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1.傾国の美女ってどうなのよ?

 


 突然だが、社会人が前世の記憶を覚えている確率って、一体何パーセントあるのだろうか。


 例えばの話、世界の人口を大雑把に70億人と仮定しよう。

 もし前世の記憶があるのが一人だけだとするならば、約0.000000014%という超低確率な割合になる。


 さて、こんなバカげた計算をしている俺であるが……。


 どうやら落車の衝撃で、その前世の記憶が蘇ったらしい。

 それに……どうにもその記憶が少し変なんだ。


 前世は【氷の魔女】とか呼ばれる、異世界の魔王なんじゃないかというレベルで人類全員に恐れられていた最強冷徹な女性であった。

 さらに、街を歩けば男共は意識朦朧になるほどの無意識下で誘惑され、商店街を歩けば欲しい物が全て無料で手に入ってしまうほどの『絶世の美女』を通り越した『傾国の美女』だったらしい。


 普通は記憶だけでそんな事実を信じるほど俺の頭のネジは飛んでいないと思っている。


 なんだけど……。

 どうやらこれが幻覚とか一時的な脳の混乱とかではないようなのだ。


「えっと……なんだろう。この分厚い氷の壁」


 落車した俺は地面に倒れており、その周囲を見るからに強固な氷の壁が覆っていたのだ。

 そのありえない光景に気が動転していた。


 今の季節は秋手前の夏だ。

 こんな時期に山梨県の山道に巨大な氷が残っていること自体がおかしい。夏の暑さに耐えて、車が毎日行き交う山道に極厚の氷が残っているわけがないのだ。


 そう、自然が作り出した氷ではない。


 では、一体だれがこんなものを山道のガードレールの下にある緑が鬱蒼と茂る辺鄙な森の中に作り出したのか。


 ……まさかの俺以外に考えられない。


 頭を打っておかしくなったんじゃないか、自分でもそう思ってしまうほどには突飛な考えをしている自覚はある。

 でも、この状況を鑑みるにそれ以外に考えられなかったのだ。


 俺は大学を卒業し、ゼネコンで施工管理をして一年目の新卒社会人だ。

 もちろん天才と呼ばれる頭脳も、オリンピックに出られるほどの身体能力も、瞬時に暗算してしまう計算能力もない。ましてやアニメやゲームの世界じゃないし、魔法やスキルなんて能力も持っているわけがない。


 それでも俺がこの状況を作り出したと断言する根拠があった。


 前世の記憶、つまり【氷の魔女】アイエリス=ライフがこの状況を作り出す特異な能力を扱う人間だったのだ。

 能力の名前は『硬氷壁(こうひょうへき)・オートタイプ』、完全オートで起動する防御系能力なのだ。


 頭をクシャクシャと掻きながら、ここに至るまでの経緯を思い出し始めた。




 ******************************




 新卒一年目の俺にとって、建設現場で学ぶことはまだまだ多い。


 まず現場に入って最初に驚いたのは、先の尖ったスコップのことを「剣スコ」と略称して呼ぶことだった。

 現場初日、職人さんから「新人くん、剣スコとって!」と言われた事件があった。

 最初は「この人、何の呪文唱えているんだろう」と思い首を傾げたほどだ。もちろん大学時代にそんな現場で扱う専門用語などは習わないので、後にその職人さんが丁寧に解説してくれた。


 最初に教えてくれた人が優しい人で良かったと本当に思っている。

 いつも現場でぶっきらぼうに仕事する高内さん(通称:能面)が最初だったらと考えると、今でも心臓が飛び出そうになる。

 怖いものは怖い。小心者である俺はいつも現場で粗相のないように仕事を頑張っていた。


 さて、毎日が刺激だらけな俺ではあるが、こんな俺にも男の趣味がある。


「バイク整備良し、ガソリン満タン、グランドシート良し、テント良し、椅子良し……その他前日に確認したから大丈夫だろう。久しぶりの二連休だ、存分にソロキャンプを楽しんでやる」


