彼女は湯かき棒を振るう
1
数日後、深い眠りに落ちていた俺の目を覚ましたのはスマホから鳴り響く着信音だった。
うつろな眼でその画面を見ると旋律さんからだった。
「もしもし」
眠たげな声で俺はスマホ越しに話しかける。
『今すぐ、テレビを見てほしい』
旋律さんは慌てた様子だった。
「無理です」
けれど俺は少しだけ寝ぼけた頭でそう伝えた。旋律さんの戸惑う顔が目に浮かぶ。
「テレビ、持ってないです」
少し遅れて、そうつけ足すと、旋律さんの苦笑が聞こえた。
『じゃあ簡潔に言うよ、〔魔力〕汚染が再び始まった』
目覚めたばかりで頭が回らない俺は旋律さんの言っている意味がわからず、無言だった。しばらくして、ようやくなにが起こっているのかに気づいて、旋律さんに尋ねた。
「……どういうことですか?」
『そもそも、今までの停滞期というのがどういう状態かわかるかい?』
「〔魔力〕汚染が止まっているってことですよね?」
俺は耳と肩にスマホをはさみ、散らかしていた制服を着ながら尋ねる。
『ああ、えっと言い方が悪かった。それはこちらの世界での場合だ。〔異界〕ではどういう状態なのかわかるかい?』
「それは……」
思いがけない質問に俺は言葉につまった。そもそも停滞期は俺の祖父が〔異界王〕に攻撃を加えたことが起因とされているものの、そのとき〔異界〕でなにが起こったかは誰も教えてくれなかった。
『じゃあキミの祖父、大全さんがなぜ〔異界王〕の欠片を持っていると思う?』
俺が黙り込んでいると、旋律さんは質問を変えた。
旋律さんがそう尋ねてくる以上、それはおそらく〔魔力〕汚染となんらかのかかわりがあるのだろう、しかし……
『わからないかい?』
無言のままの俺に旋律さんが問いかける。
「……もしかして、祖父が〔異界王〕を攻撃したから」
だから俺は思いついたことを口にする。
『その通りだよ。キミの胸に寄生する欠片は、キミの祖父が〔異界王〕を攻撃したときに奪ったものだ』
環境省が極秘に保管していたファイルをようやく見ることができてそれがわかったんだ、と旋律さんはつけ加える。
「で、それが今回の〔魔力〕汚染となんの関係が?」
『〔魔力〕汚染はそもそも《異界王》がこちらに侵攻するために起こしていたものだ。けれど大全さんが欠片を奪ったとたん、ぱたりとやんだ』
「つまり、欠片がなくなって〔異界王〕自身になんらかの不都合が生まれて、止まったってことですか?」
『そう、そのときに大量の〔魔力〕が流出したのも忘れちゃならない』
「でもじゃあ、また〔魔力〕汚染が始まったってことは……〔異界王〕の力が回復したってことですか?」
『あるいはなんらかのアクションを起こさざるをえない事態が発生したのかもしれない。ニュースでも〔異界〕での〔異界王〕の目撃が取り上げられている。どうやら〔異界王〕は弓形高校の管轄エリアへと向かってるみたいだ』
「それって、まさか……」
『たぶん、キミの予想通りだ。キミか、大山姉妹を狙っているね。たぶんこの間の〔異界生物〕の出現は環境省の秘密組織だけでなくキミたちをも狙っていたに違いない』
「もしかして環境省が俺たちを狙った理由と同じなんでしょうか?」
『その可能性は大いにある。キミたちの実習は〔異界〕で行われているわけだからね、〔異界王〕は欠片や〔反魔金属〕の情報を入手したのかもしれない。なにせ、〔反魔金属〕は〔異界王〕に唯一ダメージを与えることのできる物質で、欠片はかつて〔異界王〕が持っていて、それを失ったために〔魔力〕汚染をやめざるをえないほど大切なものだ。そのふたつが同じ場所にあると知ったら、いちかばちか奪うためにこちらにやってくることも大いにありえる』
「俺は……俺はどうすればいいんですか?」
俺は旋律さんの言う答えがなんとなくわかりつつも、そう尋ねていた。
『そう訊かれたら、逃げろ、としか言えない。〔異界王〕は長時間、こちらの世界で活動することはできない。強引に長居すれば勝手に消滅する。その間、逃げていればいい』
「でしょうね。訊いた俺がバカでした」
俺は苦笑する。それがベストな選択であることはわかっている。
けれど俺はベストな選択などクソくらえだった。
『キミは逃げないのかい?』
俺はセンパイの顔を思い浮かべていた。〔異界王〕の目撃情報がセンパイの耳に入ったら、センパイは――いや大山も〔異界〕に行くはずだ。復讐のために。
でも相手のホームグランドで戦って勝てるはずがない。
だから俺は〔異界王〕に狙われているとわかってもなお――
「逃げられないんですよ。というか俺が逃げちゃダメなんだと思います。チームメイトというか先輩にひとり無茶をする人がいるんで。俺はその人を守らなきゃならない」
『かるめるが聞いたら嫉妬しそうな言葉だね』
「どうしてですか? 俺は音乗だって危険な目には遭わせたくない」
『なるほど、キミはそういうタイプか……けどね、大人なボクから言わせればそれは無謀だよ』
「それでも行かなきゃならないんです」
俺はそう言ってスマホを切った。旋律さんがなにか言おうとしたのが聞こえたが、そんなのは関係ない。
俺の決意は固い。なにを言われようとも揺るがない。
センパイのことだ、学校の〔扉〕から侵入するに決まっている。俺は〔扉〕に向かうことを決める。
とたん、再びスマホが鳴り出した。またも電話だ。
今度はボンクラからだった。
「もしもし、ただいまおかけになった電話番号は忙しくて出ることができません。ピーという音が鳴ったあと、伝言を一μ秒でよろしく、どうぞ」
『いや、それいろいろ支離滅裂だから。で連絡なんだけどいいかな』
「よくない。どうしてもって言うなら世界一喋り方が速いフランス人なみに早く言ってくれ。急いでる」
ボンクラは俺の戯言に軽く笑ったあと、衝撃的なことを言い放った。
『ぼくが〔異界王〕だ』
……すまん、嘘だ。ボンクラはこんなこと言ってない。こんなことを言ったら不意打ち過ぎて面白いな、とこんな状況なのに妄想してしまった。悪ふざけだ。
俺はどうにかしなきゃという自分勝手な重圧に押しつぶされて虚言癖を手に入れたのかもしれない。
ボンクラが言った本当の言葉は別段、衝撃的でもない。
『今日、学校休みみたいだ』
「なん……だと……!? そんな連絡は受けてないが」
『これからメール送信するらしいよ。けどぼくはなんともう学校にいるからそのまま甘利先生に伝言を受け取ったのさ。そしてそれをいち早く親友に伝える、なんて優しいんだろう、そうは思わないかい、オール?』
ボンクラが自画自賛するのを尻目に俺はベッドの棚に置いてある時計を見やる。
「まだ、七時だろ」
『もう七時だよ。ぼくは毎朝六時三十分に登校している優良生徒だからね』
「お前が有料生徒なら無料生徒もどっかにいるのか」
俺は重圧を少しでもはねのけるために軽口を叩く。
『いたら感無量だねぇ~』
ボンクラが爆笑する。
自分で言ったけど、それほど面白くなかっただろ、今の。
「そういえば薬袋先生はどうしてる?」
『甘利先生は〔扉〕から出てくる〔異界生物〕を警戒して、なんかずっと張りついているよ』
その言葉を聞いて俺は少し笑ってしまった。
ボンクラの言っていることは間違ってないが、薬袋先生が警戒しているのはおそらくセンパイだ。センパイに復讐させまいと〔扉〕を見張っているのだろう。
もちろん、弓形高校管轄エリアにはもうひとつの〔扉〕があるが、おそらく薬袋先生のことだ、ほかの教師に見張ってもらっているのだろう。
市内にあるほかの〔扉〕はこういう非常時にはかなりの数の〔潜者〕が見張っているため入り込むのは学校以上に難しい。
となればやはりセンパイが〔異界〕に行くには弓形高校管轄エリアB――いつも使っている学校の〔扉〕を使うはずだ。
「ボンクラ。お前は今日ひまか?」
『もっちろん、ひまだよ。なになに、もしかしてオールの家に突撃朝ごはんしていいのかなあ?』
ぼく、実はおなかが減ってしまってねぇ、ライスがいいなあ、と言葉を続けるボンクラに「もしひまならそのまま〔扉〕を見張っていてくれ」と頼んだ。
『ごはんを食べさせてくれるんじゃないのかい!』
ボンクラは自分の妄想通りじゃなかったことに嘆き、声を荒げるが無視。
「とにかく頼んだぞ。センパイが入りそうになったら連絡してくれ」
『センパイ? センパイっていうと躑躅先輩のことだね。オールは躑躅先輩だけはセンパイと呼ぶよね? ほかの先輩のことは○○先輩と呼ぶのに。ぼくにはお見通しだよ。もしかして、それは躑躅先輩のことが――』
「そうかもな」
『おおっと、これはいいことを聞いたんですぞ~!』
俺の適当な返事に、赤い雪男のように喜ぶボンクラだが、たぶんきっとそれは勘違いだ。
「そりゃよかった。もうひとつ、いいことを教えてやろうか?」
『なんだい?』
「たぶんトドビーバー、お前のことが好きだぞ」
それだけ言ってスマホを切った。切る間際『あーくーむーだああ!』と断末魔が聞こえた。メールでも同じ文章が送られてきたから嘘じゃないだろう。
それはともかく頼んだぞ、ボンクラ。
きっとボンクラは俺の嫌がらせにも負けず、ついでに雨にも負けず、風にも負けず、任務を遂行してくれるに違いない。ボンクラはそういうやつなのだ。あとでコロッケをおごってやろう。
ボンクラが悪夢を嘆くメールを送ってきた直後、俺のスマホに薬袋先生から今日の学校が休みというメールが届く。
確認し終えた俺はスマホを学生服のスラックスのポケットに入れて走り出す。
弓形高校管轄エリアBへ続く〔扉〕はボンクラに任せているので、俺が目指すのは校外にある、もうひとつの〔扉〕だ。
向かいがてら、またスマホが鳴る。宮直先輩からだ。
「もしもし」
ボンクラとは違い、素直に対応する。
『おかけになった電話番号は……』
「そっちからかけてきたんだからふざけるのやめましょう」
宮直先輩にとって俺は、どうやら俺にとってのボンクラポジションらしい。
まあそれはともかく、
『ニュースは見たっすか?』
「ええ、まあ」
旋律さんから教えてもらったと言ったら、ややこしくなりそうなので俺は素直に同意する。
『じゃ手っ取り早く言うっす。つじっちともみっちがいなくなった、っておばさんから電話があったっす』
「だと思いました」
『ああ、やっぱり予想がついていたっすか』
別段、驚いてない俺の声を聞いて、宮直先輩が声をもらす。
『でオールは今、家を出るとこっすか?』
「今、校外の〔扉〕に向かってます」
『そちちにおもむいている理由をうかがってもよろしいっすか?』
突然丁寧な言葉づかいになった宮直先輩が尋ねる。たぶん、わざとやってるな。緊張感がない。
「校内の〔扉〕はセンパイが現れたら連絡するようにボンクラに言ってます」
『ボンクラっていうと、あの戸渡海狸さんが好いているボンっちのことっすか?』
「ええ、そうです。トドビーバーってあだ名の戸渡海狸さんが好いているボンクラです」
『なるほどっす。ならうちもそっちに向かうっす。覚悟するっすよ』
そう言って宮直先輩はスマホを切った。
覚悟、ってなんの覚悟だろうか、そんな疑問を持ちつつ校外の〔扉〕――弓形高校管轄エリアA〔扉〕にたどり着く。
そして覚悟の意味を理解した。
以前、実習を終えた俺たちがこっちの世界に戻ってきたとき〔異界生物〕に襲われていたのは記憶に新しい。
今回もまさにそれだった。ただ数が尋常じゃない。
犬狗猪鬼に豚熊猪鬼、蜥猫蜴蛇といった比較的〔魔力〕が少なくても生きられる〔異界生物〕は元より、〔魔力〕汚染が進んだ結果だろう二階立てのビルに匹敵する背丈を持つ獅鰐鴉竜が漆黒の姿を現していた。
半開きになった長細いワニのような口から鋭い牙とカメレオンのような長い巻き舌が覗いている。その長い舌が鞭のように伸びて、ひとりの教師に巻きついたかと思うと抵抗する隙も与えず、ペロリと一飲みした。星型のメガネが地面に落ちる。既に戦いを繰り広げていたノーキンたちが目を見張り、警戒のレベルをあげる。その後、獅鰐鴉竜はライオンのような後ろ足で大地を蹂躙し、ワシのような前足で、関取のはっけよいのポーズを取った。鋭い眼で周囲の教師をにらみつけると同時にすさまじい風が吹く。思わず目を閉じ、また開いたときには、のこったの合図を待たずに獅鰐鴉竜の姿は消えていた。
いや消えたのではない。ノーキンたちは空を見上げていた。俺も釣られて空を見上げる。
〔魔力〕汚染によって薄紫色に染まった空に浮かぶ灰色の雲。その雲と同じように浮かぶ漆黒の影があった。獅鰐鴉竜だ。
獅鰐鴉竜はカラスの体毛を生やしたコウモリのような翼を羽ばたかせ、空に浮遊していた。そして、またその姿が消える。気づいたときには獅鰐鴉竜は羽ばたきですさまじい風を巻き起こし、瞬速で地上に着地していた。しかも着地と同時に、トカゲのような尻尾の先、やじりのようにとがった尾尻が超高速の短剣と化し、ノーキンの胸を正確に撃ち抜き、なんの抵抗もさせぬまま、絶命させていた。もしかしたら空に飛翔したのは標的を定めるためだったのかもしれない。マジかよ……。
