第8話:花摘み場
2話、3話に登場した彼女が満を持して登場です。
惨すぎる———
眼前に広がる光景に、私———蓮宮琴音は立ち尽くすことしかできなかった。
膨大な敵の数。対する私は、味方もいなければ武器も無い。
一歩でもここから足を出せば殺られることは確実だった。
誰かが言った。
『愛にできることはあるかい。』 (※1) と。
できることがあればどれだけロマンチックな結末を迎えられただろう。
こんな戦況で愛が介入する余地などなく、今はただただ武器を欲していた。
そんな絶望的な最中、ひとつの光が地を照らす。
心なしか敵の数を減らしたようにも見えるその光。
しかし「今がチャンスなのでは」と思う自分と、「敵の罠かもしれない」と警戒する自分が拮抗する。
そんな優柔不断な私に、死んだはずの彼はこう囁いた。
『じっくり考えろ。
しかし行動する時が来たなら、考えるのはやめて、進め。』
———ナポレオン・ボナパルト (※2)
◯ ◯ ◯
「あー眠い……。」
くぁっと一つ大きなあくびが出た。
今日の授業、全部寝ちゃいそうだなぁ。
脳内の由奈が『いつも寝てるじゃん』とツッコんでくるが無視をきめる。
確かにいつも寝てるけど、月曜日は特に眠いんだもん……。
今日の一時間目は現代文。すなわち山田の授業だ。あの授業で寝たら、どんな怒られ方をするかわかったもんじゃない。
そんなのはもうこりごりだ。顔でも洗って眠気を覚まそう。
そう思ってわたしはトイレに足を運んだ。
しかしそこには、顔を洗う必要がなくなるほどの衝撃的光景があった。
わたしは思わずその人物の名前を呼ぶ———
「琴音! どうしたのその格好! びしょびしょじゃん!」
わたしたちが話すようになってから早二週間。
琴音が「夏原さんの下の名前、夢羽っていうんだよね。むうって響き可愛い。私も呼びたい。」って言ってきたのがきっかけでお互い下の名前で呼ぶようになったのだ。
しかし今はそんなことどうでもいい。
トイレの手洗い場に、琴音が全身ずぶ濡れで立っていたのだ。
泣いているのかさえ分からないくらい顔も濡れている。
水もしたたるいい女どころの騒ぎじゃない。『水がしたたりすぎて心配される女』である。
「あぁ……夢羽……おはよ……。こんな惨めな姿を見られて私は恥ずかしいよ……。」
惨めって……
今、わたしの頭に浮かんだのは『トイレ中の琴音に、誰かが水をぶっかけた』場面。
「ど、どうしよう……。琴音が———」
いじめられてるなんて。
そう理解すると、途端にひどく動揺してしまった。
いじめという強大な悪意が、わたしの友人、ましてや琴音に降りかかっているとは思いもしなかったのだ。
すると、琴音が弱々しい声で呟く。
「もぅ……だから雨は嫌いなんだよ……。」
…………へ? 雨?
「……ねぇ琴音。まさかだけどさ。こんな土砂降りのなか傘もささないで登校してきたの?」
「…………うん。」
な、なんだよぉ……! わたしの心配返してよ。いや、いじめられてなくて良かったけどさぁ。とりあえず、あとでデコピンしてやろ。
「はぁ……。忘れたならLINEしてよ……。せっかくこの前交換したんだからさ。」
「だ、だって……」
「だって? なに。」
呆れかえって、つい喋り方が冷たくなってしまった。
あ、別に怒ってないからね? ほんとだよ?
