森川沙羅(もりかわ さら)――だったよな?
ちょうどそこで、室内に備え付けられたインターホンが鳴った。
僕が出ると、先生が『ごめんなさいねぇ、そろそろ時間なの』と教えてくれた。
そうだった、最初は一時間の約束だったよな。
「了解です。すみません、長居しました」
『いいのよ、ギリギリまでいてくれて。ユウリちゃんも喜ぶから』
「ありがとうございます。明日も来ます」
通話を終えて振り向くと、ユウリが少し寂しそうに微笑んでいた。
「……悪い、また明日だ」
「うん、ありがとう」
ユウリは頷いたものの、しばらく俯いていた。
そのうち、顔を上げて思い切ったように言う。
「もうほとんど歩けるようになっているから、もうすぐ退院できると思うの。そしたらね――」
言いかけ、ユウリはふと眉根を寄せた。
想像だが、家に帰るという当たり前の選択肢を口にしようとして……自分に帰る家があるのかどうか、ふと心配したのだろう。
だから僕は、あえて力強く言い切った。
「ああ、そしたら退院して家に帰ろう。少なくとも帰る家はちゃんと残っているよ」
ユウリは頷いたけど、おそるおそるといった様子で僕を見た。
「じ、ジン君もまだお隣さん?」
「もちろん。それはまだ、教えてなかったっけ」
僕は微笑して安心させてあげた。
「ちゃんと隣だよ、まだ」
「よかった……もらったお部屋に引っ越したかと思ってたの」
「え?」
一瞬なにを言われたかわからなかったが、そのうち思いだした。
そうだ、僕はユウリが倒れる寸前に、遠縁の親族からマンションの部屋を譲り受けたのだった。
他に身寄りが全くないその人が病床にあった時、当時はまだ健在だった母に言われて、僕が一時お世話をしていたことがあった。そのお礼のつもりか、どうしても住んでる部屋を譲ると言われた。
僕はもちろん、当時の母や父も本気にしなかったけれど、亡くなった後に必要な書類をつけて、遺言まで残してあることがわかった。
僕は未成年なので、今は出張中の父が遺言を預かり、僕がしかるべき年齢に達すれば、改めて対応を決めようということになっている。
一応、今もたまに掃除にだけは出向く。
「ははは、いざとなればそこもあるし、帰る場所は幾らでもあるさ」
僕は気易く言ってのけ、軽く手を挙げた。
「じゃあ、また明日」
「うん、また明日ね……えっ」
そこでユウリは、なぜか小首を傾げ、あらぬ方をちらっと見た。
「どうしたの?」
「……あのね、誰かが外で、ジン君を待っているって」
「誰がそう言ったのさ?」
「さっきお話しした、天使のおねえさん」
当たり前のように言われ、僕は言葉を失った。
――ユウリの言葉もあり、僕はやや緊張して病院を出た。
誰が待っているのか身構えていたが、門を出て歩道に出ても、特に誰も待っている様子はない。
ユウリが嘘をついたなどとは微塵も思わないが、幻覚や幻聴ということはあり得るだろう。しかし……他ならぬユウリの言葉だし、もう一度だけ試してみるか。
僕はなにげなく歩きつつ、いきなり振り向いた。
「――っ!」
誰かが小さく声を上げるのが聞こえると同時に……見覚えのある制服が路地に飛び込んだのが見えた。
ほんの一瞬だけど、間違いない。しかも、顔見知りだった。
「森川沙羅――だったよな?」
僕が声をかけると……しばらくして、観念したようにクラスメイトの子が出て来た。