勢州兵乱記 斎宮徳政兵乱のこと
勢州兵乱記
斎宮徳政兵乱のこと
松田實靭
水涸れして川幅の狭まった阪内川でひときわ大きな魚が跳ね飛んだ。浅瀬を流れ下ってくる餌を狙っている野鯉である。二尺近くもある大物でここ玉が淵の主だった。
伊勢三山の一つである白猪山から流れ下った阪内川は、伊勢平野の河口近くの松坂で緩やかな野流となる。水量も減っていくつかの澱みも作った。その一つが玉ヶ淵で、この淵が水涸れするとよく災いに見舞われることから厄ヶ淵とも呼ばれていた。
戦国乱世の弘治元年(一五五五)十二月十日のことである。
飯高郡鎌田の住民豊田五郎左衛門の屋敷に、幼馴染みの多気郡斎宮の住人野呂三郎が訪ねてきた。十数年ぶりの対面である。三郎の身なりは小袖・肩衣に袴のこざっぱりしたものであったが、伴の者を連れずのたった一人の訪れだった。
辺りが寝静まった夜の四つ半(十時)である。長屋門に住まわせている豊田の小物どもは、門番をのぞいてすべてが寝入っていた。
五郎左衛門が養子に入っていた豊田家は、代々が北畠国司家の中級武将で屋敷は三百坪近くあり、母屋に瓦こそ載せていなかったが、間取りはかなりあり中でも玄関と客間は殊の外立派だった。
その客間の雨戸にときおりみぞれ交じりの風が打ち付けていた。
「五郎左。お主に加わってもらわねば、智積寺への地越は断じて叶わぬでのう」
注がれた盃を一呑みした野呂三郎が口早に言った。目が餌食を狙う獣のように据わっている。かと思うと、その目が上目遣いにキョロキョロと動いた。酔いが回るにつれ三郎の言葉遣いが乱れ出し、次第に無頼漢の本性を露見させていた。
三郎が地起を掛けようという智積寺とは多気郡の平尾に城を構えている北畠傘下の智積寺秀光のことである。近年その勢いは飛ぶ鳥を落とすがごとくに増していた。
三郎と五郎左衛門は共に斎宮の同郷で育った同い年だった。ただ、二人とも嫡男ではなく五郎左衛門が鎌田に養子に出たのに反し、三郎はまだ兄の家の門の脇部屋に住んでいたから、今では身分に相当の開きができていた。
こんな男だったかなあ……。と、五郎左衛門は気を滅入らせながらもさらに酒を勧めた。
三郎がしようとしている地越とは、質入れや売却した土地を無償で元の所有者に返却させようとする土一揆なのだ。日本には古くから土地は賃借や売買でも本来の所有者は変わらぬとの固着した観念があったから、戦国時代に入ると守護大名によるこんな身勝手な徳政令がまかり通るようになっていたのだ。
三郎の地起の口実はここ数年来の水涸れと飢饉だったが、聞くところによると単にあぶれ者どもを集めた暴挙だとの風評もある。地越は一つ間違えれば大罪にもなりかねない大事である。よほどの覚悟がいった。
「志は分かるが、ちと難しいぞ。いくら秀光の悪辣な所行とはいえ、後ろには国司一族の大河内御所が控えているんだからのう」
豊田家の屋敷は玉が淵のすぐ近くにあったから、風向きによっては阪内川の瀬音が間近に聞こえてくる。五郎左衛門はその瀬音の上流にある大河内城の方角に目を向けて言った。
「だからこそお主の力が必要なんじゃよ。ワシらだけでは智積寺は勿論、大河内家などにはとうてい刃が立たぬでのう」
「いや、身共でも立ち向かえる家格の相手ではないぞ」
当時の大河内城の城主は前国司・北畠政郷が三男頼房である。大河内家は代々が北畠家の政務を取り仕切る国司家と直轄した家系で、士六百・小人四百、都合一千を要した強大な軍団だった。
野呂三郎が地起で借財を放棄させようとする相手は、その大河内家の与力で主に財務を取り仕切っている智積寺秀光だったのだ。
確かに智積寺秀光は大河内家の財力を後ろ楯にして高利で金銭を貸し付け、百姓どもから土地を召し上げている。近年来の凶作につけ込んだその悪辣なやり口は目に余るものがある。だが、現実にはその貸借で大河内家も潤っているのだ。それをいくら飢饉だとはいえすべてを棒引にさせる地起を、大河内家や国司家が認めるとは思えなかった。
そのうえ三郎にはそこにつけ込んで己の狼藉を働こうとするうさんくささも見えなくもない。要するに百姓どもから賄を脅し取る所業である。三郎がそんな蛮行を生業にする輩を何十人も抱えているのは既成の事実だったのだ。
「そなたも知っての通り身共は養子ゆえ、寄親や寄子を持たぬ身じゃぞ。郎党だけでは大した地起の助けにはならぬと思うが……」
五郎左衛門は二十才のとき斎宮の山路家から、子のない飯高郡鎌田の豊田家に養子としてもらわれていた。養子に入った豊田家は北畠与力の馬廻りとして家格こそ高かったが、家来は長屋に住まいさせている一族郎党以外に、寄子などの主従の付き合いをなす者を持っていなかったのである。
寄親とは万事につけて寄子の面倒を見、寄子を絶対服従ざせる制度である。当時の有力武将の多くが他国の新参者を寄子として加え勢力を拡張していたが、武辺者の五郎左衛門はそんな他力を願う姑息さが受け入れられずにいたのである。
「いや、お主は先の鷺山での合戦以来北畠一の剛の者との評判の者じゃ。今は母衣衆となって例え大御所さまとてむげには扱えぬぞ。それに智積寺の妻は……」
三郎は言い掛けた最後の言葉をいったん喉元に止めてグビリと盃を呷った。顔に薄笑いを浮かべている。
五郎左衛門には三郎が意味ありげに止めた言葉の先が如実に想像が付いた。五郎左衛門の背筋に疎ましい悪寒が走っていた。
以前はこんな鼻持ちならない男ではなかったのに……。この十数年の間に何があったというのだ。五郎左衛門が三郎と剣の修行をやり合ったのは物心着き始めた頃である。互いに切磋琢磨して同年代では卓越した剣客となっていた。いや、腕力は三郎のほうがむしろ勝っていたと思う。
「それがどうしたというのだ。身共と縫殿とのことはもう八年も前に決着したことだ」
つい声を荒立てていた。縫の名を呼んだことで、とっさに五郎左衛門の瞼に縫の面影が甦った。透き通った肌に濡れた瞳、形の良い鼻筋と少し小さめの唇……。
縫とは親が承諾して言い交わしていた仲だった。それが縫の父が急死したことで中西家の借財が明るみに出て、縫はその借財の片に半ば身売り同然に智積寺秀光に嫁がされたのである。
しかし、そのことは双方の家でも五郎左衛門の中でも決着がついていたことだった。五郎左衛門は思わず懐に肌身離さず持っている守り袋を握りしめていた
「いや、その縫の方が伏せっているとのことだぞ。奴にいたぶられてのう……」
三郎は最後の言葉を言うとき、ことさら声を潜めさせた。声に下卑た滑りがある。
「そんなはずはなかろう。智積寺殿はすべてを承知の上でそれでもと縫を娶られたんじゃからのう」
五郎左衛門はそれからの縫とはまったく音信を途絶えさせていたが、智積寺家そのものはますます隆盛を極めていたのだ。特に財力を蓄え、居城の平尾城は多気郡内で一、二を争う豪華で堅固なものになっていた。
もし秀光にそんな愚行とも言える行動を取らせたのなら、それらはすべて縫の美貌のゆえに他ならない。と、五郎左衛門は思った。
「それにもう八年も経っていることではないか。何を今さら……」
「それそれ、それがあんな小物の常なのよ。口では納得していても、いつまでも五郎左のことを根に持っているのさ。もちろん子もよう成しておらず、最近では座敷牢に閉じ込め痛めつけていると聞くぞ」
「うむ……」
五郎左衛門は唇を嚙んで三郎を睨み付けた。幼い頃から三郎は五郎左衛門と縫がいるそばにいつも付き従っていたものだ。そのときの物欲しそうな目付きが今も頭に残っていた。
三郎の口車に乗せられているとの危うさは十分にあったが、縫を昔のことで苦境に陥らせているとなると見過ごしにはできないことだった。それだけの負い目もあった。
そのとき吹き込んだ一陣の風が窓を激しく揺すって、五郎左衛門の心をさらに縮み上がらせた。もしかすると智積寺秀光が五郎左衛門と縫が交わした心の密約のことを見抜いたのかも知れない。いや、そんなはずはあるまいて……。
「なあに、いっときの痴話喧嘩よ。じき戻るわ。夫婦とはそういったもんだ」
五郎左衛門は自分に言い聞かすようにそう言うと、今にも槍を取って立ち上がろうとする己の体を強引に押さえ込んだ。我知らず声が震えだしていた。
「フフっ、それがしの手下に智積寺の婢をしている女がいてのう。そやつが逐一様子を知らせてくるのよ」
三郎は盃を受けたあと舌なめずりをしながら五郎左衛門を見た。目の端に狙った弱みを離さぬ狡猾な光が宿っていた。
「うむ……」
五郎左衛門は言葉を呑んで下を向いた。風が一段と雨戸を揺すり出している。
「それによると秀光がのう。未だになびかぬ縫の方をことあるごとに責め立てるそうじゃぞ……。何しろ縫の方は大御所様さえを魅了する美貌じゃからのう」
大御所とはときの国司北畠具教のことである。縫の容貌はそれほどに目を惹いたのだ。
三郎の言葉の途中で雨戸がひときわがたついた。まるで戸が突き破れそうな物音である。
「まあ待て――」
五郎左衛門が外の様子を眺めに三郎の話を止めて立ち上がろうとしたとき、郎党の数人が戸口に駆け寄って来るのがわかった。戦乱の世である。武士は寝ていても常に臨戦態勢にあったのだ。それに、うさんくさい来客を案じてのことだった。
「殿、大事ございませぬか。外は欅の枝が吹き飛んできただけにございます」
「何でもない……」
外の郎党の声に答えながら五郎左衛門は、十数年前になる縫との別れの夜のことを思い出した。あのときも強風で戸口がギシギシと鳴っていた。
天文十六年(一五四七)のことである。
五郎左衛門の父・山路九右衛門の遠縁に当たる佐田の中西源之丞がはやり病で急死したのだ。中西家には縫と遅がけに生まれた登代の他に子はなく、五郎左衛門が縫の入り婿になって家を継ぐことが決められていた。
ところが源之丞が死んだとき途方もない額の借財が発覚したのである。借用書にあった銭一千貫というのは中西家の全財産を処分しても追いつかぬ額だった。
貸したのは智積寺秀光である。借財が何によるものかは書かれていなかったが、中西源之丞が先の飢饉で百姓どもに貸し与えた金子であるのは予測できた。
