれ」
他にも手入れや、鍛錬について注意を与えた。二人とも思い思いに振ってみたり、構えてみたりしている。
「二人にこれだけは言っておこう。このダガー二本は、私にとって大切な物だ。無理な戦いをして敵に奪われる位なら、逃げ帰って欲しい。このダガーを必ず持ち帰るのがこのダガーを二人に与える条件だ」
これはジーナが今思いついた事ではない。一年以上前、首都ハダルの南に位置するケリーランス公国で初めて人を殺した時、ローゼンが自らのダガーをジーナに渡して言った言葉だったのだ。ローゼンはケリーランス近郊の滝に落ちて命を落とし、その時渡されたダガーはジーナの物となって今は塔の隠し武器庫にある。
エレナが革製のベストを手に現れた。
「君たち用のベストよ。破れてしまったら繕ってあげるから言ってね。それともジーナに直して貰いたい?」
革のベストを着ながらハンスが答えた。
「とんでもないです。ジーナはとても強いけれど、ジーナに繕って貰ったら縫い目がカテナ山脈みたいにギザギザになってしまうもの」
何故かジーナは繕いものが苦手だった。魔術師のマントに魔法陣の刺繍を作成できたのが奇跡のようなものだった。
『ジーナ、怒らなくて良いのか?』
『アルゲニブ、ここで怒ったら私の正体がばれてしまうわよ』
そんな事はアルゲニブは承知の上だった。ジーナをからかったのだ。ジーナとアルゲニブの会話は心で行っていたので、他人に気付かれる心配は無かった。
魔術師姿のジーナは二人を促して港町ギロへ向かった。
塔の主である魔術師長レグルスは外の賑やかさに目が覚めた。ニコラが作ってぶら下げてくれた寒さよけの竹の簾を紐で巻き上げてから窓を開けた、一層冷たくなった風が室内に流れ込んできた。森の木々の葉は力を失い、葉がすっかり枯れ落ちた木も目立つ様になった。北西のこの地に雪が降るのもそう遠い事では無さそうに思えた。
レグルスは、窓から下にいる若者達の様子を眺めた。昨日、商人の使用人が来ていたところを見ると、今日から見習魔術師二人はギロの町で仕事をするのだろう。これはケルバライトが以前から考えていた事で、レグルスも承認していた事だった。
それは、魔術師といえど一般の事柄を知らなくては役に立たないというケルバライトの思いからだった。確かに最近の魔術師は魔術師会の地位争いにばかり目を奪われ、本来の魔術の鍛錬すら忘れている物が大勢いた。ましてや、町人達や職人達が普段の生活で行っている事へ興味を持つ者はいなかった。
最近の魔術師は館に籠もりきりで一人旅をしようと考える者もいない。今の魔術師達は魔術師会を離れて生活を出来るものは幾人もいないだろう。
老齢となったレグルスがまだ若い頃の魔術師会は王家の側近だけで、地方にまで勢力を伸ばす会では無かった。また、何処にも属さない魔術師が大勢いて個々に魔術の研鑽を重ねる旅をしたものだった。
レグルスも地方に伝わる魔法陣や、古い建物、古書に刻まれた魔法陣を研究、収集して歩いた。そのためには野宿を続け、馬にも小舟にも乗ることが多々あった。
コリアード家専属の魔術師として若い者の指導をする様になってからは城暮らしが長く続き、旅に出る事は無くなった。若いケルバライトを見ては、若い頃の苦労を懐かしく思い出すのだった。
この地へ来てまだ一月に過ぎない筈の若い魔術師ケルバライトが、弟子を二人得て、商人の知り合いも出来ている。また、鍛冶屋のダンやその弟子のビル、幼女のシンディ等、ケルバライトを慕う人達が沢山いる。
レグルスは、彼には人の心を引きつける何かがあると思った。
身支度を終えたのか、古びた革のベストに着替えた若者二人とケルバライトは港への道へ消えていった。
朝市へ野菜を売りにゆくのだろうか、或いは冬支度の買い出しなのか、陽が昇ったばかりだというのにギロへの道には荷車を引く人達が行き交っていた。
二人を従えて歩く魔術師姿のジーナを見かけると、往来の人々は道を譲った。この町では魔術師は嫌われていたのだ。難癖を付けたり、雑用を命じたりする者が沢山いた為、魔術師は尊大な態度を取るくせに人々の役にたっていないと思われていたのだ。
