1.突然現れた。
某月某日、子供を拾った。
某月某日といえば聞こえはよいが、単に日付を覚えていないだけだ。
子供は突然現れた。
本当に、突然、私の背後に、まるで地面から湧き出したとでもいうかのように現れていたのだ。
周囲に何もないような荒野の真ん中を通る街道で、こんな年端もいかないような子供がまったく気配を気取られず、私の背後に近寄ることなど不可能だろう。それ以前に、子供がここまでひとりで無事に歩いてきたなどというのもあり得ない。
おおかた、どこかで起こった魔法嵐に巻き込まれてここに飛ばされたか、誰かに故意に瞬間移動で飛ばされたか……そんなところだろう。
子供はぷくぷくとよく肉が付いて、変わった服を着ていた。簡素ながらも見たことのない様式で、鮮やかに染色がなされてよく目の詰まった厚い布地は、おそらく裕福な商家や貴族などが好むような高級品だ。
目に浮かぶ表情も、ちょっとした所作も、髪も肌もきれいに整えられて手入れが行き届いているところも、この子供が良い家の出であることを示していた。よく可愛がられていると思えるような、育ちの良さまでもが滲み出ているようだ。
子供は真っ黒な目をまん丸にしたままひたすら周囲を眺め回した。そしてようやく私に目を留めると、そのままぽかんと口を開いてじっと見つめる。
声を掛けてもただ茫然とするだけで反応らしい反応がなく……だが、何やら理解しがたい言葉を発していたので遠方の出身なのだろうとは伺えた。そうするとやはり、この子供は魔法嵐に巻き込まれ、飛ばされてしまったと判断するのが妥当ではないか。
私がじっと考えているうちに、子供はだんだんと表情を曇らせていった。必死に何かを探すようにあたりを見回しながら。
「子供、お前の名前は何だ?」
「……」
子供はとてもとても不安げな表情を浮かべ、私を見上げる。
まるで、私が言葉を発したことに驚いたかのように身体をびくりとさせて、言葉にならない言葉を発するかのごとく魚のようにぱくぱくと口を動かし、挙げ句の果てにはがたがたと震え出しながら。
「大丈夫だ、子供。怖がるな。悪いようにはしないから」
そう言って手を差し出すが、子供は震えたままどうしても動けずにいるようだった。がちゃがちゃとうるさい私の鎧の音にもいちいち驚いて、まるで何か恐ろしいものを見ているかのような目で、こちらを凝視する。
私の背の翼や角を見ては目を逸らすという挙動を繰り返すところを見ると、私の種族が珍しいのだろうか。
……たしかに珍しいには違いない。私の同族は数が非常に少なく、そうそう目につくところには現れないのだから。
しかし、そうこうするうちに、とうとうこの状況の重圧に耐えかねてか、それとも単に理解できない状況に怯えてか、子供は大声で泣き出してしまった。
「おいおい、勘弁しろ、子供」
慌ててまた声を掛けるがどうにも収まらず、子供はますます声を張り上げて泣くばかりだ。何かあやせるようなものでもあったかと慌てて荷物を覗くが、もちろんそんなものはひとつもない。
ひとしきりおろおろした後、これはいったいどうしたものかと溜息を吐いて、私は地べたにしゃがみこんだ。
もうどうしようもなく、私はひたすら子供の頭を撫でる。ぼろぼろと涙を零す子供の顔を拭い、鼻をかませ、ひたすら頭を撫でながら声を掛け続けた。
「落ち着け、落ち着いてくれ、子供。ここはお前の知らない場所なんだな。大丈夫だ、私が悪いようにしないから。お前の親も探そう。腹は空いてないか?」
差し出した干し果物も拒否するように頭を振り、子供はわあわあと泣き続ける。声を掛けても何をしても、ただ頭を振って泣き続けるのだ。
だんだん私も泣きたくなってきた。
いっそ、私も一緒に大声で泣けば、子供は泣き止んでくれるだろうか。
そんなことを考えながら、子供を抱き寄せて背を撫でながら、私はひたすらどうでもいいことを話し続けた。
「親とはぐれたか、それともここへ飛ばされたかは知らないが、あまり泣くな。私が面倒を見てやるから、そんなに泣くな。あまり泣きすぎると、涙で目玉が溶けてしまうぞ。ほら、早く泣きやめ、な?」
そうやってひたすらぎゅうと抱きしめて声をかけ続けていると、ひとしきり泣いてようやく落ち着くいたのか、いつのまにか子供は泣き止んでいた。ひくひくとしゃくりあげてはいるが、もう涙は出ていない。