秀光はその返済を迫り、無理だと分かると千貫の方に娘の縫を娶ることを申し出たのだ。縫が五郎左衛門の許嫁であったのを承知の上でである。当然この強引な横車に五郎左衛門の父・九右衛門は異議を申し出たが秀光に一蹴された。智積寺家の背後には大河内御所と北畠国司家が控えているのだ。逆らえるものではなかった。
結局はたぐいまれな縫の美しさが災いしたことになる。そう言えば縫がかって占ったどの易断でも出るのは凶兆の卦だったと聞いている。特に男運が悪かった。父の源之丞は縫のその薄幸の運を憂いて、早めに遠縁の五郎左衛門と娶す約束を交わしていたのだ。五郎左衛門もそれを十分承知の上で受け入れていた。
「自害しとうございます」
最後の夜、二人きりになった五郎左衛門の前で縫が身を震わせながら言った。泣き尽くしてもう涙も出なくなっていた。
「それはならぬ。それでは中西家が取り潰される」
「それならせめて今、わたくしをお抱き下さいませ」
「それでは縫を汚すことになる。離ればなれになるワシには、清いままの縫がすべてなのじゃ。これ、この白玉のようになあ。そうでなくては耐えきれぬわ……」
五郎左衛門が守り袋から出して見せた白玉とは真珠のことである。
幼い五郎左衛門と縫がよく遊んだ斎宮城は、かって平安の昔斎王の宮殿があった場所でもある。その地面からは都人が使う緑釉陶器や翡翠の胸飾りなどがよく出た。その白玉もそのとき二人が偶然掘り起こしたものだった。
――『五郎兄ぃ。これは何っー』二人で落とし穴作りをしていたとき、土の中から何かを掘り出した縫が突然叫んでいた。
落ちた楓の葉が一面に敷き詰められた小屋の裏で、少し土がこんもりと盛られた場所だった。それはぼろの布にくるまれた二つの丸い石のようなもので、五郎左衛門が手にとって磨いてみると、白い朝露でもあるかのように光沢を放ってきたのだ。『きっとこれは縫の体から迸し出た魂だぞ』そこがさっき縫が小用を足した場所だったからである。『二人の秘密だぞ』五郎左衛門は縫にそう言って、それ以降二人が宝物として持ち合うようにしてきたものだった。
その白玉を見せられ、縫が一瞬口ごもった。
「それではわたくしはどのようにすれば良いのでございましょうや」
「心をここに置いていけばいい。心だけをのう。心以外のことなど何ほどのことがあろうか」
「ううっ……・それでも心は体と一体のもの……」
おえつをこらえた縫の声がのど元で途切れた。
「その証に互いがこの白玉を肌身離さず持っていようぞ。ワシが強うなっていつの日か縫を取り戻しに行くまでのう」
その日もやはりみぞれ交じりの風が吹く冬の夜だった。雨戸がガタガタとなって縫の体の震えをいっそうあおり立てていたのを覚えている。
二人の心の中には消しきれぬ未練だけが残った。
「縫の方はこの八年間嫁に来て一度も笑ったことがないと聞くぞ。あの美貌だけに、そりゃあ尋常ではないとの評判じゃ」
三郎がその婢の話だと言って五郎左衛門に告げた。縫が元々よく笑う女だっただけに、その話が五郎左衛門を動揺させた。
笑いを失った能面のような縫の顔を頭に浮かべてみた。それもまた凍るような美しさをたたえているのであろう。……かすかな嫉妬も覚えた。
「いろいろな夫婦のありようがあって良い。武士の妻とは元来そのようなものだ」
「昔の縫殿はそうではなかったではないか。コロコロとよく笑う女だったぞ。秀光がいくら鈍い奴でもこれは何かあるなと察するわ」
三郎がなおも上目遣いに言葉を継いでくる。顔にはやはり薄ら笑いを浮かべていた。獲物を狙う狐の目だなと思った。これ以上逃げ切れぬとも思えた。
「だから、そのわけを質すのに奴は躍起になって、五郎左とのことを侍女どもに聞き回っているとのことじゃぞ」
「もはや身共にはあずかり知らぬことではないか」
「いや、縫殿の秘めた心の内のことじゃぞ、関わり上お主もそうも言っておれぬはずじゃ。それにお主はまだ嫁を摂ってもいぬのじゃからのう。事と次第によっては奴は縫どのを成敗しかねないぞ」
三郎は五郎左衛門が逸らそうとした言葉尻を捉まえ一気に捲し立てた。嫉妬に狂った者には考えられぬことでもない。それだけは避けねばならなかった。
武将が飢饉を口実に百姓から土地を巻き上げるなど決して許されることではないにしろ、智積寺家を相手にした地越が成就されるなどとは五郎左衛門にはとても思えなかった。だが、縫のことを考えるとそのままにしておくわけにもいかなかったのだ。
「身共にどうしろと……」
「智積寺の平尾城を落としてくれれば良い。ワシらは大河内からの援軍を阻むよう、斎宮城に籠もってあちこちに放火して回るわ」
援軍を絶ったとしても智積寺家にはなお侮られぬ兵力がある。
「平尾城は周りが竹藪で取り囲まれた堅固な城じゃぞ。城兵の数も相当いてそう簡単に落とせるとは思えぬぞ」
五郎左衛門はあからさまに顔をしかめて言い返した。
「ふふ、不意を突くのよ。秀光がいぬ留守を狙ってのう」
三郎はそんなことは百も承知だとばかりに薄ら笑いを浮かべて見返してきた。
「うむ……」
そんなに事が都合よく運ぶはずがない。五郎左衛門が顔を曇らせてそむけていると、三郎がさらに言葉を継いできた。
「この月の終わりになあ、大河内城内で馬揃えがあるんだ。そのときは平尾の城は兵も馬もみな出払ってもぬけの殻になる」
野呂三郎は手下をあちこちに張り巡らしている。事細かに情報が入ってくるのであろう。それにしても城内にはいくらか兵は残すはずだ。たやすく落とせる城ではなかった。
「大河内城は目と鼻の先ではないか、寸刻を置かずに援軍が駆けつけるわ。身共の兵だけではひとたまりもないぞ……」
「いや、この地起に組する者は相当あるんじゃ。兵の人数はワシの方で手配する。五郎左はただ采配を振るってくれればいいんだ。要するに名前じゃよ、鷺山でのお主のなあ」
三郎の頭の中ではすでに地起が始っているのだ。どこを突いても不備はなかった。
五郎左衛門が返事に窮して言葉を詰まらせたとき、玄関で再び雨戸が揺れた。風が巨大な玉となってぶち当たったに違いない。
野呂三郎はその激しい物音をもっけの幸いに席を立っていた。
「本心では五郎左もこの地起を願っているはずじゃ。何しろ前の中西家の借財の恨みもあるでのう」
「……」
「それでは手筈は追って知らすによって、よろしく頼んだぞ」
知らぬ間に酒が過ぎていたのかも知れない。「まあ待て――」と立ち上がろうとした五郎左衛門の足がもつれ、「ウッ」とだけ言葉を吐いて片膝をついていた。
――もしこの地起が成就されれば、多くの民百姓が救われることもまた事実なのだ。
野呂三郎が逃げるように玄関を出て行ったのはその直ぐあとである。五郎左衛門の頭には、座敷牢でじっと耐える凍るような縫の顔が覆っていた。
※
北畠国司家が治めている勢州が乱れだしたのは、それより十年前の応仁の乱の余波を受けた天分三年(一五四三)の頃からである。
伊勢神宮の神領で争いを繰り返していた宇治と山田が、国司の命に背いてそろって兵乱を起こしたのだ。そのときの国司・北畠晴具は神宮領との境界の宮川に軍勢を向け宇治と山田の連合軍を打ち破っている。
そのあとも国司はあちこちに出兵し、東は鳥羽・志摩、西は吉野、南は尾鷲・新宮を従わせている。
田丸の兵乱もそんな天分年中に起こった。北畠三御所の一つである田丸御所の侍・山岡一党と池山伊賀の守が逆心を起こし、時の田丸城主である田丸弾正少弼を攻め自害させたのである。
これに激怒したときの国司北畠晴具は、山岡一党と池山伊賀の守を山上城に追い詰め、逃げ惑って許しを請う女こどもまでを引っ捕らえて焼き殺したのだ。さらにはその死骸を土塁の中に山積みし、見せしめのために幾日も晒し続けたという。
勢州が織田信長に席巻されることになる十数年前の出来事だった。
その頃の伊勢は四国に分立していた。北畠国司家が南の飯高・度会・多気・志摩・鳥羽の五群を治め、長野家が安濃・奄芸の二群を、関家が鈴鹿・河曲の二群を、その他北方諸氏四十八家が三重・朝明・桑名・員弁の四郷を分領して互いが戦い合っていたのだ。
豊田五郎左衛門が名を挙げる鷺山合戦はこんなとき起こった。
天文の末(一五五五)かって国司家に従い北伊勢の美里に勢力を張っていた長野輝伯が、工藤家を率いて北畠領内に南下してきたのだ。新国司・具教は垂水の鷺山でこれを向かい打つことにした。
長野輝伯は北勢一の名将として誉れ高く、その兄・長野三郎にはこんな逸話が語り継がれていた。
長野三郎が京の普広院で修行していたとき、足利将軍の近習である伊勢の守が訪れてきて蹴鞠が催されたことがあった。蹴鞠をし終えて手足を洗っていたときのことだ。伊勢の守が長野三郎に着替えを所望したのだ。
「これ、そなた、何をしている。早う浴衣を持たぬか」
伊勢の守は長野三郎にまるで下僕に申しつけるような言い方をした。
「はっ、ただ今……」
長野三郎はこのときは黙って従い、跪いて白い衣を差し出したという。
「ほれ、洗わぬか」
浴衣を手に取った伊勢の守が、今度は片足を長野三郎の前に差し出してきたという。そばには長野三郎以外下僕らしき者は誰一人いなかった。
長野三郎は一瞬「えっー」と小首を傾げたが、すぐに真顔になってこう言い返していた。
「――そなた、誰にもの申している」
声も自ずと厳しくなっていた。
「その方に決まっているではないか、他に誰がいると言うのだ」
伊勢の守は右手を突き出し長野三郎を指さしたのだ。
「おのれー、奇っ怪なやつ」
長野三郎はやにわに抜刀しその場で伊勢の守を斬り殺したと言う。そのあと自害して果てた。生年は一六歳だった。
長野輝伯はその末弟である。長野家を継ぎ兄以上の逸材との評判だった。国司・北畠具教にとっては勢州きっての難敵だったのだ。
それが北伊勢から南下してきたのである。北畠勢は南方衆の澤・秋山両家を垂水の鷺山で布陣させて待った。
鷺山は天神山の西方に位置した小高い岡である。北に岩田川、南に雲出川が迫っていて、西は伊賀へ通じ西南には美杉の山々があった。その美杉の多気に本拠を置く北畠家にとっては守るに有利な地でもあったのだ。
