左胸の傷
北国の地方都市。そこにある政府機関のバイオ研究所で、深夜、派遣の警備員が殺害される。
全身の血液が抜かれるといった変死だった。
警察の捜査中、バイオ研究所付近の集落で、第二、第三の同様な事件が発生した。
未知なるモノが姿を現す。
住民は避難を余儀なくされ、その地域はパニック状態になった。
人類は存亡の危機に直面する。
生息地域を広げようとする未知なるモノ。
それを阻止しようとする人類。
未知なるモノと人類の終わりなき戦いが続く。
最後、意外な結末が待っていた。
所長は六十歳前後で、白衣姿は研究者そのものに見えた。刑事たちが捜査に来たと聞いて、わざわざ現場まで挨拶に出向いてきたのだろう。
「早朝からご苦労さまです」
所長が二人に歩み寄ってくる。
「吉村と申します。で、これは部下の坂下です」
「坂下と申します」
両刑事は所長に向かって頭を下げた。
「どうしてこんなことが……。わたしも、まったくわけがわからんのだ」
「皮膚のことでしょうか?」
「ああ、どう見ても尋常じゃない」
「わたしたちも非常におどろいています。それで少しばかり、お話を聞かせていただけませんか」
「ああ、なんなりと」
「ここではどんな研究を?」
「農業分野なんだが……。そうだ、バイオテクノロジーという言葉をご存知かな?」
「ええ、言葉だけなら」
「手短にいうと既存の野菜の品種改良、それに新品種の開発といった、そんなものだよ」
「野菜の研究ですね。それにしては、なんとも警備が厳重ですね」
「ここは政府直属の施設だからだよ。少なからず国の機密情報もあるんでね」
「で、このように」
「それに、こんな場所だ。夜間はぶっそうなんで、念には念をというわけなんだ」
「情報が盗まれてはこまる、そういうことですか?」
「まあ、そういったところだな。ところで何かわかったかね?」
「いえ、まだ何も。われわれも着いたばかりで、捜査はこれからですので」
「いちおうこちらも調べてみたんだが、不審な者が侵入した形跡はないんだよ」
「そのようですね。であれば、内部の者の犯行ということになりますが」
「まさか!」
所長がおどろいた顔をする。
「先ほど話しておられた機密情報では。それを持ち出そうとして、じゃまな警備員を……」
「そいつはありえんと思うな」
「なぜ、そのように?」
「情報だけなら、メモリーディスクに入れて盗み出せばいい。そのことで警備員とトラブルになるなど、まったく考えられんからな」
「それは失礼を申しあげました」
「それに、あの死に方だ。とても普通とは思えんではないか。おそらく、なんらかの毒物を飲んで自殺したんだろう」
「たしかに」
吉村刑事はうなずいたものの、所長の考えに素直に納得したわけではなかった。
皮膚の異様な状態からして、毒薬が原因だと考えるのが妥当であろう。だからといって、そのまま自殺だと断定することもできない。毒殺ということも考えられるのだ。
「これくらいでいいかな?」
「ええ、ありがとうございました。それにしても夜勤があるとは、みなさん大変ですね」
「ここでは、みんな昼も夜もないんだ。なにしろ植物が相手だからね」
「そうでしたか」
「じゃあ、これで失礼させていただくよ」
「みなさんにはあとで、あらためておうかがいすることになろうかと思います。とりあえず、ここはわたしたちだけで」
「さあ、君たちも持ち場にもどるんだ」
所長の一声で、現場にいた職員たちは一人残らず研究所に引き上げていった。
吉村刑事が警備員に声をかけた。
「薬のビンか箱を見かけなかったかな?」
「いいえ、詰所でも見ておりません。どうぞ中を見てください」
警備員に導かれ、吉村と坂下の両刑事は詰所の裏手にまわった。
「どうぞ」
警備員がドアを引き開け、背後にいた吉村刑事と体を入れかえる。
スチール机に電話が一台。向かいの壁には二台のモニターが設置されており、敷地内の状況が刻々と映し出されていた。
「自殺なら近くに、薬の容器があっていいはずなんだがな」
「ですね」
「オレは外をやる。オマエはもう少し、ここを続けてくれんか」
「わかりました」
本格的に調べるために、坂下刑事は靴をぬいで詰所の中に入った。
一方――。
吉村刑事はふたたび死体に歩み寄った。
目視だけでは、事件性を感じさせるものはとくに見当たらない。続いて薬を入れる容器を探したが、制服上下のどのポケットにも見あたらなかった。
あらためて、つぶさに死体を観察する。
――うん?
制服の左胸あたりに小さな傷があり、その位置が心臓のある付近だけに気になった。
すぐさま制服のボタンをはずし、シャツと下着を慎重にめくっていく。
胸全体の肌が露出すると、左胸の一部が異様に赤く腫れあがっていた。まわりの皮膚がカサカサの状態だけに、その部分がよけい目立って見える。
――こいつは……。
そこに点のような傷を見つけた。
位置としては制服の傷と重なる。
「おーい、坂下。ちょっと来てくれんか」
「どうかしましたか?」
坂下刑事が靴をはきながら、あわてたようすでかけ寄ってくる。
「この傷、どう思う?」
吉村刑事は左胸の一点を指し示した。
「刺された傷のようですね。それも針のような、鋭利なもので心臓を一突きで」
「おそらくな。しかし、おかしいと思わんか。そうであれば、少なからず出血の跡があってもよさそうなもんだろう」
「心臓まで凶器が届かなかったんじゃ?」
「いや、そんなことはないはずだ。こうして、げんに死んでいるんだからな」
「では傷が細かいんで、出血まで至らなかったということですね?」
「そこまではわからんな」
「注射針で猛毒を入れられたんじゃ? それで皮膚がこんなに変色したってことも」
「そうかもしれん。だがどっちにしろ、これ以上はワシらの手におえん。すぐにでも県警本署の専門家を呼ぶべきだな」
警備員の死体には、胸を刺されたという明らかな痕跡がある。このことは自殺でも事故でもないことを語っている。
そして……。
心臓を刺されたであろうに、出血の痕跡がわずかも見られない。さらには毒物によるものと思われる皮膚の変色もある。
警備員の死因は、まったくもって奇妙で不可解なものであった。