それを見て俺は震えあがった。
確かに――覚悟がいる。
センパイの姿は見えなかった。けれどこの混乱に乗じてもしかしたら〔扉〕の先に進んだのかもしれない。
〔扉〕の近くには必ず武器庫がある。武器を持ってきてない俺は獅鰐鴉竜を警戒しつつ、そちらに入った。
本来なら受付がいるはずだが、この非常時にはそうも言ってはいられないのだろう。俺は申請証を受付の机に置く。ほかの〔潜者〕もそうしているようだった。
ふと目に入った申請証に大山紅葉と書いてあった。となればセンパイたちはこっちの〔扉〕を使ったに違いない。
俺は鎖防護服を着て、魔塵マスクを装着すると剣囲盾を持ち出した。
宮直先輩はまだ来てない。ひとりで行こうかとも考えたが少し失礼な気がして、スマホを取り出す。一言断りを入れようと思ったのだ。
すると受信メールが一通。六分前だ。どうやら気づかなかったらしい。『もうすぐ着く』とあった。
周囲の〔異界生物〕を警戒しながら見回すと、宮直先輩と――音乗の姿があった。
「どうして音乗が?」
「うぬぼれるなっす。ひとりやふたりでどうにかなる事態じゃないっすよ」
「三人だったらなんとかなるってもんでもないでしょう?」
「六人だ。あとで後野と八咲と今見も来る」
「今見も……?」
それはある意味、驚きだった。
「というか八咲が連れてくるって言い張ってたっす。だからまあ任せることにしたっすよ」
確かに八咲ににらまれたら、行かないとは言えないよなあ。俺は今見がにらまれている光景を想像して少しだけ苦笑する。
「蘆永にも電話したけどつながらなかったっす」
「まあ六人も集まれば大丈夫ではなくて?」
音乗が震えながらそう答える。センパイの緊急事態ということもあって、怖いのを我慢して駆けつけてくれたのだろう。けれど獅鰐鴉竜が吼えるたびに身をすくませていた。
「そういや、つじっちたちはいたっすか?」
「いえ。けど武器庫に大山の申請証がありました」
「ということはもう〔異界〕に入ったっぽいっすね」
宮直先輩はそう言いながら武器庫へと入り、音乗もそれに続く。
しばらくすると準備を整えて再び出てきた。
「じゃ、乗り込むっすよ」
「八咲たちは待たないんですか?」
「先に入るってメール送っといたっす」
そう言って宮直先輩はスマホの送信ボックスにある送信済メールを見せる。おそらく武器を取りつつ、送ったのだろう。
俺たちは〔扉〕に向かって走り出した。宮直先輩が先頭、音乗が真ん中、俺が最後尾。
宮直先輩が正面から襲いかかる犬狗猪鬼を突き刺していく。
豚熊猪鬼は弱点である腹を叩き割るのがベストだが、倒すのに骨が折れるので逃げる。蜥猫蜴蛇は宮直先輩から匂う強烈なシトラスの香りを敬遠して近寄ってこない。
音乗は横から襲来する犬狗猪鬼を追い払おうとしていたが、やはり腰が引けていてやられてしまいそうだ。俺は音乗がケガをしないようにフォローしながら宮直先輩の後ろを追いかける。
そうやって〔扉〕にたどり着き、潜る。潜った先、〔異界〕は静けさに包まれていた。不気味なほどに。〔異界生物〕はいなかった。けれど〔魔力〕が異様に濃い。いつも以上に視界が悪かった。
嵐の前の静けさという言葉があるが、それはこういうことを言うのだろう。
ふとそんなことを思った瞬間だった。
木々の間から誰かが転がり出た。
傷を負った大山だった。
「しっかりしろ!」
俺は大山を抱き起こし、揺すり、話しかける。
と、横合いからまた誰かがぶつかってきた。たまらずひっくり返りながら、その人を抱きとめて、ようやく俺はそれがセンパイだとようやく理解する。センパイはひどい傷を負い、気を失いながらもしっかりと湯かき棒をにぎっていた。
「センパイ、しっかりしてください」
抱き起こし、耳もとで叫ぶとそばにいた音乗が悲鳴ともつかぬ声をあげて尻もちをつく。元々、勇敢とはいえない音乗だったが、その恐怖に歪んだ顔はただごとじゃなかった。
いや音乗だけじゃない。宮直先輩までもが怯えていた。
俺はふたりが見ている方向へと視線を向けた。
俺も震えあがった。抱き起こしていたセンパイから思わず手を離してしまう。
そこには見ただけで一瞬でそうだとわかるほどに身の毛もよだつ恐怖を内包した〔異界王〕がいた。
2
〔異界王〕の背丈は俺よりも少し高いという感じだった。俺の身長が百七十五センチメートルだから目測で百八十センチメートルと言ったところだろうか。
紫色の肌に金色の瞳、とがった耳、豊かな銀髪に包まれた頭部からヤギのような角が生える。漆黒のローブのような布きれをまとった体からは筋肉隆々の腕が伸び、その先端、七本の指からはとがった爪が伸び、そこにはべっとりと血がこびりついていた。剛毛におおわれた太い足の先端からは鋭利な刃物のような爪が生えている。さらに背からはコウモリの翼がはえ、尻からは先端が三叉に割れた尾が延びていた。
〔異界王〕は余裕を見せつけるようにゆっくりと俺のほうに近づいてくる。
開いたローブから見え隠れする紫色の胸には、どこまでも続いていそうな穴が空き、そこから〔魔力〕が黒いもやとなって、絶えず噴き出していた。
俺の黒い瞳と〔異界王〕の金色の瞳が合う。見つめられただけなのに、身体が金縛りにあったように動けなくなった。
「逃げろ! オールっち!」
宮直先輩が叫んだ。
それでも俺は動けなかった。足がすくんでいた。〔異界王〕は視線をセンパイに落とす。〔異界王〕がセンパイを狙っているのだと気づいて、俺はすくむ足にげきを飛ばし、剣囲盾を構えてセンパイの前に立つ。
瞬間、激しい衝撃とともになにかが起きた。盾を持つ腕と背中に激痛が走り、一瞬意識が途切れてしまって、なにが起きたのか、まったく理解できなかった。
けれどぼやけた意識が鮮明となり、〔異界王〕が遠く離れた位置にいることに気づいて俺は吹き飛ばされたのだと理解する。
背後の木の緑色した幹は俺がぶつかった衝撃でふたつに折れていた。もしこの木がなければ俺はどこまで吹き飛ばされていたのだろう。
剣囲盾で防御できず〔異界王〕の一撃をまともに受けていたらいたらどうなったかわからない。その剣囲盾もまっぷたつに割れていた。二分された盾を片手にひとつずつ持ち、俺は起きあがる。全身がきしんで痛むけれど手足は動く。骨が折れていないのは幸いだった。
俺がやっとの思いで立ちあがっているうちに、〔異界王〕はセンパイへと近寄る。宮直先輩たちは俺が吹き飛ばされたのを見て恐怖にすくんでいた。
〔異界王〕がセンパイへと拳を打ちおろそうとしたさなか、センパイが目を見開く。気を失っていたセンパイはぎりぎりで目覚めた。いやもしかしたら気を失ったふりをして、機会をうかがっていたのかもしれない。センパイは強くにぎり、決して離すことがなかった湯かき棒を渾身の力を込めて振るった。
空を切り裂く、不意打ちの一撃。〔異界王〕は思わずそれを手で受けとめてしまう。すると〔異界王〕の腕の一部がこぼれるように霧散した。すぐさま手を離すと再び集束する。
「小娘が、こしゃくな真似を……」
〔異界王〕の低い声が脳に響く。耳をふさごうとも拒めないその声はひどく不快だった。
「私はあなたを殺す!」
憤怒のままに立ちあがり、センパイはさらに〔異界王〕に立ち向かう。
「やはり〔反魔金属〕は気にいらん」
そう言いながら〔異界王〕はセンパイの振るう湯かき棒をのけぞって避ける。しかしその表情には余裕があり、むしろ楽しんでいるようにも見える。
いきりたったセンパイが紫色の地面に一歩踏み込んだ瞬間だった、センパイの身体ほどもある火球が上空から襲来。センパイは火球がぶつかる瞬間、転がるように横っ跳び。その場から離れる。火球は紫色の地面にぶつかり、その表面を焦がし、すぐに消えた。
「王、少しお遊びが過ぎます」
その声は聞き覚えのある声だった。その声の主はゆっくりと〔異界王〕の後ろから姿を見せる。
蘆永だった。蘆永の背にはドクロが描かれたハエの羽がはえている。
「蘆永……どうしてお前が?」
俺はセンパイのそばに急いで駆けつける。
「これは我輩様のしもべだ」
なにも語らぬ蘆永の代わりに〔異界王〕が簡潔に答えた。
嘘だと思いたかった。けれど蘆永の背中にあるハエの羽は、蘆永が〔異界生物〕であることを証明していた。
「やっぱりキミが……これでいろいろつじつまが合うわ」
けれどセンパイはわかっていたような口ぶりだった。
「どういうことですか?」
「私が〔異界〕で〔異界王〕を探している間も結構な頻度で蘆永くんに出会っていたのよ」
それだけじゃないわ、とセンパイは言葉を続ける。
「環境省の秘密組織に私が襲われたとき、蘆永くんに助けてもらったの。あれ、偶然じゃないわよね?」
ええ、と蘆永は頷いた。
「秘密組織に〔異界生物〕を差し向けたもの、蘆永くんでしょ? 目的は〔反魔金属〕を探すため?」
「それもありますが、連中が僕の知らないあなた方のデータを持っているだろうとにらんだので。ちなみにこの機会にG7とOIEKでしたっけ、そこに保管されている〔反魔金属〕を破壊するために手下を送りこんでいますよ」
「――悪王豚蠅」
〔異界王〕は蘆永のことをそう呼び「無駄話はやめろ」と注意する。
「無駄に遊んでいたのは、王だと思いますが?」
蘆永は〔異界王〕を恐れることなく呆れたようにそう言った。
「ふむ。それもそうだな」と〔異界王〕は軽く笑う。「では、次からは遊びはなしで行く」
たったそれだけことで俺は寒気に襲われた。震えが止まらない。
〔異界王〕から流出していた〔魔力〕が一時的に〔異界王〕をおおう。そして姿が消えた。
獅鰐鴉竜のようにどこかに一瞬にして移動したのだと理解したとたん、宮直先輩が吹き飛び、〔扉〕の柱に激突する。宮直先輩はそのまま地面にくずれ落ちて動かない。助けに行きたくても、一瞬たりとも〔異界王〕から目が離せない。
「ふむ。〔別界〕に送り返してやろうと思ったが、反応してそらしたか……」
平然と言い放った〔異界王〕は腰を抜かした音乗のほうを向いた。次はお前だと言わんばかりに。
けれど俺が助けに入る前にセンパイは動き出していた。ありえないほどの叫び声をあげて。
「なにを怒っている? お前たちも我らに同じことをしているではないか」
センパイが怒りに任せて振るった湯かき棒を軽々と避けた〔異界王〕はセンパイの首をつかむ。
「やめろおぉおおおおおおおお!」
俺は無我夢中で駆け出していた。仲間たちはみんな戦闘不能に陥っていて、俺しかセンパイを救える者はいない。
あきらめてたまるかよ。
けれどヒーローになろうとする俺の前に蘆永が立ちふさがる。
「どけぇええええええええええええええええええええええ!」
叫びとともに両手に持つ、半分になった剣囲盾をがむしゃらに振るう。俺は蘆永を倒すつもりなんてなかった。ただ、どいてくれればそれでよかった。
けれど蘆永はいとも簡単に剣囲盾を払いのけ、前進させてくれない。蘆永の絶えることのない笑みがしゃくに障る。もう一度、俺は蘆永に挑んだが、結果は同じだった。
その間にも〔異界王〕はセンパイの首をしめ続ける。ひと思いに殺すこともできるはずなのに〔異界王〕はセンパイの苦しむところを俺に見せつけようとするかのようにじわじわと首をしめていく。
もうダメだと俺があきらめかけたとき、突如、〔異界王〕の体勢がくずれ、センパイの首から手を放したのだ。センパイは突然のことに驚きつつも、なんとか意識を保ち、湯かき棒を叩きつけた。〔異界王〕はその一撃をくらう前に、センパイを跳ね飛ばし、距離を置き、自分にぶつかったものを見る。
〔異界王〕にぶつかったのは今見だった。
「いってぇなあ」
頭を押さえながら立ちあがった今見は〔異界王〕の姿を見て、小さな悲鳴をあげて後ずさった。
「ったく、大変な事態になってるみてぇじゃねぇか」
小刻みに身体を震わせているくせに、強気な発言をしたのは〔扉〕を潜ってきた八咲だった。
八咲の声が聞こえると同時に、今見は強気を取り戻して言い放った。
「八咲、てめぇ! よくもおれを投げやがって! おれを誰だと思っている!」
「うっせぇ、黙れ! ビビリ。てめぇがさっさと潜らないからオレが投げてやったんだろうが。感謝しろ」
八咲がにらむと今見は押し黙った。
どうやら入るのをためらった今見を八咲が投げ、投げられた今見が偶然にも〔異界王〕を直撃したらしい。そんな偶然があっていいのか。
俺が呆気に取られるなか、調子を取り戻したセンパイが再び、〔異界王〕へと迫る。
俺は俺と同様、呆気に取られていた蘆永の隙をついて、センパイのもとへ駆けつける。
どうあがいても勝ち目はないのだ。なんとしてもセンパイを止めなければセンパイは殺されてしまう。
蘆永が俺に気づき、火球を手のひらから撃ってきた。
俺の背中へと火球が迫る。俺は振り向いて、右手ににぎる半分になっている剣囲盾を構える。
一瞬にして剣囲盾を焼き焦がし、火球は俺を直撃する。一瞬、俺は死を覚悟した。
しかし、炎は胸の欠片に吸い込まれるように消え、俺は無傷だった。いや、痛みすら感じなかった。どうなっているんだ?