本拠の美里を出た長野・工藤勢は長野川沿いに下って片田で一旦北上し、岩田川沿いに山裾を回る道を取って迫っていた。途中で土豪たちを合流させていたから五百近い兵力になっていたのだ。
澤と秋山は長野勢が南下してくるはずの要路を、左右から挟み込む形で陣を構え、大挙して押し寄せてくる長野勢を迎え撃つ態勢を取っていた。
長野輝伯は音に聞こえた戦上手である。鷺山を視界に捉えるとまず軍を止め、その両側に布陣する国司方の兵力を見定め、兵を七備えに分けたのだ。
そして、一番攻めに勇猛な細野九郎右衛門、分部與三左右衛門を当て長槍を持たせて突進させると、兵の疲れを見計らっては引き次々に新手を差し向けてきたのだ。
こうして一日のうちに七度まで槍を合わせた。だがいずれも勝負は決まらずその都度互いに南北に兵を引くことになったが、ここの闘いでは長野・工藤勢がその都度華々しい戦果を上げた。中でも長野の河内武者は赤装束をして攻め掛け、その様はさながら鬼神のごとくで面を合わす敵がなかったぐらいである。
夕刻が近づく頃、北畠勢の先手が崩れ旗本の陣営が危うくなりかけたことがあった。このままでは一挙に総崩れになりかねない。総大将の北畠具教も身の危険を感じ思わず床几を立ち上がっていた。
そこへ駆けつけたのが豊田五郎左衛門である。すでに豊田家の養子に入っていた。
五郎左衛門は小森上野の城主奥山左馬允や家城主水らとともにその旗本の前衛に踏みとどまると、押し寄せてくる長野・工藤勢に阿修羅のごとく立ち向かったのである。その槍を構えて大軍と渡り合う様は、さながら雲烟が立つほどに凄まじかったという。
この合戦で奥山左馬允は討ち死にしたが、豊田五郎左衛門は槍の名手として家城主水とともに並びなき剛の者と諸人を驚愕せしめたという。まさに総崩れする寸前の北畠勢にとっては地獄で仏だったのだ。
それでも長野輝伯が自ら先頭に立った七度目の槍合わせのときには、北畠の陣営がどっと崩れ赤装束の先鋒が北畠勢の旗本になだれ込んできた。
すでにそれまで総大将・北畠具教の旗本を守っていた奥山左馬允は討ち死にしており、前面に出て押し寄せてくる赤装束に槍を合わせられる者は、家城主水と豊田五郎左衛門の二人の他は誰もいなくなっていた。
「殿、身共の体を矢玉の盾にして下され」
五郎左衛門はそれまで担っていた前面防御を家城主水に任せると、一人で北畠具教のそばに駆け寄って大声で叫んでいた。
さすがに七度目の槍合わせとなると長野勢の人数も減ってはいたが、それでも五、六人の緋おどしの武者が五郎左衛門の周りを取り囲んで間を置かずに槍を突き入れてくる。
五郎左衛門の体にもすでに矢が数本突き立っていた。五郎左衛門はそれを根元でへし折り遮二無二戦い続けていたのである。左肩に突き立った矢の疵が次第に腕の動きを鈍らせていたが、槍の扱いには心得がある。脇腹を支えに右腕だけで槍を振るい、押し掛かる敵を次々となぎ倒していた。
「そなた、豊田の五郎左衛門と申したなあ」
背後で具教の声がした。具教もすでに刀を抜き放っている。具教は五郎左衛門と同年代の二十八歳で塚原卜伝に学んだ剣豪でもある。激しい気性の持ち主だけに身を楯にして戦う五郎左衛門の槍捌きに感じ入ったのは確かである。
「ハッー」
五郎左衛門はそう答えただけで、振り向きもせず眼前にいる緋おどしの武者の胸に槍を突き立てていた。頭が真っ白になって腕だけが自ずと動いていたというのが実情である。気付くと旗本の陣営に敵の姿はなくなっていた。
「引け――」
敵の後方から大声がして、それを合図に長野方の兵がどっと引いていくのが分かった。
昼前に始まった合戦が終ったのは宵の口だった。どちらにも勝負はつかない互角の合戦だったが無勢だった長野・工藤勢にとっては大奮戦と言えた。
結局、勝敗を決したのは兵力の差だった。長野・工藤勢五百に対し北畠国司方は二千に近い軍兵を集結させていたのである。次々に新手を繰り出され長野輝泊も諦めざるを得なかったのだ。
豊田五郎左衛門が国司・北畠具教に認められたのがこの鷺山合戦である。事実、旗本の陣営が突き崩されたとき五郎左衛門が身を挺して庇わなかったら、具教は長野輝泊の繰り出す赤備えの武者に打ち取られていたに違いなかった。
「そなたの槍の立ち回りは見事だった。あれは命を捨てる覚悟と見たぞ……」
北畠具教は戦後の論功行賞で、わざわざ豊田五郎左右衛門を面前に呼び寄せて褒めた。
「はっ――」
五郎左衛門はそう答えただけで何も言わなかった。
「見上げた忠義、褒めて取らすぞ。何なりと望みを申してみい」
そのときとっさに五郎左衛門の頭に、八年前に分かれた縫の顔が過ぎっていた。この立ち回りは忠義などでも恩賞を欲したわけでもない。ただ戦功を上げて具教に取り立てられれば、智積寺秀光から縫を取り戻せる機会が得られるかも知れないと思っただけである。
そのために命を落とすことは少しも惜しいとは思わなかった。そうなればあの世で縫と一緒になるとの約束があったからだ。
――それ以外何の望みもございませぬ。
五郎左衛門は心の中でそう答え、ただ頭をゆるやかに左右に振っただけである。
「何っ、何も所望せぬとな。ういやつじゃ。そちこそが天下無双の剛の者じゃて」
この具教の一言で豊田五郎左衛門の武勇が勢州一円に広まった。もちろん智積寺家に嫁いだ縫の方の元にもである。それが縫の方の秀光への心を一層頑なにしたのかも知れない。
具教の前に跪いた五郎左衛門の胸中に、縫との最期の別れの場面が蘇っていた。
「そなたを取り戻すためには秀光に有無を言わせぬほどの功名をあげねばならぬ。ワシはそのために命を賭けるぞ」
「あなたが死ねばわたくしもあとを追いましょうぞ」
縫は瞬き一つさせぬ目で五郎左衛門の顔を見詰め続けていた。これほど美しい顔を見たことがないと思った。今ではその顔が弥勒菩薩と重なっている。
「さすれば、二人で死での川を渡れるのう……」
死が二人の間で甘味な感情となったのはその瞬間だった。
「身共はすでに命を捨てておりまする」
五郎左衛門は込み上げてくるこもごもの感情を一括りにして北畠具教にこう答えた。
「あっぱれな奴。これからも励めよ。さすれば黒母衣にも加えてくれようぞ」
「はっー」
母衣衆になれば有力武将へ取り立てられる大きな足掛かりとなる。五郎左右衛門は瞼の奥に縫の面影を浮かべながら再度返事に力を込めた。
「命を賭して励みまする」
野呂三郎が地起の要請に五郎左衛門を訪れる一年前の出来事だった。
※
野呂三郎のほうはまだ二十八になっても養子の口が掛からず、斎宮の兄・丈一郎の長屋門の脇部屋でその日暮らしを続けていた。
ただ、体格は屈強で上背もあり押しが利いた。いつの間にか斎宮近辺にたむろするあぶれ者たちの頭目になっていたのである。
ギョロッとした底光りする目で凄まれると、たいていの者はすくみ上がって配下になった。武士の倅もいたが大半は百姓か商家の次男・三男坊である。すでにそんな輩の数は数十人を下らなくなっていた。
溜まり場は斎宮城と称する城跡にある建屋である。伊勢神宮への道と田丸道が交錯する森の中にあり、その昔斎王宮殿の内院があったというところだった。周囲には土塁が築かれあたかも城郭の形態をなした場所でもある。建屋は朽ちかけ造りも粗かったが、幾十人もが寝起きできる大きさがある。濁酒の徳利がそこらじゅうに転がっていて、その日も数十人のあぶれ者がたむろして地起の言い争いをしていた。
「そこらに火を放って百姓どもを煽ってやりましょうや」
議論が行き詰まってならず者の束ね役であるコウモリの佐吉が野呂三郎に向かって言った。佐吉の右頬にはコウモリのような痣がある。それがまた凄みをきかしていた。
「うむ……。そうでもせんと埒が明かぬか……。じゃが」
三郎は返事を渋ってなおも盃を煽った。
ここ勢州の斎宮地は元来が富裕な土地で、天災による被害も少なかったから備蓄米も豊富にあり、地起の気運がなかなか盛り上がってこなかったのだ。だが、今回来襲した台風はそんな条件を覆すほどの被害をもたらした。収穫前の稲穂を押し倒し、氾濫した櫛田川の濁流がそれらを根こそぎ流し去ったのである。それでもなお地主や有力な大百姓には備蓄米があったのだ。
だが、米の値がたちまちのうちに急騰し庶民は餓え出した。そこに目を付けたのが智積寺秀光である。財力に物を言わせて田畑を担保に百姓たちに銭を貸し付け、日を経るにつれその借財をふくれ上がらせていったのである。地起を起こす機運まであと一歩というところまで来ていた。
「相手が智積寺じゃからのう。何しろ大河内御所がうしろ盾にいるんじゃ」
「けど、斎宮地の大半が押し流されたとなると、大河内も見過ごすわけにはいかんでしょう」
佐吉が横目で少しおもねるように言った。
「問題は、北畠の大御所が徳政として認めるかどうかだ。大御所が地起の一揆をつぶしに掛かったらひとたまりもないからのう」
「フフ、いい手がありますぞ」
コウモリの佐吉が三郎の耳元ににじり寄っていた。
「何じゃ……」
「大御所さまお気に入りの豊田五郎左衛門殿にこの地起の差配を任すのですよ」
鷺山合戦で武名を上げた豊田五郎左衛門が、国司・北畠具教の寵愛を受け母衣衆に取り立てられていたのは誰もが知っていた。その五郎左衛門が三郎と幼馴染みだったのを佐吉が突いたのだ。
なるほどと野呂三郎はとっさに膝を打って考えた。
今は豊田家の養子に入って北畠の武将格になっているとはいえ、幼い頃から正義感の強かった五郎左衛門が、この度の台風で甚大な被害を被った百姓たちの窮状を黙って見過ごしているはずがなかったからだ。機会さえあればと心の中で歯ぎしりしているはずなのだ。だが、地起とはうかつには言葉に出せぬほど重大なものだった。
「けどのう、あの堅物では地起など受け付けぬぞ」
「フフ、そこはそれがしにお任せ下され。あの美人と誉れ高い智積寺家の妻女・縫さまを利用するんですよ」
