第九話 純粋にして完璧
王都を丸々土のドームで覆い、今日まで存続してきたヘグリア国が女王アリス=ピースセンスは三十路ながらに子供と見間違う女である。
分厚い鎧姿のアリス=ピースセンスはシンシヴィニアからの話を聞き、こう返したものだった。
『ミリファだっけぇ? 殺すなんてとんでもないわよぉ。当面敵とならないと判断できれば連れ帰ることねぇ』
『な、にを、言っているですわよ? わらわの話を聞いていたですわよ!? あのゼリシアが魔王と並ぶ脅威と成長する可能性ありと判断した怪物を連れ帰れ、なんて、王都を内側から滅ぼす気ですわよ!?』
『この世界はどうしようもなく追い詰められているのよねぇ。このまま閉じこもっていたってぇ、いつか魔族に破られ殺されるだけよぉ。というかぁ、わっちたちを滅ぼす「だけ」ならとっくに王都まで攻め込んでいるだろうにぃ、未だ放置されているってだけだしぃ。魔族がやる気になったらぁ、滅亡一直線よねぇ。そうなる前に状況を打破するにはぁ、それこそ「劇薬」が必要よぉ』
『劇薬、ですわよ?』
『そうよぉ。確実な脅威を撃滅するためにぃ、未来に脅威となるかもしれない奴を利用するってねぇ。それにぃ、そのミリファとやらはあくまで未来の脅威よねぇ。ならぁ、手を尽くせば未来の脅威へと変異するのを阻止できるかもだしぃ』
『ちなみに、具体的な策は?』
『……、きゃは☆』
『こ、こいつ何も考えていないですわね!? 三十路にもなって痛々しい誤魔化し方しやがってですわよーっ!!』
『だぁっ、誰が痛々しいよねぇ!?』
女王アリス=ピースセンスはいつもそうだった。無謀としか思えない思いつきで突き進み、しかし最後には最低限の『勝ち』を掴むのだ。
だからこそ、多くの国が滅びる中、ヘグリア国は王都だけとはいえ現存している。九割以上の民を切り捨ててでも最低限王都の住人だけは守る。最低限、そのラインを見極め、アリス=ピースセンスは結果を残してきた。
ならば。
師団長『全員』をもって決行した本作戦、すでに命が霧散していく中、その犠牲に意味を持たせるとするなら……。
ーーー☆ーーー
「ぶ、がぶべぶっ。本当、いつもこうですわよ。アリス=ピースセンスが考える作戦はっ、どれもこれもクソッタレですわよっ!!」
魔導馬車から投げ出され、地面に叩きつけられたシンシヴィニア=セレリーンの右足は折れて骨が肉を突き破り外に出ていた。ろくに動かず、激痛が走る右足をひきずり、シンシヴィニアはそれでも前に進む。
右手に腰から抜いた剣を杖代わりに、左手に頭から血を流し気絶したミリファルナをひきずって。
「ふ、ふぅ……っ! せめ、て……意味を」
炎や水、風に土といった魔法、不可視のエネルギーにスキルが展開される。二十人弱。魔導馬車から投げ出された戦士たち──魔族が大陸に攻め込む前、シンシヴィニアがまだ公爵令嬢だった頃から彼女を守ってくれていた私兵たちが示し合わせたように、だ。
勝てるなんて考えてはいないだろう。何せ師団長であるノワーズ=サイドワームやアリアがああも呆気なく殺されたのだ。師団長ですらない戦士たちが敵うわけもない。
それでも、その抵抗には意味がある。
巨人の注目を集め、シンシヴィニアだけでも逃げる時間を稼ぐために。
一蹴だった。
剛腕による振り下ろし、たったそれだけで二十人弱の戦士たちは一人残らず粉砕されたのだ。
静寂があった。
その静かさがシンシヴィニアを幼き頃より守ってきた戦士たちの死を強烈に突きつけてくる。
「無意味に、なんて……しないですわよ。ノワーズを、アリアを、わらわをずっとずっと守ってくれたみんなの命をっ! 決して無意味にはしないですわよっ!!」
展開するは魔法。風の力。
その力でもってミリファルナを出来るだけ遠くに飛ばし、生かす。『劇薬』。無謀にも見える行動でもって最低限の『勝ち』を拾ってきたアリス=ピースセンスであればミリファルナさえ生きていれば──このどうしようもない世界に希望をもたらしてくれるかもしれない。
みんなの死は無意味と終わらないかもしれないのだ。
だから。
「ふ」
だから!
「ふっふ」
だから!!
「ふっふははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!!」
ギュッイン!! とミリファルナを覆う風、正確には魔力が吸収され、代わりのように純白にも似た金色の光が溢れたのだ。
「な、ん……ですわよ!?」
弾かれる。
光に弾かれ、ミリファルナから手を離したシンシヴィニアが地面に尻餅をつく。シンシヴィニアが見上げる先には黒髪をかき上げ、無邪気に笑うミリファルナ(?)の姿があった。
「不純物を混ぜるなんてひっどいなぁ。ミリファちゃんはただそれだけで純粋に完成しているのに。ねえ、シンシヴィニアちゃん。キミもミリファルナなーんて不純物混じりよりもミリファちゃんのような純粋で完璧なかわいーい女の子のほうがいいっよねー?」
「ミリファ、ですわよ?」
「そうそう、ミリファちゃん。きゃわわだよねー純粋にして完璧だよねー好きになっちゃうよねー」
「な、にを……んっぐう!?」
ぱんっ、と片手で頬を挟むように掴まれる。乱暴な扱いに、しかしシンシヴィニアは心臓が高鳴るのを感じていた。
ゼリシア、あるいはピーチファルナ。これまで出会ってきた中で愛情や友情という違いはあれど深く強い『好き』を向けた人たちがいた。
霞んだ。
より深く強い『好き』が脳内からドバドバと溢れてくるのだ。
頭が茹だったように眩む。身体が奥から熱を持つ。気を抜けばすぐにでも腰が抜けてしまいそうになる。
ミリファ。
その輝きに魂が惹かれる。惹かれて、しまう。
「いただきます☆」
妖艶に、それでいて無邪気に。
微笑み、そしてミリファは頬を掴むその手を引き寄せる。すなわち──そのままシンシヴィニアの唇と己の唇を重ね合わせた。
「ふっ、ぅ……んっ!?」
柔らかな感触に全身が震える。嫌なのに、この女はゼリシアが言うところの破滅の因子であり、この女の存在がノワーズやアリア、戦士たちの死を招いたというのに、それでもなのだ。嫌悪に憎悪。ドロドロとした負の感情が純粋にして完璧な歓喜に塗り潰される。
だから。
魔力が吸い出されることにさえ、喜びを感じて『しまった』。
「ぷはっ。喜んでいいよー。好きな人に尽くせるのは幸せなんだしねー? だから、別に目をハートにしてすり寄ってもいいよー。私は寛容だから出会ったその日に惚れちゃうハーレム賑やかし要員以上にはなれない、ふははっ! 自己が希薄なご主人様全肯定お人形さんだってトロフィー感覚で愛してあげるからさ」
「く……ぅっ!」
「ふっふふ。ほらほら辛いことばっかり感じさせる都合の悪い現実なんて捨てて、幸せしか感じられない都合のいい幻想に堕ちちゃえ、堕ちちゃえ☆」
「ふ、……ぁ」
手が、離れた。
支えを失ったシンシヴィニアが地面に倒れる。魔力を吸われて力が出ないからだ、そうに決まっている。決して喜びに腰が抜けたわけではない……と信じたい。
だって、もしもそうだったら。
嫌悪や憎悪を塗り潰し、どうしようもない歓喜に染まってしまったら。
これまで好きになった人たちは、彼女たちに抱いていた想いは、なんなのだ?
「ふ、ぐ……ううっ!」
悔しい。情けなくて仕方ない。
今この瞬間だけは巨人という驚異さえも頭から抜けて、ただただ悔しさに奥歯を噛み締めていた。
じわりと、己の不甲斐なさにシンシヴィニアの瞳から涙が溢れる。
「ん? ふっふははっ!! シンシヴィニアちゃんってばそこで悔し涙浮かべちゃうんだー。なんだよう、それならそうと早く言ってよー。そこまで想える誰かがいるんだぁ。うんうん、そっかそっか。じゃあ、徹底的にやっちゃわないとね」
笑う。
純粋にして完璧。誰が見ても魅力を感じて『しまう』魔性が広がる。
ぽんほんと慈しむように頭を撫でられた。ただしそこにはペットを愛でるような、どうしようもない残酷さも秘められていたが。
そんなものでも幸せしか感じられないのが、シンシヴィニアは嫌で嫌で、だけど嬉しく思って『しまった』。
「愛情なり友情なり、眩しくて大切で光り輝くものを、こう、ぶぢゅって塗り潰して、私色に染めるのって背徳感があっていいとは思わない? 嫌なのに、自然に生まれた好きは別の人に向けてきたのに、ふっははっ! 人為的に塗り潰されて、本当に好きな人が霞んで消えちゃうだなんて。全部忘れて私を好きになって、献身的に尽くすだなんて、ふはっ、ははははは!! 想像しただけで愉快にもほどがあるよねー。いやぁ、はっは、寝起きにこんなご馳走と巡り合えるなんてこれも日頃の行いが良いおかげだね☆」