「くっくっく!」
湯かき棒を振るうセンパイを蹴飛ばした〔異界王〕は笑った。
「悪王豚蠅、そいつか?」
「ええ、そいつです。確信はなかったですが、今確信を持ちました」
「我輩様もだ。たった今反応を確認した」
もう一度、笑うと〔異界王〕は一瞬にして俺の前に現れる。
「そちらから来てくれるとは嬉しいぞ――オール!」
しかも〔異界王〕は俺の気にいらない愛称で俺を呼んだ。教えたのはボンクラ――ではなく蘆永だろう。
この野郎が! 少しだけ怒りが胸中に蠢く。
「さあ、〔魔流封玉〕を返してもらうおうか!」
〔魔流封玉〕――初めて聞く名前だったが、それがなにか尋ねなくてもわかった。俺の体に取りついた欠片のことだ。これのおかげでさっきの火球を無力化できたってわけか。
「オール!」
俺のほうに向かって駆けてくる八咲に俺も叫び返す。
「センパイたちを連れて逃げろ!」
「お前はどうする気だよ!」
八咲の心配そうな顔が俺の視界に映る。
「どうにかする気だよ!」
そう言った瞬間、俺はまた吹き飛ばされていた。訂正――どうにもできないかもしれない。それでもあきらめる気はないけどな。
「ふん、風圧だけで戦うのは骨が折れるな。直接手で触れることがもできぬのは面倒だ。手伝え、悪王豚蠅」
「ほかのやつらはどうします?」
「放っておけ! まずは我輩様の〔魔流封玉〕を取り戻す。それがなければ不便でならぬ。〔反魔金属〕は後回しでいい」
「御意」
そんなやりとりをしているふたりのかたわら、俺は立ちあがる。同時に蘆永は〔異界王〕の横に並んだ。
八咲は俺のほうをちらちら見つつも、それでもセンパイたちのケガの具合が気になったのだろう、今見をにらみつけて手伝わせ、〔扉〕に潜るのがわかった。
視線を前に戻す。
蘆永が手にはめるのは鋏蠍虎爪。俺に〔魔法〕が効かないと見て装着したのだろう。
「ほう、便利なものを持っているな」
感心したようにそう言って、〔異界王〕は周囲を見やり、近くに落ちていた片手半剣を見つける。その剣は今見のだった。あの野郎、きちんと持って帰れよ!
少し泣きそうになる俺を尻目に〔異界王〕は片手半剣の柄を両手でにぎる。
片手用の剣をそうにぎるのは使いかたを知らないのか、それとも力強く振りおろすためか、その理由はわからない。だがどちらにしろ脅威だ。
片手半剣をにぎる〔異界王〕と鋏蠍虎爪をにぎる蘆永。
対するのは半分に折れた剣囲盾――言うなれば剣囲半盾を持った俺。
勝ち目あるのか、と俺は一瞬考えたが、勝たなくてもいいことに気づいた。そう、勝たなくてもいい。けど負けるつもりもなかった。
俺は〔扉〕に向かって逃げ始めた。
追い詰められてなのか、このときの俺はさえていた。〔異界王〕がゴルフのスイングのように下から上へ片手半剣を振りあげてくる。俺はそれを剣囲半盾で防ぐもその衝撃はすさまじく後ろへと飛ばされる。
けれどそれも計算通り。俺は飛ばされるのを待っていた。俺は後方に〔扉〕があるのを確認して、剣囲半盾で片手半剣を受け、〔扉〕に向かって飛ばされたのだ。
着地して身を翻し、あと数歩というところで、〔異界王〕の声が響いた。
「我輩様から逃げられると思っているのか。往生際が悪いぞ」
さらに蘆永が空から火球を放ち、俺を牽制する。
「そうですよ、オールさん。逃げたところで、僕が〔別界〕に行けることをわかっているはずですよね?」
それは確かにそうだ。けどそれでも俺たちの世界のほうに逃げるほうが、ここにいるよりはマシに思えた。
それに蘆永がそんなセリフを吐いたということはまだ〔異界王〕は俺たちの世界に来ることはできないってことだ。
そう思ったとき、〔異界王〕が〔扉〕の前に一瞬で移動して、立ちふさがった。今更、逃げるつもりなんてない。俺は剣囲半盾の剣の切っ先を突き出して体当たりしていた。
俺が突き出した剣囲半盾は確かに〔異界王〕にぶつかった。盾から突き出した剣が一瞬にして折れる。けれど俺は勢いのまま〔異界王〕を〔扉〕の外に押し出そうとした。
もちろん、〔異界王〕の力は俺とは比較にもならないほど強い。月とすっぽんどころか、月とミジンコぐらいの実力差がある。
それなのに〔異界王〕は後退するのを恐れるように身体を横にずらした。それほどまでに〔異界王〕は俺たちの世界を恐れている。
俺は前につんのめったものの、そのまま止まらず〔扉〕を潜り、俺たちの世界へと帰っていく。背後で、「追え!」という言葉が聞こえた。
〔異界〕から戻ると、眼の前に凄惨な光景が広がる。
――無数の死体と死骸だった。
俺はすっかり失念していた。そう、こちらには獅鰐鴉竜がいたのだ。
前門の虎|(獅鰐鴉竜)、後門の竜|(蘆永)――そんな絶望的状況であたりを見回した俺は、なにが起こったかを知って愕然とした。
グランドと同じぐらいの草原に広がる死体の山、そこには倒れる獅鰐鴉竜と、青い血に体を染め、髪が赤紫へと変貌している後野さんがいた。その光景を今見や八咲、音乗が立ち尽くして見ている。
3
後野さんは茫然としている俺たちのもとへと現れ、言った。
「大変な事態になっているようであるな」
その口調は後野さん特有のゆったりとしたものではなかった。
「お前……赤紫梟雀か……」
俺は声を振り絞った。
「そうである」
後野さんそっくりの赤紫梟雀は頷いた。
「けど、どうしてお前が……」
「どうもこうも、お主らがマツリ嬢を呼んだのであろう。そうしたら獅鰐鴉竜がいるではないか、我はマツリ嬢を頼むとお主らに頼んだはずである。けれどもお主らは見当たらず、獅鰐鴉竜がマツリ嬢を襲った」
「だからお前が後野さんに乗り移って……」
「乗り移って、という言い方は心外である。借りて、と言ってほしいのである。しかも本人の同意はもらっているのである」
「本人、って後野さんと話せるのか?」
「遠慮したかったであるが緊急ゆえにマツリ嬢に話をして承諾してもらったのである。ただ話をしたときにどうやら死んだことは覚えてるような口ぶりであったな」
「そうなのか……」
俺はなにを言っていいのかわからずにそんなことを呟いていた。
そしてあることを思い出す。
「けど、お前。そんなに長い間、こっちにいられないんじゃなかったのか」
「このぐらい〔魔力〕が濃ければ問題ないのである。それに身体を借りているわけであるから〔魔力〕もそれほど必要とはしてないのである」
後野さんの体を借りた赤紫梟雀が後野さんの顔のままで笑った。それは本来の後野さんののほほんとした笑顔ではなく、きりっとしたつり目の笑顔だった。
「で、いったい、なにがあったのであるか?」
赤紫梟雀は俺たちを見て、そう問いかけた。
センパイに宮直先輩、大山は気絶していて、今見は焦燥気味で、音乗は怯え、俺は傷だらけだった。八咲は傷もなく怯えもしてないが、その胸のうちは複雑だろう。
「八咲、一旦〔扉〕から離れるぞ。いつ蘆永が襲ってくるかわからない」
「だよな。やっぱ倒せてないよな。つーか蘆永は〔異界生物〕だったのか?」
「こっちの人間が羽をはやすか?」
はやさないよな、と八咲が納得する。
「あいつは悪王豚蠅というのであるよ」
赤紫梟雀がさらりとそんなことを言った。
「知っていたのか?」
「そのくらいのことは気配でわかるのである」
「だったら教えろよ!」
八咲が容赦のないツッコミをした。やつあたり、ともいう。
「我はてっきり知っていてつき合っているのかと思っていたのである」
それにマツリ嬢が害をこうむることはなかったので我が動く道理もないのである、と後野さんに無償の愛をささげる赤紫梟雀はつけ加える。
俺たちは呆れるしかなかった。
「とりあえず、離れよう」
俺がそう言うと、八咲は今見をにらみつけ、大山を運ばせる。
八咲は宮直先輩を、俺はセンパイを背負い、音乗と手をつなぐ。そうしてなんとか武器庫まで運んだ。
するとスマホの着信音が鳴り『こっちに躑躅先輩はいないみたいだよ@甘利先生情報』という空気を読まないボンクラのメールが送られてきた。
蘆永が現れたのはそれから数分後のことだった。同時にすぐに追ってこなかった理由も明白になる。
蘆永とともに現れたのは〔異界生物〕の大群だった。
大群を形成する〔異界生物〕は数種類いたがほとんどが小型で、分類的には虫だった。
巨大なウマオイムシの形をした粘液が赤い核のような球体をおおった澱粘馬追。「じぃいいいいいいいいい」と叫び続けながら二足歩行する、俺の膝丈ぐらいの大きさを持つセミの化け物絶叫蝉人。そしてウサギぐらいの大きさを持つ、ウサギの耳をはやしたスズムシ――戯兎鈴虫。それに石甲山椒に飛蝶蝗蠅もいる。
座っていた音乗はその大群を見て、両手で顔をおおった。今見もげんなりとした表情を浮かべている。
その虫たちで構成される大群の後ろで、指揮を執るのが蘆永だった。蘆永は俺たちの位置がわかっているのかまっすぐに武器庫へ向かってくる。
「なんで蘆永に俺たちのいる場所がわかるんだ?」
「我がいるからであろうな。我があやつの気配を読めるということは、逆もありえるということである」
「先に言えよ! 隠れた意味ねぇーだろ!」
八咲が容赦のないツッコミをした。やつあたり、ともいう。二回目だ。