暫く行くと、ジーナの心を探ろうとする他人の意識を感じた。かすかに感じるその意識に、異界の指輪であるアルゲニブが反応してバリアを張ろうとしたがジーナはアルゲニブの動きを押さえ、心に穏やかな空間を作り出してその意識が探る儘にさせた。ジーナはその人物を探るような愚は犯さずその場を通り過ぎた。勿論後ろの二人は気付いていない。その意識は次第に遠ざかっていった。
『ジーナ、バリアを張らなくて良かったのか?』
『そんな事をしたら、私の力を知られてしまうじゃないの。そっとしておくのが一番良いのよ』
アルゲニブは納得した。
湿った鈴の音が聞こえてきた。握り柄の先に土鈴をぶら下げた荷車がやってくる。老人に引かれたその荷車にはボロ布が積まれていた。すれ違う時に異臭を感じた。ボロは明らかにゴミと分かる物だった。
「へえ、あのお爺さん、ゴミを荷車に積んでいるよ。惚けてしまったのかな」
「ハンス、違うよ。あれはボロ屋だよ。朝早くか、夜更けに町の屋敷や店を廻って布きれや鉄屑のゴミを集めているのさ。あの鈴の音を聞くと、女達が捨てる布きれを持って渡すんだ」
「そんな物集めてどうするんだよ。燃やしてしまった方が楽じゃやないの?」
「よく分からないけど、同じ重さの野菜と交換してくれるんだ。でも、魔術師の館には来た事が無いからハンスが知らないのも無理はないかもな」
「鉄屑だったら重たいから沢山の野菜が貰えるんじゃないのか?」
「鉄や銅の屑は同じ重さの酒と交換するらしいよ」
フーゴの話によると、十年くらい前から何人かの老人が荷車を引いてゴミを集めに現れる様になったのだという。噂では北の村へ持ち帰って衣類や金属に分けた後、材料として別の村へ売りに行くらしい。ダンの所にも鉄塊を持った者が稀に訪れる事があった。その鉄屑は不純物が多くて使いものにならない、とダンはこぼしていたが、彼らに同情しているのか、多めの金を渡して引き取っているらしかった。
「ハンス、夜中にあの鈴を聞いたら近づかない方がいいぜ」
「なんで?」
「夜中は汚物を運んでいるのさ。昼間ではあの臭いは強烈すぎるからね」
「それは僕も知っているよ。農家に持って行って堆肥にするんだろう。昔からあったじゃないか」
「でもボロ布や鉄屑を集め出したのはここ十年位前かららしいよ」
バリアン大陸では様々なものが値上がりし、また入手が難しくなった。金貨の価値が下がった為だという者もいたし、コリアード軍が自軍の為に買い漁っている為だという者もいた。
港町ギロの検問所には、魔術師ジェドの白馬を世話していた兵士のクライドが立っていた。クライドは魔術師姿のジーナに敬礼をしてから、後ろを付いてくるフーゴに話しかけた。
「おや、魔術師の館にいたフーゴじゃないか。今日は魔術師様の付き人かい?」
「クライドさん、お久しぶりです。俺たち、今日からこの町で働く事になったんです」
「この前まで魔術師の館で魔術修行をしていたと思ったが。魔術師の見習は止めたのかい?」
なにか言おうとするハンスを手で遮ってフーゴが続けた。
「俺たち、魔術師の館を首になったんです。今は魔術師の塔で下働きをしているんだけれど給料が出ないからこの町で働くんです」
「あそこも魔術師会なんだろう?金は沢山あるだろうに、何で金を払ってくれないんだ。」
そう言いながら目線をジーナへ向けた。
「クライド殿、魔術師会は魔術師の人数分しか金を送って来ないのだよ。彼らに少しでも良い物を食べて貰う為に働いて貰う事にしたのだ」
ジーナは男の声で言った。
クライドはこの魔術師が自分の名を知っている事に驚いた。検問所の前を何度か行き来した事はあるが、自分の名を教えた記憶は無かった。それなのに、名前を知っていて話しかけてきた。魔術師の館にいる、鼻持ちならない魔術師達はどんなに長い付き合いでも幹部以下の兵士達の名を覚えようとはしなかった。覚えていても、呼び捨てにする者が殆どだった。
