二十五 異界の指輪・紙商人(一)
朝、ナンシーの準備が遅れ、コルガの町の出発が遅くなった。宿にいた旅の者はみな出発した後で、フレッド親娘がガエフ公国へ向かう時には陽はすでに昇り、暖かな風が吹いていた。
「ナンシーここへ座りなさい。」
「私、後ろの魔術師様の横がいいわ。」
「まあ、座りなさい。」
フレッドはそう言って御者台にいる自分の隣に座らせた。
「お前、この辺の事を知っているか?」
「ガサにいる私がガエフの事を勉強する必要はないと思うわ。それよりお祭りの事を教えてほしいな。」
フレッド親娘は昨夜の火事騒ぎの出来事に気がついていないようだ。賊は二人で終わりであってほしい。馬車の御者台に座る親娘の会話を聞きながらジーナはそう思った。いまの所、何事もなく馬車が進む。
「お父さん、ガエフ公国の領主様は何処に住んでらっしゃるの?」
「ガエフの町にお屋敷があるが、ご本人は首都ハダルにおいでらしい。」
フレッドの話によれば、コリアード王家がこのバリアン大陸を統治する百年以上前に豪族だったガエフ一族が長い年月をかけて小山や丘で波打っていたこの地を平らにしたのだとか。その時不要になった土がガエフの地のほぼ中央に積み上げられて山となった。また、その頃に、海岸沿いの崖を成している土地から建物に使うには最適な岩盤が発見され、以降、その地から建物に使う石を切り出し、ガエフだけでは無く、その周辺の地域に運んで石造りの建物を作る基となったのだ。そんな岩盤でできた海岸沿いの崖もすっかり掘り尽くされ、今ではなだらかな土地となっている。
ガエフ一族はその時に出た、使うあての無い瓦礫も含めて積み上げられた山の前に屋敷を建てたのだ。裸だった山に竹や楓を植え、今では立派な森になっているらしい。
コリアード王家が大陸を統治した時に逃げ出したガエフ一族に替わって今はブランデル家が領主として住んでいる。噂ではブランデル家の家長ロッド・ブランデルが首都ハダルにいるため、実際にはその弟のティム・ブランデルが統治しているのだという。
ガエフの町の中央に城とも思える大きな館があって、その前には広場があった。収穫が終わったこの時期は昔から収穫の祭りが行われるのが慣わしとなっていた。シンディーが言っていた祭りとはこの催しの事だった。
現王ダンク・コリアードが祭りの開催を禁止してしまったが、長年にわたって行われてきた慣習はなかなか変えられなかった。寂しいものではあったが、旅芸人が町や村を廻り、大道芸を披露する事や流しの屋台が集まってくる事までは止める事ができなかった。
ナンシーは歴史話には興味が無いらしく、領主の館前で行われている旅芸人達の催しにばかり話を進めようとした。しかし、フレッドは、祭りでの催しよりも商売で重要な、ガエフの町の歴史や統治している人たちについてばかり話をする。
「お父さん、ちょっと馬車を止めて。」
フレッドンの話がつまらなくなったナンシーは、途中で馬車を降りると後ろに一人で座っていたジーナの横に座った。
今日のナンシーは薄い色の、昨日より可愛い服を着ていて、髪飾りや指輪などの装飾品を付けていた。
「魔術師様はガエフの町でお祭りを見ませんの?」
「私は忙しいのでな。」
ジーナは言葉少なく答える。
「私、港町ギロのお祭りしか知りません。早くガエフの町へいってお祭りを見たいわ。」
港町ギロは元々漁師の村で、農村と違い、お祭りと言ってもただ酒を飲んで騒ぐだけだった。一方ガサの町は辺鄙な村で、旅芸人や他の町の人がくる事も無く、厳かな気持ちで神に感謝の祈りを捧げる、ささやかなものだった。特に百年前にコリアード家が大陸を制覇してからはその傾向が強くなった。
しかし、人が多く集まる町では賑やかなお祭りがいまだに行われていて、神に祈りを捧げる行事から、人々が浮かれて騒ぐ行事へと変化していた。旅芸人達はそのような町に現れては祭りを盛り上げる重要な役を担っていた。
馬車を操作しながらフレッドが言った。
「ナンシー、ガエフの町のお祭りを見に行くのだったら、その装飾品は外しなさい。」
「お父さん、どうしてなの? 沢山の人がいるのなら綺麗な姿でいたいわ。」
