3.指切りした。
「いすか、あさ! アヨー!」
「ビオ、おはよう」
絵本のおかげでビオの語彙は順調に増えているようだが、故郷の言葉とちゃんぽんになっているようでもある。
大丈夫なのだろうかと少しだけ心配になるが、かといって私にビオの故郷の言葉はわからないのだから気にしても仕方がない。
「いすか! びお、きた!」
得意げな顔でこちらを見るビオは、ひとりでちゃんと服を着られたといいたいのだろうが、止め紐は固結びなうえにずれて余ってしまっている。下履きも前後が逆だ。
「うん、頑張ったな。もうちょっとだ」
引き寄せて下履きの向きを戻し、紐を結び直すと、むう、と少しだけむくれてしまった。
「いいか、下履きはこの紐が出てるほうが前なんだ。止め紐も、上からちゃんと順番に結んでいけば余らないぞ。結び方は……練習しような」
少し不満そうな顔のまま、ビオは「デァ」と頷く。
「さ、朝食を食べようか」
「あさごはん」
「そう、朝ごはんだ。今日は何だろうな」
ビオは言葉を覚えてきたことが嬉しいのか、最近ではいろいろなものを指して訊くのではなく、そのものの名前を言うようになっていた。
「いすか、かいだん」
「ああ、気を付けて降りるんだぞ」
「びお、きをつける」
「そう。ゆっくりな」
「ゆっくり」
私と片手を繋いで、真剣な顔で足元を見ながら一段一段をゆっくりと降りていく。ここの階段は段が大きめだから、子供の足で昇り降りするには少し危なっかしい。
「おや、ビオくんおはよう」
「アヨー!」
「おはよう、女将さん。今日の朝食はなに?」
「今日は豆を裏ごししたスープがあるよ。ビオくん好きだろ?」
「まめ、すき」
可愛らしくにこっと笑うビオに、女将さんも笑顔になる。
「よかったな、ビオ」
「言葉もずいぶん達者になったじゃないの」
「この子は物覚えがいいみたいなんだ。将来は魔術師にだってなれそうなくらいなんだよ」
女将はくつくつと笑って、「そりゃ親の欲目ってやつじゃないのかい?」と肩を竦めた。
「ビオ、運動だ」
「うんどー」
最近、朝食後には少し休んでから運動をすることが日課になっている。
運動といっても、私の剣の訓練の最初に簡単な剣の振るいかたを教えるだけだ。だが、ビオもこれで男の子なのだし覚えておいて損はないだろう。いずれ、親元にもどった後、正式に剣を学ぶかどうかまではわからなくても、だ。
最初はめちゃくちゃのめくらめっぽうに木剣を振り回すだけだったビオも、ここ2、3日はだいぶ格好が付くようになっていた。
「将来魔術師だろうと戦士だろうと、身体を動かすのには慣れておいたほうがいいんだ。男の子なんだからな」
かつんかつんと木で模った剣を打ち合わせながらそう言うと、「びお、つよい、なる!」と元気よく応える。
「ああ、強くなれ。何でも守れるようになるといい」
「びお、いすか、まもる」
「それはまだまだ先だな。もっと大きくなってからだ」
「おおきい、なる」
「楽しみにしてるぞ」
笑いながらそう言うと、ビオは「デァ!」と頷いた。
この町にもだいぶ慣れたとはいえ、ビオは相変わらず、私から離れようとしない。やはり、ひとりになるのが怖いのだろう。私も、この歳の子供から目を離してしまえば、たとえ町の中でもどうなるかわからないと知っているから、ある意味助かってはいる。
しかし、そうはいっても用心はすべきだろう。そのうち、離れて行動しようとする日は来るのだから。
そう考えて、以前手に入れて、そのまま売らずに持っておいた魔道具のことを思い出した。
「たしかここに入れておいたはずだが……」
荷物をひっくり返し、あちこちのポケットを探す。ビオはいつもの魔獣の模写をやめて、部屋の床に広げられた様々な物品を物珍しげにじっと見ていた。
「たくさん、ある」
「ああ、ずいぶん溜め込んでたな。あまり整理してなかったから、探すのも一苦労だ……お、あった。これだ」
「なに?」
ようやく見つけたそれを摘み上げると、ビオも興味津々に覗き込んだ。多少の透かし彫りが入っているだけの、他には何も飾り気のない地味な銀の、ふたつの指輪だ。
「ビオ、手を出してみろ」
「あい」
私の言葉に差し出されたビオの手の、まだ小さい指にその指輪をはめる。指輪には魔法が掛かっているから、着けた者に合わせてぴったりのサイズになるのだ。
「これは肩代わりの指輪なんだ。この先、まんいちお前が何か事故にあったとしても、お前が怪我をすることはないぞ」
「びお、けが、しないよ」
「うん、まんいちだ。もしそんなことになったりしても、お前の怪我は私が全部引き受けるからな」
「びおのけが?」