佐吉は三郎に縫が智積寺家に嫁いだあとの不遇さを、ことさらに尾ひれを付けて吹聴したのである。各家に配された下僕や婢からの情報はみな佐吉を通して入っていたのだ。
「それとですなあ……」
佐吉が一段と声を潜めさせた。
「五郎左衛門殿が縫殿とまだ心を通わせているきらいがあるのですぞ」
「何っ、まだあの縫殿とな……。それは使えるかも知れんのう」
野呂三郎はいったん声をのんだあと顔を上げ、腹底からこみ上げてくる愉悦をこらえきれぬように不敵な笑いを浮かべた。
野呂三郎が豊田五郎左衛門の屋敷を訪れる三日前のことである。
※
大河内家が馬揃えをする十二月三十日は朝から小雪の舞う寒天となった。
平尾の村落の上にもどんよりとした雲が低く垂れ、ときおり風に白い雪が混じった。
豊田五郎左衛門が平尾城攻略に鎌田の家を出たのは朝の五つ半(午前九時)である。大河内城の馬揃えの刻限を見計らっての出陣だった。
野呂三郎から委ねられた兵二百とは伊勢街道を下った斎宮城近くで合流した。豊田家の郎党とその配下の者三十と合わせると、相当の兵力となった。ただ、三郎が集めた兵の大半は百姓かあぶれ者たちである。組み討ちだけならともかく組織戦となると頼りになるかどうかはおぼつかなかった。
斎宮城からは平尾城までほぼ一里(三、九キロ)の距離である。五郎左衛門はそこで兵を五番隊に分け、その先鋒を騎馬で甲冑を着けた豊田の郎党で固めさせた。万が一鉄砲を撃ちかけられでもしたら百姓上がりの雑兵ではひとたまりもないからだ。にわか作りの隊が一旦崩れ出したら立ち直す術はない。その頃から智積寺は、もう財力に物を言わせて鉄砲を相当そろえていたのだ。
平尾城は森と田畑の中にある平城である。周りを囲む土塁もそう高くはないが、深い竹藪に覆われていて一気に突き崩すには難しい城だった。
しかも、もし大河内城で馬揃えをしている智積寺秀光に気付かれ、引き返されでもしたら一刻もかからぬ距離だった。五郎左衛門は全員に箝口令を敷き密やかに軍を進めた。
隊の前駆が笹笛川を渡るころ、後方の斎宮城辺りで火の手が上がるのが見えた。
野呂三郎が打ち合わせ通り攪乱のために付近の民家に火を放っているのだろう。と、言うことは智積寺秀光がもう地越の発生を知って引き返してきたということにもなる。
すでに平尾城を囲む竹藪が視界に入っていた。その中には伏兵を潜ませていることは確かである。豊田五郎左衛門はとっさに馬に鞭を当て、隊の先頭に出ると一旦軍を止めた。そして、最古参の郎党野田兵庫に五番隊を率いさせて城の背後に回るよう指示を出し、そのあと大声でこう続けた。
「今から一気に竹藪まで駆け抜け、そこで馬を下りて藪に突っ込むぞ。なに、敵の大半は大河内に出払っているゆえ小勢だ。何ほどのことがあろうか――」
――オーッ。
騎馬隊の中から大声が上がり、同時に駆け出していた五郎左衛門のあとに全軍が付いてきた。野田兵庫の五番隊だけが分かれて北西方向に駆け抜けていくのが見えた。
笹笛川から竹藪までの間は全くの平地で視界を遮るものは何もなかったが、不思議と城方からの反撃はなかった。たぶん、竹藪の手前で下馬したのを狙い撃つつもりか……。
五郎左衛門の頭に座敷牢に閉じ込められているはずの縫の顔がよぎったがかまわず駆け続けた。真後ろには一番隊が従っている。先頭を切る五郎左衛門の顔に、吹雪が激しく打ち付けていた。
案に違わず竹藪の一町(百九メートル)ほど手前の畷で鉄砲が撃ち掛けられてきた。ババンーと銃音がしたが、数はそう多くはない。
五郎左衛門は勢いを緩めずにそのまま突進した。そのあと矢も打ち込まれて来たがそれも大した数ではなかった。豊田勢はほとんど何の損傷もないままに竹藪の手前の土塁の下にまで到着していたのだ。
兵には前もって藪の中での競り合いを想定して、いつもの長槍に代えて手槍を持たせてある。先鋒の騎馬隊は下馬すると同時に、追従してくる歩卒を待たずそのまま藪の中に突っ込んでいった。
平尾城の抵抗は思った以上に微弱だった。およそ戦いとはそのようなもので、どちらかが有利に立つと相手方の気力は一気に萎える。そして、それらはおおかたが人数の多少で決ったのだ。
城の北西の退路で待ち構えさせている野田兵庫には、合戦ではなく徳政の乱ゆえ、逃れ出る者は逃げるに任せよと伝えてある。特に女人たちは丁重に保護し、万が一縫の方を見つけたら即刻知らせよとも伝えていた。
豊田の一番隊が藪の中に突っ込んだときは智積寺勢はもうほとんどが逃げ去っていて、二十間近くある竹藪の中には放置された弓矢や盾などの武具が散乱していただけである。
竹藪を抜けると低い土塀があって、その向こうに二階建ての城郭があった。土塀を越えて城内に侵入しても敵兵は見えず、豊田五郎左衛門はほとんど血らしい血を見ずして平尾城を落としたのである。
どうやら智積寺秀光は今日の大河内城の馬揃えにほとんどの兵を出していたらしい。虚飾にこだわる秀光の一面をうかがわせた。
木枯らしに舞う粉雪だけが人気が失せた城内に舞っていて、城の高台から遠目に窺うと、斎宮城辺りの火炎がひときわ激しさを増していた。馬揃えから引き戻してきた秀光の勢が野呂三郎方の応戦に手こずっているのが予測できた。
兵二百を率いて城内に踏み込んだ五郎左衛門は、まず城門や見張り台に防御の兵を配置すると、そのあと郎党の岩出玄蕃と竹内左内を伴って館内に踏み入っていった。玄蕃は実家の斎宮より従っていた腹心の郎党である。左内も子飼いの部下だった。
玄関から座敷に入っても室内はガランとして人気はない。
「どうやらみんな逃げ出しているようですなあ、これは殿のご威光ですぞ」
五郎左衛門の右側で岩出玄蕃が言った。要人の警護にはたいてい右側に屈強の者を配備する。槍を打つ敵の利き腕を封ずるためで、玄蕃は名うての剣豪だった。
「いや、単に不意を打っただけのことと、人数よ」
戦での恐怖心は不意を打たれたときにことさらに高まる。その攻め手の数が勝ち目のないほどに多数となればなおさらで、とうてい持ちこたえられるものではなかった。
「それにしてももろい兵でしたなあ」
まだ中腰の構えを崩さず、四方に目配りした玄蕃が続けた。
「いや、侮るでないぞ。まだどこに伏兵を忍ばせているやもしれんでのう」
五郎左衛門はそう言いながらも抜刀していた刀をいったん鞘に収め足を速めた。奥座敷にまではまだいくつもの部屋がある。その襖を開けるたびに玄蕃と左内が左右で身構えたが兵は潜んではいなかった。
さっき土塁や竹藪に潜んで豊田勢を迎え撃った兵は、どうやら城から主立った者を落ち延びさせる時間稼ぎのための策だったようだ。
秀光の正室である縫の方も逃れ出た公算は強かったが、退路を見張らせている五番隊の野田兵庫からは何の知らせもなかった。まさかこの期に及んでも縫の方を座敷牢に留め置いているとは考え辛かったが、城を逃れ出ていないとなると奥座敷以外には考えられないことだった。座敷牢も必ずその近くにあるはずなのだ。
館の中心部を抜けるといったん濡れ縁に出て、さらに奥の間に続いている。外は吹雪になっていて、館の軒下を吹き抜けた風が庭の松の梢を潮騒のように鳴らしていた。
もうこの辺りでは城門を見張らせている豊田勢の兵の気配も届いてはこなかった。
「やはり、館には誰も残っていないようでございますなあ」
五、六歩先を歩いていた玄蕃が五郎左衛門を振り返って言った。すでに座敷の奥は行き止まりのようだ。後方は左内が守っていた。
「うむ……、どれ」
と、五郎左衛門が最後の見定めにと、一歩先に出て奥座敷の板戸を開けようとしたときだった。
「ヤーッ」との、かけ声とともに甲冑の武士が飛び出してきたのだ。明らかに待ち伏せしていた態である。やにわに飛び退いていた五郎左衛門の鼻先を、白く光った槍の穂先が走って消えた。
「やはりか――」と、五郎左衛門が素早く態勢を立て直して身構えたとき、奥からもう一人の甲冑の武士が槍を構えて飛び出してきた。
とっさにこれにも身を反転させて避けたが、五郎左衛門にはその武士がまるで床の間に掛けてある軸から抜け出てきたかのように見えた。
「おのれ――」
今度は待ち構えていた岩出玄蕃がその槍をはねのけ一刀のもとに敵を斬り捨てていた。大柄の武士の体が肩先から胴巻きごとに胸元まで割れて、その場に崩れ落ちていった。後方では竹内左内が先の甲冑の武士の胸板を槍でぶち抜いていた。
ギャーという悲鳴とともに血しぶきが奥座敷の板戸や廊下に飛び散って、舞い落ちてくる雪片を赤く染めていった。
しばらくの間廊下一杯に断末魔のうめきと張り詰めた空気が覆ったが、それ以降は敵兵の兆しはなく奥座敷にも誰も姿を現してはこなかった。そのうちまた館が静寂に包まれた。
床の間には鬼神のような武将の掛け軸が掛けられてある。五郎左衛門の中でその姿がさっき飛び出してきた甲冑の武士と重なった。
「殿、どうやら縫の方も館を逃れ出たようですなあ……」
玄蕃がまだ血に染まった刀を抜刀したままで言った。
「そんなはずはないぞ、あの警護の者がいたのが何よりの証拠だ。まず座敷牢とやらを探し出せ。必ずこの近くにある」
縫はこの地越の乱の攻め手が五郎左衛門であるのを知っているはずなのだ。秀光の手の者が強引に連れ出そうとすれば自害するであろうし、自ら立ち退くはずはなかったのだ。
しかし、玄蕃と左内がどこを探しても縫の方の姿を見つけることはできなかった。いや、座敷牢そのものを見つけられなかったのである。
四半刻の後、豊田五郎左衛門は館の前庭に張った陣幕で差配をとっていた。
時が経つにつれ野呂三郎が仕切る斎宮城の形勢が徐々に危うさを増していた、遠目からでも煙炎が途絶え出してきたのが見通せる。あちこちに上がっていた炎が次々と潰えだしたのは、智積寺勢が三郎の起こした徳政一揆を押し潰している証なのだ。そうなると、そのうちこの平尾城にも智積寺勢が押し寄せてくるのは明らかだった。
竹林に取り囲まれている平尾城の周囲は、日が落ちると深い暗闇に包まれ、外の世界と隔絶された一種の真空地帯を作る。折からの曇天で星明かりはなく、陣屋に燃える篝火だけが周りの闇から際立つように映えていた。
