■第33章『百眼の巨人』
小高い丘の上にそびえる校舎。その前の法面を利用して作られた花壇は、校庭よりも一段高い場所にある。そこへ上るためにレンガで造られた階段が左右にあって二人は左側の階段をめざした。暗がりのなか、足元を確かめながら階段をゆっくりと上った。足元のレンガは手作りのうえ年数が経っていると見えて歩くたびにまるで古い木琴を奏でるような音が鳴る。
ちひろはトシの右腕を掴み、一歩後ろからついていった。
時刻は、六時二〇分。手を伸ばせば届きそうなくらい大きな満月の夕。
校舎の屋上に均等な間隔で設置された三つの大きな水銀灯が花壇を照らし出している。照らされているところは結構明るくて、階段を上るのには都合が良かった。さらには周囲に漂う冷気を温めてくれている。校舎を見上げるととても眩しく、眼を後ろへ転じると二人の姿がいくつもの大きな影になって校庭へ伸びていた。
校長先生は、二人が来るのを待ち構えている風だった。動きを止め、じっと何か考え事をしているかのように、しゃがみこんで花壇の土の部分、一点を見つめていた。横には集められたゴミくずの山――――落ち葉、紙ヒコーキの残骸、ティッシュ、誰かが落とした片方の手袋、お菓子の外袋など――――がある。視線は下に落としていたものの、二人のことを気付いていたに違いない。先に声をかけたのは校長のほうだった。
「教頭先生に何か言われたのか」
二人は階段の途中で立ち止まった。その距離、およそニ〇メートル。校長先生は、花壇のなかでしゃがみ込んでいる。トシの背後でちひろは震えていた。まるでお化け屋敷のなかにいるかのように、彼の腕を固く掴んだまま放さない。「ん、どうした」。正面を向いたまま、顔を横へ振り、背後の彼女へ囁く。が、ちひろは返事をするどころではないようだ。
怯えてる。なぜだろう。まさか。ちひろは、校長先生の正体が何者なのかを知っているのか。
トシは思い出していた。最初に会ったときは、この世で最も恐ろしい顔をしていた。二度目に屋上で見たときは、ごく普通の男だった。さて、今度はどうだろう。できることならば顔など見たくはない。最初に会ったときのことを頭の片隅から消し去ろうと、首を横に振る。見たくない。見ないぞ。見てはいけない。見るものか。そう思うと思うほど、トシの眼は彼から離れられなくなってしまった。
「あのー、えーと」
次の言葉が上手く出てこない。
「どうした」
と、校長先生。が、まだ顔を上げない。
「と、突然、すみません」
トシは四角四面な挨拶しかできない。
「相手の背後からピストルを撃つのはルール違反じゃないのか」
「アッ」。あの屋上の出来事を覚えていたのか、と心のなかで呟く。
「す、すみません」
トシはまた、謝ってしまった。
オロオロする彼に業を煮やしたのか、校長先生は手の平についた土をパンパンとはたき、「うー」と低い声を発しながらゆっくりと立ち上がろうとする。トシはその様子を見て、咄嗟に顔を背け眼を瞑った。「ああ、どうか。神様……」祈るような気持ちでいっぱいだ。見てはいけない、と思えば思うほど見たくなってくる。それでトシは、片眼を開いてこっそりと、ちょっとだけ様子を伺った。
校長先生の顔が、二人のほうへゆっくりと振り向く。
「きゃっ」
後ろで、ちひろが小さく金切り声を発した。
「うぁっ」
トシの眼に飛び込んできたのは、眩いばかりの光だった。眼光が焼けてしまうのではないかと、咄嗟に手の平をかざし顔を覆った。
「キミたちの話しは聞こえなかった。でも、何を話していたかは容易に想像がつく」
腹式呼吸から発せられたバリトンの声には独特の重みと途方もない説得力があった。老人は眼を細め、トシを見つめている。その様子は、心の内を読み通すかのようにジリジリと眼差しだけがトシのほうへ近づいてくるような感じだった。
「なー、ちひろ!」
突然、校長先生が彼女の名を呼んだ。しかも呼び捨てだ。な、なんだ。トシは振り向いてちひろの顔色をうかがう。気まずそうな表情を浮かべながら、彼女はトシと眼を合わせた。困惑の表情で。
もういちど、校長先生の声が響いた。
「分かってない!」
それはアルプス山中から聞こえてくるように、太くて大きくてハッキリとした声だった。
