10.雲行きがあやしい。
イシュカのようすがおかしい――ような気がする。
はっきりしないのは、基にもはっきり確信があるわけではないからだ。
イシュカはこちらに来てからずっとどこか途方に暮れたような、困ったような表情ばかりを浮かべていた。それが、ここ数日、急に何か自信が付いたとでもいうような素振りに変わったのだ。
けれど、たぶん悪いことではない。
基は、だから、イシュカはようやくこちらに馴染めたのだろうと少しだけ安堵した。安堵仕切れなかった分は、とりあえず今だけ置いとこうと考えながら。
「柄元」
「あ、上城くん」
それでも、イシュカに会う頻度が落ちたことは、基にとっては非常に不本意なことだった。こちらに馴染んでくれるのはうれしい。でも、自分からイシュカが離れてしまうことは望んでない。
「いすか、知らないか?」
「今日も朝から出かけてるけど」
「どこに行ってるんだ?」
「ええと、山の神社って言ってたかな。かわいい茶飲み友達ができたんだって」
「山の、神社……」
このあたりに、鳴滝神社以外の神社なんてあったろうかと考える。
「いすかお姉さん、なんていうか、変わったよね」
「え?」
注意を戻した基に、和泉は芝居掛かったように腕を組む。
「なんていうか、前は迷子の子猫ちゃんって雰囲気だったのに、最近は女豹みが増したっていうか?」
「なんだよ、それ」
和泉のたとえはいつも独特で、ふざけているのかまじめなのか今ひとつ掴めない。掴めないけれど、意外に端的に的確に捉えているようでもあって……。
「変な友達じゃないよな」
「変なって。子供じゃないんだしさ、上城くんはもうちょっといすかお姉さんのこと信用しないと。束縛が過ぎる男からは逃げたくなるものなんだからね」
「束縛なんて……ちょっと気になってるだけだって」
顔を顰める基を、和泉はおもしろそうに笑う。
「まあ、初めてできた友達みたいだし、見守ってあげなよ。ここらでどーんと、懐の広いところを見せるつもりでさ」
「――なんだよそれ。でも……山の神社って」
「ああ、神社はあの辺かな? 小さいのがあるって聞いたよ」
和泉の指差す方向を仰ぎ見て、「そっか」と目を凝らす。たしかに、何か建物があるようにも見える。
「じゃ、私はこの後約束があるから、また後でね」
「うん」
基も、今日は剣道部に顔を出さなきゃならない。“山の神社”は気になるが、あとでもいいだろう。
「ずいぶん力が増しているようですね」
右近の言葉に、イシュカはこくりと頷いた。身体の中で渦巻くように感じる“力”は、あれから日に日に強くなっていく。まるで、体内に燃えさかる炎に次々と燃料をくべる何者かがいるようだ。
「今までずっと堰き止められていたようなものですから、反動なんでしょうね」
『反動……』
「はい。ずっと使われることなくため込まれていたわけですし、突然妖力に目覚めた妖の子供によくあることです。いすかさんの場合はずっと力が強いですから、少々心配ではありますが」
イシュカは、目の前に透かし見るように手を掲げた。
確かに力を感じてはいるけれど、どうしたらこれを自在に使えるのか、未だによくわからない。
「では、続きをしましょうか。いすかさんの力は妖の持つ妖力とあまり違いはありません。まずは、力を具体的な形にするところから……」
右近に言われるままに、指先に小さな炎を点す。
イシュカの力は“火”の性質と馴染み深いというのが右近の見立てだ。もと化け狐だった右近も“火”を操るのは得意で……右近はイシュカにとってうってつけの教師となった。
* * *
「八潮、やっと来ましたね」
「洪さん、いきなりどうしたんです? ここから職場まで二時間はかかるから、こっちにいるのって結構しんどいんですよね」
ごろごろと転がしてきたスーツケースをぽいと傍らに置いて、八潮と呼ばれた男がへらへらと笑う。ジーンズにシャツにジャケットという砕けた服装だが、年の頃はおおよそ二十代後半くらいだろう。
「不穏なんですよ。魔の者の力が増していましてね」
「へえ? 魔の者って、クラレンスが聖魔大戦でもやらかしそうとか?」
「それなら話が早いのですけど……念のためです。私の知る中で、祓いはあなたが一番ですから」
はあ、と溜息を吐く洪に、八潮は首を傾げた。洪がそう言い出すほどなのだ。たぶん、あまりよくない兆候が見えているんだろう。
「なら、封じの準備もしたほうがいいのかな」
「ええ、念のために頼みます。鳴滝様の眠りを妨げてはいけません」
あくまでも鳴滝の眠りが一番という言葉に、八潮は軽く肩を竦めた。鳴滝神社の神使は、昔から変わらず、神を眠らせておくことに腐心している。
