十三 魔術師の塔・囚われの人(一)
その日は朝から厚い雲が秋空を覆っていて風が無く湿り気のある空気が辺りを満たしていた。陽が傾き始める頃には雨が降るかもしれない。午後から雨になれば外出する人もいなくなるだろう。人に見られたくない魔法陣の実験には好都合だ。
ダンの鍛冶屋に行くとビルが店の前で石投げをしていた。
「やぁ、ジーナ、石投げ上手くなったよ。」
二個投げて二個とも当たった。当然の様に両手を出し小遣いをねだる。
「ちょうだい。」
手に小銭を乗せてやる。ジーナは子供の頃、今のビルのように石投げの練習をしていた。ビルの上達が早い、この技はいずれこの子の役にたつだろう。ジーナは石を革紐でむすぶと木の枝から吊して揺らした。
「ビル、これに当てる事はできる?」
今度は外れた。
「揺れている石に当てる事ができたら一回につき二ギルあげるわよ。頑張ってね。」
何度も石を投げるが、なかなか当たらない。
諦めて、ビルは懐から魔法陣を刻んだ銅板を数枚渡してくれた。
「この前使った光の魔法陣と、癒しの魔法陣の2種類作っておいたよ。」
「癒しの魔法陣はどんな効果があるの?」
「分からない、魔法陣の事は、お母さんは遊びだと言って難しい事は教えてくれなかったから。」
「ありがとう。」
癒しの魔力なら腕輪の力で使って来た。私にも使えるかも知れない。例の洞穴での魔方陣の確認にちょうど良いとジーナは思った。
午前中は薬草を探してカテナ街道沿いの西側、ガナラ山側の木々の間を散策し、午後になってから滝の傍にある洞穴に向かった。
曇り空を反映しているのか、洞穴の中の湿り気が増している様に感じた。ジーナは前来た時とおなじ場所、入口近くに腰をおろした。バウはジーナの横に行儀よく前足を揃えて座った。ジーナの緊張が伝わったのか、耳をピンと立ててジーナの顔へ視線を向けていた。
魔法陣は描いた本人が古代語を唱えないと効果がない、とキーラは言っていた。詠唱が不要だと思っているのか、或いは母親から教わっていなかったのか、ビルは、魔方陣の詠唱については何も言っていなかった。以前、洞窟でビルの魔方陣を光らせた時には魔石の粉末の力を借りた。今まで他の人が作った魔法陣を試した事はなかったが今日はビルが作ってくれた魔方陣を自分の詠唱で効果が出るか試してみよう。
『何事も自分で試してみることが大切だ。』とローゼンも言っていたのを思い出した。たとえ成功しなくても、自身で確認した事なら納得できる。
結跏趺坐をし、瞑想に入る。洞穴入り口のクマザサに水滴の落ちる音がしてきた。雨が降り始めたようだ。洞穴の空気も湿り気を増してきた。雨音に混じってバウの呼吸する音が聞こえる。
ビルが彫ってくれた光の魔法陣が描かれた銅板を手に古代語を唱えると手に温もりが伝わってくる。やはりビルと一緒でないと本当の効果は出ないようだ。次にビルが癒しの魔法陣と言っていた銅板を出し、古代語を唱える。魔石の腕輪の効果なのか、光の銅板よりはるかに熱を帯びている。今度は魔石の腕輪に触りながら、再度同じ古代語を唱えた。
突然バウが立ち上がり、低く唸る。つられてジーナも立ち上がった。前回来た時と同じような気配を遠くに感じる。だが、洞穴の中は外の雨音が聞こえてくるだけで誰かがいる様子はない。
再び結跏趺坐の姿勢をとり、もう一度腕輪に手をあてて周囲を探る。一瞬感情が交錯した。瞬間、ビルと触れ合った時の様に銅板の魔法陣が強く輝いた。バウが前足でその銅板をたたき落とそうとする。魔法の力を持つ者がどこかに囚われているのだ。驚きの感情と共に弱々しい意思の触手が伸びてきた。ジーナの潜在意識にある心の錠が壁となり、謎の触手の侵入を阻む。
腕輪から手を離し瞑想を止めるとその気配も消えた。触手の持ち主はジーナより力のある魔術師であろうと思われるが、心身共に傷ついているのか力強さがない。囚われの者は何者なのか。
ジーナはバウの頭を優しく撫でた。
私は若い時の修行時代に魔法陣の神秘さに魅入られて以来、長い事魔法陣の研究に生涯を注いできた。魔術師会の幹部に誘われた時も人間関係の煩わしさに嫌気がさし、この辺鄙な地へやってきたのだ。勿論、魔術師仲間で伝説となっている、この地に住んでいたと言われる魔王の伝説があればこその事ではある。
魔術師仲間で誰も来たがらない中、ここへ来て十数年、平和な農村が広がるばかりのこの地に暮らして見ると、人の有り様について感慨深いものがある。その様に思うのも歳の所為かも知れないと思いながら、町の喧噪から隔離された静かな年月の中で、今まで蓄えてきた魔法陣の知識を羊皮紙に書きためていた。己の研究成果を残そう、等とは若い時には考えもしなかった。歳をとったという事だろう。
