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ジーナ  作者: 伊藤 克
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二十一 異界の指輪・開かれゆく魔術師の塔(二)

 レグルスは薄暗い執務室の椅子に腰掛け、物思いに耽っていた。ルロワに幽閉される前まで話し相手は軍人や魔術師会の連中に限られていた。農民や町の人達と交流を持つという事は無かった。

 彼らへのそれまでの印象は、貧乏で小ずるく、人の目を盗んでは小銭をかすめる連中程度にしか思っていなかったのだ。しかし、騎士と思われるダンの仲間は信用出来そうに思う。そして自分を救出してくれた、まだ名前も聞いていない小柄な魔術師。何十年もの人生の中で見落として来たものが数多くあるのかも知れない。思えば、旅をしながら魔術の研鑽にはげんでいた頃には、辺鄙な村の人たちの世話になったり、旅で共になった人たちとわだかまりなく会話をしていたようにも思う。いつの間に自分の心が歪んでしまったのだろうか。


 鈴の音が仕掛けの空気穴から聞こえた。レグルスは鈴の聞こえた穴の蓋を外した。

「呼んだか。」

「食事の用意が出来ました、レグルス様。」

 塔の全ての場所に通じている多数の空気穴が、ルロワが使用していた隣の隠し部屋とレグルスがいる執務室の両方に通じていて、塔内の音を拾える仕掛けになっている。執務室の椅子の腰かけたままレグルスは言った。

「そこのテーブルに一階小扉の鍵をおいた。明日からそれで出入りするように。今日は帰って良い。窓をすべて閉じて暗くしてくれ。ありがとう。」

 目を傷めている自分は、明るいであろう食堂には行けないと思ったのだ。

「レグルス様、塔の中に花瓶を置いてもよろしいですか?」

「塔の石壁を傷つけるのでなければな。私の居室と四階以外はすきにするが良い。」

 三人が帰ったのを確認してから食堂へいった。窓を開けて空気の入れ替えを行ったのだろう。部屋の空気がさわやかになっている。今まではそういった細かい事にも気づかずに過ごしてきた。テーブルには暖かい食事が用意されている。スープは二階で寝ているルロワの為に残しておこうと思った。


 塔を出た三人はタリナの居酒屋へ向かった。

 タリナが居酒屋のテーブルを拭いているところだった。

「タリナ、エレナは魔術師の塔で使って貰う事になったぞ。」

「大丈夫なのかい、あそこには恐ろしい魔術師様がいるというではないの。」

「今日お会いしたけどそんない悪そうな人ではなかったわ。お年寄りだけど。」

「働くあんた達がそういうなら良いけど、心配だわ。」

「ダンもジーナも顔を出してくれるんですって。」

「おい、俺はそんな約束はしていないぞ。」

 タリナはダンをこづいて言った。

「あんたが紹介したのでしょ。ちゃんと責任をとりなさい。」

「タリナの事はジーナに任せるよ。」

「ニコラ、うちの居酒屋はエレナがいなくても平気だけれど魔術師様は本当に大丈夫なんだろうね。」

「俺はエレナと一緒に住み込む事にしたよ。なにかあれば逃げだしてくるさ。」

 タリナは心配そうにエレナを見たが、エレナの心は決まっていた。


 夜が更けて港町の居酒屋に破落戸達が集まりだした。数週間前までは椅子に座れないほど賑わう日もあったが、ジョンがいなくなり、トッシュがいなくなり、小遣い稼ぎをしていた彼らの手下がいなくなった。いまでは客の座っていないテーブルもある。

「ダミアン、この店も寂しくなったものだな。」

 ダミアンと同じようなラメールアーマーを着た男が話しかけてきた。

「ああケビン、ここ二週間で何人もの破落戸が消えてしまった。」

「トッシュが町の北にいる医者の家で足の傷を縫って貰ったらしい。俺の知り合いが言っていた。」

「やはりウイップのゼルダにやられたのか。あいつは盗賊のくせに妙な正義感を持ってやがるからな。この辺りの孤児達に小遣いを与えているというぞ。」

「ガキを何人集めても盗賊団を作る事はできまい。ダミアンも相棒のトッシュが怪我をしていては裏の家業をやりにくいだろう。」

「ケビン、ガサの町にある魔術師の塔での事件について知っているか。」

「最近消えたジョンが、たかっていたルロワが死んだ話なら噂で聞いたが何があったのだ。」

「ガサの町を彷徨っていた兵隊崩れの者達を最近見かけないだろう。皆、ルロワと共に死んでしまったらしい。ところで、商人のフレッドが娘と旅に出るらしい。裏家業になるがケビン、手伝えるか。娘はまだ十五歳だというぞ。」