豊田五郎左衛門はその藪の闇一面に兵を伏せさせ、智積寺勢の来襲に待機させていた。
遠目に見える斎宮城の戦況からして、もう現れてもよさそうな刻限だがその気配はいっこうになかったのである。
「縫は、まだ見つからぬのか」
五郎左衛門は陣幕の床几を幾たびも立ち上がったあと苛立つように声を出した。そばに岩出玄蕃が控えている。もうこの城を落としてから相当の刻限がたっていた。
「はっー、やはり自ら城外に逃れられたとしか……」
玄蕃が顔を顰めて出した声が、無言でいる五郎左衛門との間に気まずい沈黙を作った。
「ちと、ワシに気になることがある。ここは其の方に任せて行ってよいか」
「お待ちくだされ、このような大事な時期に殿が……」
「なに、この分では奴はとうてい夜討ちなど出来ぬぞ。何しろ闇に包まれたあの竹藪の怖さを一番知っているのが奴じゃからのう」
このあと五郎左衛門は玄蕃の諫止を振り切り一人で館の中に引き返していった。
人気の失せた室内は暗闇に包まれ物音一つせず静まりかえっている。
――きっとあそこだ。
五郎左衛門には先ほど奥座敷で見た、まるで掛け軸の中から抜け出たような甲冑の武士のことが、ずっと心の中に引っかかっていたのである。
あのときはいくら床の間の周囲を探っても見つけられなかったが、そこに何らかの仕掛けがあるとしか考えられなかった。
奥座敷にまで来ると陣幕の喧騒はすっかり途絶え、怖いほどに静まった闇は物音一つしない。いったん濡れ縁に出てからそっと引き戸を開けた五郎左衛門は、そのまま足音を消して部屋奥の床の間にすり寄っていき壁に耳を張り付けた。
息を殺してその状態でどれほど待ったか、ふと五郎左衛門の耳に女の咳き込みが聞こえたかに思えた。――やはりか。と、五郎左衛門はさらに耳を壁に押し付けた。そして、一心に耳を凝らすその壁奥に、かすかな息遣いと密やかな女の声を聞いたのはしばらく後である。もはや壁の奥に隠し部屋があるのは間違いなかった。
五郎左衛門は腹を決めると、そのかすかに息遣いが聞こえる床の間の側面に向け、かけ声とともに勢いよく体をぶち当てたのである。
幼いころから剣で鍛え勢州一と詠われた体である。一撃にして壁が裏返り、五郎左衛門の体がもんどり打って隣の部屋に転がり込んでいた。
「キャー」
と、女の悲鳴が上がるのを聞いた。同時に「ヤーッ」と、掛け声がして長刀を持った女が飛び掛かってくるのが分かった。やにわに体を交わしていた五郎左衛門は、自ずと身についていた戦場での習わしで無意識に刃を横に払っていた。
「ギャー」という悲鳴とともに首が宙に跳ね飛んで、五郎左衛門の目の前に首のない女の体がドサっとうつぶせに倒れていた。そのうち薄暗い部屋の中にジワッと生臭い血糊の臭いが立ち込めてきた。
やはり掛け軸の裏側には座敷牢があったのだ。その座敷牢の奥に女がもう一人背を向けて座っていた。よく見ると五郎左衛門にはその背格好に見覚えがある。
「縫かー」
五郎左衛門が出した叫びと同時に、それまで懐剣をのど元に押し当て体をうずくまらせていた女がこちらを振り向いた。紛れもなく縫だ。ただ縫は顔を一瞬歪ませるかのような苦しげな表情を見せると、そのあともなお刃をのど元に突き立てる仕草を見せたのだ。
「待てー、五郎左衛門じゃ――」
と、続けた五郎左衛門の言葉に、やっと顔にかすかなほころびを見せた。
「間に合ってよかったぞ――」
五郎左衛門の手足はまるで何かに操られるように縫のそばに駆け寄っていた。そして、夢中でその肩を抱き寄せていた。
「きっと来られると信じておりました」
縫のうめく声がした。思いの外小さな声だったが忘れられないあの甘い声である。声とともに覚えのある豊潤な香りも五郎左衛門の体を包んだ。もうそれまで部屋に充満していた血糊の臭いさえが消え、つい声が出ていた。
「長い間苦労を掛けたのう。もう何があっても離さぬぞ」
「嬉しゅうございます。お言い付け通り心の操を守っていたかいがありました」
縫の体が一挙に五郎左衛門の腕の中に委ねられてきたのが分かる。
「さあ、早うこの牢を出ようぞ。まもなく秀光殿が攻め入ってくる」
五郎左衛門がそう言って縫の手を引いて立ち上がりかけたときである。
「殿、お待ちくだされ。やはりわたくしは参れませぬ」
とっさにその手を引き抜いた縫がやにわに床にしゃがみ込んでいた。
「なぜじゃー」
「……わたくしは汚れました」
「どうしてじゃ、先ほどそなたは心の操は守ったと言ったではないか」
「守りましたとも。それは誓って偽りではございませぬ。けれど、心は体に宿るもの。女の身には心だけでは抗い切れないものがあるのでございます」
「……」
「だから今わたくしは、約束のあの白玉を身につけてはいられないのでございます」
縫の声が嗚咽をこらえ切れぬようについて出て、嘔吐くように咽せた。心を守ってもなお守り切れぬものとはいったい何であろう……。
「では、そなたのさっきの懐剣はそのための……」
それ以上言葉を呑んだ五郎左衛門には、縫が言わんとする気持ちがおぼろげながら分かる気がした。そう言えば、縫の身に肌身離さず付けているはずの白玉が見えない。五郎左衛門は心の中に湧き立つざわつきを強引に押し潰して言った。
「案ずるな、そんなことなど先刻承知のことじゃ。婚姻するとはそう言ったものだ」
五郎左衛門が手を添えた縫の背中の震えがさらに大きさを増していた。
「人の体とはそういったもので、そんなものなど二人で約束した死出の旅の冥利に比べれば取るに足りぬものぞ」
笑顔で続けたつもりの己の顔がかすかに歪んでいるのが自分でも分かった。そのあと手を添えて立ち上がらせた縫の体が、かすかな抗いを見せながらも五郎左衛門に寄りかかってきたのが分かる。
「殿、どうか縫のこの体を打ち据えて下さい。そうしてこの身からあの汚れを抜けさせて下さいませ。その上でご一緒しとうございます」
触れた縫の体が石のような強ばりを見せていた。
「打てば一緒に参るというのか」
「はい、あの汚れを抜け出させるほどに打ち据えて下さいませ。さすればあの頃のわたくしに戻れましょう」
「分かった」
五郎左衛門は覚悟を決めて縫の頬を打つことにしたが、一度目は腕を振り下ろす寸前に力が抜けて、平手が頬をかすっただけになった。
「いえ、そうではなく。気を失わせるほどに打ち据えて下さらねば生まれ替われませぬ」
縫の声がして、五郎左衛門は自分でも制御できない感情に駆られて縫の頬を打っていた。――バシっという音とともに、縫の体が吹っ飛んで倒れ込んだのが分かる。
床に頭を打ち付けたのかも知れない。しばらくその場に倒れ身動き一つしなかった。そして、寸時のあとに緩やかに体を起き上がらせる縫の様を五郎左衛門は茫然と眺めていた。
「済まぬ……」
「いえ、これでこの奥座敷の天袋に隠し置いた、あの白玉を身に付けられまする」
五郎左衛門と縫が座敷牢を出たのは夜の四つ半(十一時)になっていた。五郎左衛門の心は雲が切れた青空のように晴れやかだった。
五郎左衛門が縫を奥座敷に残して陣屋に戻ってくると岩出玄蕃が待っていた。
「殿、戦況に変わりはござりませぬ」
夜が更けるとともに篝火の勢いが増している。夜討ちに備えて警護の兵も増やしていたが、すでに斎宮城を落としてこの平尾城を取り囲んでいるはずの智積寺の手勢はまったく動きを見せずにいたのである。おそらく大河内勢も加わっているはずなのだ。
五郎左衛門が陣屋に戻った後も戦況に変化はなく、刻限だけがジリジリと過ぎていた。それでも五郎左衛門の心はいつになく浮き立っていたのである。縫も奥座敷で白玉を身につけているはずで、今なら何をしてもうまく行くと思えたのだ。
篝火の火に誘われたのか羽虫が数匹五郎左衛門の頭上を舞っている。その羽虫の一匹が突然篝火の中に吸い込まれるように姿を消した。
「殿、智積寺殿から使者が参りましたぞ」
土塁の警護を見回っていた玄蕃が五郎左衛門の座る床几の前に駆け寄ってきたのは、二匹目の羽虫が火の中に飛び込んだときだった。
玄蕃の後ろには智積寺家の郎党・澤兵庫介が付き従っていた。智積寺の兵がすでに竹藪と接する平尾城の土塁の下にまで押し寄せているのが予測できた。
大河内御所の兵が助勢しているとなれば一千を越える兵の数となる。五郎左衛門は決戦は夜明けになると踏んで、竹藪に潜ませた兵にも交代で睡眠を取らせていた。
「どうせ降伏の促しに来たのじゃろうて、無駄なことよ」
「いえ、それが斎宮の野呂三郎殿も一緒なのでございます。もう外に控えておりまする」
「何っ、三郎がとな……」
五郎左衛門は一瞬言葉を失った。三郎が一緒だと言うことはすでに地起をあきらめ降伏したと言うことになる。この平尾城の防御は斎宮城が持ちこたえていてこそ成り立つもので、援護のない籠城など自滅に等しいのだ。地起とは本来死に瀕した民百姓の代弁者となり命をかけてやり抜く崇高な行為である。それをあまりのあっけなさに腹立しさが込み上げてきた。さっきまでの高揚が一気に萎んでいた。
「まあ通せ……」
とだけ言って、――ワシが成敗してくれるわ。との言葉をのど元に飲み込んだ。
玄蕃が下がると強まった夜風が一段と勢いを増し、篝火を煽って玄蕃に連れられて現れた澤兵庫介と野呂三郎の顔を忌ま忌ましく浮かび上がらせた。それに、二人はこともあろうに軽薄な笑いを見せているのだ。
「おのれら、血迷ったかー」
五郎左衛門はとっさに右手で刀の柄を握り床几を立ち上がっていた。
「殿、お待ち下され。まず二人の話を……」
玄蕃がすかさずその間に入ってきて右手を押さえていた。慌てて身を引く素振りを見せた野呂三郎の横で、その動きに煽られたように篝火の火が勢いよく弾け飛んだ。
「五郎左、勘違いするでない。ワシらの地起は成ったのだぞ」
とっさに三郎が大声を上げていた。その横では秀光の使者の澤兵庫が大きなうなずきを見せていた。
「何っ――」
五郎左衛門は柄を握った姿勢でしばらく身動きを止めていた。
「ほれ、この秀光殿の書状が何よりの証拠じゃぞ、……のう兵庫殿、早う見せられよ」