その羊皮紙の束は塔に古くからある秘密の棚へ、塔の運営費として魔術師会から送られてくる金貨と共にしまっている。その棚は変哲のない石壁に刻まれた、古代語が基となる象形模様が鍵となっており、古代語の研究者でなければ読み解く事はできない。上辺だけの知識しか持たないルロワでは落書きにしか見えないに違いない。
隠す為にそうした訳ではなく、他に適当な棚がなかったからそうしただけなのだが、それが幸いしてルロワに魔法陣集の存在を知られずにいる。
最近では港町ギロが随分発展した様で、魔術師会の中央から若い者が派遣されているとの連絡は来ていたが、ガサの町は忘れられた存在に近かった。煩わしい雑事に追われる事を嫌う私にはかえって都合が良い事だった。
それがルロワごときの罠にはまり、言葉を奪われてしまった。魔法陣を描く事は出来ても言葉で唱え、効力を発揮させる事ができない。今は何の力も持っていないのだ。この地下牢で死をむかえるとはなんと情けない事か。このまま闇の中で己が死を迎えればその魔法陣集も誰にも見いだされる事なく、時の流れの中で塵となっていく事だろう。
さすれば無駄な一生であったのか。せめてこの塔に古くから存在していた魔法陣の秘密を極めて見たかった。いくら考えても同じ思いが巡るのみだ。
突然闇の中に潜む男の心に魔法陣が浮かび上がった。この前の出来事から数日はたっているに違いない。しかし、今回の魔法陣は前回よりも力強くはあったが、その内容は魔術師がおのれの幼い子に教えるような簡単なものだ。子供が魔法陣の練習をしているのだろうか。
こちらの存在に気づいたのか、その未熟に思える術者が使う意識の触手が近づいてくる。無防備に見えるその意識が闇の者の意識に触れた。何かがはじけ、闇に浮かび上がっていた魔法陣が強く光って消えた。
先ほどまではつたない者の様に思えたのだが、今の輝きは上級者の力だ。再び触手を伸ばすと意識の壁に拒絶された。触手の力を強めるが、壁の押し返す力も強くなる。突然術者の存在が消えた。
ジーナの意識は、魔術の研鑽を重ねた囚われの男の触手から完全に自己を守っている。 自己を守った術者が初心者なのか、上級者なのか、ジーナの正体を知らない、男にはわからなくなっていた。尤もジーナを知っていたとしても理解に及ぶかは不明であるが。
その男は、囚われの身で力の半分も使えない己を呪った。
ジーナは再び瞑想する。気づかれない様に慎重に気配をさぐる。動くことが出来ないのか、その気配は一カ所に止まったまま静かにしている。洞穴の外の雨音がさらに激しくなる。
どの位時がたっただろうか、階段を歩くもう一つの気配が闇の存在へと近づいている事にジーナは気がついた。階段を降りてくる人間に自分の存在を悟られない事を願いながら、ジーナは魔石の腕輪の力を借りて聞き耳をたてる。
ルロワはいつもの様にランプ一つを手に隠し階段を下りて牢獄への扉を開けた。
異臭が通路へと流れ出、咳き込みそうになる。何度も来ているのにこの臭気には未だに慣れることができない。特に今日は湿気がましている分、臭気を強く感じる。ルロワがくると暴れる鉄格子の中の男が今日は静かだ。死んだのか。
「おい、暴れる元気もなくなったか?」
声をかけてランプで牢内を照らす。男が鉄格子の奥からじっとルロワの顔を見つめている。闇の奥から見つめる力のある瞳がルロワをとまどわせる。
「食い物は要らないのか? 逆らうと明日まで食い物無しだぞ。」
男は動く様子はない。
「まだやる事はあるのだ。死んで貰っては困るからな。俺の血では魔法陣が言うことを聞かないのは知っているだろう。」
ルロワはさらに言葉を続ける。
「魔力のない俺が魔法陣を扱えるお前に勝つ為にはお前から言葉を奪い、魔法陣を唱える事が出来なくする必要があった。お前から言葉を奪ったのはこの俺だ。しかし、早まったよ。塔の秘密を聞き出しておくべきだった。この塔にはいまだに俺には入れない部屋があるのだからな。俺はランプリング家の唯一の跡取りだ。薄汚いそこいらの者達とは違う。そのうちに魔力も身につくだろう。そして塔の秘密の全てを手にいれてやる。お前の命はその時まで生かしておかねばならないのは残念だよ。水だけは置いていってやる。」
ルロワは鉄格子内の食器をたぐり寄せ、水だけ注いで牢を出た。絶対的優位にたっているにも関わらず、その男の前に出ると、不安と恐れを抱くルロワは不必要に饒舌になった。
勿論もう一人の人物がその会話を聞いている事など魔力を持たないルロワが気づく筈もない。
誰かがおぞましい血抜きの儀式を行い、魔法陣を動かしているに違いない。その男の独白のおかげでジーナは事態が飲み込めた。しかし、魔法陣を動かしていると思われるその男がルロワである事をジーナは気づいていなかった。そして囚われの人は誰なのか。囚われの人を助け出せれば、魔法陣を使用できなくなる。
