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ジーナ  作者: 伊藤 克
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三 魔術師の塔・ダンの鍛冶屋

 カテナ街道を北へしばらく歩くと形ばかりの石壁が見えてきた。地面から突き出た様に残っている、膝下くらいの高さで崩れ落ちた石垣。それは石壁の残骸だった。

 かつてコリアード王国が進軍してきた時の名残に違いない。軍が去った後、役目を失ったほとんどの石壁は地元の人たちに取り壊され、民家の壁に使われている。一部の大きな町では、賊から町を守るために石壁を維持しているが、カテナ街道沿いのように貧しい町では賊から守るものもない。

 その石垣のそばに町の入口を示す石造りの標識が立っていて文字が刻まれていた。

『ここよりガサの町へ入る』

 石碑の文字はかすかに読み取れる程に風化していた。名ばかりの石壁よりも遙かに古くに立てられたに違いない。北西の地方独特の、乾燥期がない気候のせいもあったのだろうが、その石碑は角が立った石壁の残骸と異なり、長い間風雨にさらされて丸みがあり、苔で覆われていた。


 崩れ落ちた石垣の奥に木造の建物が二棟建っていた。大きな建物は農家数件集めた程の広さがある平屋の建物だ。手入れを怠っていたのか、よく見れば藁葺の屋根からは雑草の葉が生えていた。そしてその建物の手前に立つ小さな小屋。大きな建物は兵士の宿舎、小さな小屋に見えるものは検問所の残骸だった。そしてそのどちらにも人影はない。

 ジーナがこの道を通ったのは三度の筈だ。一度目はまだ記憶にも無い程幼い頃、ローゼンに抱かれて北サッタ村へ初めて来た時。二度目はローゼンと共に馬に揺られてケリーランス公国へ向かった時。そして今。

 しかし、ローゼンに抱かれていた幼少の頃の記憶は無いし、二度目の時は深夜に馬を走らせてケリーランス公国へ急いでいた。従ってこの様にじっくりとガサの町入口を見るのは初めてだったのだ。

 ジーナは小さな足音が近づいて来る事に気づいた。その足音は崩れた石垣に飛び乗り、ジーナの目の前を通り過ぎた。八、九歳くらいだろうか、厚手で、裾が短めな半袖チュニックとその下に半ズボンをはいた男の子だ。器用にバランスを取りながら石垣の上に立ったその子がジーナに話しかけてきた。

「何しているの?」

「危ないわよ。そんな所にたったら。」

「大丈夫。」

 そう言って身軽に飛び跳ねている。

「その犬、君のなの?」

「あら、生意気ね。きみよりもだいぶお姉さんよ。」

「なんだぁ、小さいから同い年くらいかもと思った。」

「まぁ、失礼ね。あんた名前は?」

「ごめんなさい。俺はビル」

「あら、以外と素直なのね。私はジーナよ。」

「その犬、お姉さんのなの?」

「うん、私の友達。」

 ビルがバウの頭を撫でる。しっぽを振って答えるバウ。先ほどの老人に見せたような愛嬌をビルにも見せた。バウもビルが嫌い出は無いらしい。

「この犬が怖くないの?」

「うん、かわいいじゃん。」

 まだ石垣の上にいるビルにジーナが注意した。

「向こうは兵隊さんの宿舎でしょ。怒られるわよ。」

 石垣の奥に建つ建物からは物音一つ聞こえてこない。しかし魔石の腕輪を付けているジーナには建物内でひそやかにうごめく気配を感じていた。

「平気だよ。ここの兵隊達を昼間見かけた事無いもの。最近、こそ泥みたいな変な奴らが増えたってみんなが言っているけど、ここの兵隊達が取り締まってくれたりしないしね。」

 確かにそうだった。警備兵はコリアード王国の軍隊であるが、村人が窃盗にあったり、強盗に襲われたりしても、よほど大きな事件でも無い限り村人の相手をしてはくれない。むしろ彼らが、強盗になりかねないのだ。

「ジーナ、白い狼っていう盗賊団知ってる?」

 ジーナはローゼン達が白い狼と言う名で呼ばれている事を知っていたが、それは三ヶ月前の事。ローゼンが死んで、仲間ともはぐれてしまった今はジーナ一人。答える事は出来なかった。