顔は真っ赤だし、泣きすぎて瞼が腫れてはいたが、もう泣いてはいなかった。
「大丈夫か? あれだけ大声で泣いたんだ、喉が渇いただろう。水を飲むか?」
そう言って水袋を出すと、不思議そうにじっと見るだけで、なかなか手を出さなかった。吸い口を開けて袋を押し、少しだけ水を出してみると、ようやく理解したのか、恐る恐る吸い付いた。随分と渇いていたのか、そのままごくごくと飲んでいる。
「いい飲みっぷりだな。子供、お前の名前はなんだ? 私はイシュカだ」
笑う私を、また不思議そうに見上げて、子供は手を伸ばした。
「ん? 私の角が気になるか?」
頭を傾けて差し出してやると、珍しそうにそっと撫でる。何度もさするように撫でて、「……?」と、またよくわからない言葉で小さく呟き、窺うように私を見る。
「私のような種族が珍しいか? たしかに私の種族は珍しいが、もっと違う姿の種族は、ごろごろしているだろうに」
くつくつと笑うと、子供はまた不思議そうに首を傾げた。
「私はイシュカだ。さ、言ってみろ、子供」
自分を指差してゆっくりと言うと、子供も真似をする。
「わた、いすか、さ、びお?」
「イシュカ」
「いすか?」
「イシュカ、だ」
「いすかだ?」
何度か繰り返したが、子供の拙い耳と口では、うまく音を拾って発音できないようだった。私を指差して「いすか」と繰り返す子供に頷き、私はまた笑った。
「仕方ない、“いすか”でいい。特別に、お前には私を“いすか”と呼ぶことを許してやろう」
頭をひとつ撫で、勿体振るようにそう言って、私は子供を抱き上げた。
「いすか」
「そうだ、私はいすかだ」
子供の呼ぶ名に、私は頷いた。
既に日は傾き始めている。
今からどんなに急いでも、町へたどり着く前に日は暮れてしまうだろう。この辺りの町は、日が沈むのに合わせて門を固く閉じてしまうところばかりだ。
「しかたない、今日は野宿だな。もう少し身体の休まる場所まで行って、野宿の用意をしようか」
西の空を見ると、既に中天を過ぎた太陽が地平を目指して降り始めていた。
荒野の夜は冷え込むから、せめて風除けのある場所のほうが良いだろう。もちろん野営の用意はしてあるが、子供を抱えての夜明かしはさすがに初めてだ。なるべく魔物や獣を避けられる場所を選ばなければ。
まだ小さい子にこんな荒野を歩かせるのは忍びないと感じ、私は子供を抱いたまま空へと飛び立った。
しっかりと首にしがみつかせて、下を見ながらゆっくりと飛ぶ間、子供はじっとおとなしくしていた。落ちたら大変なことになることは理解しているのか、しっかりと私の首に腕を回してしがみついたまま、けれど、地上を見下ろし、驚きに瞠っていた目はだんだんと歓喜と興奮の輝きを帯び、しきりに故郷の言葉であれこれ話し始めたのだった。
「子供、空は楽しいか?」
何を言っているかはわからないが、喜んでいるのだろうということは十分に伺えた。強張っていた表情は、次第に笑顔へと変わっていき、空から見えるあれこれを指差してはしきりに何かを話しかけてくるようになったのだ。
「言葉がわからなくてすまないな。でも、空が気に入ったのなら、またこうして飛んでやろう」
しばらく飛んだ先に、ちょっとした雑木林を見つけ、今日の野営はそこに決める。御誂え向きに、近くには泉も湧き出しているようだ。ここなら身を隠せる場所もあるし、飲み水にも困らないだろう。
地上に降りて、子供を大きめの岩と木の合間に立たせて、少し待ってくれと言って、その場を離れようとして……。
急に子供がしがみついてきた。
真っ青な顔で脚にぎゅうとしがみつき、また泣きそうな顔になっている。
「どうした、子供」
がっちりとしがみついたまま、何か必死にこちらを見る顔に、ああそうかと思い至る。
「まさか、ここに置き去りにされると思ったのか?」
どうやら「行くな」とでもいうかのような素振りに、つい苦笑が漏れてしまった。
「悪かった。お前を置いて行ったりはしないが……なら、一緒に薪を集めようか」
もう一度子供を抱き上げると、子供はぎゅうとしがみついてきた。その必死な腕の力にもう一度苦笑して、私は「しかたないな。しばらくはずっと、こうして一緒にいよう」と背中を叩いた。