「ガエフの祭りの様に沢山の人が集まる所ではスリの一団が必ずいるものだ。ナンシーのその装飾品はすぐに盗まれてしまうぞ。」
「私、それほど間抜けではないわ。」
その後もナンシーはまだ見ていない祭りの話を続ける。
ナンシーとの会話に煩わしさを感じていたジーナはバウの世話を理由に馬車から降りた。バウは喜んでジーナの回りを飛び跳ねる。
『ジーナ、ナンシーの相手をしなくても良いのか?』
指輪のアルゲニブが心の中で話しかけてくる。
『取り留めのない話、というのは苦手なの。』
『私とのいつもの会話も取り留めが無い話なのではないのか?』
『そうやって絡んでくるものではないわ。アルゲニブ、嫌われるわよ。』
異界の指輪のアルゲニブにはジーナが不機嫌になった理由が分からなかった。
フレッドの馬車が宿場町であるコルガの町に近づいた。海側である、左の山側にある平地にパピルスが沢山植えてあったが刈り取られた様子は無く雑草も伸び放題だった。半月前にこの道をガサに向かって歩いていた時には気づかなかったが、ガナラ山脈から海に向かって小さな川が流れていた。川に沿うように倉庫の様な大きめの平屋の家が並んでいる。それらの中には小さな水車がついている建物もあった。
フレッドが馬を止めてジーナの所へきた。
「魔術師様、紙職人の村へ寄りますが、よろしいでしょうか?」
「急いではいないので私は構わない。」
パピルス紙はローゼンと過ごしたケリーランス公国でもよく目にしたが、色が悪い上、カビが生えやすく、強度もなかった。この地方で紙を生産しているなら、パピルスを刈り取っている筈だが、雑草が伸び放題の畑は手入れをしている様子がない。
フレッドは馬車を左の小道へ向けた。道の行き止まりに村でも大きい、水車の付いた木造の建物が建っている。馬車はその前で止まった。 フレッドは両開きの扉を開けて中へ入る。
「バウ、ここで待っててね。」
ジーナはバウを入口に待たせてフレッドの後に続いた。
中は広い土間が作業場になっている。木製の、浅くて大きな水槽が複数設置されていて、その水槽は濁った水で満たされていたが、作業している人は誰もいなかった。
外の水車に繋がれた樋が、土間の壁から突き出ていて、汲み上げられた水が大きな水槽に注がれ、水槽からあふれた水が土間に掘られた溝から外へ流れ出ている。水車で水を汲んでいるのだ。
「クリフ、いるかい?」
フレッドは大声で呼びかけた。
「今いく。ちょっと待ってくれ。」
奥の部屋から返事が聞こえた。
ジーナは、奥の部屋からこちらへ近づいてくる人の気配を感じるのと同時に魔力に探られている小動物の気配を感じた。陽の光が差し込まない部屋の隅を見るとネズミが逃げもせずにうずくまっている。
ジーナは腕輪の力を借りてネズミの心を覗いた。以前魔術師の塔でモグラを相手に磨いた技術だ。何者かの影が映っている。小太りな魔術師。どうやらこのネズミは操られているらしい。
「魔術師様、この紙をごらん下さい。」
フレッドはそう言うと近くの棚に置いてある紙を一枚ジーナに渡した。
硬くて凹凸のあるパピルス紙と異なり、薄くて表面が滑らかになっている紙だ。この様な紙をジーナは今まで見た事が無かった。
「紙と言えばパピルスの茎を裂いて作るものですが、十年ほど前から、ここの紙職人はパピルスとは違う素材の紙を作っているのですよ。どの様な製法かは教えて貰えませんがね。」
土間の奥の扉が開いて男が出てきた。何かの作業をしていたのだろう、布のエプロンをつけたままだ。
「ナンシー随分大きくなったな。十年前にあった時はもっと小さかったぞ。」
小さな頃の記憶が定かではないナンシーは軽く会釈を返した。
クリフが話し始めると、土間の隅にうずくまるネズミが反応するのが分かった。ジーナはクリフに話を止める様、身振りで伝え、ネズミを指さした。近くにあった大きめの木の椀を持ち、動こうとしないネズミの上からかぶせる。念の為にさらにその上から二個目の椀をかぶせる。これで話し声を聞き取る事はできまい。
ジーナの作業を見ていたフレッドが疑問に思って話かける。
「どうしたんです?」