きょとんとした顔で、ビオは首を傾げる。こんな小さな子供では大事になってしまう怪我だとしても、肩代わりするのが私なら大した怪我にはならないだろう。私ならビオよりずっと頑丈だし、何かあっても自分で対処できる。
「他にも、この指輪をつけてれば、お前は迷子になることはなくなるぞ」
「まいご?」
私は頷いて、もう片方の指輪を自分の指にはめる。
「ほら、こっちの指輪を私がつけておけば、お前のいるところがわかるようになるんだ。だから、ちょっとくらい離れてもすぐに見つけられるぞ」
「びおのとこ、いすかくる?」
「ああ、迷子になってもちゃんと見つけてやるからな、大丈夫だ」
「いすか、いると、びおも、わかる?」
「わかる。指輪が教えてくれるんだ」
ビオはにこっと笑って、「いっしょだ」と言った。これで、少しはビオの不安が晴れてくれるといいのだがと思う。
「いすか、いっしょ」
ぎゅうと抱き着くビオに、私は笑って頭を撫でる。
「そんなにくっついてたら、片付けられないぞ」
「びお、かたづけ、する。いっしょ」
居場所がわかるようになって嬉しいのか、ビオはしきりに「いっしょ」と言いながら、床に広げた物を拾い集めた。
その数日後、大地の女神教会の司祭に仕事を頼まれた。薬草を採りに行かなければならないが、最近、その採集場所に魔獣が出るようなので護衛として付いてきてもらえないかと。
「どんな魔獣なんだ?」
「たぶん、一番最近の魔法嵐で変容してしまった獣みたいなんですよ」
少し歳のいった司祭は、他の教会同様多少の戦闘訓練は受けているけれど、もちろん本職の戦士にはまったく及ばない程度だ。狼の1匹程度ならどうにかなっても、魔法で変容してしまった獣が相手では心許ないというわけだ。
「商人が来ればいいんですけど、ここは大きな街道から外れてるし、次に来るのは少し先になりそうなんです」
……護衛となると、ビオは連れていけない。宿の女将に1日頼むにしても、ビオが了承してくれるかどうかが問題だ。
「……今すぐは返事ができないので、正式な返事は明日でもいいか?」
「ええ。けど、遅くても3日後には採りに行きたいので、早めにお願いします。ストックがもうあまりないのよ」
「わかった」
司祭が席を立つと、すぐにビオが駆け寄ってきた。
「おはなし、おわり?」
「うん……あのな、ビオ」
しがみ付いてくるビオに、どう説明したものかと考える。
「仕事で、1日外に行かなくちゃならないんだ。その間、ビオにはここで留守番していて欲しい。できるか?」
「……るすばん?」
「うん、ここで、待っててくれ」
たちまちビオの顔から血の気が下がり、震えだす。
「びおも、びおも、いくよ」
「だめなんだ。危ないから。まんいちがあったら困る。だから、ビオは留守番していてくれ」
「びお、いいこにするよ。いいこだから、いっしょ、いくよ」
「ビオ、外は危ないんだ。お前はまだ小さいから連れていけない。夕刻には帰ってくるから、待っていてくれ」
「ナイ、ナイ、びおもいく、いっしょ、びお、いっしょ」
ビオはまるで聞き分けのない駄々っ子のようにしがみ付いたまま離れなくなってしまった。離れるのは絶対に嫌だと泣き出してしまったビオに、やはりまだひとりで留守番というのは無理だったかと考える。
「わかった。悪かったな、ビオ。今回は断ることにするよ。仕事を再開するのは、お前がもう少し大きくなってからだな」
しがみ付いてわあわあ泣くビオを抱き上げて、背中を叩く。
「大丈夫だ、置いていかない。ちゃんといっしょにいるから、泣くな」
「いすか、いっしょ、びおと、いっしょ」
「うん、いっしょだ。ビオといっしょにいるよ」
「おいてく、ない?」
「置いていかないよ」
「……ユビキ、する」
「ユビキ?」
聞きなれない言葉に、首を傾げると、ビオは右手の小指を差し出した。
「いすかも。ユビキ、する」
ビオに促されて同じように右手の小指を出すと、ビオはそれに自分の小指を絡ませた。
「ユビキーゲンマ、ウソツイター、ハリセンボ、ノーマス、ユビキッタ」
それから何か歌うような言葉といっしょに指を離す。
「ユビキした。おいてくの、ナイ。いすか、びおといっしょ。ずっと、いっしょ。ユビキしたよ」
ユビキというのは、ビオの故郷で言う約束か誓いのようなものだろうか。ユビキをしたのだから、置いてったらいけないということか。
「わかった。仕事を再開するのは、お前が大きくなって連れて歩けるようになったらだ。だから置いていかないよ」
翌日、司祭には申し訳ないが、断りの返事を入れた。まだビオを置いていけないのでと説明すると、少し残念そうに「仕方ないですね」と肩を竦められてしまった。