「とにかく見つかった以上、ここを出よう」
「出てどうする?」
八咲が尋ねてきたが、どうするもこうするも隠れることが不可能な以上、できることはひとつだ。
「センパイたちを守る」
「簡単に言うよな、お前」
「八咲も無理しなくていい。俺はお前も守るつもりだ」
「言ってろ。どうみてもこの数はひとりじゃ無理だ。当然、手伝うさ。なにか手はあるんだろ?」
「〔異界生物〕の大群が現れたならすぐにでも薬袋先生やほかの〔潜者〕が来るはずさ。それまで耐えればなんとか……」
俺がそう語ると赤紫梟雀は苦い表情で――と言っても後野さんの顔なのだが、こう言った。
「そううまくいくとは限らないのである」
「なぜだ?」
「仮にもあやつは〔異界〕の統一を成し遂げた〔異界王〕の側近である。つまりこちらにはたくさん〔潜者〕がいると知っている。だからなにも策をろうさないというのはおかしいのである」
赤紫梟雀が言った直後、再び俺のスマホが鳴る。ボンクラからのメールだった。
『オール! 〔扉〕から〔異界生物〕がうようよ』
メールはそこで途切れていた。
〔異界生物〕に襲われてそれだけでも送信しようとしたのだろう。
「どうした?」
スマホをながめながら俺が少しだけ深刻そうな表情を浮かべていることに気づいたのか、八咲が尋ねてくる。
「学校の〔扉〕から〔異界生物〕が出てきたらしい」
マジかよ……と八咲が驚くかたわら、
「おそらく、それでほかの〔潜者〕を足止めする作戦であろうな」
「救援はなしってことだな……」
俺は嘆息した。だからと言って逃げるわけにはいかない。
「それでも、俺は守るつもりだ」
自分に言い聞かせるように言った言葉に、八咲も赤紫梟雀も頷いた。
「今見、てめぇも手伝えよ」
「なンで、おれが……」と言いかけた今見は八咲のにらみにビビってなにも言えずに頷いた。
「わたくしも……戦いますわ」
小さく呟いた音乗だったが、その体は相変わらず震えていた。
「無理しなくていい」
俺は音乗を気遣ったが、音乗は首を横に振る。
「だったら最初からこんなところに来ていませんわ。無理してでも、ここに来たのは、なにか役に立とうと思ったからですのよ」
「そのわりには震えてばっかで役に立ってないよな」
揚げ足を取るように今見が呟く。最低な野郎だ。
「てめぇこそ大した役に立ってねぇだろ」
音乗をかばうように八咲がにらみをきかせる。それだけで今見はなにも言えなくなり、舌打ちだけが響く。
「……オールさん。あなたがなにを言おうともわたくしは、戦いますわ。今見さんの言う通り、今までずっと震えていましたが、今度こそ、今度こそ、わたくしはあなたの役に立ちたい」
音乗は震える声でけれども力強く言った。俺はその覚悟をむげにするようなことはできなかった。
「頼りにしてる」
俺の口から言葉がこぼれ落ちた。
けれどその実、俺は音乗のことを意外と頼りにしていた。なにせ、音乗の〔異界〕に関する知識量はすさまじい。さすがあれだけの資料を持つ旋律さんの娘、と言ったところだ。
それで頼りにならないわけがないのだ。
「行くぞ!」
武器庫から新しい剣囲盾を取った俺のかけ声で、赤紫梟雀と八咲、音乗は武器庫から飛び出す。
今見も渋々と行った感じで外に出たが、出た瞬間、目にも止まらぬ速さで逃げ出した。端からセンパイたちを守るために戦うつもりはないらしかった。思えば今見は〔異界〕に落とした片手半剣の代わりになるものをなにも持っていなかった。それはおそらく軽身のほうが逃げやすいからだろう。
「今見!」
八咲の怒声が聞こえてもなお、今見の足は止まらない。
「おれはIMAMIの御曹司だぞ!」
負け惜しみのように今見は叫び、俺たちから遠ざかっていく。
あまりにもムカついたので俺は追いかけようかと思ったが、前方には〔異界生物〕の大群がいる。センパイたちを守るほうが優先だと思い、追いかけるのをやめる。
「くそっ! あの腰抜けがっ!」
俺と同じことを考えたのだろう、八咲が悪態を吐く。
今見が逃げると同時に、大群にもふたつの変化があった。
まず、ひとつ目は戯兎鈴虫が群れからはずれ今見を追いかけ始めた。
スマホでどこかに電話している今見は戯兎鈴虫が自分のところにやってきているとわかって顔色をなくして悲鳴をあげていた。
「どうして今見のほうに戯兎鈴虫が?」
「戯兎鈴虫の特性のひとつに、チューインガムが大好きというのがありますの。もしかしたらそれに関係しているのかも知れませんわ」
「そんな特性があるのかよ……」
「ええ、最近わかったことですけれど、確かな情報ですわ」
「だったら教えてやれよ」
「そんなひまねぇよ。蘆永が来るぞ、あのハエ野郎!」
ハエ野郎と八咲は蘆永を表現したが、事実、蘆永はハエのような姿をしていた。それがふたつ目の変化だ。
蘆永の姿はアシナガバエに似ていた。ただ決定的に違うのは、豚の顔を持っているということだ。ただ、眼だけはハエが持つ複眼だった。二枚だった羽は四枚に増え、その四枚の翅には大きくドクロの印がかたどられていた。
人間だった頃の蘆永の姿はそこにはまったくなかったのだ。
蘆永――いや変貌してしまった以上、悪王豚蠅と呼ぶべきだろう。
悪王豚蠅は澱粘馬追、絶叫蝉人、石甲山椒に飛蝶蝗蠅の群れを引き連れて、こちらへと向かってきた。悪王豚蠅だけほかの〔異界生物〕より段違いに速かった。
飛行し先行する悪王豚蠅に立ち向かったのは赤紫梟雀だ。赤紫梟雀は後野さんの武器なのであろう慈悲短剣を持っていた。
赤紫梟雀ははるか上空まで一気に跳躍し、その後急降下。
慈悲短剣の長い棒状の剣身の鋭い切っ先を悪王豚蠅めがけて突き刺そうとしたが、回避される。
赤紫梟雀は地面に着地するがその着地点は〔異界生物〕の大群のなか、けれど赤紫梟雀は焦りもしない。慈悲短剣で、襲ってくる〔異界生物〕を一匹一匹、串刺しにしていく。
「ふむ、身体を借りるというのは意外と不便であるな」
赤紫梟雀の呟きが俺の耳に届く。後野さんの身体を借りている赤紫梟雀は自身が呟いたように本領発揮できないようだった。
とはいえ、それでも俺たちよりもはるかに早く動けているのだから十分すぎるほど役に立ってくれている。
「ただ、武器というのであるか。これが持てるのは便利である」
群れのなかで〔異界生物〕を屠る赤紫梟雀へと悪王豚蠅が襲いかかる。
「わたくしたちも行きますわよ」
少し遅れて音乗が言った。相変わらず震えていたが、それでもその言葉に宿る覚悟は見てとれた。
音乗が走り出すと「おう」と八咲が続き、俺も続く。
八咲が猪槍牙剣で澱粘馬追に切りつけたが粘つくような澱粘馬追は斬れずむしろ剣にまとわりついてきた。
「澱粘馬追は真ん中の核を狙うのですわ」
そう言って音乗がS鍔剣で澱粘馬追の真ん中の核を的確に貫く。
「助かったぜ」
お礼を述べた八咲も音乗に言われた通りに澱粘馬追の核を貫く。先端が細い八咲の剣は音乗の剣よりも澱粘馬追の核を貫きやすかった。
音乗は澱粘馬追を八咲に任せ、飛蝶蝗蠅に向かう。飛蝶蝗蠅は俺や八咲がかなり苦労して追い払った覚えがあるが音乗は違う。音乗は飛蝶蝗蠅の動きを読み、一撃で屠った。
八咲の太刀筋を豪快で大胆だとすれば、音乗の太刀筋は流麗で軽やか。だからこそだろう、音乗は次々と飛蝶蝗蠅を屠っている。あれだけの腕を持っていても怖いのだろうか、時折、身体が震えているのがわかった。
俺は飛び交う飛蝶蝗蠅を無視して絶叫蝉人へと向かっていた。「じぃいいいいいいい」と叫ぶたびにごくごく小さな衝撃波が俺を襲う。俺はそれを剣囲盾で防いで前へ進む。
一匹の絶叫蝉人による衝撃波は大したことはない、けれども数匹がまとまり発する「じぃいいいいいいい」という叫び声は塵も積もれば山となるように、共鳴しながら強い衝撃波へとパワーアップして俺を襲う。剣囲盾がその衝撃によってビリビリと震えながらきしむも、壊れるほどの威力はない。そのまま突っ切る。息切れしたように絶叫蝉人の叫び声が止まる。
その隙に加速。そのまま狙いを定めて、剣囲盾を突き刺す。絶叫蝉人は避けもせずに絶命。もしかしたらセミのように短い命を謳歌するべく叫ぶことだけに全てをささげているのかもしれない。
時折、八咲や音乗、赤紫梟雀の戦いぶりをみるが、みんな必死にがんばっていて〔異界生物〕に負けていない。
俺も絶叫蝉人や石甲山椒を突き刺し、叩き潰していく。俺が多少の余裕を持って戦えるのは剣囲盾で時折防御できるからかもしれない。八咲たちはそんなひまがないようだった。
しかしなんと言っても〔異界生物〕は数が多い。最初は倒した数を数えていたが五十を超えたあたりでやめた。キリがない。
いったい、いつになったらこの戦いは終わるのか、それを考えただけで気力が奪われ、集中力が途切れ、つまらないミスが増えていく。
音乗も八咲も剣が〔異界生物〕に当たる回数が徐々に減ってきていた。
赤紫梟雀だけは無類の強さで、悪王豚蠅と戦いながらほかの〔異界生物〕を倒していた。でもそれもいつまで持つか。
そう思ったときだった、突然、飛蝶蝗蠅たちが俺たちを攻撃するのをやめて、なにかを警戒するように一ヶ所に集まった。