「折半なら手伝うぞ。」

「娘はお前にやるよ。俺にそんな趣味はないし、売り先の当てもないからな。金の七割は俺だ。明日俺が傭兵になってフレッドの馬車に乗り込むからケビンは馬を引いて後をついて来てくれ。逃げるのに馬は必要だからな。」

 ケビンは馬を借りる為に居酒屋を出て行った。


 ダミアンは、消えたジョンの後を引きつぎ、オオトカゲをルロワに売りつける仕事を始めた矢先だった。前回は三匹まとめて引きとらせて金になったので、これは金づるにちょうど良いと思い、ジョンが使っていた孤児達に、北サッタにある沼でトカゲ狩りをさせたのだ。

 そして一昨日の深夜、荷車に一匹をのせ、ルロワに売りつける様、彼らに指示したのだが、持っていった一匹と、前にルロワに売りつけた筈のオオトカゲ三匹の死体を持ち帰ってきた。

「お前達、どうしたのだ?」

 ダミアンは怒鳴る気力も失せてしまった。

「ダミアンさん、魔術師の塔へいったら、塔の兵士達が誰もいなくて静まりかえっていたんですよ。」

 別の若者も話し出す。

「それでダミアンさんが教えてくれた鐘をならしたら、年寄りの声が聞こえて、ルロワは居ないというんです。」

「そのまま帰ろうかとおもったんですけど、ダミアンさんが荷車を引き取って来いと言ったのを思い出して、引いて来たってわけです。」

「この腐ったやつ、どうします?」

「みんな海にすてて来い、荷車はあらっておけ。」

 若者にそういって小銭を渡した。

「ダミアンさん、銀貨一枚ずつの約束ですよ。」

「それはルロワが金を出したらの話だ。あいつが居なくなっちまったんだ。仕方ないだろう。それで我慢しておけ。魔術師の塔の様子はどうだったんだ。」

「一階の大広間に兵隊達の武具が散乱していましたよ。血も飛び散っていたし、誰が殺しちまったんですかね。」

「その話を彼方此方でするなよ。魔術師に殺されるぞ。」

 ダミアンは彼らに釘をさしたが、噂は瞬く間に広がってしまった。

 誰にも言っていないが、港町ギロの魔術師の館にはダミアンの兄がいた。ダミアンは早速兄に会いにいった。

「その噂ならここにも届いている。ガサの町の魔術師の塔には魔術師長のレグルス殿しか居ないらしい。ルロワも警備兵も皆消えてしまった。魔術師長の怒りをうけて消されてしまったのではないかと魔術師達は噂しているよ。」

 そうダミアンの兄は言った。

「兄貴、いくら凄腕でも年寄りが一人では無理だろう。」

「お前は知らないだろうが、レグルス殿の魔力は老人ながら計り知れないものがあるからな。ところで、お前に調度良い仕事があるのだが。」

「いいぜ、今は暇だしな。」

 ルロワが何故オオトカゲを欲しがったのか兄に聞けば教えてくれるだろうと思ったが、失敗した仕事の話は兄弟でも恥ずかしい。言わずにおいた。

「商人のフレッドと娘のナンシーが二人だけでガエフ公国へむかう。片道二、三日の旅だ。傭兵をさがしているらしい。ダミアン、雇われる気はないか?」

「傭兵では大した金にならないだろう。」

「衣類の買い付けに大金を持っていくらしいぞ。農作物の刈り取りもすっかり終わったこの時期、カテナ街道に人影は少ない。脇道や林も多いし。お前なら分かるだろう。お前の相棒のトッシュでもつれていけ。」

