5.途方に暮れた。
「……まったく集中できてないなら、今日は止めたほうがよさそうだな」
「あ……ごめん」
取り落とした木刀を拾おうとして俯くイシュカに、クラレンスは大きく溜息を吐く。これで3度目だ。いつもの半分も集中できていない。イシュカがここまで心ここに在らずというのは、昨日、帰ってから何かがあったとしか考えられない。
日本語では埒があくまいとあちらの大陸公用語に切り替えて、クラレンスはじろりとイシュカを見た。
『基と、何があった?』
まるで詰問されるような口調で問われて、イシュカは思わずびくっと肩を震わせる。
『なんで……』
『お前がこちらで頭を悩ませるなど、基のことくらいだろう』
まるで何もかもが見透かされているようで、身の置き所がない。ただでさえ天上の種族の血を引くクラレンスへの苦手意識が強く、うまく話せなくなりがちだというのに、これではますます萎縮してしまう。
『う……その……』
『基の求婚を断りでもしたか』
『なっ……』
さらりと言われ、イシュカはかっと顔に血を上らせた。
なぜこいつはそんなに他人のことがわかるのだ。それとも自分がわかりやす過ぎるということなのか。
『まさか本当にそうだったか』
わずかに目を見開いて、クラレンスは呆れたように呟いた。
『……私は、その……基からは、離れたほうがいいんじゃないだろうか』
イシュカは俯いたまま木刀を拾い上げ、刀身に着いた土を落とそうとごしごしと擦っていた。そんなイシュカのようすに、クラレンスは眉を上げる。
『ほう? 何故?』
『だって……私は、ここの人間じゃないし……種族だって……』
ぼそぼそと続けるイシュカは、まるで叱られた子供のようだ。
『幼い頃のほんの短い間だけだったけど、あの時、基には頼れる大人が私しかいなかったんだ』
『それで?』
『だから、私に拘ってるだけで、だから、私がいると基が他に目を向けなくなってしまう。それは、基にとって、よくないんじゃないかって』
イシュカに顔色を窺うかのようにちらりと見あげられて、クラレンスはひとつ息を吐いた。
『あっちの教会じゃ確かに散々信者の悩みごとを聞きはしたが、まさか他次元世界に来て魔人の相談を聞くはめになるとはな』
ぼそりとこぼされた言葉に、イシュカもなんだか落ち込んでしまう。けれど、イシュカだって、まさか“神混じり”にこんな話をする日が来るなんて思ってもいなかったのに、そんな言い方はないのではないか。
『……それはそれとして、だ。お前が黙って消えようと考えているなら、賛成できないな』
『どうして?』
目を眇め、眉間にくっきりと皺を作るクラレンスが、やっぱり怖い。自分の悪魔の部分が本能的に敵わない天敵だと感じているから、こうも恐れを抱いてしまうのだろうか。
『お前の言う通りなら、基は傷を受けて癒さないまま大きくなった子供だということだろう。お前はさらに傷を重ねるつもりか?』
『そんな、傷、って……』
基に酷いことをしたいわけじゃないのに、と消え入りそうな声でぎゅっと眉を顰めるイシュカに、クラレンスはまたひとつ溜息を吐く。
『そもそも、あの町で、お前は基を荒野で拾ったと言っていたな。
物心付くかどうかくらいの幼い子供がいきなり次元の裂け目に攫われたのだ。気が付けばまったく見知らぬ場所にひとりきりでは、周囲のものすべてが恐怖でしかなかっただろう。
そこへ親のように可愛がってくれるうえ、あれこれ世話まで焼いてくれる大人が現れた。まるで本当の親のように構ってくれる大人に懐き、それこそ雛鳥のように四六時中離れずついて歩いていたのだろう?