「ううん。」

「東の都市で大暴れしている義賊の名前だよ。困ってる人を助けてくれるんだって。ここに現れて悪い人たちをやっつけてくれないかな。」

「その義賊ってそんなに強いの?」

「その人たちは大きな白い狼を飼っているんだって。凶暴でとても恐ろしいんだっていう噂だよ。」

「この犬ぐらい恐いの?」

「違うよ。もっと大きくて牙が生えているんだって。」

「ビルはその狼、見たことあるの?」

「俺が見たわけじゃないよ。町のみんなが、狼を飼っているって噂していたんだ。もう、いかなきゃ。」

 そう言うと、石垣から降りたビルは、街道を町へ向かって走っていった。この犬が白い狼の正体とは全く思っていなかったようだ。自分達の噂がこんな田舎町にまで流れている事にジーナは驚いた。

 さらに道を進む。


 やがて家々が密集してくる。二階建ての家もまばらながら増えてきた。

 暫くゆくと道の左側に、黒い煙をはく高い煙突のついた建物が見えてきた。

 ひさしから大きな木製の、鎚をかたどった看板がぶらさがっており、その下に『かじや』の文字が見える。

 逆賊の隠れみのとして、また使用する武器の調達の場として、ローゼン一味はケリーランス公国の南の外れで鍛冶屋と武具屋を経営していた。肉体を鍛えるにも好都合だったし、体格の良い男たちがたむろしていても、武器を調達しても怪しまれる事は無かった。

 時には、敵であるはずの警備兵やコリアード軍兵士の武具を修理したり、剣を研いだりした事もあった。

 ケリーランスの大きな町のはずれにある小さな鍛冶屋だ。たのみに来るのは、貧しくて兵士になった下級の兵士たち。貴族や、ダンク王の取り巻きどもが、この町のはずれの小さな鍛冶屋に来る事はあり得なかった。

 ローゼン一味は体裁だけの『かじや』ではなく、本当にその仕事をこなしていたのだ。その仲間は下級兵士の彼らとは普通の付き合いをしていた。その事もあって、三年の間疑われる事がなかった。


 ローゼンが死んだあの日以来、その鍛冶屋は店を閉めてしまったが、その理由を知る者はいないに違いない。


『かじや』の看板の下で子供が店番をしていた。さっきあった子供だ。

 店の前には棚が並び、鍬や鎌などの農具と、鍋などの家庭用道具がおいてある。端に並べられている剣を手にとる。鋼が使われている様子は無いが、鍔の付け根の処理も確かで、刃の部分がよく磨かれている。倒した魔族が持っていた剣と違って遙かに質が良い。ローゼンの鍛冶屋にいたジーナにはその仕事の丁寧さが伝わった。

「あら、あなたここの子なの?」

「違うよ。ここで働いているんだ。その刃を磨いているのは俺だぜ」

 店番をしていたビルが話しかけてきた。

「じゃあ、研ぐのも任されているの?」

「それはまださ。でも手入れは俺がしているよ。」

「ダンの鍛冶屋をさがしているのだけれど」

「ここがダンの鍛冶屋だよ。俺の親方がダンだ。買い物かい?」

 ビルは知り合いとなったバウの頭を撫でながら言った。バウはしっぽを振って答えている。ビルとは仲良しになったらしい。

 扉は開け放しになっていた。中から金属の塊を叩く鎚の音が響いている。

 ジーナは奥で鎚を振るう大柄な男の姿に生きている頃のローゼンを思い浮かべた。

 鎚をふるうローゼンの姿を見ることはもうできない。何かにつけローゼンを思い出してしまう。

「ローゼンの知り合いが来た、と親方に言ってくれる?」

 店番をしていた子供は奥の作業場へ入っていった。

「親方、お客さんが来てます」

「だれだ」

「ジーナという女です」

 男の鎚音が止まった。その男は店の入り口に立つジーナとバウを交互に見て立ち上がり、手にしていた鎚を作業台に置いてこちらに向かってくる。革の前掛けには所々焦げ跡がついていた。

「どこのジーナだ?」

「ローゼンの知り合いのジーナ」

 その男は不思議そうにジーナとバウを見つめていた。やや間があって口を開いた。

「おまえがジーナか。」

 上背が百八十センチ以上ありそうなその男を見上げるようにしてうなずく。


「ビル、作業台を片付けてくれ」

「はい、親方」

 子供は作業場へいった。

「犬を飼っているとはローゼンから聞いてなかったが、その山犬はおまえのか?」

「そう」

 ジーナはバウの頭を撫でながら答えた。

「犬の名はなんという」

「バウ」

 バウの口を触りながらダンは言った。

「良い牙を持っているし目も鋭い。ただの犬ではなさそうだ。狼の血を引いているようだがどこで見つけたのだ?」

「この子が赤ん坊の頃、北サッタ村の近くで沼に落ちていたのを助けたの。それ以来のつきあい。」

「狼が人になつくとは考えられん。普通の人は狼を嫌う。ただの山犬ですませた方が良さそうだ。ま、狼だと気づく者はそういないだろうよ。バウなんて奇妙な名だが、それも愛嬌があって良かろうぜ。」


