第三話 魔人エリス
「にひ☆ あぁ、あーあー、本当、にひひっ。やってくれたよねー」
殴り砕かれた右頬から鮮血が噴き出す。ぐぢゃり、と右頬から口内が見えるほどに抉られた口を動かし、魔女っ子スタイルの女は森の中を歩く。
魔女モルガン=フォトンフィールド。
魔族側に寝返った人間を束ねる『三魔将』の一角であり、現存生き残っている敵戦力が相手ならばアリス=ピースセンスを女王と仰ぐ『最終守護領域』の幹部たち以外には太刀打ちできない実力者であったはずだった。
それが、見知らぬ少女に良いように殴り倒された。間一髪逃げることはできたが、このまま済ませることなどできるものか。
魔族連中を利用すれば金色の光を操る少女一人殺すのは容易いが、そんな風に最善を選ぶだけでは魔女なんて名乗ってはいない。逆境さえも殺しを堪能するためのエッセンスとする。そこまでしてこそ魔女は魔女たりうるのだから。
「挫折は、屈するのは、諦めるのは、敗北は、折れるのは、妥協するのは、一度でいい。にひ、にひひ、にひゃはは、ははは……」
ダメージは重く、足取りは頼りないものであったが、それでも魔女モルガン=フォトンフィールドは復讐を果たす。一度負けたくらいで諦めるような真似は魔族側に与した一度で十分。
──魔王の力を目撃したその時、殺意ではなく恐怖を覚えたその一度以外など許容できるものか。
「私が私であるために。殺しを楽しみまくるために。クソッタレな魔族連中に良いように使われようとも掴んだ惨めな生を! これ以上貶めたら!! 何のために生き残ったのか分からなくなるじゃないっ!!」
だから、殺す。
初手にて魔法を用いることさえなければ、あの少女は簡単に殺すことができる。しょせんは初見殺し。タネさえ割れてしまえばこの通り。
だから。
だから。
だから。
「リーダー?」
がしぃっっっ!!!! と。
いつの間に接近したのか、細く焼け爛れた女の手が魔女の顔を鷲掴みとする。
「に、ひ?」
「リーダー、じゃない。だったら……いらない」
直後。
紅蓮が世界を舐めた。
ーーー☆ーーー
金色の光は魔力を吸収することで力を発揮する。攻撃、防御、速度。ありとあらゆるステータスを底上げする金色の光は平凡な少女でも吸収した魔力量によっては世界を闊歩する怪物たちと対等に渡り合えるだけの力を授けるのだ。
「う、おおおおっ!!」
金色の光を纏う拳が飛ぶ。右のストレートを赤髪の女は顔を横に倒すことで避けて、返すように左のアッパーを放つ。
下から顎を狙うそれをミリファルナは左の肘で受け止め、右手で赤髪の女の耳の穴に指を引っ掛け、掴み、赤髪の女の顔を斜め下へと引き寄せる。
ゴッ!! と跳ね上がった膝が赤髪の女の顔に突き刺さる。ごぢゅり、と鼻の骨が砕けた感触が膝から伝わる。
「……、きひひ☆」
だというのに、そこには笑みがあった。
直後にその膝を両手で抱きしめるように掴み、ぶぉんっ!! と勢いよく振り回す。地面から浮く感覚にミリファルナがぎょっと目を見開くのと、赤髪の女が手を離したのは同時だった。
投げられたミリファルナが宙を滑空するのに合わせて赤髪の女もまた地面を蹴り急接近。その拳に不可視のエネルギーを纏う。
「経験値取得。ステータス展開。『技術』に割り振りレベルアップ」
「やっばっ!?」
ミリファルナが両腕を交差して身を守った瞬間、不可視のエネルギーを纏う赤髪の女の拳が衝突する。
「『肉体技術』獲得」
ゴッギィッ!! とミリファルナの両腕が軋む音が炸裂した。
「づぅ、ううっ!!」
再度吹き飛ばされた小柄な身体が近くの木にぶつかり、へし折り、何度も何度も地面をバウンドする。
「が、ぶ、べぶぼぶっ!?」