なのに、ようやく親鳥と認めて慣れて安心したところで、再度、意図せぬ別離を強要されたのだ。傷にならないわけがないと思うが』
イシュカは黙り込んでしまう。そうは言っても、あれから基にはもう15年もの年数が過ぎたはずだ。
『……で、でも、基はもうあんなに大きくなったのに』
『中身はてんで子供だ』
ばっさりと切り捨てるような言葉に、イシュカは思わず首を竦めた。クラレンスは、ふん、と鼻を鳴らして、またじろりとイシュカに目を向ける。
『それに、ここからいなくなるというが、どこへ行くつもりだ』
尋ねてから、ああ、とクラレンスは頷く。
『もとの世界に帰るつもりか?』
“帰る”という単語に、イシュカは瞠目し、思わず顔をあげた。
『……考えても、なかった』
少し呆然としたままイシュカが呟くと、クラレンスは片眉をあげる。
『お前の種族であれば、次元転移くらいは自力でやってのけられるものだと聞いたが?』
じっと見つめられて、イシュカは目を泳がせる。
『……無理だ。私は、半端なんだ』
『半端?』
『あまり、能力がうまく使えない……教えてもらわなかったから』
クラレンスは続きを促すように目を細める。
『私は、親がどんな奴なのか知らない。片親が悪魔なのは間違いないけど、どんな階級の悪魔なのかも、どっちがそうだっかとかも、どういう経緯なのかも、ぜんぜん知らないんだ 』
『ふむ』
『基みたいに、物心ついた時はもうひとりで荒野にいた。お腹が空いてどうしようってふらふらしていたら、物好きな人間が私を見つけて拾ってくれて、そのまま連れて歩きながらいろいろなことを教えてくれたんだ。剣の使い方とか、金の稼ぎ方とか、どうやって町に行けばいいかとか……とにかく、生きてく方法を』
もじもじと指先を合わせて、イシュカは俯いたままだ。半端者だから、今さら誰もが考えるような典型的な魔人のようには生きられない。かといって、自分の種族では、どこかに受け入れてもらうことも期待できない。
おまけに、魔人としての能力も満足に使えないし、今さら他の魔人や悪魔を探して教えを乞う気にもなれない。
『──なるほど。だから、お前は魔人のくせに子供を拾って育てようなどという酔狂をやってのけたわけか』
呆れたような口調で言われて、イシュカはますます身を縮こまらせる。
『無謀だったかもしれないけど……』
『……そうだな、お前が、このまま悪魔の性質を抑えていきたいと望むのなら、わたしと共にいればいい。女神教会に入信するなら、なおのこと良い。大地と豊穣の女神は大地に生きる者の守護者だ。大地に生きる者すべてに女神の加護は向けられる。お前に善き者となる気があるなら、わたしと我が教会が女神の名のもとに後ろ盾となり、お前を助けよう』
え、とイシュカは顔をあげる。
『でも……』
『私は女神の聖騎士だ。現状、この地の教会の代表でもある。
この地における女神の代弁者として、入信とまではいかなくとも、お前が今の生き方を貫く限り、我が女神の名においてお前をわたしの庇護下に置くことを約束する』
クラレンスは“女神の盾”たる聖騎士だ。剣となることを選んだ者とは違い、女神の名のもとに守ることと救うことを、己の最大の使命としている。
殺すことはあまり好きではない。邪悪と断じたものを滅すればすべてが済むような、世界がそんな単純なものではないことも思い知っている。できるなら、いつでも、生かして更生させる道を選びたい。
イシュカが女神の教会に入信するというなら、それがいちばんの結果だろう。イシュカのような魔人もいると知られれば……一般には悪魔に準ずる邪悪な種族とされる魔人が女神の教えに帰依することは、世に女神の偉大さを知らしめることになるし、もちろん、それを成し遂げたクラレンス自身や教会の力を示すことにもなる。
それに、いちばん肝心なのは、そのこと自体がイシュカ自身の善良さを証明することになるということだ。何より、この先、“邪悪な種族だから、即、殺さねばならない”という短絡的な結論を出さずに済むようにもなる。どんなものにも、悔い改めて生きる機会が与えられることになる。
もちろん、何もかもを無条件に受け入れることはできないだろう。見せかけだけの善良さに騙されては意味がないのだから。
……イシュカに関して言えば、基が彼女の善良さを証明したとクラレンスは考えていた。
あの町で最初に出会った時と、旅の間、もしほんの欠片でも基からイシュカに対する恐れや怯えが感じられたら、クラレンスは即座にイシュカへと剣を向けるつもりだった。
だが、予想はよい方向に裏切られ、クラレンスは、今のイシュカを十分な信用に値する善良なものだと判断している。
『まあ、いきなりそんなことを言われても、お前だって早々判断も決心もできないだろう。おいおい考えればいい』
狐につままれているかのような表情で、イシュカはおずおずと頷いた。
『……幸い、この地の他種族のものに、魔人への偏見は薄い。お前がこれからどうしたいかを考えるには、いい土地かもしれない』
だから、しばらくはしっかりと、気が済むまで考えればいいとクラレンスは笑った。
しかし、そうは言ってもだ。
基やクラレンスにとってはもう数年以上の年月が過ぎているのかもしれないが、イシュカにとってビオを拾ったのはほんの半年程度前のことだった。ビオはまだ自分にとって幼い子供でしかなかったし、次元の裂け目の先がこんな世界だなんて知らなかった。
いきなり新たな環境に放り込まれ、あれこれを覚え込まされ、まるでわけのわからない習慣や常識を教えられ、挙げ句の果てに大きくなったビオだという基から求愛をされて……何もかもが目まぐるしく変わりすぎて、ついていくことすらやっとで……。
クラレンスに言われた“魔人は次元転移ができる”という話だって初耳だった。
……自分は自分を、魔人という種族のことをほとんど知らない。人間よりも肉体的に優れているとか、もの覚えもいいことくらいは体感として知っているが、それだけだ。
自分のこともよくわかっていないのに、これからどうするかなんて、いったいどう考えたらいいのだろう。
神社を辞してから、イシュカは途方に暮れていた。何もかもが違う世界で、いったい何をどうすればいいのだろう。
『少し、ひとりで考えたいな』
ぼんやりと空を見ながら、イシュカは独りごちた。