「それじゃ、俺はちょっとクラレンスに挨拶でもしてきます」
「魔のものはクラレンスの管理下です。詳しいことは彼にお訊きなさい」
「へえ? わかりました」
あまり人気のない石段を登りながら、基は先を見上げた。
日暮れまでもうあまり時間はない。
けれど、帰る前に一度見ておこうと思ったのだ。この“楠姫神社”に、イシュカが通うような何があるのかと。
「へえ……」
ふと横を見れば、木々の隙間から麓一帯が広く見渡せた。
町の真ん中を堂々と流れる鳴滝川に、その沿岸の小高くなったところにある鳴滝神社に、大学の広い敷地に……結構な眺めに、もしかしてイシュカは誰かとこれを眺めるために来ていたのだろうか、なんて考える。
――と、ごう、と何か……突風でも吹いたかのような音が聞こえて、基はパッと前方に目をやった。気のせいかと思ったところにもう一度聞こえて、基は眉を顰める。少しだけ足音を忍ばせて、少しだけ緊張しながら、ゆっくりと石段を登る。
そろそろ境内だというところで首を伸ばして狛犬の陰から窺い見ると、渦巻く炎の柱が立ち上がっては消えてを何度も繰り返しているようだった。
真っ赤な、禍々しいほどに赤い炎の色が、基の不安を掻き立てる。
あれは、あまり良くないものに思える……イシュカにとっても自分にとっても、絶対に良くないものだ。そう考えながら視線を巡らせると、少し離れた場所にイシュカの姿を見つけてほっと息を吐いた。
けれど、横に立つ白い男にも気づいて、どきりと心臓が跳ね上がる。
イシュカが会いに来ていたというのは、彼なのか。
「いす……」
か、と呼ぼうとして、またすぐに火柱が立ち上がった。今度はすぐに消えることなく自在に形を変える。
イシュカの身振りに合わせて。
これを操っているのは、つまり、イシュカということか。
そのことに、基の心臓は鼓動を速くする。
つまりそれは、イシュカが自分の持つ力を自在に操れる――いつでも、あの“鬼の国”へ帰れるようになったということではないか。
「いすか……」
ぽつりと漏れた呟きが届いたのか、イシュカの視線が基を向いた。
『基か』
目を細めて笑みを浮かべるイシュカの表情がいつもと違うように感じて、基は思わず首を傾げる。
以前のイシュカの笑みはどこか照れているようなものだったのに、今はどこか自信や……いや、傲慢さを滲ませるようなものに変わっていた。
イシュカらしくない、と思う。
「いすか、この炎って」
イシュカがさっと手をひと振りする。たちまち炎は竜のような形に変わり、空へと飛び去ってしまった。
『私の力の発露だよ』
あれ、と思う。イシュカの使う言葉は、あちらのもののように聞こえるのに、何を言っているのかがわかるのだ。
「いすか、その……ここで、何を」
『ああ、なるほど、心配だったというわけか』
くっくっと笑って、イシュカが基のところへと歩み寄る。なぜかすうっとあたりが暗くなったように感じて、基は視線をくるりと巡らせた。
『大丈夫だ。今までの私は、いわば封じられていたようなものなのだよ』
「いすか? 何を言って……」
『あの忌々しい人間の養い親が、私に余計なことを吹き込んでくれたおかげで、私は本来の私が持つ力の大部分を封じられたままだったのだ。
だが、もう、それも終いだ』
なおも笑い続けながら、イシュカがにいっと口角を上げる。
『ここの可愛らしい女神は、既に私に屈している』
「い、いすか!」
基の顔から血の気が下りていく。
心臓の鼓動は激しくなるばかりだ。息苦しさしか感じない。
「何言ってるんだよ、いすか!」
基が腕を掴む。がくがく揺さぶられたイシュカが、何かから覚めたようにぽかんと口を開き、ぱちぱちとまばたきを繰り返す。
「――もとい?」
「いすか」
いつもの口調と雰囲気に戻ったイシュカに、基はほっと息を吐いた。
心なしか、周囲の明るさも元に戻ったように感じる。
「いすか、さん? そちらは……」
我に返ったように頭を振る白い男が、今、基に気付いたとでもいうように、不思議そうに首を傾げた。
「や、クラレンス」
「八潮さん」
離れの前で、いつものように素振りをするクラレンスの元に、ひらひらと手を振りながら八潮が現れた。
「こちらに戻るなんて、珍しいですね。何かありましたか」
「うん。洪さんが魔の者の気配が増してるから対策しろとか言うんだよね。……で、魔の者って何? 聖魔大戦だの始める気じゃないよな?」
「まさか。だが……魔の者? イシュカの力が?」
目を瞠るクラレンスに、八潮は話を促した。