「お、お父さんの言う通り」
ティンカーベルのようなちひろの一声で状況が一変する。トシの心は、緊張の糸がプツリと切れて風に飛んでいくようだった。
何が言う通りなのか、さっぱり分からずに、どちらかというと「お父さん」のほうに驚きを覚えた。用務員さんが校長先生で、校長先生がちひろのお父さんで……、まさか、ちひろのお父さんは僕のお母さんじゃないだろうな。
トシは自分の冗談に満足した。彼女が、校長先生に対して怯えていたのはこのためだったのか。
「アイツのことはちひろから聞いていた。いや、ワシのほうがちひろに告げたのかもしれん。今となってはどちらでもいい。学校には問題がたくさんあるかもしれん。でもな、悪い生徒はひとりもおらん。ワシはそう確信している。そう思いたい。嘘じゃない」
校長先生は知っているのだ。トシはそう考えた。あの昼休み、正確には、五時限目の授業が始まったころ、体育館から男女二人が出てきて、渡り廊下を走り、校舎へ消えて行った。そして、他にもうひとり誰かがいたことをこの花壇から見ていたに違いない。
「今度こそ、アイツの正体をつきとめてやるぞ」トシは両肩を二、三度軽く回してリラックスしようと心がけた。
校長先生が、足元の花を避けながらトシのほうへ近づいてきた。一瞬、その動きがロボットのようにぎこちなく感じられた。動くたびに彼の体がガチャガチャ鳴った。変だな。何だろう。校長先生とトシとの距離およそ一〇メートル。トシは不思議そうにその動きを見つめた。ちひろのほうはトシの腕から手を離し、背中越しに隠れてしまった。
「校長先生は、アイツのこと知っているんですね。それならば話しやすいです」
「キミに話すつもりは毛頭ない。それは先生として校長として学校としての守秘義務でもあるからな」
「アイツのことで、悩み、自殺までしようとした女子がいたとしても」
トシも一歩、また一歩とにじり寄る。
彼の背後にいたちひろは、二人の間に火花が散るのを察した。二人は、およそ三メートルの距離で向かい合っている。
「ああ、あのことではキミに殊勲を与えよう。もちろん、ワシも成り行きはすべて知っていて、ただ屋上へたどり着くのが遅かった」
「彼女から聞いたのですね」
トシが睨む。
「ふむ。実際のところ、三年生らが救ったのじゃ」
そして、校長先生が睨み返す。そうして半歩近づいた。体がガチャリと鳴った。
「分かっています」
「分かってない!」
言葉だけではなく、心も絡み合い、引っ張り合い、掴み合っていた。それくらいの距離だ。糸がピンと張り詰めたような雰囲気。まるで世界中が沈黙して、二人の会話に耳を傾けているようだった。
「京介さんには借りができてしまった」
「ツッパリか。外見だけじゃのー。みんないいやつらだ」
「僕もそう思います。でも、アイツは違うでしょう。名前を言えないのであれば、せめてヒントくらい教えてくれませんか」
トシは、校長先生の眼の奥を、心の底を、見てみたい衝動に駆られた。できることならば、その一部を自分のものにしてみたいと。
「どうしても知りたいのか」
「はい。あなたの正体も」
一瞬、間が空く。トシは、男をまっすぐに見ながら下唇に指を当てて黙考した。考え、意識し、これまで誰にも言えず、大切にしまって置いた内なる言葉を、宝物の蓋を開けるかのように、外へ表へそっと取り出そうとした。
「あなたは、僕にとって……」それでも口でハッキリ言ってみたわけではない。好きとか愛する、などという台詞は到底言えるわけがない。カレンに告白したときでさえ、卒倒しかけたではないか。でも、それほどではないにせよ、その言葉はやっぱり何となくもどかしくて恥ずかしくて声にしてなかなか言えないのだ。ちょっと照れくさい。トシは意識の奥底に眠っていた気持ちをやっと言葉にしてみた。
それは『あこがれ』という言葉だった。トシは男の正体に気が付き始めたのだ。たぶん、きっと、必ず、いいや、絶対的に。
中世の、
戦乱時代を生き抜いた、
すべてを見通す眼力の持ち主。
用務員さんは、校長先生は、そうに違いない。
ああ、そうだ。僕はやっと、名前を思い出したぞ。
百眼の巨人だ!