「ナ、ナポレオンがね……」
「ナポレオンが? どうしたの。」
「『考えるのはやめて、進め。』って……い、言ったんだもん……。あの時、一瞬だけど確かに晴れたんだもん。雨だってちょっと弱くなったし……。傘なんて持ってなかったけど、走ればいけるかなって思ったんだもん……!」
「…………もしかして琴音、昨日の『アイまな!』見てた?」
『アイドルと学ぶ! 世界の偉人たち!』、通称『アイまな!』。
アイドルの女の子たちがイチャイチャ、もといワチャワチャしながら進行していく深夜番組、いや、神夜番組だ。
昨日のナポレオンは神回だった……。あの百合百合しい番組を放送してるテレビ局には感謝しかない。
「うん……あれ、好き……。」
「わかるわぁ……。」
あの番組が好きな人に、悪い奴はいないって聖書にも書いてあった。
「だ、だよね!」
「……はっ。そうじゃなくって! なにテレビに影響なんかされてんの。小学生じゃないんだから。」
「ご、ごめんなさい。」
あ、危ない……。今わたしは怒ってたんだった……。番組の百合成分に浄化されるところだった。
「今度から気をつけるんだからね。それより、このままじゃ風邪引くから。着替えは?———って、傘すら持ってこなかった子に聞くのは酷か。」
「うっ……持ってきてない……。今日体育も部活もないし……。」
「あーそんな状況だから、あれで乾かそうとしてたのか。」
わたしが指さしたのはハンドドライヤー。手を入れると、『ヴォーー』って風が出てくるやつね。
「凄い。よく分かったね。」
「琴音と同じ状況だったら、わたしもきっとそうする。」
「そ、そんなぁ! 夢羽と同じ思考回路なんて———」
「わたしと同じだと何か問題があるのかな? 琴音ちゃん。」
「ひぃっ……! ご、ごめんなさい……。」
怯えて体を丸める琴音。
そんなに怖がられたら、わたしが虐めてるみたいになるんだけど。
何はともあれ、今は琴音の服をどうにかしなきゃいけない。
濡れに濡れたワイシャツが肌に張り付いて、体のラインなんか丸わかりだし。
まぁ琴音の場合、それがバレたところで羨望の対象にしかならないんだけど。あ、男子は見ちゃダメね。
それよりまずいのが、透けたブラだ。
中に着るキャミを通り越してブラのスカイブルー色が主張しちゃってる。
みんなの目に入る前に着替えさせないと。
「わたしも今日は部活の服持ってないし……。あ、体操着なら持ってた気がするけど、使う?」
「え、いいの?」
「もちろん。あー……でもその体育着、金曜使ったのに持って帰るの忘れちゃったやつなんだよね。結構走って汗かいたし。他の人に貸してくれるか聞いてこよっか。」
ごめんなさい。傘を忘れた琴音を咎める資格なんてありませんでした。
「いやいや、わたしは全然大丈夫だよ? 夢羽が気にしないなら。」
「私こそ平気なんだけどさ、きっと汗臭いよ?」
「ううん大丈夫。えーっと……。あ、ほら、夢羽の汗はきっといい匂いだから。」
「……琴音の性癖にはびっくりだよ。」
可愛い子ほど変わった性癖を持ってるって聞いたことがあるけど、今のでちょっと信ぴょう性が増してしまった。
「せ、性癖じゃないもん! フォローだもん!」
「あはは、なにそのフォロー。んじゃあ、すぐに持ってくるから。こんなところにいないで、せめてトイレの個室で待ってて。」
「ありがと……。」
〇 〇 〇
「琴音ーとってきたよー。」
ノックと一緒に名前を呼ぶと、琴音は小さくトイレのドアを開けた。
それ、隠してるつもりかもしれないけど、わたしからは見えてるんだよねぇ。琴音の下着姿。
「ほい、まずタオル。それと体操着と、これはジャージの袋。念のため制汗剤かけてきたけど、多分まだ匂うと思う。」
「ありがと。ほんと助かる。」
「ビニール袋も持ってきたから脱いだやつ頂戴ー。」
「そんな……! それくらい自分でやるよ。」
「いいから早く。チャイム鳴っちゃうよ。」
そう言うと、しぶしぶといった様子でドアの隙間から制服が差し出される。
「うわ、ほんとすごい濡れてるね。これはハンドドライヤーでも無理だよ。」
制服を受け取ると、布に含まれた水の重さが手にのしかかった
スカートって濡れるとこんなに重くなるんだ。
洗濯で濡れたワイシャツを持つことはあっても、スカートはクリーニングに出しちゃうから知らなかった。
「や、やっぱり……?」
「こんなんだったら下着もぐっしょりなんじゃない? 大丈夫?」