 グッと体を伸ばしながら、俺はアパートの前で朝の新鮮な空気を思いっきり吸い込んだ。


 ソロキャンプとは。

 一人でキャンプ地を選定し、好きな場所に一人用のテントを設営する。自然の音や匂いなどを存分に味わいながら、男の一人飯を口いっぱいに頬張る。

 空いた時間は趣味に充てるも良し、運動するも良し、釣りをするも良し。それぞれの好きな時間の過ごし方で非日常な空間を楽しむ気軽な趣味のことだ。


 キャンプと言えば「夏」と答える人も多いだろう。

 確かにキャンプのシーズンと言えば「夏」がメインになってくる。しかし、夏だけキャンプを楽しむのは二流のやることだ。

 一流たる者、季節を問わずキャンプを楽しめるものなのである。


 そして、自分なりの楽しみ方を模索できるのがソロキャンプの醍醐味である。


 今日は久しぶりに連休を取得することができ、遠出をする予定だ。


 ここ大阪から自慢のバイクを飛ばすこと約五時間で、山梨の山中湖周辺にある湖畔キャンプ場へと向かう。

 ここは知り合いのキャンプ仲間から教えてもらった穴場スポットで、季節を間違えなければ人が少なく最高のロケーションを楽しめる絶景ポイントらしい。


 昨日の勤務終わりから楽しみでずっとそわそわしていたくらいには、この日を楽しみに夢想していた。


「仕事がないって最高。今日は久しぶりに飛ばそうかな」


 気合を入れ、俺は自慢のバイクに跨った。

 このバイクにも中々、思い入れがあったりする。


 これを買ったのは大学二年生の頃だった。

 高校生から必死にバイトで貯めた貯金をほぼ使い果たして、一括で購入した憧れのハーミデイビッドソンのバイクなのである。


 元々、親父がハーミデイビッドソンのバイクに乗りながらツーリングキャンプする趣味を持っていた。


 俺は小さい頃からそんな親父の背中を見て育っていたため、必然と親父の休日の過ごし方に憧れを抱いていたのだ。

 そんな経緯もあり、俺の中では『ツーリング×ソロキャンプ=ハーミデイビッドソンのバイク』という方程式が自然と完成していた。


 だから変に安いバイクを買うことなく我慢して、高価なこのバイクを最初に買ったのだ。


「あ~……超気持ちぃ」


 俺はバイクを走らせながら、フルフェイスのヘルメットの中で温泉に浸かったおじさんのようにボソリと呟いた。


 バイク乗りには、盛大に雄叫びを上げる人もいるけど、俺はそこまで自己表現を前面に出したい性格はしていない。

 峠を攻めるとか、コーナリングのギリギリを攻めるとか、カッコいいと思ったことはない。


 こんなTHEバイクみたいな車種に乗ってはいるが、俺は基本安全運転でゆっくりと景色を眺めながら走行するのが好きである。


 自分の「好き」を押し付けるのではなく、それぞれの「好き」で楽しむのが一番だ。親父はよく俺にそんな言葉を言っていた。


 そして、たまにすれ違う自慢のバイクに跨るバイカー達。

 彼らと軽く片手で挨拶を交わすのもまた、結構好きな瞬間である。


 ほんの一瞬。

 瞬きするほどの刹那の時間ではあるが、短い時間でそれぞれの「好き」を共有できた気持ちになれる。それが癖になるのだ。


 これだからツーリングは止められない。


 そうして俺は時間をかけてゆっくりと山梨の湖畔キャンプ場を目指し、国道を進んでいく。


 道中、給水やトイレに行くために何度かコンビニや道の駅に立ち寄るのもまた、新たな発見がありツーリングの楽しいところでもある。

 中でも、その地特有のソフトクリームを見つけたら必ず食べるようにしている。

 どこで食べたソフトクリームが美味しかった、と巡り合ったキャンパーたちと会話すると結構盛り上がるのだ。

 特に女子バイク乗りがいれば、もっと盛り上がる。ソフトクリームを食べるだけで女子と会話が弾む。何と素晴らしい話題性なのだろうか、恐るべしスイーツの魔力。