以前から興味を引かれていた魔術師に名前を覚えられていた事がクライドには嬉しかった。
「魔術師様、今日はどちらへ行かれるのですか?」
「商人のフレッド殿の館へ行くのだ」
「ケルバライト様、その屋敷なら僕が知っているから大丈夫です」
ケルバライトが道に不案内だと誤解したハンスが答えた。
「ハンス、相変わらず太っているな。少し痩せた方が良いぞ」
「分かっているよクライドさん、鍛えてクライドさんにも負けない様になるよ」
ハンスはそう言って今朝渡されたばかりの重めのダガーを抜いて見せた。その間にも多くの人が検問所を通り過ぎてゆく。人目に立ちたく無いと思ったジーナは二人を促して、南側にあるというフレッドの館へ急いだ。
「フーゴ、こんな格好をしていても僕たちは魔術師なんだぜ。クライドさんに魔術師のペンダントを見せても良かったんじゃないか?」
「ハンス、ケルバライト先生から魔術師である事は隠せといわれてるだろう、相手がクライドさんでも秘密にした方がいいと思うよ」
フーゴの言葉にハンスは納得した様だった。
三人を見送りながら、クライドは、ハンスが手にしていた幅広なダガーがこの辺りでは見かけない珍しい物である事について考えていた。剣に疎いハンスがしつらえたとは思えない。きっと魔術師のケルバライトが用意したのだろう。彼には剣の知識もあるという事になる。魔術師なのに剣の知識も持ち合わせているケルバライトに、さらに好感を持った。
ジーナは隠し武器庫で適当なダガーを選んだだけなのだが、その事をクライドが知る筈は無かった。
海が近づいた為だろう。港町へ入ってから潮の匂いがきつくなってきた。ジーナはこの匂いが嫌いでは無かった。物心ついてからカテナ山の麓で過ごしてきて海とは無縁のジーナにとって、この潮の臭いは新鮮で清々しさを覚えるものでもあった。
家並みが入り組んでくるに従って黒い鳥の姿が目立ち始めた。カラスだ。ジーナが港町へ来るのはいつも昼間で、カラスの姿をあまり見かけなかったが、食べ物屋や食料品を売っている店の路地裏には多くのカラスがたむろしているらしかった。
立ち止まってカラス達を見ているジーナにフーゴが言った。
「ケルバライト先生、魔術師の館のシャロン魔術師長様もカラスを飼っているんですよ」
「嘘だろフーゴ、カラスが魔術師の館にいる所を僕は見なかったよ」
「夜中ジェド様のお使いで居酒屋に行った帰りにシャロン様が館の屋上でカラスに餌をやっている所を見たんだ。何羽もいたから気持ち悪かった」
「フーゴ、見間違いだよ。それにあの館には屋上なんて無かったじゃないか」
魔術師の塔と同じように魔術師の館にも秘密の階段や秘密の部屋があるのだろう。
ジーナは視線を感じて頭上を見回した。一羽のカラスが屋根の上からジーナ達一行を見下ろしている。幼い頃から用いていた動物と仲良くする術を使った。動物の心にある警戒というカギを外すのだ。魔術師の塔にいるコマドリも、モグラもこの方法で仲良しになったのだ。
しかし、そのカラスの心は閉ざされ、ぼんやりとではあるが閉ざされた心の向こうに魔術師の姿が見える。
ダルコの村で紙作りをしていたクリフの所から連れてきたネズミも同じく魔術師に探られていた事を思い出した。
ガエフ公国にいた魔術師のサイラスがそのネズミを使い魔として利用し、クリフが造り出す新しい紙の製法を盗もうとしたのだ。しかし、仲間割れからサイラスは旅芸人の頭領アモスに殺されてしまった。使い魔だったネズミは今、その呪縛から解かれて魔術師の塔でモグラと仲良く生活している。
魔術師の誰かがカラスを使って町の様子を監視しているに違いない。
ジーナはフーゴとハンスに、静かにする様、手で合図した。二人は騒いだので怒られたと思ったらしく、すぐに会話をやめ、ジーナの後を歩く。
以前、エマがこの町で襲われた時に助けた自分の姿をあのカラスに見られていただろうか。不安がよぎったが、今更考えても仕方がない。ジーナは魔術師の呪縛に囚われているそのカラスを無視する事にした。