「う、うん……実は気持ち悪い……。キャミ着てたおかげでブラは助かったんだけど……。」
服は普通濡れるもんじゃないしね。ちょっとでも濡れてたら気になるというのが人間の性というものだ。
「下着の替えは流石にわたしも持ってないから……。もういっそのこと、下脱いじゃえば?」
「ノ、ノーパンってこと?」
「うん。」
「い、いやぁ……それはちょっと……。」
「そのままだと体操着にも染みちゃうよ? 」
「う、うーん……。」
体操着、しかも下着の部分だけ濡れてたらどんな想像をされたかたまったもんじゃないよ。琴音は迷ってるみたいだけど、わたしとしてはそんな姿を晒して欲しくない。
「む、夢羽はその……自分の服がそんな風に使われていいの……?」
「ん? そんな風って?」
「えっ。わ、私は裸……になるわけじゃん……だ、だから……」
あぁ、なるほどね。
琴音はわたしの潔癖性がどのくらいかを気にしてくれてるのか。
「別に気にしないよ? 潔癖症とは無縁だから。わたし。」
「そ、そう……。」
「ほら、パンツも頂戴。」
「そ、それは自分でやるっ!」
「あはは! 冗談冗談。」
ビニール袋を渡してからしばらくして、個室からようやくゴソゴソと音がしてきた。
それを聞いて、わたしは一つ息をつく。やっと着替え始めたかな。
もう教室に戻っても大丈夫だろうけど、なんとなく琴音を待つことにした。
べ、別に心配なんてしてないんだからねっ。
そんな下らないことを考えながらドアに寄りかかる。
「きゃっ———」
つい悲鳴をあげてしまった。
琴音がドアの鍵を閉め忘れていたようで、そこに寄りかかったわたしは体勢を崩してしまったのだ。
「む、夢羽大丈夫……?」
心配そうに手を差し伸べてくれる琴音。
しかしその格好は———
「「あっ。」」
布を一切まとわぬその体は、わたしの前に晒されてしまったのであった。
「き、着たよ。」
「あ、うん。お疲れ……。」
気まずそうにトイレから出てきた琴音に釣られて、わたしも挙動不審になってしまう。
なにか、なにか言わないと……。
「や、やっぱり落ち着かない? 履いてないと。」
「いや……言わないで……。今頑張って意識しないようにしてるところなの……。」
琴音の訴えるような上目遣い。そして、ズボンを両手でキュッと握る姿。
それを見て、わたしもなぜか内股に力が入ってしまった。
「ご、ごめん。」
「ううん。私こそ鍵閉めてなくてごめん。怪我とかしなかった?」
「わ、わたしは大丈夫だよ。」
「そう……。あ、あとね、さっき見たことは全部忘れてくれるとありがたいなぁ……なんて……。」
「う、うん。任せて。忘れるの得意だから。」
しばらくは無理そうだけど———
だ、だって、今の琴音のセリフのせいで、わたしの中の『琴音の恥ずかしいところを見てしまった』っていう意識がより強くなっちゃったんだもん。
『琴音の恥ずかしいところ』については、彼女の名誉のためにも言わないでおこう。
「あ、あれ。夢羽……そういえば今何時?」
スマホを持った琴音が問いかけてきた。
自分で確認すればいいのに。
「ん? 時間? えーっと……九時ちょっと過ぎだって。———って九時!? 授業始まってんじゃん!」
「チャイム気づかなかったね……。うちのクラスは一限自習らしいけど夢羽は大丈夫……?」
「琴音……わたし終わった……。」
「ぷっ……! まさか、夢羽……。」
沈んでるであろうわたしの表情とは対象的に、琴音の表情はニヤニヤでいっぱいだった。どうせわたしの答えなんかわかってるくせに。
お望み通りその答えを言ってやろう。
「一限山田なんだけど……。」
「あはは! む、夢羽、期待を裏切らなさすぎるよ……! 一応走って行きな。もしかしたら許してくれるかもよ! 多分無理だと思うけど! ぷぷっ……!」
さっきまでしをらしかった琴音が一転、いつもの元気な女の子が帰ってきてしまった。
琴音め……。
どうやらこの子は、今のわたしたちの力関係を理解していないらしい。
そんな子にはお仕置きをしなきゃだよね……!
去り際、わたしは琴音にこう言ってやった。
「琴音の××……綺麗だね!!」
怒られるなら一人も二人も変わらないもーん。
※1 映画「天気の子」の主題歌より
※2 フランス革命後のフランスを統一した、皇帝・革命家
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