 ついに山梨の県境を超えた。

 あと少しで目的地の穴場湖畔キャンプ場に到着するはずだ。


 つい心がはやり、俺はいつもよりもアクセルを強く回していた。


 少し気分が乗っていたのだ。

 どれだけバイクに乗るのが好きだと言っても、五時間近くのライドでは多少疲れが出てくる。

 そこに目的地という名の光が差し込むと、安全志向な俺でも少しはアクセルを強く踏んでしまうものである。


 急なカーブに差し掛かった。


 いつもよりも安全に曲がりきれないことを察し、速度に合わせて車体を斜めに傾ける。


 その時だった――。


 ギュルッ、ギュルッ。


「――は?」


 タイヤが滑った。


 いや、少し違う。

 気持ちが乗っていたとしても、スリップするような速度はさすがに出していない。


(これは……氷? こんな秋手前の山梨にブラックアイスバーン!? な、何でこんなところにそんなトラップがあるんだよ!!)


 しかし、対処するには少し遅かった。

 俺の体とバイクは……すでにガードレールの先へと吹き飛ばされていたのだ。


 ふわりと臓物が揺れ、気づいた時には空を仰いでいた。


「――あ」


 死んだわ、これ。


 視界の端で捉えたガードレールの先にある岩肌の崖に、鬱蒼と茂る森。

 この高さ、この勢いで落ちれば確実に待つのは『死』だ。


 落下死、ショック死、出血死、頸椎損傷……死因は何でも考えられた。


(はははっ、俺の人生まだ二十二年目だぞ? 趣味のバイクで落下死って……まあ、それも悪くはないのかな)


 なぜかはわからないけど、死を意識した瞬間世界が広がっていくような気がした。

 自分自身を達観視しているような感覚だった。


 俺はゆっくり目を瞑った。


 どんな死に方でもいい。


 ただ殺すなら、一瞬で。


 できるだけ安らかに殺してくれ。


 ただ唯一、心残りがあるとするならば……。


「ああ、せめて……美女を抱きたかったなぁ」


 その言葉を最後に、俺の意識は強い衝撃によって消えていった。




≪◆◆◆◆の死を確認しました≫

≪予定通り、◆◆◆◆死後プログラム【世界拡張システム】の起動を始めます…………接続を確認…………新規世界ルールを構築…………完了≫


≪世界に新たなルールが適用されました≫

≪良き世界にならんことを願います≫


≪ファースト称号強制付与条件のクリア者を確認しました≫

≪逢坂氷一郎に称号:【◆の◆◆】◆◆◆◆を強制付与しました≫

≪逢坂氷一郎に称号:【◆・◆◆】を強制付与しました≫




 ******************************




「はっ!? 生きてる!?」


 悪夢を見ていた。

 中世風な世界で、恨むような目をした数え切れないほどの住人から罵声や石を飛ばされ、最後は無惨にも拷問され死ぬ夢だった。正確には死ぬ寸前で目が覚めた。

 ギロチンの刃が落ち、首に当たるその瞬間で夢は途絶えたのだ。


 あまりの恐怖に飛び起きた俺は、無意識に両腕を空へと掲げていたのであった。

 恐らく無意識で何かに縋りたかったのだろう。


 俺は腕を地面につきながら、ゆっくりと上半身を起こし始める。

 そんな時だった――。


「うっ!? 頭が……」


 頭を鈍器で殴られたような頭痛が襲ってきたのだ。

 別に俺自身が誰かに頭を殴られた経験もないから、正確な表現ではないと思っ……。


(ん? 頭を鈍器で殴られたことがない?)


 いやいや、あるわよ。


 何度も何度も頭に石をぶつけられ、木の棒で何度も殴られ続けたでしょう。

 忘れもしない。あの裏切り者の国民どもめ、生き返ったら絶対に殺すわ。

 目玉をくり抜いて、睾丸をすりつぶして、頭から串刺しにしてや……。


「――は?」


 誰の記憶だ?