なんだと思って周囲を見ると、消防士のような衣服に身を包み、グラサンをかけた怪しい集団とその中心に凛と立つ今見がいた。
「これがIMAMIの御曹司の力だ!」
自慢するように、叫ぶ。
今見は逃げたわけじゃなかった。俺はてっきりスマホで迎えを呼んだと思ったのだが、どうやら違ったらしい。
「なんなんだ、そいつらは?」
「これはおれの私兵団だ! 感謝するなら感謝してもいいぞ!」
またもや自慢してきた。そのウザさは別にしてこいつにもいいところはあるらしい。
「ああ、今見、ありがとよ」
素直に礼を述べると、今見はなぜか驚いたように唇をすぼめて、嬉しそうな顔をした。けれども再びしかめ面に戻ってグラサン軍団に命令を飛ばす。
周囲のグラサン軍団はその指示でよくわからない装置をいじった。そこから冷気が噴出し一瞬にして〔異界生物〕を凍らせ始めた。
「今見さん、戯兎鈴虫はどうしたのですか?」
その光景を見た音乗は立ち止まり、今見に問いかける。
「まいた」と今見は呟いたが、音乗の表情は少しだけ曇る。
「もうひとつお聞きしますが、今見さんはガムかなにかを今持ってらっしゃいますか?」
「当たり前だろ。ガムはおれの必需品だ」
今見がそう宣言したとたん、その冷気噴出装置のひとつが爆発した。
「なにが起きた!?」
今見の動揺する声に、戯兎鈴虫が吸気口から機械のなかに入り込んでモーターを過熱させたようです、とグラサン集団のひとりが答えた。
「どうして戯兎鈴虫がいるンだよ!」
怒鳴る今見に音乗は冷静に言った。
「戯兎鈴虫はチューインガムが大好物なのですわ。あなたがそれを持っている限り、連中はどこまでもついて行きますわ」
それを聞いた今見は慌ててポケットからチューインガムをつかみ出して捨てる。たちまち何十匹ものの戯兎鈴虫がそれに群がる。
今見はグラサンの男に指示を出して、その群がった戯兎鈴虫を凍らせていく。
その間に音乗は冷気噴出装置の裏へと回って、戯兎鈴虫を払いのけ始めた。
「見ていないで今見さんも、戯兎鈴虫を払いのけるのを手伝ってくださいな」
「どうしてだよ?」
「戯兎鈴虫は精密な機械を壊す特性を持っているのですのよ」
「どういうことなンだ? 意味わかンねぇ。電磁波かなにかを発してるってことか?」
「そこまではまだわかっていませんわ。そもそも〔異界〕には精密機械などありませんからね」
「そういえば、そうだな……」
呆れる今見だったが、今見が見ている目の前で戯兎鈴虫によって冷気噴出装置が次々破壊されるさまを見て、慌てて戯兎鈴虫を払いのけ始めた。
「オレも手伝う」
八咲もその装置へと駆け寄り、戯兎鈴虫を引きはがし、猪槍牙剣を突き刺した。
俺は悪王豚蠅がその装置に近寄らないように赤紫梟雀を加勢しに行った。
ほかの〔異界生物〕はグラサン軍団が操る冷気噴出装置の冷気によってどんどん凍結していった。
「どうやら残るはお前だけみたいだぞ、蘆永!」
俺は悪王豚蠅に向かって叫んだ。
「どうやら、あなた方の力量を見誤っていたみたいですねえ」
悪王豚蠅はそう言って笑った。
「けれどだからと言ってあなた方は僕には勝てませんよ!」
悪王豚蠅は目にも止まらぬ早さで俺へと体当たりをしてきた。俺はそれをなんとか剣囲盾で防ぐも反動で吹っ飛ばされる。
「大丈夫であるか?」
赤紫梟雀が俺のもとに駆け寄り声をかけていきた。俺はうめきながらも立ちあがる。
「やはり〔異界王〕の側近は一筋縄ではいかないようであるな」
「お前でもそうなのか? 俺から見ればお前も十分に強いんだが……」
「我と〔異界王〕やその側近とでは〔魔力〕の構成比が違うのであるからな……」
「どういうことだよ、それ。もっと具体的に……」
と言ったところで悪王豚蠅が俺たちの間に割り込んでくる。
「お喋りとは余裕ですね」
悪王豚蠅が振るった拳に反応して俺が剣囲盾で防御。その隙をついて赤紫梟雀が横から慈悲短剣を突き刺そうとした。
「ぶるううううああああああ!」
しかし、その慈悲短剣を悪王豚蠅が叫び声とともにつかんだ。そして慈悲短剣ごと赤紫梟雀を持ち上げる。
赤紫梟雀はすぐさま手を離し、身体をねじると空中で回し蹴りを放つ。見事その蹴りは直撃し、悪王豚蠅は転がるようにして地面に倒れるもすぐに立ちあがる。
赤紫梟雀は地面に転がった慈悲短剣を拾い、そして一瞬も休むことなく悪王豚蠅を攻撃し続ける。同時に俺も左から剣囲盾を一閃。
悪王豚蠅は右手に燃えさかる剣のようなものを出現させると、その刀身を長く伸ばし、振り回した。するとその鞭のようになった炎の先端がふたつに割れて、長い、蛇のような炎へと変貌し、赤紫梟雀へと襲いかかる。
その隙に俺が剣囲盾で斬りかかると、悪王豚蠅は盾の剣を指ではさんで止めた。挙句、力の差が歴然としていることを教えるかのように嘲笑しやがった。
けれどそのおごりが悪王豚蠅の油断だった。
蛇のような炎の口にそのまま飛び込んだ赤紫梟雀は火傷を負いながらも悪王豚蠅の頭をつかみ、放り投げる。
その瞬間、
「撃てぇ!」
今見の合図とともに〔異界生物〕を駆逐し終えた冷気噴出装置が投げ倒された悪王豚蠅めがけて放たれる。悪王豚蠅は飛んで逃げようとしたが、赤紫梟雀が指を鳴らすと悪王豚蠅の身体に紫電が走り、身体が拘束された。
そして冷気が大量に噴きかけられた。
冷気が消えたとき、見えたのは悪王豚蠅の凍った姿。
「やったぜ!」
今見が喜ぶかたわら、赤紫梟雀が呟いた「まだである」という言葉を俺は聞き逃さなかった。
「どういうことだ?」
「言ったはずである、悪王豚蠅は我らとは〔魔力〕の構成比が違うのである、と」
俺にはそれが理解できない。怪訝な表情の俺を見て、赤紫梟雀は言葉を続ける。
「つまり、我らは〔肉体〕と〔魔力〕によって存在が作られているわけである。我は大部分が〔肉体〕で残りが〔魔力〕によって構成されているのである。けれど、〔異界王〕は〔魔力〕のみで、側近はほとんど〔魔力〕で構成されており、〔肉体〕はわずかしかないのである。とはいえ代償として大量の〔魔力〕が空気中にただよってないとその存在は維持できないのである」
「だからなんなんだ?」
赤紫梟雀がなにを言わんとしているのか、俺には正直わからなかった。
「〔魔力〕を多く持つものは〔肉体〕をほとんど持たない、ゆえに身体などに傷がつきにくいのである。さらにいえば〔魔力〕が多いものほど〔魔法〕も多く使え、しかも自身は〔魔法〕が効きにくいのである。ゆえに悪王豚蠅を凍らせたところでほとんど意味はない」
赤紫梟雀が告げ終わると悪王豚蠅をおおっていた氷は一瞬にして溶ける。
さらに悪王豚蠅の体に変化が起こっていた。複眼が赤く輝き、翅のドクロも金色に発光し始めた。
「どう、すればいいんだ?」
「なにを慌てているのであるか。お主らは既に〔魔力〕で構成された存在に対抗しうる策を持っているではないか」
パニくる俺に赤紫梟雀はあっけらかんとした表情で言った。俺は一瞬意味がわからなかった。
けれど赤紫梟雀が視線を送る先――武器庫を見て、赤紫梟雀の言葉の意味を理解した。
「赤紫梟雀、足止めを頼めるか」
「言われなくてもである。さっさとあやつを仕留めぬとマツリ嬢は常に危険な状態に置かれたままである」
赤紫梟雀は俺の依頼を快諾し、悪王豚蠅へと立ち向かっていく。悪王豚蠅は俺が武器庫に駆け出したのを見て、あとを追おうとしていたが赤紫梟雀が紫電を放ち、それを阻む。見れば八咲と音乗も悪王豚蠅へと向かっていた。今見だけはグラサン軍団になにやら指示を出しているようだった。
俺は無事に武器庫へとたどり着き、気を失っているセンパイのもとへと急いだ。
4
武器庫へとたどり着いた俺は気を失っているセンパイから湯かき棒を取ろうとしていた。センパイは気を失ってもなおがっちりとにぎって手を放そうとはしなかった。すごい執念だ。
けれど俺には湯かき棒が必要だった。
すいません、と小さく呟いて、無理に湯かき棒を奪う。
――ようやく起きたね、躑躅――
とたん、声が聞こえ、胸が痛み出した。
――って違う!?――
俺はその声が湯かき棒から響いていることに気づいた。しかもその声が響くたびに胸が痛む。
「あんたはなんなんだ?」
思わず声を出すと、念じるだけでいい、と声が響き、さらにこう続いた。
――簡単に言えば兄だ! 大山紫苑って言えばわかるかい?――
まさか……センパイのお兄さんは死んだはずだ。そもそも、なんで湯かき棒から声が聞こえてくるんだ?
混乱しながらも、俺は胸の、正確に言えば欠片が発する痛みが紫苑さんの声に共鳴していることに気づいた。
――キミがどこまで事情を察しているのかわからないけど、環境省から〔反魔金属〕を守るために〔魔法〕を使って湯かき棒に自分の魂を封じ込めたのさ。自分は〔異界〕で死にかけていたから、そうしないと躑躅に状況を教えることができなかったんだ――
事情って、環境省が兵器開発しているってやつか?
――そこまでわかっていれば上出来だよ。オールくん――
紫苑さんは感心したように呟き、そして最後に俺の好ましくない愛称をつけ加えた。
どうして、俺がオールだってわかった?