トシが頭のなかで描いたイメージは、イギリスのロックバンド、ウィッシュボーン・アッシュのアルバム・ジャケット(※数多くのロック・ミュージシャンのジャケット・デザインを手がけたヒプノシスというチーム。メンバー三人のうち、二人は既に他界してしまった)に描かれているヨーロッパ中世の騎士だった。
彼は興奮していた。
「耳に入ってくることだけでは物足りないんです。それだけですべてを鵜呑みにはしません。僕は頭が悪い生徒に過ぎないけれど、百眼の巨人のように、その向こう側にあるものを見てみたいのです。事実よりも真実が知りたいんです!」
「百眼?」
「中世から未来まで、すべてを見抜く力を持った騎士です」
「知らぬな。ワシも勉強不足ということか。何か空想の産物で、神話に登場するやつじゃな」
「自分も詳しくは知らないのですが、荒れ果てた時代を旅して生き抜いたスゴイやつ、ということくらいしか」
校長先生は少し考えていた。そして、息を軽く吐いてからゆっくりと語り始めた。
「善悪の判断を勝手にするものではない。すべては時が解決してくれる。すべてにおいてスッキリと解決できることなど稀にしかないと思うぞ。誤解があったり、間違っていたり、すれ違いだってある。問題が上手に解けなくても悔やむことはない。人は誰だって忘れてしまうものじゃ。記憶なんてあやふやだ。いつしか、また違う疑問や難問にぶつかり、それによって以前のものは消えてしまうものなのじゃ。そうして人生が繰り返される。分かるか?」
「分かりません。なぜ、どうして、という疑問は残ったまま、消えることはないと思います」
「甘い。キミはまだ若いのー。この世には『黄金のルール』(※バート・バカラックの曲『アルフィー』の一節)がある。なぜ人は過ちばかり犯すのか。戦争や差別が繰り返されるのか。人は軽蔑しあい、憎しみあい、殺しあう。その百眼の巨人のように、物事の真理を見抜ける力があったらいいのにな」
老人は、小バカにしたような笑みを見せたので、トシは大いに不満だった。キレそうだった。「こいつは、敵だ」そう思えた。
「黄金のルールなんて、クソくらえだ」はらわたが煮えくり返る思いで、相手を睨んだ。
「ダメ」
かすかな声が背後で聞こえたので、トシの意識はそちらへ流れた。次には、それがちひろの声だと分かった。か細いが、声のトーンは自分に味方しているのが手に取るように分かる。会話というものは話の中身とか言葉の意味よりも、もっと重要なものがあり、それが音であり、表情であることをトシは知っている。ちひろはトシにとっては野暮ったい存在であり、毛嫌いしている。しかしながら、それでも彼女はいつでもどこでも自分の味方であることを、彼女の声で知るのだった。敵か味方か、嘘か本当か、会話から伝わる様々な情報、例えば、顔の表情とか口元の動きとか声の調子とか、で判断する。話の内容は二の次だ。『話しより、その人の行動が多くの真実を語っている』ということをトシはちゃんと知っていた。
「怒ったらダメ」彼女が小さく首を左右に振る。
そうだ。怒ったら負けだ。人はみな怒りに満ちたとき、我を忘れ、平常心を失い、相手に見透かされてしまう。ちひろの言う通り。トシはグッとこらえ、体内から喉元へこみ上げてくる怒りという黒い物体を押さえつけるように飲み込んだ。そうして、平素な表情を見せ、校長先生に対して尊敬の念を抱きながらこう告げた。
「あなたはもしかしたら、すべてを見通す百眼の持ち主かもしれませんね」
「そう。その調子よ」ちひろはそう思ったに違いない。トシは、校長先生と対等に渡り合うには感情をぶつけるだけではだめだ。大切な気持ちの部分は最後まで残しておこう、と気合が入った。
「ワシが伝説の騎士か。そう感じるのか。将棋の棋士のことなら少しは分かるが」
そう言って大きく笑った。それから一度咳払いをした後、話を続けた。
「ふむ。ただし中世のことはよく分からん。そうじゃな、二〇五〇年くらいまでのことなら見通せる」
トシは、しめた、と思った。
「それならば、五月のことも覚えているはずですよね」
「五月か。ふむ。その通りじゃ。あのときも、ここで掃除をしておった。昼休みからずっとな。休みが過ぎてしばらくして体育館から二人の生徒が出てきた。ワシは見ていた。彼女とキミじゃったな」
トシは黙って頷いた。
「キミたちは楽しそうじゃった。恋というものは始まりがいちばん楽しい。初恋。それはワシだってよーく承知しておる。かなり昔のことじゃが」
「聞かせてくれませんか。昔の話を」
「昔話か。ほー」