 俺にはそんな経験一度も……。


 ある。


 いやいや、ちょっと待て。

 一旦、落ち着くんだ俺。そうだ、落ち着くんだ。


 混乱している自分を落ち着かせるように深呼吸をすると、頭痛の痛みが一段と酷くなっていった。


「うっ……」


 絶対にあの国王も殺すわ。

 私をあんな罠に嵌めるなんて許せない。


 俺?


 私?


 ……何で一人称が混ざっているんだ?


「は? えっ? ちょっと待って、何だこれ。誰の記憶だ?」


 俺はブルブルと頭を振り、こめかみを何度も叩いて冷静を保とうとする。

 その行動のおかげなのか、次の瞬間には頭痛が止んだ。


(……一体なんだったんだよ)


 俺は頭を押さえながらも、今の体の状態を確認するために視線を下に落としていく。


「……間違いない、この頼りない体は確実に俺の体だ。間違いなく俺は『逢坂(あいさか)氷一郎(ひょういちろう)』だ」


 そうだ、俺は女なんかじゃない。

 混乱している自分の脳に言い含めるように、何度も何度もその言葉を口に出した。


 だんだんと思い出してきたぞ。

 俺はなぜか凍っていた地面にタイヤをとられ、ガードレールを乗り越えて崖の下へと落下したんだ。


(ん? 確かに俺は崖下に落ちたよな? それも結構な高さから落ちた記憶が……)


「はははっ……まさか」


 恐る恐ると、俺は上を見上げてみた。


 何も間違ってはいなかった。俺の記憶は正しかったのだ。


 崖の上には誰かが勢いよく突っ込んだように歪んだガードレールの跡がくっきりと残っていた。

 ついでに言うと、ここからの高さは目測でマンションの五、六階ほどはありそうだ。

 こんな高さから落ちたら確実に死ぬ。


 実際、俺はあの時「死」を覚悟していたはずだ。

 そう考えを巡らせている時だった。


「うっ……また…………」


 再び、酷い頭痛が襲ってきたのだ。

 俺は頭を押さえながら、その場でのた打ち回る。


 次は針で脳みそを直接突き刺されたような痛みだ。

 それも一本や二本ではない、数百本の束の針を勢いよく突き刺したくらいの痛み。


 傾国の美女?


 氷の魔女?


 私………俺が美女?