――そりゃこうして話しているからさ。魂を封じ込めるときに躑躅とそして〔異界王〕の欠片を持つものとしか話せないって設定しておいたんだ。そして躑躅からオールくんが環境省に襲われたことを聞いている。それらを鑑みたら、キミがオールくん以外には考えられない――
そういうこまごまとした設定ができるのか。
感心したような呆れたようなそんな気分で紫苑さんに語りかける。
――まあ〔魔法〕だからね。それに全員に声が聞こえたらお互い困るだろう?――
ごもっとも。
――ところで今の状況はどうなっている。〔異界王〕はどうなったんだい? 設定をミスってね、自分をにぎってくれた人の目を通してしか周囲が見られないんだよ――
不便だなあ、とふと思うとそれを読み取った紫苑さんが言葉を続ける。
――ああ、不便だ。湯かき棒の定位置って言えばだいたい風呂場だからね、もし設定をミスってなければ躑躅や紅葉たちの裸が見放題だったのに――
なんて残念な人なんだ、というのが俺の本音だが、念じると伝わってしまう。まあ伝わってもいいか。
――残念とは失礼な。こう見えても妹想いなんだぞ!――
理不尽に怒る紫苑さんに俺は呆れるしかなく、けれど理不尽に怒られ続けるのもしゃくなので、俺は話を戻しますよ、と紫苑さんに伝えて、かい摘んで話を始めた。
――なるほどね。それでオールくんは湯かき棒を取りにきたわけだ。それは正しい判断だね――
けど、俺は直感でこれを取りに来ただけで赤紫梟雀の話はあんまりわかってない。
――まあ理屈や原理を全て理解しろ、とは言わないね。なんで殺虫剤で虫を殺せるかなんて大概の人はわかってないだろ。ようは殺虫剤で虫を殺せる、それがわかればいい。それと同じで〔魔力〕が多い存在は〔反魔金属〕で倒せる。それだけの話だ。でも簡単に原理を言えば〔反魔金属〕は運動エネルギーが加わることによって、〔魔力〕を分解させる能力を持つんだ。傍目からは切り裂くように見えるね――
その説明は旋律さんにしてもらった説明とだいたい一緒だった。ただ旋律さんは〔魔力〕を分散させるといっていた。その解釈だと、〔魔力〕を散らすことはできても失くすことはできないから紫苑さんが言う分解させるという解釈のほうが正しいのだろう。
――だいたい、原理はそんなところだ。〔異界王〕やその側近はほとんどが〔魔力〕でできているからね、それを分解されるのは、肉体を削がれるのと同意義だ。だから〔反魔金属〕を恐れるってわけ――
俺は饒舌に語る紫苑さんを引き連れて武器庫を出る。湯かき棒は剣囲盾の裏にある取っ手に引っかけ相手から見えないようにしてある。
――さあ、行こうか――
剣囲盾の裏にひそむ紫苑さんの声が飛ぶ。
「来たであるな」
赤紫梟雀が俺の姿を視認した。八咲と音乗は傷を負ってはいるものの、戦えなくなるほどの重傷ではなかった。
「ふたりともありがとう。センパイたちを頼む!」
八咲たちへと近づいた俺は八咲と音乗のふたりに感謝を述べ、指示を出す。ふたりは頷き、武器庫のほうへと向かう。ここからは俺ががんばる番だ。
今見とグラサン軍団は、冷気噴出装置を持ってどこかへと消えていた。遠く空を飛ぶ〔異界生物〕が凍りつくのが目に入った。あそこらへんには学校があるはずだ。つまり今見たちは学校へ〔異界生物〕を倒しに向かったらしい。
しかめ面の印象しかない今見だが、意外と気がきくやつらしい、と印象を改める。
凍りついていた〔異界生物〕たちは今や見る影もない。肉体ごと破砕し、〔魔力〕を噴き出しながら消滅したのだろう。
「赤紫梟雀。ひとつ訊きたいことがある」
「なんであるか?」
「悪王豚蠅はほとんど〔魔力〕で構成されているんだよな」
「そうである」
「でもお前はこうも言った。大量の〔魔力〕が空気中にただよってないとその存在は維持できない。だとしたらなんで悪王豚蠅はこっちに来れるんだ?」
「あやつは側近のなかでも異質だからである。あやつは人間によく似た姿になることで〔肉体〕と〔魔力〕を調節し、少量の〔魔力〕でも存在することができるのである」
「つまり蘆永になれば〔魔力〕がほとんどなくても存在できるのか」
「そうである。その分、本来の力は出せないであるが」
赤紫梟雀は俺の言葉に感心して頷いた。
「でもじゃあなんで今、悪王豚蠅は本来の姿で存在できているんだ? 〔魔力〕汚染がそこまで進んだってことなのか?」
「それも一因ではあるが、あやつは裏技を使ったのである」
「裏技?」
赤紫梟雀は既に悪王豚蠅がここに存在しているトリックを見破っているようだった。
「お主らがいうところの〔異界生物〕は死ぬと体内に宿した〔魔力〕を噴出させる。その〔魔力〕は大気中に混ざるわけであるから、一時的に〔魔力〕の量は増えるのである」
そう言われて俺はなんとなくだが、理解する。理解したことを整理するように言葉に出す。
「つまり、悪王豚蠅が虫の大群を率いていたのは俺たちに虫どもを倒させることでここら一帯の〔魔力〕を増やすのを目論んでたってことか」
「そういうことである。あやつが率いる虫――〔虫〕どもは微量な〔魔力〕しか持っていないのであるが数は大量で、あまり強くないため倒しやすい。もしお主らが倒さなければ悪王豚蠅が殺していたであろうよ。自分の存在を維持するために」
「じゃあ今〔異界生物〕がいないのは悪王豚蠅の目論み通りってわけだ」
俺は周囲を見渡し、そう呟く。
ここにいるのは、悪王豚蠅のみだった。けれど死骸から噴出した《魔力》は数時間、その場にとどまる性質を持つため、悪王豚蠅はその存在を確固たるものにしている。
「ただ、本来の姿のほうが〔反魔金属〕の効果は絶大であるゆえこちらにとっても好都合である」
俺の疑問が晴れたところで赤紫梟雀は悪王豚蠅に向かって走り出した。俺が頼むまでもなく、やつを倒すために力を貸してくれるらしい。俺も走り、赤紫梟雀に並走する。
「毎度、毎度、すまないな」
「お主らのためではない。あやつを倒せねばマツリ嬢が危ないのである」
赤紫梟雀の思考は結局そこにたどり着く。
「そういえば赤紫梟雀は〔反魔金属〕は平気なのか?」
「我は〔異界王〕と違って〔魔力〕を失っても〔肉体〕は残るわけではあるが、〔魔力〕と〔肉体〕、どちかかが欠ければ存在を維持できぬのである。もっとも〔異界王〕は例外であるが」
回りくどい言い方だが、ようは平気じゃないってことか。
「じゃ、当たらないように注意する。あんたが死んだら後野さんが悲しむだろうから」
その言葉に赤紫梟雀は頷いた。
後野さんの身体を借りたときに後野さん自身に了承を得たと赤紫梟雀は言っていた。だから赤紫梟雀がうっかりミスで消えました、なんてことがあれば俺は当然許されない。
だから俺は細心の注意を払う必要がある。
そんなやりとりをしている間にも、悪王豚蠅は俺たちを倒すべく、まっすぐに向かってくる。俺たちは左右にわかれる。そして悪王豚蠅が向かってきたのは左に進んだ俺だった。
悪王豚蠅もにぶくない。俺が武器庫からなにを持ってきたのか、おそらく気がついているだろう。〔反魔金属〕をどこに隠しているのか、も見透かされているのかもしれない。
それでも俺は自分がやろうと決めていた通りに動く。俺は湯かき棒を隠したまま剣囲盾を振り回した。
しかし悪王豚蠅は身をひねるだけで軽々と剣囲盾を避け、さらに間をつめようとしてくる。俺は一旦さがり、そして今度は剣囲盾を俺の前に押し立てて、悪王豚蠅へと突撃する。
悪王豚蠅は剣囲盾を両手で止め、そのまま俺を押し返す。突然、背後から熱気が噴きつけ、何事かと振り向くと後ろには炎の壁があった。
〔魔流封玉〕によって〔魔法〕が効かない俺だが、その〔魔法〕も〔魔流封玉〕が取りついている正面からしか受けてない。背後からでも〔魔法〕を無効化できるのか、それは定かではない。
だからこそ、悪王豚蠅に押され、俺の身体がさがるのに応じて焦りが募った。
焦りの表情が出ていたのか悪王豚蠅がほくそ笑んだ。その余裕の表情に今度は怒りが募る。
「ォのヤローがっ!」
俺は怒りのまま跳躍し、両足で剣囲盾の裏側を思いっきり蹴った。蹴った瞬間、取っ手から手を放し、同時に湯かき棒を引き抜く。
蹴られた反動で悪王豚蠅は剣囲盾ごと地面に倒れる。両足で蹴った俺も炎の壁ぎりぎりで倒れたが受け身を取って素早く立ちあがり、悪王豚蠅へ襲いかかる。悪王豚蠅が体勢を立て直した頃には俺が振りあげた湯かき棒がちょうど悪王豚蠅の頭へ振りおろされるところだった。
けれど悪王豚蠅は目にも止まらぬ速さで湯かき棒を持つ腕を下から叩いた。俺は痛みで湯かき棒を手放し、湯かき棒が宙に舞う。悪王豚蠅は跳躍し、なぜか湯かき棒へと火球を放った。
〔反魔金属〕が反応し、火球をかき消すが、火球がぶつかった衝撃までは無効化できない。湯かき棒はさらに上空へとのぼっていく。
悪王豚蠅は羽ばたき空へと飛翔。さらに何度も何度も火球を放ち、湯かき棒を空高くあげていく。
俺は空を見上げるも、悪王豚蠅が点のように小さくなって、かろうじてその姿が確認できる程度で、なにをしようとしているのかもわからない。
ただ赤紫梟雀は悪王豚蠅がなにをしているのかわかっているようで、
「少し無理をするのである」
そう呟くやいなや、後野さんの背中に赤紫色の炎翼を出現させ、飛翔した。
俺はその光景を見上げることしかできない。
点のように小さかった悪王豚蠅をようやく俺の視界がその輪郭をはっきりと捉える。落下してきているのか、高度がさがったのが原因だろう。その頃には悪王豚蠅が蘆永に戻っていることに気づいた。
〔魔力〕によって構成される悪王豚蠅は湯かき棒に触れることはできない。けれど現実の〔肉体〕を持った蘆永なら湯かき棒を破壊することも可能かもしれない。その際、赤紫梟雀に邪魔されることを懸念した悪王豚蠅はわざわざはるか上空で変身しようとしたのだ。
けれど赤紫梟雀は翼をはやし、飛翔。その行為を阻止したというわけだ。
その赤紫梟雀は悪王豚蠅を押さえてつけて急降下。
そのまま地面へと激突する。その寸前、悪王豚蠅は蘆永の姿をやめ、本来の姿へと戻っていた。
「衝突の衝撃はやはり〔肉体〕の要素が多い姿では耐えられないのであるな」
地面に衝突した悪王豚蠅は網のようになった紫電に捕らわれていた。悪王豚蠅はそこから逃れようと必死にもがいていた。
もちろん、その紫電は赤紫梟雀が時折使っていたものだ。
俺は悪王豚蠅の動きが封じられているのを確認してからもずっと空を見上げていた。薄紫の空から水色の、祖父が語ったかつての青空のような色をした湯かき棒が振ってくる。
俺は湯かき棒を自分の胸で抱きとめ、そして強くにぎりしめた。
――ここまでの流れが読めないんだけどどうなっているんだい?――
湯かき棒をにぎったことで、周囲が見えるようになった紫苑さんが問いかける。
とりあえず黙ってください。
俺が湯かき棒をにぎったことを確認した赤紫梟雀は
「行くである」
紫電がまとわりつき身動きができない悪王豚蠅をこちらに向かって投げた。
いや、どういうことだよ?
――なるほど。状況を察したよ、オールくん。さあ構えるんだ。野球ぐらい、キミだってやったことあるだろう?――
俺は言われるがまま、両手で湯かき棒をにぎりしめ、球となった悪王豚蠅を待ち構える。
紫苑さんと赤紫梟雀の思惑は合致してないのは明白だったが、まあいい。身動きのできない悪王豚蠅は倒せる千載一遇のチャンスには違いない。
――行っけぇぇぇえええ!――
紫苑さんの叫びに合わせて、俺は悪王豚蠅に向かって、湯かき棒を思いっきり振り回した。とてつもなく不恰好なフルスイングは悪王豚蠅を直撃し、悪王豚蠅の〔魔力〕を分解していく。
俺が湯かき棒を完全に振り切ると、悪王豚蠅の豚顔だけが地面に落ちた。その顔が〔肉体〕の部分なのだろうか。
「終わった……」
息切れしながらも俺は呟いた。そして一気に気が緩み脱力し、地面に腰をおろした。
「あとは任せたのである」
赤紫梟雀がそう言うと赤紫梟雀の髪が黒く染まる。後野さんに身体を返したのだ。
超人ならざる動きをした後野さんは身体を貸した代償か、一言も発せずそのまま倒れた。
5
「オール、終わったのか?」
武器庫のなかでセンパイたちを守ってくれていた八咲と音乗が近寄ってくる。
「ああ、とりあえず倒した。それよかセンパイたちは?」
俺は湯かき棒を隠しながらそう答えた。
「まだ全員、目を覚ましませんわ」
「だったら家まで送ってもらってもいいか?」
「お前はどーすんだよ?」
「とりあえず俺は行きたいところがあるんだ。悪いな、わがままばっかり言って」
残った豚顔に視線を落としながら俺は腰をあげた。
「まあいいぜ。その代わり、今度……」
「ああ、デートでもなんでもしてやるよ」
俺はさらりと言ってやった。
「約束ですわよ」
なぜかそれに音乗が反応する。まあいいか。どうせ音乗にも手伝ってもらうわけだし。
音乗は嬉々とした表情で八咲はなぜか顔を赤く染めて無言で武器庫へと戻っていく。
――キミって大胆なのか鈍感なのか、よくわからない男だな――
どういう意味ですか、それ。
言葉の意図がわからない俺は紫苑さんに問いかけるも紫苑さんはなにも答えてくれなかった。
――あ、それよりも寄ってほしいところがあるんだけどいいかな?――
俺が豚顔を抱えて歩き始めると紫苑さんがそう言った。
どこに寄るつもりですか。なにするつもりですか。こんな状況でもしかしてアダルトショップ的なところに俺を連れて行く気じゃないでしょうね?
――違う、違う。キミは変な勘違いをしてるね。――
じゃあ変な勘違いをしないように言葉はつつしんでくださいよ。
――手厳しいね。妹たちの裸を見たいと言ったことをまだ覚えていたのかい――
苦笑いをして、言葉を続ける。
――ちょっと百円ショップに寄って買ってほしいものがあるんだ。早くしないと躑躅が家に帰ってしまうからね。その前にその買ったものをダッシュで届けてほしい――
なにか意図があって言っているのだろう。俺は嘆息しつつもそれに従った。従わなかったらガミガミうるさくなにか言ってくるに違いない。手放してしまいたいがセンパイに返せばすぐさま〔異界王〕に挑みかねない、それはなんとしても防がなければならなかった。
幸い、この近くには百円ショップが多数存在する。俺は近場の百円ショップへと歩を進める。
――キミは躑躅と紅葉の復讐が間違ってると思うかい?――
俺の想いを読んだのか、紫苑さんが尋ねてくる。
百円ショップに入りがてら俺はこう言った。
――復讐ってのは大概間違ってるものでしょう。
「いらっしゃいませ」と店員の声が店内に響く。
紫苑さんはその店員の挨拶が終わるまで待ってから言葉を発した。
――それはどうだろうか。あ、THE・風呂コーナーに向かってくれ――
俺の意見に紫苑さんは疑問を呈しそして俺を買ってほしいもののところまで誘導する。
数十種類あるハサミを吟味している少年の横を通り過ぎて尋ねる。
それはどういうことですか?