ようやく止まったミリファルナの口から鮮血が溢れる。四つん這いの状態で両腕から、いいや衝撃を防ぎきれなかったのか内臓からでさえ激痛が炸裂する。
ぶっくりと両腕が紫に腫れていた。おそらくは骨が完全に折れている。この状態でも腕に金色の光を纏うことで外から操ることはできるが、無理に動かすことに変わりはなく、動かせば動かすだけ激痛が走ることだろう。
目の端から涙を浮かべて、セルフィーや落下系翼女から距離が離れたことに気付いたミリファルナは『これで巻き込むことはない』と安堵したように小さく笑みを浮かべて、しかし我慢できずに、
「ああもうやっちゃったよぉっ。いったい、痛い痛い痛いってぇっ。少ないエネルギーで絶大な性質に手を伸ばす技能特化のスキルと違って、エネルギーを注ぎ込んだ分だけ威力が上がる『技術』と金色パワーは相性悪いんだよ、こんにゃろーっ!!」
付加した対象の特性を──例えば剣なら斬撃力、ハンマーなら打撃力といった風に──増幅する『技術』に技能は必要ない。素人だろうが達人だろうが(制御さえできたならば)どれだけエネルギーを注ぎ込むかで威力は左右される。
これがスキルであれば使用者の技能によって威力や性質が変化するし、魔法であれば注ぎ込む魔力量と技能の双方が関係してくる。
ちなみにスキルや『技術』は魔力ではない『何か』をエネルギー源としているため、ミリファルナの体質で吸収することはできない。スキルであればまだ込められてエネルギーそのものは少量なので金色の光で防ぐこともできていたが、『技術』が相手だといかに超常の性質だけならば無効化する金色の光でも純粋なエネルギー量を防ぎきれずダメージを受けてしまう。
ざり、と赤髪の女が歩を進める。先程までは『技術』すら用いない純粋な身体能力のみで金色の光の防御の奥へとダメージを通してミリファルナと渡り合っていた怪物が、だ。
先程までが互角であったならば、肉体の性質を増幅する不可視のエネルギーを纏った今の赤髪の女にどうやって勝てるというのだ?
「ちぇ。出会ったばかりの他人助けるなんて馬鹿なことしちゃったなぁ」
吐き捨て、そしてミリファルナは仕方ないかっとぱんぱんっと頬を挟むように掌で叩く。叩いて、真っ直ぐに赤髪の女を見据える。
「よしっ、どうせなら派手に散りますかっ。どうしようもなく追い詰められたこの世界、いつどこで殺されるかという延命しか待っていないというなら、最後くらい格好つけないとねっ!!」
「きひひ☆ 力の差を理解して、なお、折れない奴はいいよね。骨の髄まで経験値搾り尽くしてやれるもの」
赤髪の女が不可視のエネルギーを拳に纏い、握る。金色の光。攻撃、防御、速度と全ステータスを増幅する性質をぶち抜く純粋な暴力が解放される──その寸前のことだった。
「リーダー?」
ゴォッッバァッッッ!!!! と。
赤髪の女を真横と薙ぎ払う紅蓮があった。
炎。
余波だけで木々が爆発するように弾け、直撃しようものなら瞬時に炭化させてしまうほどに膨大な熱を秘めた紅蓮である。
距離が離れたミリファルナの肌さえも空気が熱せられたことによる熱波でじりじりと焼けるように熱くなる。
──赤髪の女の代わりを務めるように新たな女が立っていた。
全身は肌に張りつくタイプのバトルスーツが溶けて癒着するほどに焼け爛れており、赤黒いポニーテールに赤黒い目、背中からはこれまた赤黒い翼を生やした女であった。
ボロッ、と。
その手には炭化して散り散りと砕ける何かがあった。輪郭さえ確かではない、黒く散っていく何か。その中でも何かしら特殊なものだったのか焼け残った黒のとんがり帽子や黒のマントは先程ミリファルナがやっつけた魔女っ子スタイルの女が着ていたものではないか……?