 いやいや、何を言っている。

 俺が美女なんて、何を意味不明なことを言っているんだ。


 そこで頭痛が止まった。

 頭を抱えながら、俺は再び上半身を起こす。


「……やばい、本格的に頭がおかしくなってきたか? 今、誰も何も言ってなかったぞ?」


 もしかして落下の衝撃で脳が一時的に何かを誤認させているのか。

 それとも幻聴を聞いているのか。


 いや、違うだろ。


 もう分かっているはずだ。


 事実から目を逸らすな。


 俺は逢坂氷一郎で、前世の私の記憶が蘇った。



 俺は、私で……【氷の魔女】アイエリス=ライフだ。



「……ライフ側の記憶は少し曖昧だな」


 逢坂氷一郎側の記憶は完璧に整っているのだが、ライフ側の記憶はかなり曖昧で靄が掛かっているような状態だ。


 一部の記憶だけが鮮明に理解できる。


 ライフが異常なほどに、前世の国王と国民を恨んでいるということ。

 彼らに拷問され、殺されたということ。

 ライフが【氷の魔女】と呼ばれるほど、その世界では魔王以上に恐れられていたということ。


 そして、氷能力の中でもごく一部の使用方法。


 これらの記憶だけが足し算をするよりも簡単に思い出せる。

 氷の能力に関しては、今すぐに手足のように扱えるだろうということまではっきりと分かる。


 この記憶について整理が出来てきたところで、どのような状況にこの身が置かれているのかを詳しく確認することにした。

 まずは立ち上がり、体に異常がないかペタペタと全身を触ってみる。


「とりえず大きな怪我とかはなさそうだな。多少腰が痛い気もするけど、落下した状況を考えれば軽傷の内だろう」


 腰の痛みは凝っているとかそういう類ではなく、筋肉系の故障だと分かるような痛みだ。

 とりあえず、落ち着くまでは我慢しよう。別に我慢できないほどの痛みではない。


 次に周囲を確認しようと顔を上げ、視界を一気に広げてみた。


 ……。

 …………。


 さっきまでは驚きの連続で、明らかに視野が狭まっていたのだろう。

 周囲の確認よりも、ライフの記憶の確認を脳内で優先処理していたんだと思う。


 そのせいもあったのだろう。


 改めて感じる周囲の明らかな違和感。

 なぜこんな異物が近くにあるのに、今の今まで全く気が付かなかったのか。


 そう思えるほどの異物が周囲には広がっていたのだ。


「えっと……なんだろう。この分厚い氷の壁」


 俺の周りを隙間なく囲む、分厚くも滑らかな分厚い氷の壁。

 それが俺の身長よりも遥かに高い約五メートルを超える形で広がっていたのだ。

 明らかに俺が出したと言わんばかりに、俺の座っている地面を中心に展開されているようなのだ。


 すぐにどんな技なのか、前世の記憶が蘇った俺には分かってしまった。


『硬氷壁・オートタイプ』

 術者が危険を感知した際に自動で発動する防御技術の一種。

 自らの意思でオン/オフが可能であり、ライフ自身が編み出したオリジナルの技術体系。


 これはどう考えても、俺……というか前世の俺の能力以外に考えられなかった。

 周りには他の人の姿すらなく、最近人が踏み入ったような痕跡すらないのだ。


 俺はゆっくりと立ち上がり、近くの硬氷壁まで歩き片手を添えてみた。


「あれ? 冷たい」


 ライフの記憶では「氷とは冷たくないものである」となっていた。

 しかし、逢坂氷一郎である俺が触った今、氷は確かに冷たく、ずっと触っていると凍傷になってもおかしくないほどの冷気を放っていたのだ。


 ここでライフの記憶と違う部分が生じた。


「冷気が冷たく感じないのはライフの体質であり、今の俺には適用されないってか」


 誰にというわけでもなく悪態をつきながら、俺は人一人通れるほどの穴を壁に開けようとしてみることにした。


 意識することは簡単だ。


 まだ熱く、流動的な出来立ての飴をこねくり回す感覚である。

 もちろんこれもライフの受け売り、彼女自身が想像していたのが「飴をこねくり回す」という作業だったのだ。


「うおっ、確かに飴みたいだな」


 記憶の通りだった。

 先を見通せないほどの氷の壁がグニャリと意識した通りに形を変え、出口となるアーチ型の空間を作り出すことに成功したのだ。

 俺は今の感覚を忘れないようにと、何度か出口の形を変形してみることにした。


「何でもありだな、これは」


 触っている間は冷たく感じるが、俺が思った通りにどんな形にだって変形してくれたのだ。四角、円形、ハート形、ひし形、狸型ロボットなど、本当に自由に何でもできる。

 飴をこねるような意識は、今の俺にも合っているやり方のようだった。小さい頃、よくおばあちゃんと飴を作った経験が良かったのだろう。


 なんとなく能力を確認できた俺は、氷の壁の外側を確認してみた。


 どこにでもある普通の森だった。

 多少の斜度があり、草木が自然のまま自由に生えている場所だ。