「このネズミには魔力がかかっている。誰かが盗み聞きをしようとしたらしい。」
ジーナはアルゲニブの低い男の声で答える。
クリフは不思議そうにジーナを見ながら話し始めた。
「さっきまでガエフの紙商人がきて、紙の製法を教えろと俺にしつこく迫ったんだ。そいつらの置きみやげかも知れない。一年前から新しい紙の製法を盗もうと様々な輩が来るようになって困っているのさ。」
「一年前というと、ガエフの魔術師の館へ新しい紙を納め始めた頃だな。そいつらはクリフが魔術師の館に紙を納めるのを邪魔した連中だろう。」
当時の事を思い出しながらフレッドはそう言った。
「俺の作っている紙を手にしたら、今まで使っていたパピルス紙は使えないさ。今まで魔術師の館に出入りしていたガエフの紙商人達がこの技術を狙っているのに違いない。」
「クリフはよくこの紙の技術を手に入れたものだな。」
「材料さえ揃えば作れるんだ、肝心の材料の製法が俺にも分からない。フレッドだから言うが、月に二,三回年寄り夫婦が材料を担いで山を下りてくるのさ。」
クリフは、新しい紙の製法や道具の作り方を十年前にその老夫婦に教わったもので、使う材料を何処から調達しているのかは知らなかった。また、その材料が何から出来ているのかも知らなかった。
クリフが初めてその老夫婦に会ったのは十年前の、カテナ山脈に雪が降り始める直前だった。パピルス畑は全て刈り取りが終わり、紙作りの作業は、手元の材料を使い切れば終了する頃だ。
その夫婦は、ボロ布の様な夏服を何枚も重ね着して寒さを凌いでいるようだった。荷物を入れている袋は道端で拾ったのか、穀物の袋を再利用したもので穴を塞いだ跡が幾つか見られた。二人とも痩せていて髪には白いものが混じっており、手入れをしている様子は無かった。
「クリフさん、この紙を見てくれ。」
そういってその夫婦は見本となる新しい紙を見せた。クリフは薄くて滑らかなその紙に興味を引かれた。
最初は貧しい老夫婦が偶然拾った物を金に換えに来たのだ、と思った。
男は背中の荷物から、茶色い繊維状の物を取り出し、紙の作り方の説明を始めた。真実味のあるその説明と、人の良さそうな夫婦の様子に、騙されて元々と思い、新しい紙作りに取り組む事にしたのだ。
道具を手作りする事から始めた。老夫婦は毎週山から下りてきて、必要とする道具の絵をパピルス紙作りの作業場である土間の土に手書きしてクリフに教えた。その絵はとても素人が書けるものではなく、二人が高い教養を持っている事を思わせるものだった。
道具が出来上がると、どの様にして作ったのか分からない材料を担いで来た。試行錯誤を繰り返しながら数ヶ月がたった。
カテナ山脈の雪が溶け始める頃、ようやく見本とほぼ同じ紙が完成した。
ガエフ公国のパピルス紙は、この先にある別の紙職人達の村を束ねる商人がその殆どを扱っていて、ガエフの外に位置するクリフの村で作られたパピルス紙は扱って貰えなかった。それは此処の村人がコリアード軍に追われた嘗てのガエフの民だったからだと、祖父から聞いていた。
商人が束ねるパピルス紙職人達はコリアード軍に強制敵に参加させられ、移動してきた民兵の一部だったのだ。兵役を解かれて後、彼らは故郷へ帰らずに、逃げたクリフの祖先達のパピルス畑を流用してパピルス紙を作り始めたのだ。
クリフの祖先達はガエフから外れたこの地にパピルスを植え、紙作りを再開したが、ガエフ公国ではコリアードの民兵達が作るパピルス紙を優先して仕入れた。そのため、この村の人達は、ガエフの町人向けに安い金で売らざるを得なかった。この村の人達の生活は貧しいものだったのだ。
新しく仕上がった紙をその商人達に扱わせる訳にはいかない。どうやって金に換えようかとクリフが思案していると、港町ギロにいる紙商人のフレッドの店へ持っていく様、老夫婦が指示をしたのだ。その時まで港町ギロへ行った事もなく、フレッドという紙商人の事もしらなかった。
クリフの村の奥の山には民家はなく、山道も行き止まりの筈なのだが、老夫婦は必ずその道からやってきた。いつも不思議に思っていたが、材料の作り方と、夫婦の事は詮索しない約束だった。おそらく身を隠す為にわざと行き止まりのその道を使っていたのだろう。