「わかった。俺がやるよ。」


 そして今日、怪我をして消えたトッシュの代わりにケビンと組んで一働きする事にしたのだ。


 翌日、エレナとニコラはダンが借りた荷車をガサの町外れにある自分の家へ引いていき、引っ越しの準備をした。今の季節は畑の収穫も終わり、麦藁を干す作業が僅かに残っているのみだ。来年の畑仕事をどうするかはゆっくり考えよう。ちょっと南の村では他人の畑で野良仕事をしている人達が少なからずいる。彼らに畑を貸しても良いと思った。また、魔術師の塔での仕事が長続きしない事もあり得る。畑を手放す訳にはいかないとも思った。

 とりあえず、盗まれて困る物と身の回りの品を積む。

 ニコラは反対したのだが、エレナは竹細工用の道具、作りかけの竹篭や竹細工、裂いて乾燥させた竹をつんだ。

 ベッドに使うシーツやカーテン類はせっかく呉れた金貨で新しい品を調達しようと思っていた。

 日が真上まで昇る頃、ダンが荷車を引く手伝いをしに来てくれた。

「ダン、どうして私を魔術師の塔へ行かせようと思ったの。」

「ジーナが、お前なら勤まるだろうと言ったのだ。」

「どうして私を紹介する気になったのかしら。今日ジーナは一緒じゃないの。」

 エレナがダンに聞く。

「さあな。俺に聞かれても困るぞ。ジーナは旅の途中と言っていた。いずれはこの町からも去るのだろう。」

「ジーナは不思議な女性ね。」


 魔術師の塔についた。

 落とし格子が降りたままになっている。エレナは前日に預かった鍵を使い、大扉の脇にある小扉を開けて中に入った。続けてはいったダンが、鉄の大扉のかんぬきを外し、紐を引いておとし格子を上げる。

 外の明かりが党内に差し込む。

 荷車を大広間に入れ、ランプを灯してから鉄の扉を閉めた。塔内はランプの明かりだけで仄かにてらされている。

 エレナは呼び鈴を振る。純銀の鈴の音が人気のない塔に響く。

 レグルスが大広間に降りてきた。


「荷物は置いてこちらへ来い。」

 塔の一階西側にある部屋へ案内した。

「この部屋にはラザレスという老人が住んでいたが今はいない。隣の部屋と二つとも使え。若い女の暮らす部屋とは言えないな。用具は使用しても良いし、捨てて新しくしても良い。」

「魔術師長様、捨てるなんて勿体ない事です。」


「こちらへ来てくれ。」

 レグルスを先頭に四人で階段を上がる。

「二階は昔、兵士達の宿舎だったようだが今は寝たきりの男が北側の部屋にいるだけで他には誰もいない。ここの食堂には兵士用の大きな竈がある。三階にも竈があるので、どちらを使ってもよいぞ。」

「魔術師長様、鎌や鉈の道具類は何処へ置けばよろしいのですか?」

「そなたニコラといったな。一階の東壁に隣接している食物庫に道具部屋があるからそこに置くがよい。作業する事があればその部屋を使うのが便利だろう。」

「私らはこの塔で何をすればよろしいのでしょう。」

「食事は夕方一回作って三階の食堂に置くこと。この塔は小部屋が多い、一階から三階までの各階を毎日一部屋づつ順番に掃除をしてくれれば良い。四階と私の部屋には立ち入らない事。以上だ。」

 レグルスはそう言って執務室である自室へ戻ってしまった。

「お爺さん、この塔が私達の建物になったみたいな妙な気持ちだわ。」

「エレナ、とにかく荷物を片づけよう。一階の大広間に荷を下ろすぞ。荷車を返さなければならないのでな。」

 三人で日用品や衣類、鎌や鉈などの道具類をおろした。

「ニコラ、俺は帰るぞ。」

「ああダン、荷車をありがとう。」

 あてがわれた部屋の窓の木戸を開けた。昼の光が差し込み、部屋が明るくなった。狭い部屋だが暖炉がついていた。簡単な料理ならここで出来そうだ。前に暮らしていたラザレスという老人のものであろう食器類やベッドも揃っている。

