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ザールが階段を駆け下りては、途中で壁を蹴るような音を聞きながら、彼は、引き金に指の掛かっていない魔法銃を下ろした。
「よろしいのですか? ついて行かなくて」
二人の少女は顔を見合わせてから、頷きあった。
「多分大丈夫。それに今行っても多分、話できる状況じゃないから」
レネが申し訳なさそうな顔をして言った。
「ありがとう、ギルド職員の方に頼まれたんでしょう? 依頼を断るようにって」
「……気づかれていましたか」
彼は、途端に力が抜けたように椅子にもたれかかった。
「貴族の話のあたりで、なんとなく。職員の方から色々聞いたんだろうな、って。……あっ、彼には伝えないから」
「流石にそれは……、もうどうでもいいです」
彼は疲れたように笑うと、ソファーに勢いよくもたれかかった。
緊張で凝り固まった身体が、ゆっくりと解けていく。……無理もない、いくら威圧のためとはいえ、先程まで銃を握っていたのだ。
「格好、よかった」
クーが、突然親指を立てて言った。
「何ですか、急に」
「恐がらずにいた、すごい」
「……そうだったんですか、結局」
彼は天井の方を見たまま、大きく溜め息をついた。
「初心者で、なおかつポーター。脅せば従うだろう、と。それにバーンウルフを一人で狩れる程度には強い、まあ連れていっても死にはしないだろう、と。……こんなところでしょうか」
ふぅ、と彼は再び溜め息をついて、目を閉じた。
「多分、ただの思い込みです。気にしないでください」
静かな部屋に、扉からか、床からかはわからないが、物音が聞こえては、一瞬静かになり、すぐに誰かの叫び声が聞こえてきた。よく聞くと、それは男の声だった。ムシャクシャして、何かに八つ当たりしているのだろう。誰かを罵るようなことを言っているようにも聞き取れた。
「それより下が騒がしくなってきましたが、本当に行かなくて大丈夫ですか?」
「私が行く」
クーが席を立ち、壁に立て掛けてあった杖を取って、部屋を抜けていった。
二人きりになった部屋に、再び静けさが広がる。いたたまれなくなったレネが、心地よさそうにソファーにもたれ掛かっている彼の様子を伺うように見てから、話しかけることが無いことに気がついて目を逸らす。そんなことを繰り返す。
そんな中、真っ先に口を開いたのは彼の方だった。
「さっきの人、クーって名前でしたよね?」
彼は、呟くように言った。
「……え、ええ」
レネは、怪訝な顔をして答えた。
「珍しい名前ですね」
「……あ、あぁ、そういう話ですね、クーって実は本名じゃなくて、もとはもっと長い名前で、本人がそれを嫌がって、周りの人にもクーって呼んでもらってて、あとギルドの方は別称登録していて、それで、それで……」
「怒ってはいませんよ」
「えっ?」
「さっきのは、ただの思い込みです。そう考えた方が話の流れに乗りやすかったので。それに、当たっていたとしてもザールさんが勝手に考えて、それに従わざるを得なかった、と勝手に考えていますので」
彼は、ショルダーバッグの中から魔法書を一冊取り出して読み始めた。
「本当にごめんなさい、私は私の意思で従いました」
溜め息をつきながら、魔法書のページをめくる彼を、レネは怯えた様子で見つめた。
彼は、ちらりとレネの方を見て、再び目線を本の上に戻す。
「そこで止められても気になるだけなので、続けていただけると」
促すと、レネは語り始めた。
「エストには昔からお世話になっているんです、だから恩返しがしたくて」
「エスト、というのはザールさんのことでよろしいですか?」
「うん、エストワールで、エスト」
なるほど、あだ名か。
「……話がそれてすみません。ところで、それは貴族としてのザール、いやエストさんにですか?」