三郎が後ろにいた秀光の家臣の澤兵庫の背中を押し出すように衝いていた。
「ハッ、これが我が殿よりの申文でございます」
五郎左衛門の床几の前に跪いた兵庫が、懐より一通の書簡を差し出してきた。
妻・縫を無事お戻し下されば、このたびの地起を当方よりも大御所に願い出て候。
智積寺秀光
十二月三十日
豊田五郎左衛門殿
書状にはそう記されていた。
「何を世迷い言を……」
読み終えた五郎左衛門はその書状をそのまま握りつぶした。拳を作った右手がワナワナと震え出していた。地起をされる相手が逆にそれを願い出るというのである。一目でその底意が見とれた。あとで裏をかき無傷で妻を取り戻し、地起をも取り潰す腹なのだ。五郎左衛門の眼窩にさっきの書面の「妻・縫」の文字が鮮明に残っていた。
「のう五郎左、民百姓のためじゃ。何とか兵を治めてくれ。ワシからも頼む」
真顔になった野呂三郎が五郎左衛門の足元にひれ伏してきた。
「これは豊田殿が地起に加わったゆえの特別な取り計らいなのでございまする。何とかお聞き届け願いとうございます」
片膝立てになった澤兵庫も続けた。
なおも無言で視線を逸らした五郎左衛門の頭の中で、「わたくしの身は汚れております。ぶって拭い取って下され」と言った言葉と、「わたくしこれで生まれ変われました」という縫の言葉が入り乱れて甦ってきた。よくよく考えれば、五郎左衛門にとっての掛け替えのないものとは、北畠の黒母衣に取り立てられることでも地起を成させるためでもない。ただ縫のすべてを得ることだったのだ。今それをはっきりと悟った気がした。そして、それは一度目はあきらめられても二度目は耐えられるものでないことも……。
「もう叶わぬことよ……」
床几を立って背を向けた五郎左衛門の口からふとそう漏れた。
「何が叶わぬと言うんじゃ五郎左。お主は兵をまだ一兵たりとも失ってはいないんだぞ。それに民のための地起の成就は五郎左にも悲願だったはずではないか」
身を起こした三郎が掴みかからんばかりに迫って来た。その顔が篝火の明かりをまともに受けて鬼のような形相になっていた。そして、そのまま袖を取った三郎に強引に陣幕の脇に連れ出されこう聞かれていた。
「のう――。訳を聞かせてくれ、その訳を。ワシもこのたびの地起には我執を捨て、真摯に民百姓たちに尽くしとるんじゃぞ」
声を噤んだ五郎左衛門に一拍の間が出来た。
「訳か……」
と、五郎左衛門は三郎に掴まれた袖口を揺りほどくようにしてさらに続けた。
「縫のことよ。……もう承知しまいて。二度目なんじゃからのう」
「なぜじゃ。縫殿は正式に秀光殿に嫁いでもう八年以上になる身じゃぞ。それに、秀光殿はこれからは虐待はせぬと申し出ているんじゃ。何の拘ることがある……」
五郎左衛門は視線を背けながら「そんなことではない」と言い掛け、思わずその言葉をのど元に呑み返していた。風に煽られた陣幕の脇で、ふと縫の顔がのぞいたからだ。そばにいた三郎も五郎左衛門の目線を目聡く見付けたらしい。同じように陣幕の外に視線を向けていた。
縫がとっさに気づいて身を隠したが、五郎左衛門にはそのあわて振りが少し気になった。
「ならば、秀光殿のこの申し出を承知するかしまいか、縫殿に直接尋ねてみようではないか」
三郎が目を五郎左衛門の目元に絡み付かせるように言い添えてきた。
三郎に邪心があればあるほど、ここまで来ての地起の断念は承服できるものではないのだ。それにこのままでは夫としての秀光殿への申し開きが出来ないのだろう。
「分かった。ではまず身共が縫と話してみる。そなたはここに残って待っていてくれ。あとでそなたとも話をさせるから……」
五郎左衛門が陣幕に三郎を残し、一人で館の中にいる縫の元に向かったのは夜の八ツ半(三時)になっていた。もう一刻もせぬうち夜が白み出す頃である。
先ほど庭先に顔を出していた縫はすでに奥座敷に戻っていた。そのときの智積寺の使者の口上を聞いたのかも知れない。返されるのを厭うように死を覚悟した白装束で壁に向かって端座していたのだ。五郎左衛門にはそれが嬉しくもあり哀れにも思えた。
「お待ち申しておりました」
縫が端座の姿勢を崩さずに言った。その横顔には死を受け入れた静穏さが宿っていた。外の冷気が染み入った座敷は凍てつくように静まりかえっている。
「地起を許すというが、ワシはもうそなたを智積寺殿の元には戻しとうない……」
五郎左衛門は具足のまま縫のそば近くまで寄り添い言った。声がついもつれそうになっていた。
「わたくしとて離れとうはございませぬ。……いえ、どんな犠牲を払ってでも離して下さいますな――」
と、縫は緩やかに首を振りそのあと顔を上げて五郎左衛門を見た。色が能面のように白く抜けている。一区切りして力を込めた最後の一言は、民百姓の徳政一揆を犠牲にしてでもとの強い覚悟に見えた。
「民百姓には気の毒だが、身共とそなたはそんな俗世とかけ離れたところにいる……」
「うれしゅうございます。けれど……」
と、縫が再び言葉を切った。その間合いが微妙に揺れた。
「わたくしが奥座敷に隠しておいた白玉がどうしても見当たらぬのです。さすれば今ここで、この白装束のまま殿とご一緒に果てとうございます」
端座して両手をつき、体を正面にむき直した声が真に迫っている。
どこから風が入るのかときおり蝋燭の火が大きく揺れて縫の顔を揺らした。この世の者とも思えぬ美しさだった。
「なに……、今ここでか」
五郎左衛門は思わず身を退らせ小さく言った。握った拳に力が入っていた。
「はい、今ここで、殿とご一緒ならあの白玉がなくとも……」
十年前と寸分変わらぬ縫の声に五郎左衛門の胸中が震えた。
今、縫の首を切り落として切腹すれば、例え白玉がなくとも間違いなく一緒に天国に行けるだろう。すでに五郎左衛門の心はかって縫と約束を交わした甘味な感情の中に入っていた。
「分かった……」
五郎左衛門が右手で刀の柄を握ろうとしたそのときだ。奥座敷の板戸ががらりと開いて甲冑の武士が飛び込んできた。
「待て、五郎左――」
陣屋に待たせていたはずの野呂三郎である。そのまま五郎左衛門と縫の間に分け入ると、両手を広げてこう大声を上げた。
「これでは話が違うではないか……」
「許せ三郎。やはり縫の気持ちも身共と同じじゃった。智積寺殿の元には二度と戻らぬとの覚悟じゃ。もはやこうするしかないのだ」
そう言って刀を鞘から抜き放とうとすると、三郎が五郎左衛門の背中にむしゃぶりついてきた。
「まあ待て智積寺殿は正式の夫だぞ、それでは人の道に外れるではないか。ワシはその智積寺殿から申し付かっていることがあるんじゃ。これだけは果たしておかねば武士としての面目が立たぬわ」
三郎が極度に声を強ばらせ、必死の形相を顔全面に滲み出させていた。
五郎左衛門は三郎の言った人の道に外れるという言葉にハッと我に返った。そう言えば縫は今もれっきとした秀光殿の正妻なのである。そんなことを思いもしなかったことに改めて気づかされた。
「何じゃ、そのことづてというのは……」
「いや、五郎左は少し座を外しておいてくれ。これも秀光殿の願いなのじゃ」
「うむ……」
「ほんのしばらくの間じゃ。縫殿に秀光殿からの言葉を伝えたき儀がござる。夫婦の間の心の内のことじゃて、妻だけにとのたっての願いなのじゃ」
「やむを得ん……」
五郎左衛門の胸に縫を座敷牢から連れ出そうとしたとき言った、「女の身には抗らい切れないものがある」との言葉が何の脈絡もなく浮かんで消えた。
夫婦の間には他人では解しかねない澱のようなものが芽生るのだろうか……。
五郎左衛門が奥座敷を出たのはそのすぐあとである。外に出ると凍てつく空気の中ですでに夜が白みかけていた。独り身を通してきた五郎左衛門には分かりかねることだった。
――どう諭されても縫の心が動くはずはあるまいて。
心にそう言い聞かせて渡り廊下を歩き出した五郎左衛門がふと足を止めたのは、さっき出てきたばかりの奥座敷で何やら物音がしたからだ。足を止めたのと同時に具足のすね当てがギシッと鳴って朝の空気を割っていた。
五郎左衛門はそのままの姿勢で身を屈めると、躄るように奥座敷の板戸に這い寄り中の気配をうかがっていた。
「……」
「それは元よりわたくしも覚悟の上のことでございます」
男の声のあとに凜とした縫の声が聞こえた。何かの返事だったのだろうが、低い男の声はよく聞き取ることができなかった。
五郎左衛門はその縫の声の調子に、――やはり案ずることはない。と気を安んじさせた。
「……」
「おっしゃるとおり十五年でございます。でも、時など何の意味がありましょうや……」
「……」
「どうして三郎さまが、その場所を……」
不意に縫の声が鋭く調子を変えていた。それに対する三郎の声は相変わらずもごもごとして聞き取れない。間隔を置いた縫の声だけがさらに切迫して聞こえてきた。
「どうかそれだけはお戻し下され。それはわたくしたちの魂なのです」
三郎は一体縫の何を知ったというのだろうか、縫の苦渋の口調からも事態の深刻さが如実に垣間見えた。
「……」
「いえ、そうされたとしてもわたくしの心が変わるものではございませぬ」
と、答えた縫の声が心なしか震えを帯びたかに感じた。そして、それに付け入るように続ける昂ぶった三郎の声のあとに、「でも……」と、口ごもった縫の声が掠れて消えた。
一体何を言われたのだろうか、一転して縫の口ぶりが弱々しくなって、それ以降は、「はい……」と、短く答える縫の声だけが聞こえるだけになり、遂には片膝立てになって聞き入っていた五郎左衛門の耳に、「……分かりました。それなら参りましょう」との、憔悴し切った縫の声が聞こえたのだ。
五郎左衛門が身を潜ませている濡れ縁には、白み出す朝の空気が靄を伴って広がっていき、廊下の板には薄く霜のようなものが降りていた。
それ以降は奥座敷の声が消えていた。
かじかんだ手に息を吹きかけながら五郎左衛門は何やら不吉な予感に襲われていた。そのとき奥座敷の戸が開いて野呂三郎の声がしたののである。
「五郎左、待たせたのう。入ってくれ――」