――いや、復讐は正しいか、間違いかの枠で捉えていいものかと思ってね。まあただ一個人の思想さ――
俺はTHE・電気コーナーの角を曲がり一番奥へと進んでいく。
そういえば、センパイの復讐は紫苑さんがそそのかしたんですか?
――そんなわけない。ただ両親が〔異界王〕に殺されたことは話したよ。そしたらやっぱりこうなった。愛していた分、憎しみも人一倍ってやつだね――
紫苑さんは〔異界王〕を恨んでるのか?
俺は思い切って尋ねてみた。
――そりゃね、両親を殺されたんだぞ。でもだから復讐しようとは思わなかったね――
じゃあなんでセンパイは? それとあんたは復讐を止めようとしてない。
――あの子は単純で純粋なんだ。しかもそれに影響されて紅葉も復讐を考え始めた。紅葉は紅葉でお姉ちゃん子だからね、真似したがりなのさ。そして自分がふたりが復讐するのを止めないのは、自分も恨んでるからだよ。そんな人間の言葉を聞くと思っているのかい?――
確かにそうかもしれない。けどその恨みをわかっているからこそ、止めるべきじゃないのか?
――それはともかくTHE・風呂コーナーはまだかい?――
もうちょっとです、と俺は伝える。
――キミは躑躅たちの復讐を止めたいのかい?――
俺は止めたいですよ。
断言したところでTHE・風呂コーナーに到着する。陳列棚はプラスチック製品と石鹸や詰め替えシャンプーなどの風呂用品に別れていた。
なにを買うんですか?
――おいおい、THE・風呂コーナーに行ったら買うものはたったひとつだろう。風呂イス? 洗面器? シャンプー? 全部ノーだ。いいかい、買うのは湯かき棒だ。それも水色の――
それを聞いて俺は考える。俺は今、湯かき棒|(水色)を持って店に入っている。そんな俺が湯かき棒|(水色)を購入し、レジにてお金を支払う。それってとてつもなく恥ずかしいことなんじゃないのか?
――どうした? 早く買うんだ。それがきっと躑躅のためになる――
「どうしてセンパイのためになるんですか?」
買うのをためらっていた俺は思わず声に出して、紫苑さんに言葉の真意を尋ねる。店の隅、THE・風呂コーナーの一角で湯かき棒に語りかける姿を誰かが見ていたら不気味に違いないが今はそんなこと気にしてなどいられない。
――キミが〔異界王〕と戦うためには必ず〔反魔金属〕の力が必要となる。けれどもキミが〔反魔金属〕を持っていると知れば躑躅は返せと言ってくるだろう。じゃあどうする? 答えは簡単さ。〔反魔金属〕が入ってない、ただ湯をかくためだけの湯かき棒を渡せばいい。しかも百十円でそのカモフラージュができてしまうんだ。すごいお得だとは思わないか?――
紫苑さんの言うことには一理あった。俺は覚悟を決めて湯かき棒を手に取りレジに向かった。
レジの店員に先程手に取った湯かき棒を渡すと店内に持って入ったもうひとつの湯かき棒を見て、「そちらの商品は違いますか?」と尋ねられた。
「すいません、これと同じものを買ってこいって言われたんで」
それでもいぶかしんだ表情を見せたので、こっちはバーコードがついてないですよ、家から持ってきたんですよと主張して渋々納得してもらった。
もうこの百円ショップには通えない。そんな犠牲と百五円を支払って購入した俺は再び〔扉〕近くに戻った。
するとちょうどいいタイミングで八咲がセンパイを背負って武器庫から出てきた。
「八咲!」
紫苑さんの宿った湯かき棒を茂みに隠し、俺は八咲を呼んだ。
「オール、用事はすんだのか?」
「すまん、これからだ。湯かき棒をセンパイに返し忘れたんで返しておこうと思ってな」
「そうだったのか。ってかそういや、なんで湯かき棒を持ってたんだ?」
「あの、なんだ……その……なんか勇気が出るんじゃないかなー、って思ってな」
俺がそう言うと、「下手な嘘だな」と八咲は笑った。
「どうせ、あの襲ってきた組織に関係してたりするんだろ」
半分正解の答えを八咲は返してくる。俺は少し驚いてしまう。八咲はそんな表情を見抜いたにもかかわらず、こう言った。
「言えないなら今はいい、でもいつかきっと話せよ」
八咲の思いやりが心に染みた。
「ありがとう。いつか話す」
ただの湯かき棒を八咲に渡した俺はとっさに茂みに隠した湯かき棒を拾い、隠しておいた豚の頭部を回収して走り出す。旋律さんに会いに行くつもりだった。
道すがら、話したいことがあると旋律さんのスマホにメールを送る。了承のメールを受信し、俺は道のりを急ぐ。〔扉〕からあふれた〔異界生物〕はほとんど討伐されていたため、何者にも邪魔されることなく音乗の家にたどり着く。チャイムを鳴らすと「やあ」と旋律さんが玄関の扉から顔を覗かせ、俺の持つ豚の顔を見て「なんだい、それは?」と食いついた。
「これは〔異界生物〕の顔です」
「そんな〔異界生物〕初めて見たな……資料でも見たことないよ」
「ええとそれには理由があるんですが……そういえば旋律さんは蘆永って知ってますか?」
「えっと……ああ、キミたちのチームメイトだよね。そのぐらいはかるめるから聞いているよ」
「実は、その蘆永が……」
「ちょっと待ってくれ、オールくん。焦らなくてもいい。ボクは話を聞きたくてうずうずしている。とりあえずボクの部屋に行こう」
6
「――なるほど。つまり蘆永くんの正体が悪王豚蠅という〔異界生物〕だったわけだ」
「ええ、そしてこの湯かき棒が〔反魔金属〕で、紫苑さんが宿ってます」
俺はことのあらましを旋律さんにざっくりと説明した。
「で、ボクはなにをすればいいのかな? キミはボクになにかやってほしくて悪王豚蠅の顔を持ってきんだよね?」
「旋律さんの部屋にある資料は旋律さんが調べたものですよね?」
「正確に言えばボクの研究チームのものも含んでいるけどね。それがどうかしたのかい?」
「つまりそれって旋律さんが監視員である前に優秀な研究員であるってことですよね?」
「そういうことになるね」
「だったら俺がこれを持ってきたことも無駄足にならないわけだ」
俺がそう言うと、旋律さんは察したのか納得した顔で「なるほど。キミは悪王豚蠅の顔を調べてほしいんだね。キミのその選択は正しいと思うよ」
なぜならボクの専門分野は〔異界生物〕の生態だからね、任せてくれと旋律さんはつけ加える。
俺は頭をさげ、お礼を言った。
「とはいえ、そんな短時間で解析できるものではないんだ。躑躅さんが〔異界〕に行く可能性があるからできるだけ早く解析したいと思うんだけど最低でも一日かかるね」
「それで大丈夫です。センパイは俺がなんとか足止めしますので」
悪王豚蠅の解析を旋律さんに任せた俺は自宅へと帰った。
冷蔵庫のなかにある豚肉を調理して食べようと思ったが、悪王豚蠅の顔が過ぎり一気に食欲をなくす。
うなだれるように少しだけ目を閉じると眠気が襲ってきた。そのままベッドに寝転がる。
寝てはいけないと思いつつも今日はいろいろありすぎて疲れが溜まっていた。
蓄積された疲労は俺に襲いかかる睡魔に味方し、一瞬にして俺を夢の世界へと誘った。
***
センパイがいた。正面には〔異界王〕がいる。
〔異界王〕はセンパイをなぶり殺し、そして高らかに笑った。
これが悪夢だと俺は理解していた。
けれど目は覚めない。俺にその光景を見せつけるように。
――景色が変わる。
センパイが倒れている。正面には〔異界王〕がいた。
センパイの代わりに俺が〔異界王〕へと立ち向かう。一瞬にして胴体を貫かれる。
――景色が変わる。
センパイが死んでいる。大山が死んでいる。宮直先輩が死んでいる。後野さんが死んでいる。赤紫梟雀が死んでいる。音乗が死んでいる。
俺は我を忘れて〔異界王〕に立ち向かい、そして死んだ。
――景色が変わる。
センパイが死んでいる。大山が死んでいる。宮直先輩が死んでいる。後野さんが死んでいる。赤紫梟雀が死んでいる。音乗が死んでいる。今見が死んでいる。トドビーバーが死んでいる。ボンクラが死んでいる。旋律さんが死んでいる。誰も彼もが死んでいる。
〔異界王〕が笑いながら〔扉〕を潜り〔異界〕に戻っていく。そこに俺はいない。
――景色が変わる。
センパイがいる。正面には俺がいる。
俺はセンパイを説得し、俺たちは〔異界王〕を倒すのをやめる。
けれど〔異界〕はなくならない。〔魔力〕汚染は進み、俺たちの世界に〔異界生物〕があふれる。
やがて〔異界王〕もやってきて俺たちを殺す。
そして虐殺が始まる。誰も彼もが殺されて、俺たちの世界は〔扉〕を遺して空っぽになる。
――景色が変わる。
センパイがいる。正面には〔異界王〕の亡骸。けれどセンパイは涙をこぼす。
〔異界王〕が死んでも〔異界〕はなくならない。
〔魔力〕汚染は進み、俺たちの世界に〔異界生物〕があふれる。
〔異界王〕の側近が新たな〔異界王〕を名乗り、センパイを殺す。俺が激怒し、その〔異界王〕を殺す。その〔異界王〕を殺されたことに激怒した別の〔異界生物〕が俺を殺す。
そしてまた誰かが〔異界生物〕を殺し、違う〔異界生物〕がその殺した誰かを殺し――負の連鎖が続いていき、どちらの世界も空っぽになる。
――景色が変わる。
センパイがいる。正面には俺がいる。
センパイは湯かき棒を俺へと向けて、泣いていた。
俺の口が開く。なにかを告げているようだった。
今度はどんな最悪な結末なのだろうか、それがわからぬまま俺はそこで目を覚ます。
夢から醒めたあとにも断片的な記憶があった。どれもこれも最悪な結末。迎えたくもない結末。今見た悪夢以外の未来はないと予知しているようだった。それとも、そうなってはダメだと俺に警告してくれているのか。
悪夢のせいで自分のやろうとしていることが正しいのか、不安になる。
俺はセンパイを救えるのだろうか。
不安を押し殺すように、大丈夫だ、と強く念じる。
ベッドから起きあがり、ふとカーテンの隙間を見ると日がのぼっていた。
時計を見ると午前六時。
しまった! 深夜ぐらいにセンパイの家を見張ってセンパイが出てくるようなら足止めするはずだったのに!