「リーダー?」
その目が。
焦点が合っておらず、こちらを見ているようで決して見てはいない赤黒い瞳がミリファルナを捉える。
「じゃ、ない。だったら……死んじゃえ」
「……ッッッ!?」
そして。
そして。
そして。
「必殺エンジェルビームっ!!」
ヂュドンッ!! と片方だけ残った純白の翼を羽ばたかせながらミリファルナの横に降り立った自称大天使の指先から飛ぶは純白の閃光。放たれた純白の閃光は正確に赤黒いポニーテール女の額を狙い撃つ。
ガヅンッ!! と額に直撃したそれは女を微かによろめかせるだけで終わり、傷さえついていない怪物がジロリと自称大天使を見据える。
「リーダー……じゃない」
「くうっ。邪魔者同士潰し合わせようと不利な方に味方してみたけど、偶像が破損して本来の力を出力できない状態では……ごぶべぶっ!?」
吐血と共に自称大天使が膝をつく。
しかも、だ。
「いや、あの、お姫様は!?」
「ぐぶっ。……?」
「こいつ首傾げやがったよっ。普通私を囮に二人で逃げているべきで、甘ったれかますにしてもせめてお姫様と一緒にこっち来てみんなで逃げるべきじゃんっ。ほらもう中途半端なことするからお姫様だけ孤立しちゃってるよお!!」
ミリファルナが頭を抱えると共にであった。
ゾァッ! と燃え盛る紅蓮を引き裂き、女が歩み出る。赤髪の女。突如乱入してきたポニーテール女の炎をまともに受けたからか、右手の骨が見えるほどに肉が焦げ落ちていたが、それでもその口元には笑みが浮かんでいた。
「こんなところで魔人エリスと遭遇するとはっ。上質な経験値タンクが一挙に二つも手に入るだなんて今日は最高にツイているわねえっ!! これは、きひっ、じっくりと搾り尽くしてやらないと。きひ、きひひひひひ☆」
赤髪の女とポニーテール女。
二人が睨み合うその先にセルフィー=アリシア=ヴァーミリオンは残されていた。
先の炎で周囲の木々は燃え、気温は上昇し、黒い煙が立ち込めている。ポニーテール女の攻撃手段が周囲を巻き込む炎である以上、あの様子ではろくに力を持ち合わせていないお姫様は逃げきれずに焼き死ぬ可能性は高い。
そこまで考えた。考えてしまった。赤髪の女とポニーテール女とが互いに潰し合っている隙に逃げればそれで良かったというのに、余計なことを考えてしまったのだ。
ミリファルナだけなら。いいや何なら近くで膝をつく自称大天使を連れてもいい。
だけど、お姫様は無理だ。
赤髪の女とポニーテール女。二人を挟んだその先に位置するお姫様まで連れて行くためには怪物たちがぶつかり合う真っ只中を通り抜けないといけない。
直感があった。そんなの不可能だと。
あの赤髪の女は元より、ポニーテール女もまた赤髪の女の腕を一撃で抉るほどの力の持ち主だ。いかに魔力を吸収する体質や吸収した魔力量に応じた金色の力を宿すミリファルナであってもどうしようもない。
魔女っ子スタイルの女からお姫様を救い出した時とは脅威のレベルが違う。先の魔女が簡単に殺されるようなどうしようもない地獄なのだ。
仕方ない、でいい。
不可能だと諦めていい。
だって、世界はどうしようもなく追い詰められているから。あんな怪物たちが自由に闊歩し、国家なんてほとんどが崩壊している有様なのだ。
いつか、どこかで、確実に死ぬ。
そんなクソッタレな時代において他者を見捨てて自分だけ生き残ろうとするのは普通のことだ。みんながみんな、ずっと、仕方ないと罪悪感が希薄するほどやってきたことなのだ。
余裕なんてない。他人まで背負う余力なんて誰も持ち合わせていない。誰もが自分のことで精一杯で、自分のことだけを優先しても死ぬ時は死ぬようにできている。
だから。
だから!
だから!!
炎が揺らめく、その奥。
お姫様の口が『わたくしのことはいいですから、二人で逃げてください』と、そんな風に動いたのを見た瞬間、ミリファルナの中で何かが切れた。
「いいわけ……ないじゃん」
セルフィー=アリシア=ヴァーミリオンとは先程出会っただけの仲だ。食料を分けてもらった恩はあるが、それだけで命をかける理由になんてなるものか。
それでも。
それでも、だ。
無理していると一目で分かる笑顔を浮かべてほしくなかった。彼女にはもっと素直に笑っていて欲しかった。そのためなら、そのためならば!
「何がわたくしのことはいいですから、よ!! いいわけないじゃんっ!!ああもう、もお!! やってやるっ。今すぐ、絶対に、助けてやるよおっ!!」
ゴッッッ!!!! と。
金色の光と共にミリファルナは駆け出す。赤髪の女とポニーテール女を突破して、お姫様と共にこの場から逃げるために。