ガヅッ! と倒れ伏すシンシヴィニアの頭を踏みつけ、悔しさに涙を流しながらもこんなことにも喜びを感じてしまう矛盾にさらに表情を歪める様子にミリファは口の端を嗜虐に震えさせる。
と。
そこでミリファの視線が動く。
「もう、尊いとか鳴き声あげていればまだしも見逃してやったってのに。それとも、まさか、百合の間に男放り込んでかき回すのを喜ぶ邪道趣味だとか?」
ミリファは巨人を見上げる。ノワーズ=サイドワームにアリア。二人の師団長を軽々と殺してのけた魔族を。
『魔の極致』第八席ノールドエンス。
軍勢さえも単騎で粉砕する十の金字塔、その八位を前にミリファはそれでも無邪気に笑う。
「まあ、なんでもいいや。せっかくの甘く爛れたイチャイチャを邪魔したんだし、とりあえず死んじゃおっか☆」
ギヂッ、と。
拳を握り締めての宣告に巨人は見下し、嘲笑った。
ーーー☆ーーー
『魔の極致』第八席ノールドエンス。彼が扱う超常はスキル『衝撃伝送』ただ一つである。
使用者が衝撃と考える因子を増幅、支配するスキルであるので魔法や斬撃を掌握することはできないが、打撃による衝撃であれば対象とできる。漆黒のマントにビキニアーマーの女の胴体を吹き飛ばしたのは巨人が剛腕で自身の腕を殴った際の衝撃を槍のように一点に束ね、増幅した結果であった。
そう、斬撃ならともかく打撃であれば衝撃と考えることができる。
考えることができれば、なんでもいいのだ。衝撃の定義はあくまでスキルの使用者に委ねられている。極端な話、使用者が衝撃だと完全に思うことができれば斬撃でも魔法でもスキルでも『技術』でも対象とできるのだから。
少女は拳を握った。そこから全身に纏う金色の光を放ったとしても巨人はそれを『打撃から派生した衝撃』と考えることができる。
つまり増幅も支配も思いのまま。
乗っ取り、力を上乗せした上で少女へと返すことができる。
武器を持っていたならまだしも、肉体そのものを武器としている時点で少女の敗北は確定した。後は単なる消化試合でしかない。
「好ましい姿ではあるが、『衝動』のままに殺すことに変わりはない。死ね、小さき者よ」
「ふっふははっ! こんな短期間で私に惚れている時点で勝ち目はないって」
宣告、そして剛腕。
先と同じように、今回もまた巨大なる腕で叩き潰す。抵抗するのは勝手だが、抵抗した分だけノールドエンスはそれを力と支配する。抵抗すればする分だけ確実な死が襲いかかるだけだ。
だから。
なのに。
ゴッッッン!!!! と。
片手で受け止められた。
青のレザーアーマーの女も漆黒のマントにビキニアーマーの女も、有象無象の小さき者たちも例外なく潰した。所詮は矮小な生命。ノールドエンスがほんの少し腕を振るえばそれだけで潰えるものでしかない。
そのはずだ。
そのはずなのに、現実は更なる異変へと足を踏み入れる。
潰れたのだ。
少女が、ではなく、ノールドエンスの拳が。
「な、がぁ!?」
受け止めるのはまだ許容しよう。青のレザーアーマーの女だって一撃くらいなら受け止めていた。だが、拳なのだ。黒髪黒目の少女の武器は拳。衝撃なのだ。その拳にどれだけの力があったとしても、ノールドエンスのスキルはその全てを支配、跳ね返す。そのはずだ、そのはずなのに!!
「金色の光は超常の性質を無効化する。つまり、私とやり合う奴は性質に頼ることなき純粋な力の総量を問われるってこと。ふっははっ。大層な巨体の割にこーんな簡単に潰れちゃうくらいちっぽけなんだっ。なっさけなーい☆」
純粋に、明るく、小馬鹿にした声音だった。それこそ足蹴にした縦ロールの少女をぐりぐりと強弱をもって踏みつけ、その反応を楽しむ余裕さえあるほどに。
ぶぢぃっ!! とノールドエンスの犬歯が唇を突き破る。二メートルにも満たない小さき者の嘲笑に巨大なる魂が屈辱に震える。
もう片方の剛腕を、振り下ろす。
その時には金色の光が放たれ放たれ放たれて、巨人を穿ち、抉り、貫き、そして肉片さえ残らず消し飛ばした。