 ジーナがまだ八歳の頃、北サッタ村の沼で生まれたばかりの子犬を拾った。

 その頃、遊び相手のいなかったジーナはローゼンの目を盗んでよく沼のほとりに一人で遊びにいった。

「沼は深くて危険だから近寄るな」

 ローゼンにそう言われていたが、沼のそばには綺麗な花が咲いていたり、小さなトカゲがいたりして、遊び相手のいないジーナは飽きる事が無かった。

 雪が降りそうなほど寒いある日、いつもの様に沼のそばで遊んでいた。小さな木に赤い実がなっていた。食べられる訳では無かったが、真っ赤なこの実が好きだった。

 そんな時、沼から子犬の鳴き声が聞こえてきた。ジーナが振り返って沼を見ると、子犬が岸のすぐそばのぬかるみにはまっていた。なぜ子犬が一匹だけそんな所にいるのか理由はわからなかったが、もがけばもがくほど小さな体が沈んでいくのが幼いジーナにも判った。どうも自力では這い上がれそうにない。

 ジーナはしゃがんで手を伸ばしてみたが、幼い子供の手では子犬までは届かなかった。手元の小枝を折って犬に差し出してみた。子犬が前足をその枝へ向かって差し出そうとするが、触れる事は出来ても犬の前足ではどうにもならない。幼いジーナにはその事が判っていなかった。

 子犬が哀しげな瞳でジーナを見つめている。

「もう、しょうがないなぁ。」

 ジーナは独り言をいうと、沼へ入り子犬を抱きかかえた。ぬかるみに足を取られながらも子犬を沼の岸上に放した。地面に足をつけた子犬はその小さな体をふるわせて体の水を飛ばしている。犬を助けたのは良いが、沼から抜け出るのは小さなジーナには大仕事だった。

 自分も岸へ登ろうと、縁に手をかけて体を持ち上げるが、草が滑ってなかなか体を上げられない。逆に足が次第にぬかるみに嵌まり体が沈んでいく。

 ジーナは何度も何度も上がろうとしたが、掴んでいた草が抜けたり、足が届いても滑ってしまったり、うまくいかなかった。靴はいつの間にか脱げてしまっていた。

 応援しているつもりなのだろうか、子犬は小さな体を伸ばして、ジーナに向かって吠えていた。

 縁に垂れ下がっているツタを見つけ、ようやくはい上がる事ができた時には息ができないくらい疲れ切っていた。

 泣き止んだ子犬が心配そうにこちらを見ている。ジーナはその子犬を胸に抱いてしばらく横になっていた。子犬の早い鼓動を胸に感じる。やがて体が冷えてきた。ジーナは立ち上がった。あたりを見回したが、親犬がいる様子はない。

 子犬は、住んでいる小屋まで連れ帰る間中ジーナの胸の中で震えていた。

 小屋のドアを開けると、すでに帰っていたローゼンが泥だらけのジーナを見てひどく叱ったのを思い出す。

 当時貧しい生活をしていた二人に、犬を飼うような余裕はなさそうだった。「俺は知らんからな。自分で面倒を見ろよ。」

 子犬の事を何も知らなかったジーナは隣に住んでいたソフィーお婆さんにミルクの与え方や躾方を教わった。ローゼンは外出する時、幼かったジーナをソフィーに預けて出かける事が多かった。一人暮らしをしていたソフィーはジーナを大変可愛がってくれた。ジーナはソフィーの膝の上で幼児期を過ごしたともいえる。

 そのソフィーの教えの通りに自分の割り当てのミルクや食事を分け与えて育てた。

 食事の時も、寝るときも、いつも一緒だった。

 食事どきになると、ジーナにすり寄って『バウバウ』と甘えた声を出したが、その時以外は殆ど鳴かない静かな犬だった。

 ジーナが『バウバウ』と口まねをすると、どこにいても喜んで飛んできた。

 ジーナとソフィーを別にすれば、当初は村人には勿論ローゼンにもなつかなかったが、ローゼンが「バウ」と呼ぶとその足下へやってくる様になった。子犬ながら主人は誰かを認識したらしい。

 いつのまにか、犬の名前は「バウ」になった。バウは、数ヶ月の間に大きくなり、一年たった頃には、まだ九歳だったジーナの腰ほどの大きさになり、抱き上げるのが難しくなった。さすがにその頃にはベッドの中に入ろうとはしなかったが、そばで丸くなって寝息を立てていた。