校長先生は、夜空を見上げて懐かしんでいる様子だった。彼は、「坊主頭に学生服、三つ編みにセーラー服が似合うのはキミらの世代が最後だろう」と言った。実際、トシは髪の毛が耳にかかっていたし、学校には肩まで伸ばした長髪の男子生徒もいた。短い髪型などダサいと言われている。坊主頭は少数派だ。最近はテレビの影響だろう、女子はウルフカットが流行していて、ロングも多い。「三つ編みの女子など見つけるのは、そうだな、アオウミガメやツキノワグマみたいなものだ(※両者とも絶滅の危機に瀕している)」と語った。そうして約三〇分ほど昔話に花を咲かせた。
校長先生の初恋は、遠い昔、戦争によって消えてしまったらしい。平和が初恋だったそうな。それでも最後に彼はこう結んだ。「昔は良かった」と。
自分が大人になったら同じように思うかもしれませんねと、トシは大人びた応え方をした。
「アイツは賢い子じゃ。目立つようで目立たない。自分の立場というか、役割をよく理解している。昔の、普通の子じゃ。外見は違うかもしれんが」
「それがヒントですか」
「どうだか」
老人は、雲をまくように呟いた。すると、トシの背中越しにいたちひろがか細い声で言い放った。
「私、彼に言っちゃった。アイツのことを」
校長先生はトシの顔を見つめ、思わぬ展開になったと思ったかもしれない。トシは校長先生を見つめながら、意図したような進路へ向かっている、と確信した。
「で、どうなんですか。本当なんですね」
沈黙。
秒が分になり、その刻みは実際には音が聞こえないにせよ、時は鍵のように鳴り、やがて終焉への扉をこじ開けようとしていた。
この緊張感は、あのときと同様だ。京介さんらとやりあったときのこと。あのときは、ホント、緊張した。心臓が喉元から飛び出しそうだった。でも今回、トシは心地よくその気分を受け止めていた。
静寂。
先に口を開くのは校長先生のはずだった。「分かった、分かった」と、今にもアイツの正体を白状しそうだった。しかし、ちひろの次の一声で様相がガラリと変化した。
「腐りきった男よ!」
ちひろの言葉は、校長先生の表情を暗闇のなかへ引きずり込んだ。驚きの次に困惑が続き、やがて失望へと変わった。
「いかんな、ちひろ。何の根拠もなく他人を悪者にするのはよさないか。いいかね。アイツは悪い子ではない。それは私が保証する」
「でも……」
校長先生は何も言わず、素振りも何も見せなかった。
「根拠はあります。彼女から手紙を受け取ったのです。それにはたった一行だけだったけれども、ハッキリと書かれていたのです」
トシはそう言いながら、百眼の巨人の力を借りたいのだ、と心に念じた。すると、校長先生は、一度咳払いをした後に口を開いた。
「手紙か。何と書かれていたのか知らないが、そこにヒントがありそうじゃな。本当にキミのことが好きならば。気がついてほしい、自分の気持ちを分かってほしい、と意図的か、あるいは無意識のうちに書いたと思える」
手紙にヒント? しかし、最後のたった一行に手がかりになりそうなことなど、ないように思われた。
『――――ヤツのことは、もうキッパリと忘れようと思います』。ただそれだけ。いつものように下唇に指を当て、手紙を渡された状況とか、時期とか、いろいろな要素を考慮してみたが、ヒントらしいヒントには至らなかった。それこそ、便箋を下から火であぶると、何かが浮き出て見えたのかもしれなかったが。
「分からない」
「ワシだって」
もはや、百眼の巨人の力もここまでか。
トシは仕方なく、ちひろのほうへ振り向き、小声で言った。
「おしまいだ。サンキュー」
トシの態度に、ちひろは少しばかり驚きの表情を見せた。彼に付いてきたのは、お父さんに確認してもらうことだったはずなのに、と。実際には彼は少しばかりの会話のなかで理解し、納得したかのようだった。トシは言った。鵜呑みにはしないと。まさか私の告げたアイツのことを信用していないかのように。
彼はこれまでの経過を振り返って黙考にふけっていた。アイツの名前を口に出したところで、校長先生がいとも簡単に「そうだよ」などと告白するわけがなかった。悩んで、迷って、困っていた。
どうしてか。
ちひろが告白した人物と、校長先生の心中のアイツとは合致しているのだろうか、という疑問である。会話からはまるで違っている風に思えた。仕方がない。次は、ちひろの告白した人物に会うしかない。しかし、それも徒労に終わるような気がしてならなかった。
校長先生は無言で立ち去ろうとする。トシはお礼を言うのを忘れなかった。彼はどんな場面でもいい生徒でありたいと願った。
「時間を割いていただいて、ありがとうございました」
すると、振り向きざま校長先生が言い放つ。声は、さきほどよりも温かみを含み、柔らかなトーンに聞こえた。
「ちひろが、おまえのことを好きだと」
トシは思わず顔を上げると、水銀灯の光がとても眩しくて、眼を細めることしかできなかった。ちひろは、頬を紅色に染めて下を向いていた。