 都築部屋となっている隣の小さな部屋にもベッドが置いてある所を見ると、どちらの部屋も使用人が利用していたのだろう。

「お爺さん、このまま暮らせそうよ。私は隣の小さな部屋を使うわ。」

 すぐに必要となる日用品をそれぞれの部屋に移動し、残りの荷物はレグルスに指示された食料庫の道具部屋に置いた。道具部屋には鎌や鋤の他に農耕用の馬具、牛具が置かれている。

「たしか一階にも井戸があったわね。シーツはそんなに汚れていないわね。買うのは勿体ないし、明るいうちに洗濯をするわ。お爺さんは物干し竿を探しておいてね。」

「井戸は深いらしいから注意するのだぞ。」

 エレナは二人が暮らすと決めた部屋のシーツ類をとり、一階の井戸脇に置いた。かつてはここで兵士の衣類を洗ったのだろう。広い洗い場となっている。塔の中なので天気が悪くても洗濯ができそうだ。シーツ類の大物を洗濯するのに二時間かかった。昼は過ぎたが、まだ太陽は上にある。食料庫の脇、建物の外でニコラが物干し用の柵を作っていた。

「エレナ、これで良いかな?」

 二人がかりで洗濯ものを干す。白い布が秋風にたなびいている。


「お爺さん、買い物にいきましょう。」

「道具なら皆揃っているぞ。何を買うんだ。」

「カーテンや花瓶を吊す紐や小物も欲しいし、食器を洗うブラシなんかも欲しいわね。」

「紐なら道具部屋に縄があっただろう。」

「小物類なら魔術師長様もお怒りにならないと思うわ。」

 三階まで階段を上る。どの窓も閉まっており、何処も薄暗い。

 エレナは鈴を鳴らした。


 レグルスは三階の自室の窓の隙間から外を眺めていた。最近は目も良くなってきて短時間なら外を眺められるようになった。まもなく塔内を明るくしても良くなるだろう。

 シーツ類を新しくする様、金貨を渡したが、古いシーツで我慢するらしい。下で使用人のニコラとエレナが洗濯物を干しているのが分かった。ダンが紹介してくれた人物に間違いはないようだ。

 一般的には、使用人の食事は主人の為に調理した残り物をつまむのが普通であり、自然と使用人の食事が粗末で冷めた不味いものになってしまう。

 衣類も使用人には贅沢は許さなかった。使用人は農耕馬や牛と同じ主人の持ち物、道具の扱いしかされなかった。町の人が嫌っている魔術師の塔へ来てくれた二人なのだ。それでは可哀想だと思ったレグスルは二人を使用人ではなく、仲間と同じ扱いをしようとしていた。

 料理に関していえば、長期に幽閉されていたため、レグルスは肉等の硬いものは食べられない。それではあの二人が可哀想だ。

 自室の扉の向こうで鈴の音がする。レグルスは扉を開けた。

 シーツや衣類を買い換えるよう、支度金として金貨数枚を渡してあったが、二人とも昨日と同じ粗末な服を着ている。

「どうした、何かあったのか。」

「魔術師長様、カーテン用のロープや洗い物用の小物を買いたいのですけれど。」

「この塔を留守にするのに一々私に断らなくても良いぞ。私を呼ぶのは食事の時か、怪我をした時、賊に襲われた時にしてくれ。」

 二人は顔を見合わせている。

「この塔の食料庫には干し肉のような保存食としなびた野菜しかないようだ。町へいって新鮮な食材を三人分購入してきて欲しい。必要な金は例の隠し棚から出して良い。ついでにガサの町の世話役をしているマルコブの酒屋へいってワインを届ける様にいってくれ。エレナ、野良仕事が無いときは小綺麗な服を着るようにな。服を買う金は昨日与えたはずだ。」

 ニコラが恐る恐る聞いた。

「レグルス様、エレナが夜のお世話をするのですか?」

「そんな心配はいらない。間違っても私の睡眠の邪魔をしない様に。私も老齢なのでな。着飾る必要はないが、塔内ではそれなりの服を着ていて欲しい。地位のある客がくる事もあるのだ。私がいる魔術師の塔が貧相にみられては困る。」