 やがて、一匹で山へ行くことが多くなった。親を捜しているのか、自ら狩りをしてくるのか分からないが、食事時にジーナに甘える事は無くなった。それでもバウ用に食事を用意すると大人しく食べている。

 月日がたち、成犬となったバウはジーナには持ち上げる事すら出来ないほど重くなった。顔つきも精悍になり、子犬の頃とは逆に、バウがジーナを山歩きに誘うのが日課となった。数年間共に生活するうちにお互いの考えている事が分かるようになったのか、ジーナはバウが何を求めているのかを感じ、バウもジーナの行動を先回りする様になった。

 魔石の腕輪の力かも知れないと思い至ったのは旅の魔術師キーラにあってからだ。

 ケリーランス公国にいた三年間はジーナがローゼンと頻繁に出かけていた為に、バウに留守番をさせる事も多かったが、ローゼンが死んでからはずっと一緒にいる。


「ところで今日の宿は決まったか?」

「まだ決めてない」

ダンの声で我に返ったジーナは答えた。

 その返事を聞いたダンは振り返ると店の中で道具類を片付けていたビルに声をかけた。

「片付け終わったか?」

「はい、親方。」

「じゃあ、これからタリナの居酒屋へいってこい。ダンの知り合いの、犬連れの女がしばらくお世話になります。とダンが言っていましたと言え。ついでに飯を食ってきていいぞ。」

 ダンは腰のポシェットから小銭を出し、ビルに放り投げた。

「ありがとうございます」

「不良兵士がうろついているから気をつけろよ」

「わかりました」

 ビルは腰に巻いていた作業用の皮の前掛けを外すと外へかけだした。

ダンは開いたままの扉を閉めてからジーナに言った。

「ビルには聞かせたくないのでな」

「バウ、おまえも来い」

 ジーナとバウを店の奥の作業場へ案内した。部屋の中央には石の作業台があり、壁には大鎚や金槌、金鋏み等、様々な工具が整然と並んでいる。火炉の火はまだ消されておらず、熱が伝わってくる。

 作業場の隅には木の丸テーブルがあり、二つの樽が椅子代わりに置いてあった。ジーナは出口に近い樽に腰掛けた。バウはその隣に行儀良く座る。

 ダンは隣のキッチンから二つの熱い茶の入ったマグカップと水差しを持ってきた。

 床に転っていた鉄の碗に水を注ぐとバウの足下へおいってやった。

「飲みながら話そう。」

「飲んでいいわよ、バウ。」

 ジーナはマグカップを持ちながらバウに声をかけた。

「ビルのやつ、一時間は帰ってこないからな。ところでローゼンはどうした?」

「死んだ。」

 マグカップを持つダンの手が止まった。

 無言の時が過ぎる。

「ローゼンは俺の師でもあり、良き友でもあった。三年前、ローゼンがここに寄ってこう言っていた。」

『俺はジーナを連れてケリーランス公国へいく。俺に何かあったらジーナをおまえに預けるがいいか?』

『預かった俺はどうしたら良いのだ?』

『好きにしてくれ。その頃にはジーナにも自分の考えができているだろう。彼女にやりたい事がある時は援助してやってくれ。』

『たいした事はできないぞ。』

『これは最悪の時の約束だ。おまえの所にジーナが来る事はないさ』

 ローゼンはそういってダンの鍛冶屋から帰ったが、まさかその日が本当に来るとは思わなかった。

「ケリーランス公国へおまえを連れていく理由は俺には言わなかったが、おまえは知っているんだろう?」

 ジーナは首を横にふった。

「なぜ死んだのだ?」

「ケリーランス公国の東南にある滝壺に落ちたらしい。私はそこにいなかった。」

それはジーナの目の前で起きた事なのだが、ダンに嘘をついた。

「あいつは不死身だと思っていたが、なぜそんな事になったのだ?」

 ジーナはその瞬間を忘れる事はできない。一生忘れないだろう。ローゼンが滝壺に落ちるとき、ジーナはすぐ目の前にいた。滝壺に落ちながらジーナに向かってなにか叫んでいたが、ジーナは聞き取る事ができなかった。心に深く残るその時の出来事を他人に話す勇気がなかったのだ。

