最後の手段
冷え込む早朝。
吉村刑事は署長室に呼び込まれた。
「すまんが坂下を連れて、明日から公民館に陣取ってくれんか。研究所に近い公民館だ」
「いよいよ、われわれも現場に泊り込みですか」
「いや。ほかの連中は、全員があの地域から撤退することになった」
本部長の返答は意外なものであった。
「巨大蚊をほっといてですか?」
「そうじゃない。あの地域一帯に強力な毒薬をまくことになったんだよ。それで撤退というわけだ」
以前から――。
専門家たちの間では、薬を使用してはという意見があった。
ただしそれには、毒性の強い薬品を大量に散布することになり、周辺に与える影響が重油とは比較にならないほど甚大である。こうした理由から毒薬の使用は見送られ、これまで実行に至らなかったのである。
「正確に言うと、この任務は三人でやる。明日、ワシもそこに合流するんでな」
「本部長もですか。で、われわれの任務は?」
「撤退の完了を見届けることだ。そのあと、もちろん三人も引き上げる」
「わかりました。ところで毒薬ですが、うまくいく確証はあるんでしょうか?」
「かなり強力らしいぞ。試験ではな、牛に吹きつけたところ、一分もかからず絶命したそうだ」
「そんなに……」
「だがな、散布した地域は、長いこと薬の影響が残るらしい」
「放射能みたいですね」
「それ以上かもしれん。薬は半永久に、土の中に残るそうだからな」
「では、そこに住んでいた人たちは?」
「おそらく生きてるうちには帰れんだろう。かといって、ほかに手段がないんでな」
「ですね」
「今回は政府も、やむなくというところだろう。それにこれ以上対応が遅れると、ほんとに取り返しがつかなくなるんでな。遅れるほど、薬を使う範囲が広くなるということだ」
「で、薬の散布はいつからですか?」
「準備もある。決行は五日後になるそうだ」
「五日後ですか……」
「薬の散布には一週間ほどかかるという話だ。今夜のうちに、政府から詳細な資料が届くことになっているんで、詳しいことは公民館で話すよ。ところで、今朝はずいぶん冷えるな」
所長がコーヒーをこしらえる間……。
吉村刑事はバイオ研究所で見せられた緑色の薬品のことを考えていた。
植物に作用しても昆虫には作用しない。それが動物と昆虫であっても、同様のことがありうるのではないか。そうであれば、いくら強力な毒薬であっても効果のない可能性がある。
「さあ、飲んでくれ。あったまるぞ」
本部長が湯気の立ち昇る紙コップを手渡す。
「いただきます。ところで薬の件ですが、以前にも話したことがあると思うんですが」
紙コップを口に運びながら、吉村刑事は気にかかっていたことを切り出した。
「なんだったかな?」
「最初の事件のとき、バイオ研究所の所長が話していたことです」
「ああ、あの話か。薬でもって、野菜をでかくするんだったな」
「はい、それに突然変異です。そのことが、ずっと気にかかっていたんです」
「薬が突然変異を誘発した。でもって、巨大蚊が生まれたんだったな」
「そうです。政府が別に専門家を集め、原因を調べさせているとまでは聞いております。でも、あれからずいぶんと日がたちます。その後、結論は出たんでしょうか?」
「いや。どういう結論が出たかは、ワシは何も聞いておらん。政府がやってることだ。そんな情報は、末端のワシらまで伝わってこんからな」
熱いコーヒーをすするようにして、本部長がひと口うまそうに飲む。
「そうですか……」
吉村刑事は何かを考えるふうに、それきりうつむいて黙りこんでしまった。