 二人は安心したようだ。

「分かりました。」

「食事は私の食事とそなたらの食事は別に作る事。貧しい食事でそなたらが働けなくなると困るのでな。」

「魔術師長様、同じ建物に暮らしているのですもの。お食事をご一緒しても宜しいかしら。片付けるのにも都合が良いし。」

 主人と使用人が同じテーブルで食事をするなど、常識ではありえない事だが、介護とまでは言わないまでも、老人には食事の時にもお世話をする必要があるかもしれないとエレナは思ったのだ。それに広い塔内でたった一人で食事をするのはいかにも寂しげである。

「二人が良いのなら好きにしてくれ。三階は薄暗いままだぞ。」

「魔術師長様、エレナがそう言うのでしたら私は従います。」

「食事ができたら鈴を鳴らしてくれ。私は仕事がある。」

 そういってレグルスは自室に戻ってしまった。

「お爺さん、私料理を作っているから買い物をお願いして良いかしら。魚はエマの彼が漁師をしているから分けて貰えば良いと思うわ。」

「エマに男がいたのか。エレナにはいないのか。」

「いる訳ないでしょ。そんな事を面と向かって年頃の女性にきくものじゃないわ。」

 エレナは怒って答えると三階の食堂へ向かった。何故エレナが怒ったのか今一つ納得できないニコラであったが、エレナの指示に従い町へ買い物に出かけた。

 両親の居ないエレナにとってレグルスの存在は世話の焼けるお爺さんが一人増えた様な気持ちだった。

 食事の時間までまだ間がある。エレナは食器棚から四人分の中皿や小皿、椀を出してテーブルに並べてみる。寝たきりの人もやがて起きて食事をするだろう。それでも大きなテーブルにはまだ数人分の余裕があった。エレナは一人分の木製の食器を抱えて一階の自分の部屋へいくと食器の隅にレグルスの名を彫刻しはじめた。

 ジーナが作ってくれた文字学習用の皮切れで覚えたのだ。ジーナの見本を思い出しながら形を真似て忠実に彫る。最近ではエレナが作っている竹製品にもジーナの真似をして絵や文字を彫っている。エレナが作った文字入りの製品はお洒落に見えるのか、文字を覚える為に買う人がいるのか、意外と売れていた。

 レグルスの食器の区別が付けば、配膳の時にニコラが間違う事もないだろう。ニコラが文字を読めない事に気づいたエレナはレグルスの文字の隣に簡単な塔の絵を描いた。これで他の食器と区別がつくだろう。


 外に吊された鐘の音がした。客が来たようだ。エレナは部屋を出て小扉の内側から声をかける。

「どなたでしょうか?」

「マルコブです。ワインを持ってきました。」

 エレナは扉を開け、マルコブを入れた。

「エレナ、この塔で働くというのは本当だったのだな。ニコラが言っていたが信じられなかったよ。」

「よろしくお願いしますマルコブさん。できるだけ仕事の邪魔をしないようにと言われているのですけれど、魔術師長様にお会いしますか?」

「ああ、何ヶ月もお会いしていないのでな。」

 エレナが純銀の鈴を振った。どこからともなくレグルスの声が聞こえてくる。

「どうしたのだ。賊か?」

 エレナが誰へともなく言う。

「魔術師長様、マルコブさんがワインを持ってきました。お会いしたいそうです。」

「そこで待って貰ってくれ。」

 マルコブが不思議そうに辺りを見回している。

「エレナ、さすが魔術師の塔だな。レグルス様は何処にいらっしゃるのだ?」

「会話が出来る仕掛けは私にも良く分からないのだけれど、三階の自室だと思います。」

「エレナ、ルロワを覚えているか?十数年前、祠祭師だった父親のアルファルド様からルロワを私が引き取る様、頼まれていたのだよ。ところが、その日のうちに逃げ出して、結局魔術師の館に捕まってしまった。この前、此処の魔術師長様がルロワを殺してしまったそうじゃないか。エレナは大丈夫なのか。」

 マルコブは十数年前の日の事を思い出していた。ルロワが誰もいなくなった祠祭館に戻ったあと、何度も連れ戻しにいったが、頑なに拒み、魔術師長のレグルスに捕まってしまった。