 ダンはローゼンがやろうとしていた事を知っているのだろうか。どこまで話せば良いのだろうか。ジーナは迷った。

『何事でも迷った事はやらない方がいい。やるときは自信を持ってやれ。』

 これはローゼンの教えだ。まだ打ち明ける時期じゃない。

「分からない。」

「そうか。ローゼンは俺の事を何かいっていたか?」

「何も」

 これは本当だ。ジーナが知っているのはダンがガサの町で鍛冶屋を営んでいることだけだ。ジーナは見事な装飾のある革の鞘に収まったダガーをベルトから外すとテーブルの上に置いて言った。

「このダガーはローゼンのものだ。ダン、あなたがローゼンの親友なら、これはあなたがもつべきだと思う」

 ダンはダガーを手に取り、鞘から抜いた。

「手入れは行き届いているな」

「ケリーランス公国での三年間、ローゼンの鍛冶屋を手伝っていた。刃物の扱いは一通り教わっている。今年の初めに預かってからは私が手入れをしている」

「研いだのもおまえか?」

「そう。」

 今年の正月を過ぎて間もない頃、ジーナは初めて人を殺した。警備隊の兵士だった。もし殺していなければその兵士に殺されていたに違いない。その時ローゼンは愛用のダガーをジーナに渡して言った。

『ジーナ、俺のダガーを抜いてみろ』

 ダガーを抜くと刃の鍔際に見事な文様が彫刻されており、刃には一点の曇りもなかった。

『このダガーはおれが命の次に大切にしているものだ。もしおまえが勝てない相手に遭遇した時は逃げろ。おまえはこのダガーを敵に取られない為に生きて俺の所に帰ってこなければならない。分かったか?』

 その時以来、このダガーはジーナと共にあった。ローゼンとのその会話は誰にも話した事はないし、これからも、たとえローゼンの親友のダンであっても話す事は無いと思う。

 ダンは言った。

「ローゼンがおまえに預けたのだ。これはおまえのものだ、大切にしてやりな。」

 ジーナは再びダガーを腰にさげた。

「おまえはこれからどうしたい?ローゼンとの約束があるから出来るだけの事は協力しよう。ただし、ごらんの通りの生活だ、たいした金の援助はできんぞ。」

「今は何も考えていない。」

「しばらくこの町にいるといい。そのうちに良い考えが浮かぶかも知れないからな。」

 ビルが出かけてから一時間以上たっていた。

「ビルの野郎遅いな。兵士に虐められてなければよいが。」

「兵士が民間人をいたぶるとは考えられないけれど。」

「ここ数ヶ月、兵士に襲われる事件が起きているんだ。殺された者はまだ出ていないいが、金を脅し取られているらしい。」

 ジーナは街道で会った魔族の兵士との戦いを思い出した。彼らならやりかねない。無意識に腰のダガーを触っていた。

「その奇妙なナイフはお前の武器か?」

 ジーナは左の腰にさがっているナイフをダンに見せた。

「小型のジャンビーヤか。珍しいものを持っているな。ちょっと振ってみな」

 ジーナはチャンから教わった剣技の型をいくつか披露した。

「ローゼンの技ではないな。」

「チャンという東洋人に教わったの。」

「少し小さいようだ。そのダガーより大きめの物をつくってあげよう。いつになるか分からないが」

「ありがとう。」

 ジーナが足元を見ると、意味が理解できているとは思えないが、二人の会話を聞いていたのだろう、バウは行儀よく前足を揃えて座っていた。

 マグカップの茶は冷めていた。火炉の火は小さくなり部屋の中が寒くなってきた。入り口の戸が開き冷たい風が吹き込んだ。部屋はいっそう寒くなった。

「親方、ただいま戻りました。」

「遅かったな、ビル。」

「はい、兵士がいたので遠回りをしたんです。」

「襲われなかったんだな?」

「大丈夫です。あんな奴らに襲われる間抜けではありません」

「気をつけろよ。居酒屋のタリナはなにか言っていたか?」

「二階の部屋が空いているそうです。ダンの紹介なら犬連れでも構わないって。」

「分かった。ビル、火炉の火を暖炉にうつしてくれ。」

「はい。」

 ビルは柄の長い鉄のへらに火炉の火種を乗せ、暖炉へ移した。

 暖炉に火がついて部屋が暖かくなってきた。

「ビル、ジーナをタリナのところまで道案内してくれ」

 

 外は夕闇が迫っていた。

「バウ、おいで」

 ジーナは身繕いをしてバウとともに外へでた。


 ビルはバウを連れて鍛冶屋の前の街道を町の中央に向かって走り出した。人嫌いなバウがジーナ以外の人間の言うことを聞くのは珍しい事だった。ジーナはゆっくり歩いて追った。

 遠くでビルが手を振っている。

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