プロローグ
北国の地方都市。
そこにある政府機関のバイオ研究所で、深夜、派遣の警備員が殺害される。
全身の血液が抜かれるといった変死だった。
警察の捜査中、バイオ研究所付近の集落で、第二、第三の同様な事件が発生した。
未知なるモノが姿を現す。
六月になったとはいえ、この北国の地、夜間はずいぶん冷え込む。黒いしじまの中、山々はおり重なるように眠っていた。
やがて時間の流れが、夜の支配から抜け出し朝のものとなる。
すると……。
それをいち早く感じ取った山々は、はおっていた黒い薄絹の衣を一枚一枚ぬいでゆく。森をつつんでいた漆黒の闇は、大気に溶け出すように薄まっていった。
夜明けは近い。
夜のうちに生まれた霧が、なだらかな山の斜面をはうように流れ始めた。
白濁色の霧の先端はいく筋にも分かれ、また合流しながら森の中を流れ下る。木々の幹をぬらし、枝と葉をぬらし、落ち葉をぬらし、谷川のひとつひとつの小石をなめながら、ふもとへと続く山肌を流れ下った。
朝霧がふもとの村に着くころ、空は山の端より白み始め、森に林に淡い光を注ぎ込む。
それにつれ木々は目をさましてゆく。
そして今朝も……。
新緑の木立の中、バイオ研究所はいつもと変わらぬ朝を迎えようとしていた。
初夏の夜明けは早く、バイオ研究所はすでに朝の陽光につつまれていた。
建物の正面玄関から、紺色の制服姿の男が歩き出てきた。両手を突き上げ、ひとつ大きな背伸びをする。
男は警備会社から派遣された警備員であった。
夜間は二人の警備員が交代で警備詰所で警備にあたっている。この警備員はつい先ほどまで、警備員専用の仮眠室で休憩をとっていたのだ。
警備詰所までは歩道と車道の境に並木があり、薄緑の若葉が朝日をあびて輝いている。
警備員はいつものように歩道に足を踏み入れた。
詰所は正門ゲートの敷地側にある。歩道がほぼ直線であるので、詰所の屋根が植え込みの樹木の合い間に見え隠れする。
腕時計に目を落とすと、交替の時間の六時までにはまだ五分ほどあった。散歩ほどの速度で歩いてもゆっくりまにあう。
交替のとき、同僚はたいてい詰所の外にいて、待ちどおしそうに体操などをしている。しかし今朝は、その同僚の姿が見えなかった。
――めずらしいな。
そんなことを思いながら歩く。
さらに近づき、詰所全体が見えるまでになって、ようやく同僚の姿をとらえることができた。
同僚は地面に座り込んだ状態で、詰所の外壁に寄りかかり、首を深く前にうなだれていた。両足はだらしなく投げ出されている。
不審に思い、その場から声をかけてみた。
「交代だぞー」
だが、返事が返ってこない。
警備員は急いでかけ寄り、今度は問いかけるように声をかけた。
「おい、どうしたんだ?」
それでも同僚は、うつむいたままピクリとも動かない。そこで手を伸ばし、肩をつかんで軽くゆすってみた。
同僚の上半身がグラリとゆれ、そのまま壁に沿って滑るように崩れ落ちてゆく。すると、それまで隠れていた顔面が現れた。
――えっ?
顔の皮膚が茶褐色に変色し、さらにひからびたようになっている。
――冗談だろ。
警備員はよろけながらあとずさりをした。
それから体を反転させると、その場を逃げ出すように研究所に向かって一目散に走った。何度も足をもつれさせ、転びそうになりながら……。
およそ十分後。
先ほどの警備員とともに数人の職員が現場にかけつけてきた。
職員たちは倒れた警備員に歩み寄ると、すぐさま互いに顔を見合わせた。それでもだれ一人、言葉を発しない。いや、発することができないでいた。
みながすぐさま状況を悟ったのだ。
この警備員がすでに息絶えていることを。その死に方が普通でないことを……。
死んだ警備員の皮膚は、洞窟に葬られたミイラのように赤茶けており、さらにひからびてカサカサになっていた。わずか一晩のうちに、まるで十歳も二十歳も年齢を重ねたかのようであった。
ただちに――。
この怪奇な出来事は、もよりの警察署に通報されたのだった。