「ううん、彼そのものに。回復魔法や蘇生魔法しか使えない私の側にいつもいてくれたの」
「僕はどちらも満足には使えませんが」
「クーちゃんと似てるね、あの子もからっきしだもの」
ペラリ、と彼はページを捲った。
「それでもね、攻撃に使える魔法が使えなくても、防御用の魔法が不馴れでもね、ずっと側にいてくれたの。馬鹿にされたこともあったけど、その時も側にいてくれた。三人いれば、怖いもの無しだって」
ペラリ、と再びページを捲った。
「もちろん、クーちゃんのことも庇っていたよ。そんなに強い魔法を使えるなら回復魔法も使えるだろ、非常時に回復魔法も使えない魔導師なんていらない、ってよく言われていたもん」
「確かに、両方使えた方が二人雇うよりも費用が少ないですね」
「うん、それでね」
レネは、彼をじっと見つめる。
「それでね、バーンウルフを狩ろうって」
ペラリ、とページを捲った手が、止まった。
「そうすればもう馬鹿にされないだろうって。初めは反対したよ、無茶だって」
「それでお前のためだと言われて押し切られた、と」
彼は、先回りして言った。
レネは、はっとした顔をしてから、下を向く。
「でも、私は、私は彼について行くって決めたから……」
「まあいいです、それなら、それで」
彼は、魔法書をしまい、立ち上がった。
「それなら、僕はこれで」
彼は部屋から出ようとする。丁度ドアに手をかけようとしたところで、彼はレネに声をかけられた。
「あの、さっきのクーの言葉には、嘘はないと思うから」
「……何でしたっけ?」
彼は、わざとらしく首を傾げて見せた。
「……格好よかった、っていう言葉」
「あぁ、あのときの交渉のことですね」
彼はレネの方に体ごと向いた。
「貴族の無茶な要求はキッパリ断れ、って教わったことがありまして」
ずっと前のことですけどね、と彼は少し寂しそうに笑って見せた。
「それもそうだけど、ほら、あの銃を突き付けたところ、最初は驚いたけど、目付きとかが格好よ……」
「格好よくなんかありませんよ」
「えっ?」
不思議そうに、レネが首を捻る。彼の顔からは、笑いが消えていた。
「銃を突きつけたら相手は震え、引き金を引いたら相手は倒れる。スタン、と呼ばれる不殺機能もありますが、間違えば死にます。そこにもし何かあるとすれば、赤い、鉄を舐めるような感覚だけです。……それでは」
扉の持ち手に手を掛けた彼は、そのままゆっくりと扉の方に体の重心を傾ける。そしてその僅かな隙間から滑り出るようにして、彼は部屋を後にした。
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部屋から逃げるように出て行った彼は、階段を降りながらレネの言葉を心の中で繰り返していた。
──格好いい、か。そんなこと、ないのに。
階段を降りたところの狭い通路には、ロビーにいっぱいに満ちている慌ただしさの一部が溢れ出てきていた。
階段を降りきってまず目に入ったのは、通路を塞ぐように倒れている二つのゴミ箱だった。飛び越えようと思えば飛び越えられるのだが、周りを見回してから、それらを立てようとした。
「大丈夫ですよ、やりますから」
一つ目のゴミ箱を立て終わったあたりで、職員が割り込むように入ってきた。
「それにっ、本来はもうちょっと手前側にあったものでしてっ」
職員は、二つのゴミ箱を抱えて、ロビーの方へと向かって行った。
ロビーを通り抜けながら、改めて周りを見回す。
呆れたような顔をして、カウンターに寄り掛かりながら立ち話をしている人もいたが、落ち着いている人よりも、何が起こったのか分からずに立ちすくんでいる人や、運悪く絡まれてしまったのか、服が乱れた状態で座り込んでいる人の方が多かったように感じた。
そして彼は、出口の扉を押し開けた。
外に出た彼は、新しい空気を体いっぱいに吸い込むように深呼吸をする。彼の見上げた先には、羊のような雲が群れを作り始めていた。