「クリフがこの紙を私の店に持ってきた時はナンシーもまだ小さかった。パピルス紙よりも薄い紙を初めて見た時は驚いたものだよ。」
「フレッドの店を訪ねろといったのもその老夫婦さ。」
「私にはその様な老夫婦に覚えがないがね。」
「あの時はまだ新しい紙を作り始めたばかりで色もこんなに白くはなかったな。」
紙に白さを要求したのはフレッドだった。黄ばみがかったパピルス紙よりも白くすれば、薄いのに折っても切ってもほつれないこの紙の価値があがり、高い値がつくと思ったのだ。
クリフがフレッドの要求を老夫婦に伝えると、その一ヶ月後には今の白い紙の材料を持ってきた。しかし純白のものは沢山は出来なかった。
「なぜガエフの商人がクリフの所へ紙の製法を聞きに来るのだ?この村には他にも同じ紙を作っている職人がいるではないか。」
「他の職人には俺が材料を渡して作り方を教えたんだ。だから元締めになっている俺の所へきたのだろう。」
クリフは水車を指さして言った。
「この水車もあの夫婦が作り方を俺に教えたものだ。ガエフにいる建具屋に頼もうとしたら、秘密が知れ渡るのが怖いからやめてくれと言われて俺が手作りしたんだ。」
確かに良く見ると、水車の羽は不揃いで、歪んでいる。しかし水を汲み上げるという目的は達している様だ。
「作り方を書いた図はないのか? 私が知り合いの職人に作らせても良いぞ。」
「フレッド、俺は読み書きも出来ないし、図面を書く知識もないぜ。見よう見まねで道具を作っただけなんだ。」
老夫婦は秘密を守る事に余程注意をしていたのだろう。土間へ棒切れで図を書いたのも、そのあと足先でその図を消し去ったのも、作り方が残らない工夫だったのかも知れない。
「ところで、今回の紙の仕上がりはどうかな?」
フレッドは紙職人のクリフに聞いた。
「ガエフの町人から予約が入っているが、フレッドの分は残して置いたぞ。」
そういって棚の上に束ねて置いてある紙を指さした。
「ありがたい、これからガエフへ衣料品を買い付けにいくのだ。その帰りに引き取りに来るよ。二、三日後になると思う。ナンシー、ガエフへ行くぞ。」
眠そうに椅子に腰掛けていたナンシーは立ち上がり、二人は作業場を出た。
「魔術師様、このネズミはどうすればよろしいのでしょう?」
クリフがジーナに聞いた。
「私達が去ったらかぶせた椀を取ればよい。ネズミは勝手に主人の所へ返るだろう。操っている者に余計な事を知られぬよう、ネズミが去るまで無言でいる事だ。」
ジーナは男の声でクリフに答えてから親娘の後について外に出た。
異界の指輪であるアルゲニブがジーナの心に話しかけてくる。
『あのネズミは殺してしまえばよかろう?』
『ネズミに罪はないのよ。罪があるのは利用している魔術師と商人だわ。』
『そのような軟弱な事では戦いぬけないぞ。』
『私はだれとも戦っていないわよ。いつの間にか争いに巻き込まれるのは迷惑だわ。』
この主人は自ら争いを引き寄せている事に気がついていないのだろうかと思ったが、また口げんかになりそうだ。アルゲニブは言わずにおいた。
ダルコの宿場町が近づいてきた。コルガの町を出たのが遅かったので、着いた時は夕暮れが迫っていた。
ここでもフレッドは十日宿とかかれた宿へ馬を泊めた。
「コルガの宿とここの宿は兄弟で経営しているのですよ。私はいつもこの宿を使っています。」
ここの宿は一階が居酒屋になっていた。フレッドは慣れているのか、宿の横にある馬屋へ馬車へ引いて行き、馬の世話を始めた。
「お父さん、早く宿へ入りましょうよ。」
「ナンシー、明日も馬の世話になるのだぞ。」
そう言いながらも馬の首を数回撫でてから宿のカウンタへ向かった。コルガの町と同じく、ジーナはフレッド親娘の隣の部屋に入る。
食事の時にまでナンシーの話し相手をするのは気が重い。すぐに宿の部屋から外へ出たジーナは馬屋へいき、汗ばんている馬の世話をし、敷き藁を新しいものと交換してやった。
背中へのやさしい馬の視線を感じながら馬屋を出、別のところで食事をする事にした。