五郎左衛門は一瞬、手に吹きかけていた息が白く凍り付いたかに思えた。そのまましばらくは返事ができずにいた。
開いた戸に向け外に漂っていた朝靄が一挙に部屋の中に押し入っていく。五郎左衛門が目を向けると部屋奥にうつむいたままの縫の姿があった。
「五郎左、縫殿は分かってくれたぞ。今から秀光殿の元に戻ることにする」
三郎が勝ち誇ったような声を上げた。
――まさか、そんなはずはない。と、出しかけた五郎左衛門の声がうつむいたままの縫の背中を見てのど元に縺れた。
一体何があったというのだ。縫の背中が慟哭するようにしゃくり上げている。五郎左衛門はとても声を掛けることができなかった。
「縫殿はお主の名を汚さぬよう、我が身を捨ててくれたんじゃ」
そう続けた三郎の声に五郎左衛門は、いったいどんな謀りごとをされたのだとの思いを胸元に押さえ込んだ。
さっきまでしゃくり上げていた縫の背中が、ピタリと止んで静粛さを漂わせていたからである。
「縫殿がやっとのことで決められたことじゃ。五郎左も黙って戻してやってくれ」
三郎の言葉に合わせて縫の背がスーッと立ち上がっていた。
「縫。そなたそれでいいのか。それでは我らの夢が――」
とっさに口走って、さらに続けようとした五郎左衛門の言葉にまた三郎の声が被さった。
「秀光殿が土塁の外にまで出迎えてござるのだ。分かってやってくれい」
踏み出そうとした五郎左衛門の前に大きな三郎の体が立ちはだかっていた。
「二人の約束を果たすためでございます。何があってもこのわたくしめの心をお信じ下さいませ」
縫が不意に五郎左衛門に向けた目には必死の光が宿っていた。
五郎左衛門の胸中では十年間持ち続けてきた縫への心の愛と、秀光との夫婦としての交わりの深さがせめぎ合うように入り乱れていた。
――心の愛が夫婦の交わりなどに負けるはずなどないわ。と思ったあとに、いや、ひょっとすると夫婦の絆とはそれをも崩すものがあるのかも知れぬ……。五郎左衛門は剥き出した眼とくい縛った歯の奥で、今にも躍り出そうとする己の心を必死に押さえつけていた。
女とはこういった無慈悲な生き物かも知れない。――わたくしめの心をお信じ下さい。と言ったさっきの縫の言葉が五郎左衛門の心の中で痛烈な棘ともなり、逆にたった一つの救いともなって入り乱れた。
「それではこれからワシが秀光殿に話を付けてくるでのう」
野呂三郎が縫を伴って平尾城を出て行ったのは朝の六つ半(七時)で、もうすっかり朝が明けきっていた。
五郎左衛門は岩出玄蕃に命じ二人を城外にまで送り届けさせた。玄蕃が生まれ在所の斎宮より従ってきた郎党であり、縫とも幼い頃からの顔馴染みだったからだ。その玄蕃が陣中に戻ったときには日はもうすっかり昇っていた。
「確かに秀光殿が竹藪境の土塁にまで出向いておりましたぞ」
玄蕃は朝餉を摂っている五郎左衛門の前に跪いて申し添えた。
「して、そのときの縫の様子はどうじゃった」
「それが、ここを出てからは誰とも一言も話されませなんだ。向こうに着いてからでもです。まるで唖者のようにです」
「うむ……。そうか……」
唖者と言った玄蕃の言葉に、五郎左衛門は何やら安堵に似た感情がこみ上げてくるのを感じ大きく頭をうなずかせた。
「もしこれで地起が成されたとしたら、何よりでございましょう……。我らとしたら一人の犠牲も出していないのでございますから」
玄蕃がそれを見て体を少し前に進ませながら続けた。
「うむ……。じゃがのう玄蕃……」
五郎左衛門は湯漬けの箸を止め意味ありげに言葉を切った。玄蕃がその呼びかけに応じさらに身を近寄せてきた。
「ワシはこれで二度目の地獄を味合わされたんじゃぞ」
「御意……。そのことはお察し申し上げます」
玄蕃も五郎左衛門の求めが、地起のことよりも縫にあるのは察している。先程来の言葉もその心の痛みを逸らす暗示だったに違いない。
「一度目は夢中で耐えたが、二度目となるとやはり抑えきれぬわ」
「殿、そう案じられますな。きっと縫さまにはお考えあってのことにございますゆえ」
「うむ……、ワシもそう思うが、女とは不可解な生き物じゃでのう……」
「いえこれは、殿にお心を預けられた縫さまゆえの所作にございます」
身を屈ませた玄蕃がさらにいざり寄ってきて付け加えた。この期に及んで縫を取り戻せる手立てなと何一つなかったのだ。
五郎左衛門がそのあと不眠の目を覚ますのに手水を使っていたときである。近くでいきなり銃声のような轟音がした。五郎左衛門がとっさに手を止め、その音の位置を探ろうと顔を上げたときである。もんどり打って玄蕃が駆け込んできた。
「殿、奴らに裏切られましたぞ――」
「何っ――」
「たった今、大河内勢が攻めかけて参ったのです」
「智積寺も一緒か――」
「はっ、秀光がいるかどうかは分かりませぬが、奴の兵が先陣を切っておるのは確かでございます」
「なんと卑劣な奴――」
一瞬、五郎左衛門の頭に縫の顔がよぎったが、その顔が秀光の寝首をかいた顔か、夫婦の契りに屈した顔なのかは定かには判別が付かなかった。
また銃声がして敵の鉄砲隊がさらに数を増して間近に迫っているのが察しられた。
「して、竹藪に伏せた兵はまだ持ち堪えているのか」
五郎左衛門は頭に浮かんだ縫の顔を振り払うように言った。
「はっ、今はなんとか……」
答えた玄蕃の顔が苦しげに歪んでいる。いくら籠城の戦とはいえ相手が大河内なら二千に近い兵を揃えているであろう。味方は三百、おまけに藪に伏せさせた兵は野呂三郎が集めた百姓とあぶれ者たちなのだ。いつまで持ち堪えられるかは心許なかった。
「して、北畠国司家の軍は混じっていぬであろうのう」
「はっ、笹龍胆の紋はまだ見えませぬ。いるのはみんな三つ巴の旗指物ばかりでございます」
大河内家の紋は「三つ巴」で北畠家は「笹龍胆」の紋である。一目で区別ができた。
「それならまだ望みがあるぞ。豊田の兵で城内を固めさせよ。そして一刻でも長く持ち堪えさせるのじゃ」
そのうちに平尾村やその近郷で一揆が立ち上がりでもしたらまた状況が変わってくる。万が一を狙って、その工作をも五番隊を率いた野田兵庫に申しつけてあった。
その日も朝から雪花が舞う極寒日である。五郎左衛門は具足に身を固めると、岩出玄蕃と竹内左内を従えて陣中を見回り、そのあと陣幕に入って戦況を見守っていた。
敵の撃つ少し遠い銃声と、味方が打ち返す鉄砲音の間隔が次第に狭まっている。次第に敵の銃声が近付いていたのだ。味方の百姓やあぶれ者たちが怖じ気立つのは間もないことだろう。
「思いの外奴らの鉄砲が多いのう――。いつまで持ち堪えるかじゃ」
「いや、先ほど豊田の郎党らを各番隊に数名ずつ嵌め込みましたゆえ、そう簡単には崩れますまい」
さすが玄蕃である。情勢の把握が早い。豊田の郎党に城内を固めさせるだけでなく藪の中にも配置していたのだ。
だが、そのうち敵兵の喊声がさらに大きさを増して、流れ弾や流れ矢がそば近くに届くようになって陣内が動揺し出した。このままでは時をおかず総崩れになる。
「どれ、身共が一暴れしてくれようぞ」
槍を取った五郎左衛門がそう言って床几から立ち上がったときである。陣幕を撥ね上げ竹内左内が駆け込んできた。そばには岩出玄蕃も控えていた。
「殿、野呂三郎殿が参り、使いだと言ってお目通りを願っております」
左内は走り込んだそのままの姿勢で声高に言った。
「まさか、降伏を促しに来たのではあるまいのう……」
五郎左衛門は思わず手に持つ槍を前に突き出していた。
「あの裏切り者めがどの面下げて参ったと言うんじゃ――」
玄蕃の声が即座にそれに続いた。
「いえ、どうやら三郎殿も大河内に謀られたようなのです。殿に助けを求めておりまする」
「何っ……」
掴みかからんばかりに左内の顔をのぞき込んだ玄蕃が、一瞬動きを止め五郎左衛門のほうを見返してこう言った。
「殿、ご注意あそばせ、奴は信用成りませぬ……」
「うむ、まず話を聞こう。……三郎をこれへ通せ」
五郎左衛門は玄蕃の視線を振り切って、その向こうにいる左内にこう命じていた。
風に舞う雪片がひときわ数を増し五郎左衛門の顔にも間断なく打ち付けている。左内に追い立てられ五郎左衛門の前に跪かせされた三郎の全身にも、瞬く間に白い雪が被っていた。
「お主、しくじりおったか――」
五郎左衛門は一呼吸おき三郎の顔を眺め直して呼びかけた。本当は何をおいても縫の安否を聞き質したかったが、聞くのが恐かったのである。
「いや、拙者の策がしくじった訳ではない。智積寺秀光殿と大河内御所は一旦は当方の地起を受け入れたんじゃからのう」
三郎は平伏したままで小さくそう答えた。
「どう言うことだ、それは……」
「大御所さまがその秀光殿の願いを一蹴されたんじゃ。地起などもってのほかとなあ。いや、秀光殿もひどく叱責され、咎さえ受けたわ」
跪いたまま顔をあげた三郎が五郎左衛門に向け一気に言った。大御所とは国司・北畠具教のことである。その言葉には誰もが逆らえなかった。
「うむ……。では、この寄せ手の中には北畠国司勢も加わっているということか」
「よく見てみろ。笹笛川を挟んだ向こうの陣には笹龍胆の旗がはためいているであろう」
五郎左衛門がその足で陣幕の横に作った見張り台に上ってみると、いつの間にか西方の後詰めの陣には、北畠の笹龍胆の馬印が翻っていて、周りに無数の旗指物が群がっていた。
北畠国司勢が加わったとなると万に近い兵がこの平尾城を取り囲んでいることになる。こうなるととても勝ち目はなかった。
五郎左衛門は見張り台から陣幕に戻り、再び野呂三郎を呼び寄せた。
「して、縫はどうなった……」
やっとのことで口にした。情勢が混沌としてきて躊躇している暇はなかったのだ。
「それが秀光殿に引き渡して、あとは拙者にも分からぬのだ」
三郎は申し訳なさそうに頭を垂れた。
「何っー、何と頼りない……」
「大御所さまはのう。地起を認めるという秀光殿の奇行にひどくご立腹で、今では大河内殿さえ秀光殿を見限り、拙者も囚われ人じゃ」
五郎左衛門は三郎の話を聞きながら、胸の中で様々に揺れる縫への心を強引に押さえ込んだ。地起とはそれほど大それたことなのだ。と、言うことは、秀光はその咎を受けるのをも承知で地起の許容願いを申し出たことになる。