彼は何処に囚われているのだろうか。彼と連絡を取り合う必要が有りそうだが、魔術師ではないジーナは他人と意識の中で会話をする事などできない。
数日前、盗みに入ったジョンが逃げた日、洞穴の何処かから生臭い空気が吹き込んでいた。そして今も淀んだ空気の流れを感じる。きっと男が囚われている牢からこの洞穴に通じる穴があるに違いない。
その穴を利用して魔法陣を渡す事ができれば、また、相手がジーナよりも知識のある魔術師であるならば、何らかの道が開ける可能性はある。銅板に質問を書いて渡してみよう。
洞穴の空気の動きがどこから来るのか、臭いを探りながら奥へ進む。あった。魔法陣の銅板に魔石の粉末をかけランプ代わりにし、その辺りを照らす。洞穴の突き当りの下から一メートルの辺りに小さな穴が空いている。中を覗くが勿論真っ暗で何も見えない。小動物の巣穴か移動用の穴だとすれば曲がりくねっていて当然だ。おそらくモグラの穴だろう。
モグラに魔法陣を運んで貰おうと考えたジーナは、もう一人現れた男の気配が無い事を確認してから、一度洞窟の入り口へ戻った。入り口に生えているクマザサの根元をかき分け、土を掘り返してミミズを集め、壁にあいた穴の入口にミミズをおき呼び寄せる。来た。やがて可愛いピンク色の鼻先が穴から突き出だ。
相手の囚われている場所が闇ならば光の魔法陣以外気づいて貰えない可能性がある。ジーナは、ビルが光の魔法陣を描いた中で最も小さい銅板を出し、その裏に『場所?』と書いた。モグラを両手で包み込むようにそっと持ち、警戒心の鍵を一つ外してモグラを落ち着かせる。
「モグラさん、ちょっと我慢してね。」
モグラにそう声をかけてから糸でその後ろ足に銅板をくくり付け、魔法陣に魔石の粉をかけながら念じる。銅板がほのかに辺りを照らし始めた。
「モグラさん、囚われの人にこの銅板を届けてちょうだい。」
穴の所でモグラを放したジーナは子供の頃、北サッタ村にいた頃から同じような方法で小動物達と戯れる事があった。しかし、この様なお願い事をした事はない。モグラは銅板が発光している間に闇の中にいる彼に届けてくれるだろうか。
ジーナは再び瞑想する。魔石の粉末がモグラにもふりかかった為なのか、モグラであろう小動物が移動する意識をはっきりと捕まえる事ができ、さらに心をすませると、土の臭いまで感じる事ができた。穴を通り抜ける事ができたらモグラに鳴いて貰おう。きっと気づいて貰えるだろう。
牢獄からルロワが去ってまもなく、モグラの鳴き声が聞こえた。何匹か食用にして以来モグラ、ネズミの類は近づかなくなっていたが、新参者なのかわざわざ鳴いて寄ってくる。錯覚か妄想か、体を光らせたモグラは足下まできて男を仰ぎ見ながら再び鳴いた。右手でモグラをつまみ上げると、足に光るものが付けられている。良く見ると女子供が使う安物の銅メタルが光っているのだ。男が顔に近づけてもそのモグラは怖がる様子がなく、見えない目でじっと見つめてくる。
食おうとしなくて良かった。このモグラは外にいる魔術師の使い魔という事になる。しかし使い魔を操る魔術師とは珍しい。随分昔、若い時に、今はコリアード王国の王都となったハダルで一度会ったことがあるだけだ。魔術師ソフィー・ラスタバンはネズミを使い魔として飼っており、弟子はいなかった。短期間であれば人間を操る事も、小動物の行動を乗っ取る事も可能だが、精神的にかなりの疲労を伴うのだと言っていた。また、長きにわたる精神修行を必要な技なのに世間ではその技を認められていないと彼女は嘆いていた。この時代、剣と力が正義とされ、毒殺、人や動物を操る行為は卑怯な事と見なされていたのだ。
ダンク・コリアードが王となる数年前、ソフィー・ラスタバンは年老いたので引退すると言い残し王都を去ったと聞いている。もう生きてはいないだろう。生きていたとしても今は更に年老いているだろう彼女がこの様な所にいるとは思えない。外にいる魔術師はいったい誰なのだ。
メタルの裏に文字が書いてある事に気がついた。男を助けようというのか、ここの場所を知りたがっている。やはりこの魔術師の力が強くないのか、メタルが次第に光を失っていく。
ルロワが付けた腕の傷から滲む血を爪の先に付け、メタルに文字を書く。“塔・地下”これで理解できるだろうか。小さなメタルの表面では二文字を書くのが精一杯だ。己の血に反応したのだろう、再びメタルが輝き始めた。使い魔のモグラは男が作業を済ます間、男の膝の上でおとなしくしていた。
メタルの光が完全に失われ牢に闇が訪れた。男はモグラを放した。