 以来、マルコブがルロワの姿を見ることはなかったが、マルコブの使用人がこの塔へ酒類を届ける時にルロワと会っていたので、元気でいる事だけは知っていた。それが、町の噂ではルロワが殺されたのだという。

「マルコブさん、レグルス様はそんなに悪い人ではありませんよ。」

「エレナは騙されているんじゃないか。」

 そこへレグルスが現れた。

「マルコブ、久しぶりだな。」

「レグルス様、お久しぶりです。ガエフ公国へおいでと聞いていましたが、お戻りになったのですね。」

「今後エレナかニコラが注文をするので、前の様に頼むぞ。金は月末にまとめて払うが良いか。」

「レグルス様、お留守の間にルロワが注文した分の支払いをいただいていないのですよ。ルロワはどうされました。」

「事故にあって死んだ。」

「どの様な事故です。あなた様が殺してしまったと噂がありますが。」

「魔術師の塔での出来事を町の人に語る事はない。ルロワが注文した酒代はエレナから受け取ってくれ。私は仕事があるのでな。」

 ルロワの事件について色々と質問されては困ると考えたレグルスは自室へ引き上げた。

 残金を聞いたエレナは三階の隠し戸棚から金を出してマルコブに支払った。エレナが大金を扱っているのを見てマルコブは驚いたが、相手は魔術師長様だ、その程度の金ははした金扱いに違いない、と思い直した。


 ニコラが買い物から戻ったので、三階の竈で魚料理を作った。エレナはテーブルの中央に竹製の花器を置き、近くに咲いていたリンドウの花と、紅葉がついた小枝を挿して飾りにした。目の悪いレグルスを思い、ランプはテーブルに置かない。

 鈴を鳴らしてレグルスを食卓に呼んだ。

「ニコラ、今日届いたワインを持ってきてくれ。エレナ、食器棚に木の杯がある。」

 ニコラが一階から取ってきたワインをエレナが三人分注ぐ。

「この塔には寝たきりの者と、ガエフ公国へ行っているもう一人若い魔術師がいる。彼が帰ってきたらその者の食事もあわせて頼む。」

 三人は薄暗い中で食事を始めた。

「エレナ、この皿に私の名が書かれているが、誰が彫刻したのだ?」

「私です、魔術師長様の料理だけ柔らかく調理しています。食器を間違わないように印をつけました。」

「エレナは読み書きが出来るのか。」

「物の名前とか、簡単なものならガサの町の若い者なら誰でも読み書きできると思います。文章にできる人は限られますけど。」

「この綺麗な字体は誰から教わったのだ。」

「ジーナです。この塔にも来た事があるはずですわ。私の彫刻した字体が崩れていると、それを見た人が覚えた字も崩れてしまう、と言っていました。あの子は字体の美しさをとても気にするものですから。」

 そういってエレナは生野菜を盛った笊を見せた。そこにもエレナが彫刻した文字があった。

 この娘は知らないらしいが、この字体は二十年以上前にコリアード王家の家庭教師が流行らせたものだ。当時魔術師として名を知られていたレグルスは王家と手紙のやり取りをしていたので覚えているのだ。ダンクが王となってからのコリアード家では美しい字体で手紙を書く風習は失われてしまった。

 ジーナという子の親は王家の家庭教師と深い関わりがあるに違いない。小柄な若い魔術師が持っていたダガーに秘められた紋章といい、この辺りには旧王家の影が見え隠れしている。

「エレナ、目が悪くなった私に変わって手紙の代筆をするように。綺麗な文字で頼むぞ。」

「申し訳ありません。私、難しい文章を書く事はまだ出来ないのですけれど。」

「私は目が悪く、手先もおぼつかない。見本の文章を私が書くから、それを清書してくれればよい。」

 これだけの綺麗な字を書けるのであれば、私の手紙を書く事でエレナの読み書きが上達し、実用になるだろう、とレグルスは思った。エレナの事を、孫娘を見るような目で見つめている事にレグルス自身は気づいていなかった。


 こうしてエレナとニコラの魔術師の塔での生活が始まった。

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