 草木の長さと獣道が見えることから、人が簡単に歩いて来られるような場所ではないのだろう。


 不意に、俺はアレを見つけた。


「おぉっ! ハーミちゃん、無事だったのか!」


 ハーミちゃんとは、俺のバイク「ハーミデイビッドソン」の愛称である。

 人前でこれを言うのは恥ずかしいが、一人の時は遠慮なくこの名前で自慢のバイクを呼んだりする。

 これこそ、物への愛である。


 馴染みのある物を見て安心できたのか、心のどこかで動揺していた気持ちが少しすっきりしていた。

 さすがは愛しのハーミちゃんだ。


「いや、待てよ。これは果たして無事と言えるのだろうか?」


 氷壁空間を出口から出て、すぐ左側に四歩ほど行った場所。

 そこの氷壁にバイクの後輪側が半分ほど埋まる形で、バイクがめり込んでいたのだ。


 すぐに壊れていないか確認する。

 あれだけ高かった愛用のバイクだ、壊れてたら泣いてしまうかもしれない。


「これは無事と言っても差し支えはないな」


 あの落下状況でバイクがバラバラにもならず、凹むこともなく、パンクすることもなく健在であったのだ。

 正直、壊れていないことは不可解なのだが、今は深く考えないようにしておこう。


 すぐにバイクを救出し、エンジンをかけてみることにした。


 ドルン、ドルン、ドルン、ドドドドドドドドドドッ――。


 思わず泣きかけてしまった。

 ハーミデイビッドソン特有の不均一で心地の良い音は、こいつが無事だということを雄弁に物語っていたのだ。


 ――私はまだまだ現役ですよ。


 ハーミがそう語りかけてきているような気がする。これは幻聴ではない、俺の心で作られたバイクの幻影だ。

 実はハーミは女性なのだ。もちろん俺の脳内設定である。


 こんな一人遊びをしているなんてさすがに誰にも言えないけど。


「しかし、これはどう脱出したらいいのやら」


 俺は反り立つ硬氷壁を片手で溶かしつつ、崖の上を見上げていた。


 氷壁は崩したほうがいい。

 誰がどんな拍子に、この崖底を見るかも分からない。

 そうなった時、季節や場所的に明らかに不自然な氷の氷壁なんてあったら、俺はなんて説明すればいいのか分からない。警察とか来たら万事休すだ。


(崖の上……ね)


 この状況、今の俺には事故なんてなかったことにできる方法があるのも確かだ。

 俺自身は無傷で、バイクにもそれといった不備は見当たらない。それにこの崖上にだって、【氷の魔女】ライフの力を使えば、何ということもなく上がることができるはずだ。


 でも、その前にスマホで情報収集をしておこう。


 どれだけ時間が経ったのかは分からないが、俺は確かに意識を失っていた空白の時間がある。

 数秒か、数十秒か、はたまた数時間か。

 それを確認しないことには、何も始まらな……。


「えっ? どういうことだ? 日付が……おかしい」


 スマホのロック画面に表示されていた日付は、キャンプに出発した日付よりも二週間も先の日にちを表示していたのだ。

 何度目を擦って見直しても、その数字が変わる気配はなかった。


 ドバッと冷や汗が体中から噴き出した感覚があった。


「む、無断欠勤!?」


 新入社員が会社を二週間近く無断欠勤なんて、例えどんなことがあろうともクビが跳ねること間違いないだろう。物理的にではない、社会的にだ。


 終わった。

 俺の社会人生活はたった今終了を迎えたようです。

 ……ん?

 いやいや、一旦落ち着いて考え直せ。


 一つ、違和感があるぞ。


「これはスマホの日付機能がバグっているのではないのか?」


 俺の持つこの古いスマホの機種では、例え一度も使用していなくとも二週間なんてバッテリーが持つはずがない。

 そうなのだ、俺のスマホは残念ながらそんなに優秀ではない。どれだけ持ったとしても一日か二日くらいだろう。


 二重チェックは重要だ。

 社会人たるもの、二度確認することがミスをしない絶対条件。


 俺は左腕に付けていた腕時計を見る。


「おぅ」


 膝から崩れ落ちる俺であった。

 その理由はもちろん、日付がスマホと全く同じであったからだ。日付だけじゃない、時間もスマホと同じだった。


 もう一度就活するとか、勘弁してほしい。

 現実逃避したくなった、その瞬間だった。


 パタ、パタ、パタ、パタ。


 耳元で聞きなれない音が聞こえてきたのだ。


 何かが飛んでいるような音。

 蚊やハエみたいな羽音でもなく、蝶々のように音の聞こえないふわふわ音でもない。

 確かに聞こる、小さな翼をはためかせるメルヘンチックな音。


 ふと、顔を上げてみた。


 俺は思わず、泣きそうになっていた瞳を大きく見開く。


「おぉ!? 何だよ、これ」


 こ、これはなんと表現すればいいのやら……。

 強いて言うならば、こうか。


「翼の生えたカード?」


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