「では、お主は誰に命じられてここに使わされて来たんじゃ」
五郎左衛門は乱れる心とは逆に声に極力平静さを装って小声で質した。これほどまでの危険を冒して縫を取り戻そうとした秀光の心に只ならぬ嫉妬を覚えたのだ。
「大御所さまの意向を伝えるためじゃ。五郎左が詫びを入れて降れば罪は問わぬとののう」
「何っ、縫や、この地起に関わった者も許されると言うのか」
「いや……。許されるのはお主の罪のみじゃ。先の鷺山での大御所さまへの功績でのう」
三郎はここで五郎左衛門の意向を図るように上目遣いに顔を上げた。玄蕃も左内も無言でことの成り行きを見守っている。大御所の意向は有り難かったがとても呑めるものではなかった。
「何っ、そんなものでは……」
と、五郎左衛門は一旦言葉を止めたが、その先を見越したように三郎がさらににじり寄ってきた。
「じゃが、お主の答えによっては縫殿のお命にも関わることぞ」
その目の光に必死の懇願が宿っていた。たぶん今回の使命には三郎自身の命も掛かっているのであろう。
五郎左衛門はなおも言葉を呑んで虚空を眺めた。答えに迷っていたのではない。こんな状況になるのを承知で秀光の元に戻った縫の心根を計っていたのである。
座敷牢で秀光によって汚された体との決別に同行したのか、それともその汚れに操られての行動だったのか。先のものであれば死を覚悟した行動であり、あとのものであれば八年に渡る婚姻に心が操られたと言うことになる。
不意に、『二人の約束を果たすためでございます。何があってもこのわたくしめの心をお信じ下さい』と、言った縫の別れの言葉が甦ってきた。人の心と体の関わりとはそういった不確かなものなのかも知れない。いずれにしろもう縫が五郎左衛門の元に戻ってくることはないように思えた。
「身共は戦うぞ、みなとここでのう……」
五郎左衛門は声を絞り低くおもむろに言った。その沈着さがかえって控えていた郎等たちには衝撃を与えたようだ。
「殿、お考え直し下され。万が一にも勝てる相手ではございませぬぞ」
すぐそばで控えていた岩出玄蕃がいさめるように小声で言った。
「反抗すればすべてが根絶やしにされるぞ。お主の家も郎党も縫殿も民百姓もだ。これまでの大御所の非道さはお主も十分に承知しておろうが――」
すでに体を立ち上げた野呂三郎が、五郎左衛門の前に来て両手をかざしていた。
「戦とはそういったものなのだ。――死は常に身近にある。――誰の身にもな」
五郎左衛門は前を阻んだ三郎の両手をはね除け、短く言葉を切った。
「いや、これではただの犬死ではないか。せっかく大御所さまが助命してくれると言うのに」
「くどいぞ――。無意味に生きながらえてどうなる。生きるとは畢竟喜びの求めぞ。身共にはもう喜びなどない」
そのときの五郎左衛門の心からは、縫のすべてが抜け落ちていたのは確かである。
「いや、違う。生きてさえいれば、また違う喜びが生まれてくるものぞ」
三郎が床几を立った五郎左衛門の袖になおもすがり付くのを見て、玄蕃と左内が強引にその体を引き戻していた。そして、それを汐に誰もが口を閉じたのだ。
城内の喧騒が次第に激しさを増している。そのとき、陣幕の前でじっと沈黙を守っていた五郎左衛門が意を決したように後ろを振り向いた。
「三郎、最後に一つだけ聞かせてくれ。そなたが秀光殿からあの座敷牢に使わされた夜、一体縫に何を伝えて連れ出したんじゃ」
周りの喧噪をよそに陣屋は水を打ったような静寂に包まれており、五郎左衛門の言葉を弥が上にも際立たせた。篝火の炎だけがパチパチと弾けていた。
「あれか……、あれはのう……」
三郎はこう言葉を止め、そのあとの言葉を出し渋った。
「……後生じゃ。教えてくれ」
「それはのう縫殿が奥座敷の天袋に隠していた白玉をワシがが見付けたことと、それを秀光殿に引き渡したことを伝えたからじゃ」
「なにっ、貴様が白玉を奪ったとな……」
「ああワシが送り込んでいた婢に調べさせたんじゃ。それに縫殿が戻らぬのなら、その白玉を世間に晒して二人の不義を訴えると言う秀光殿の言葉ものう」
白玉を不義の証として利用されたら、五郎左衛門の潔い望みが水泡に帰すことは確かだ。
「うーむ、どうして貴様がそれほどまでに身共や縫のことを害するんじゃ」
五郎左衛門は刀の柄に手を掛けながらワナワナと震えていた。
「なぜじゃとう……。ワシが幼い頃より縫殿のことを慕っていたのを知らなんだか。それをお主も縫殿も一瞥さえしなかったんだ……」
言い終えた三郎の顔には卑屈な笑いが浮んでいる。
「そんな理不尽な。例え縫を戻らせたとしてもヤツが白玉を戻すはずはあるまいに――」
と、五郎左衛門が刀を抜けずにそのまま片膝を付いたとき、
「殿、城門が破られましたぞ」
と、外に偵察に出ていた竹内左内が駆け戻ってきて、陣屋が一挙に緊迫感に包まれた。
「玄蕃、早う野呂三郎を追い返してこう伝えさせろ。豊田五郎左衛門はあくまで闘うとな――」
そう言うと五郎左衛門は長槍を取って騎馬に飛び乗っていた。
「さあ、一戦交えるぞ」
言うが早いか馬にムチを当て、すでに乱戦になっている志田口の竹藪に向けて駆け出したのである。そのあとへ玄蕃が騎馬で付いてくる。
「殿、某が露払いを致しますゆえ、前にお出になりますな」
「何を申す、こんな雑魚ども身共一人で一揉みにしてくれるわ」
五郎左衛門が馬上で長槍を車輪のごとく振り回すと、すでに藪から抜け出ていた敵兵の数人があっという間になぎ倒れ、次々にギャ――。と、悲鳴を上げて吹き飛んでいった。
横では玄蕃や左内が五郎左衛門を取り囲むように敵兵を斬り倒している。だが藪を越えて攻め掛けてくる敵兵の人数は増えてくるばかりである。その間にも間断なく矢玉が打ち込まれてきて、五郎左衛門の顔の横を音を立て流れ飛んでいた。
「殿、それまででお止め下され。何やら敵が藪向こうで合図をしておりまするぞ。一旦城内に戻りましょうぞ」
玄蕃が五郎左衛門の前に来て大声で言った。見れば志田口の竹藪と土塁の堺に、旗指物が一塊になって乱立しており、その中から狼煙のようなものが上がっている。何かの合図であるのは確かなようだった。
五郎左衛門は玄蕃の言葉に従い、一旦馬を止め城内の見張り台のある位置にまで引き返した。そして、その足で遠目の効く見張り台に登ったときだった。
「豊田五郎左衛門よく見よ――。これがお主の使わした縫の方じゃ――」
声がするのは藪向こうの土塁が少し高台になった場所である。中央に北畠家の笹龍胆の馬印が立ち、周りがすべて同じ旗指物で取り囲まれていた。
丘の上に十字に組まれた真新しい角材が立てられたのはその直後である。そこには白い衣装に包まれた女体が磔にされていた。
今朝野呂三郎によって、白衣のまま智積寺秀光の元に連れ出された縫の姿だった。
「大御所さまのお情けじゃ。もう一度だけ問う――。詫びを入れて降りる気はないか――」
辺りにこだまするかと思える兜武者の大音声である。ただ、そばには智積寺秀光の姿はおろか、大河内の三つ巴の旗指物も一つとして見当たらなかった。もしかすると秀光はすでに捕縛され排除されていたのかも知れない。
「もし縫の方を助命したくば、その場で馬印を下ろされよ」
再度兜武者からの声がしたが、五郎左衛門はただ無言でそれを睨み据えていただけである。
「殿、いかが致しましょう」
玄蕃がそばで跪いて言った。
「何もするでない。こうなるのは分かっていたはずで、縫はすでに覚悟を定めているはずじゃ」
「ハッ」
玄蕃はそう言っただけでまた視線を藪前の高台に戻していた。
そのうち十字に磔られた縫の方の体の前に槍の穂先が交差させられるのが見え、その白刃が吹雪いてくる雪片のの中に鮮やかに光った。
「出来れば一緒に参りたかった……」
玄蕃の耳にふと、五郎左衛門の口から漏れる声が聞こえた。
そのうちその槍が両方向に開いたと思うと縫の胸元に一気に突き立てられていた。雪の中の静寂はぴくりともせず、縫の上げる悲鳴も一切聞こえてこなかった。
そのうち縫の纏った白衣に真っ赤な鮮血が吹き出すと、それがみるみるうちに下半身全体を染めていった。
竹藪から一斉に飛び出した北畠家軍が、城門を打ち破り一挙に平尾城になだれ込んできたのはそれから間もなくである。
「殿、最早これまでにございます」
座敷牢に連なる奥座敷まで来て、具足を取り去った五郎左衛門に玄蕃が言った。
「お前たちには済まぬことをした……」
「何を仰せられる。我らはあくまで殿とご一緒でございます」
玄蕃はまだ具足を纏っている。あくまで五郎左衛門の自害を見守る腹なのだ。北畠家勢の足音がすぐそばにまで迫っていた。
河内左内が駆け込んできたのはそんなときだった。
「殿、ご報告いたします。最前槍刺しにされた縫さまは、首に白玉を付けられていたそうにございますぞ」
「なに、白玉をとな……」
五郎左衛門はすでに自害するための白刃を右手に持っていた。
「これ、これでございます。さっき後遺体を引き取った野呂三郎の手のものが持って参りました」
それを手に取ってみると確かに幼い頃、縫と二人で斎宮の宮跡で見つけた白玉である。
――これこそが二人の魂だ。これを持っていれば二人はどこにいても一緒なのだ。
そう言って五郎左衛門が縫に渡したものだった。
「それに、縫さまの磔の由は、智積寺秀光殿を後ろから不意打ちして白玉を奪い返した咎でございました」
「うむ……」
五郎左衛門は右手に白玉を握ったまま絶句した。
――そうか……、縫の言った二人の約束を果たすとのことは、この白玉のことであったのか。五郎左衛門の中にかすかに残っていた心の陰りが一気に晴れていた。
「縫、許してくれい。ワシはほんのいっときでもそなたの心を疑っていたわ……」
五郎左衛門はそう言って刃を腹に突き立てていた。
火の手はすでに奥座敷を業火に包んでいた。
飯南郡鎌田の豊田家が取り潰されたのは翌年の冬である。豊田家の近くにある阪内川の玉ヶ淵が水涸れして一匹の野鯉が死んでいた。
完