もしセンパイが昨日目覚め、そしてすぐに〔異界王〕のもとに向かっていたとしたら、ただの湯かき棒で太刀打ちできるはずがない。
けれどもしかしたら、と俺は一縷の望みにかけて、湯かき棒をにぎりしめると家を飛び出した。
ただ俺は決定的なミスをしていた。
俺はセンパイの家を知らないのだ。そう俺の目論みは最初から破綻していた。
――そんなときこそ、出番だね――
俺の思考を読み取った紫苑さんが張り切った声を響かせる。確かに紫苑さんなら、センパイの家がわかる。
――でここはどこだい?――
けれど紫苑さんは拍子抜けしたような声を出す。
俺のアパートの近くです。
――ごめん。ここがどこなのかわからないな。こっからだと我が家はどう行けばいいんだろうね、オールくん?――
俺に聞かれても……。
嘆息した俺だったが、それでも打つ手なしというわけでもなかった。
焦っていて頭が回らなかったが、紫苑さんの申し出は、俺に誰かに尋ねるという発想を与えてくれた。その点は感謝してもいい。
――そうだろう? もっと感謝してもいいんだよ――
俺の思想を読み取った紫苑さんがそんなことを言ってくるが、俺は無視。断じてそれ以上の感謝を述べなかった。
スマホを取り出し、宮直先輩へと電話する。
早朝だし、ケガをしていて休んでいるだろうから迷惑かもしれないが、事情が事情なのでやむをえない。
『おはようっす、オールっち!』
しかし宮直先輩はそんなこと気にせず、明るい声を発した。
「昨日は大丈夫でしたか?」
『大丈夫なわけないっすよ。全身打撲中っすよ』
そう言い放った宮直先輩に俺は少し驚いていた。
全身打撲ですむはずがない。たぶん、俺に心配させまいとしているのだ。
「あー、宮直先輩にセンパイの家を教えてもらおうと思ったんですが、それなら無理ですね」
だからこそ俺は、宮直先輩の冗談に乗るふりをして断りを入れる。しかし、
『かわいい後輩の頼みなら全身打撲だろうとなんだろうと教えてしんぜるっすよ』
……しんぜる、って相変わらず宮直先輩の会話には緊張感がない。
『で今、オールっちはどこにいるっすか?』
「俺は家の前ですけど?」
『ああ、じゃあばりばり近いじゃないっすか。少しそこで待っているっすよ』
宮直先輩はそう言ってスマホを切る。
俺は急いで部屋に戻ってナップサックに湯かき棒を詰め込む。持っていることに対する説明が面倒だからだ。
再び電話した場所に戻ると既にその場所には宮直先輩がいた。
着ているジャージの裾からは包帯が見えた。やっぱり全身打撲ですんでいるはずがないのだ。
それでも宮直先輩はそのことを俺に気取られないようにしているのがわかった。だから俺もそのことには触れない。
「早っ!」
「言ったじゃないっすか。ばりばり近いって。あそこっすよ、うちの家」
そう言って宮直先輩が指さしたのは、道路をはさんで向かい側に立つ、俺のボロアパートとは段違いの高級マンションだった。
「つか、なんで俺の家、知ってるんです?」
「乙女は秘密のひとつやふたつ持ってるもんっすよ」
呆れてしまった俺に宮直先輩はとっとと行くっすよ、と歩き出した。我に返った俺はそれに続く。俺と宮直先輩の距離はまだ開いているが、初めて会ったときよりも近い。そのまま、俺たちは歩く。
センパイの家は高校の近くにあった。
白い壁の一戸建て。表札には『氷ノ山』と書いてあった。
「ここはつじっちの親戚の家なんすよ」
俺が表札に気づくと宮直先輩は言った。
時刻はまだ八時前、訪問するには早いだろう。
俺が玄関のチャイムを鳴らすのをためらっていると、宮直先輩が代わりに押した。
すると玄関からセンパイの親戚のおばさんが駆け寄ってくる。
「ああ、宮直さん。またうちの子たちがいなくなったのよ」
おばさんは心配げにそう答えた。
「安心するっす、またうちが見つけてくるっすから。心配はいらないっすよ」
「けど、またあの子ったら〔異界〕に……」
「たぶん、そうっすけど大丈夫っすよ。昨日は帰ってきたじゃないっすか」
「ええ、チームメイトに連れられてだけど」
「だったら今回もそうっすよ。そりゃ多少生傷が増えてるかもっすけど、また無事に帰ってくるっす」
「……わかったわ。宮直さん、何度も迷惑かけるけどお願いね」
「おばさん、うちは迷惑だなんて思ってないっすよ。いや違うっすね。迷惑だろうとなんだろうとかけていいのが友人ってもんっす。うちはつじっちの友人っすから、そんなの気にしてないっす」
宮直先輩はおばさんを元気づけるように笑顔で答えた。
「オールっち、事情はわかったっすね」
宮直先輩の言葉に俺が頷くと宮直先輩は走り出した。この方角には学校がある。おそらく学校に行くつもりだろうと察した俺はなにも言わずに宮直先輩について行く。
その途中、俺のスマホが鳴った。旋律さんからだった。
『やあオールくん、解析が終わったよ』
「まだ一日経ってないですよね?」
『研究者たるもの、常々新記録を打ちたてるものだよ』そう軽口を叩いた旋律さんは『それよりも気になること、というかよくわからないものがあってね、紫苑さんの意見を訊きたいんだ。今からでも来てくれるかい?』
俺は少しばかり迷ったが「わかりました」と答えた。
その後、少し先を行く宮直先輩を呼び止める。
「なんっすか?」
「ちょっと行かないといけない場所がありまして……」
どう説明すべきか迷いつつ、そして申し訳なさをかもし出しつつ俺が喋り出すと、「なら、行ってくればいいっす。つじっちはうちが探しとくっす」
説明の途中にもかかわらず、宮直先輩はそう言った。あまりのスムーズさに俺は戸惑ってしまう。
「さっき言ったっすよね。友人になら迷惑かけられても気にしないって。それはオールっちにも適用されるんっすよ」
「すいません、ありがとうございます」
俺はお礼を言って宮直先輩と別れた。
***
音乗の家にたどり着くと、音乗がちょうど家から出ていくところに出くわす。こんな朝早くどこにでかけるんだ? とはいえ、見つかるのはまずい。
俺は物陰に隠れてやり過ごす。音乗が角を曲がったのを見計らい、俺は音乗の家のチャイムを鳴らす。
「待っていたよ」
旋律さんに出迎えられ、俺は旋律さんの部屋へと向かう。旋律さんの部屋に入ると、そこには地下へと続く階段があった。
「ボク専用研究室ってやつさ」
そう言って笑った旋律さんは俺を下へとうながす。
研究室は俺の想像と違って案外普通だった。もっと近未来的な装置とか巨大なガラス管になにかがホルマリン漬けにしてあるだとか、そういう想像をしていたんだが、そんなことはなかった。
理科室にありそうな黒い鉄の板のようなテーブルにはワニグリップ的なものがいっぱい刺さった豚の顔があった。しかもその豚の顔は半分に割れている。
そのワニグリップの先はケーブルが続いており、それらは全てパソコンから延びるUSBハブの端子につながっている。パソコンのモニターにはなにやらよくわからないデータの書かれたウインドウが重なって開かれていた。
「俺に見せたかったのってその割れた豚の顔ですか?」
あまりの気持ち悪さに顔をしかめた俺が尋ねると、ああ違う違う、と旋律さんはワニグリップ的なものをはずし、豚の顔にシートを被せる。
「こんなグロテスクなものをキミに見せるつもりはなかったよ。一応、キミの元クラスメイトでもあるしね。ただ、かるめるに見つかりそうになって慌ててたら、直後にキミが来てかたづけるひまがなかったんだよ」
旋律さんは言い訳のように早口でそう続ける。
「そういえば音乗はどこに行ったんだ?」
「学校の先輩に呼ばれたって言ってたなあ。心当たりはあるかい?」
「もしかしたら……」
俺はセンパイを見張っていなかったこと、センパイの捜索を宮直先輩に依頼していることを自白する。
すると旋律さんは笑い、
「ま、そんなこともあるさ。ままならないのが人生だからね」
研究所の隅に置いてある音乗の母親、旋律さんの妻である女性の写真を見ながら少しもの哀しげに呟いた。なにか旋律さんにもそういうことがあったのだろう。
「それより、これを見てほしい」
旋律さんはポケットから六角形状のものを取り出した。
「それって、俺の……」
「そうキミが持つ〔異界王〕の欠片によく似ている。けれどわかると思うけどこれは寄生なんてしない。それはボクが持っているということを見れば明らかだよね?」
確かにそうだ。俺に寄生している〔異界王〕の欠片――〔魔流封玉〕は寄生していた祖父の死後、俺に寄生した。
けれど旋律さんの持っている〔魔流封玉〕によく似た鉱石は寄生してなどいない。ということはやはり〔魔流封玉〕とは別物ということになるのだろう。
「紫苑さんを連れてきてもらったのは、少し尋ねたいことがあるからなんだ。もちろんキミの話じゃ紫苑さんと話せる人は限られているらしいからキミが中継役になってくれよ」
わかりました、と了承した俺はナップサックから湯かき棒を取り出し、にぎりしめる。
「大丈夫ですよ。なんでも訊いてください」
俺がうながすと旋律さんは、
「率直に訊くよ。これはいったいなんなんだろうか?」
――わからない――
そう紫苑さんが答える。すると俺に寄生する〔魔流封玉〕はもちろんのこと、豚の顔からできてきた〔魔流封玉〕によく似た鉱石もなぜだか、その声に共鳴して震える。
「今のは?」
「わかりません。けど紫苑さんの喋りに反応して……」
俺がそう説明すると……旋律さんは近くにあったイスに座り、頭を抱え出した。
「旋律さん、どうしたんですか?」
――放っておこう。きっとなにかに気づいたんだ――
紫苑さんが喋るとまた〔魔流封玉〕に似た鉱石が共鳴する。〔魔流封玉〕が共鳴し俺に痛みが走るのは日常茶飯事だから省いておく。
「紫苑さんはこの鉱石についてなにか言っていたかい?」
「いえ、わからないとだけ」
「だろうね。紫苑さんは鉱石にはかなり詳しかったはずだ。つまり、わからないってことはなにか特別なものなんだろう。そういえば紫苑さんは〔異界王〕の欠片――〔魔流封玉〕についてなにか知ってることはあるのかい?」
――〔魔流封玉〕はすぐに大全さんに寄生したからね、なかなか研究ははかどらなかった。ただオールくんはわかっていると思うけど、〔魔流封玉〕は〔魔法〕をかき消すことができる――
俺は紫苑さんの言葉をそのまま旋律さんに伝える。
「〔魔法〕をかき消すか……なるほどね。ところで紫苑さんはどうやってキミと会話してるんだい? テレパシーみたいな感じかい?」
「そんな感じですね。俺は原理を知りませんけど」
俺がそう呟くと、紫苑さんが反応し、言葉が響く。
――〔魔法〕だよ。そういう〔魔法〕が存在するんだ。もっとも教科書には記載されてない〔魔石〕を組み合わせて作らないといけないけどね――
「〔魔法〕みたいです」
俺がそれを伝えると、
「なるほど……だとしたら」
旋律さんがなにかに気づくのを見て俺は急かすように尋ねた。
「なにかわかったんですか?」
「仮説でしかないけどね、この鉱石は〔魔力〕の変動を察知して吸いとっている」
旋律さんは豚の顔から出てきた鉱石を机に置き、よくわからない粉末を周囲に振りまいた。
「もう一度、紫苑さんに喋ってもらっていい、なんでもいいよ」
「だそうです」と俺がにぎっている湯かき棒に問いかけると、
――隣の柿はよく客食う柿だ――
なぜか間違った早口言葉を発した。柿が客を食うとか凶悪すぎる。
すると湯かき棒から鉱石へ、そして俺の胸へと光の道筋が作られた。その道は鉱石、そして俺の胸へと吸い込まれるように消えていく。
「これは……?」
「ボクがまいた粉末は目には見えない微量の〔魔力〕の流れを調べるものなんだ」
「つまり、紫苑さんが喋ったときに〔魔力〕が生じて、それに〔魔流封玉〕やその鉱石が反応したってことですか」
「そうだね、そしてこれでボクの仮説も一応成り立つわけだ。ただ、空気中の〔魔力〕には反応しないようだ。そこらへんはよくわからないな。けど見たように〔魔流封玉〕にもこの鉱石にも同じ反応があった。つまり性質自体は似てるってことだね」
俺は旋律さんから説明を受けて、とあることを思いついた。
当然、どう転ぶかはわからない。けれどうまくすればあるいは……。
――いい方法かもしれない。成功すれば、躑躅だって救える。だけどキミの考えるその方法じゃ……キミは……――
紫苑さんが俺の思考を読み取り、少しためらったようだが、それでも後押ししてくれる。若干の迷いがあった俺だったが紫苑さんの後押しで、その迷いは吹き飛んでいた。
「旋律さん、少し俺の話を聞いてもらえますか?」
だから俺は、俺が考えている計画を旋律さんにも話した。
その全てを聞き終えた旋律さんはうんうんと頷いて、こう言った。
「それについてはとやかく言わないよ。持っていくがいいよ、〔魔流封石〕を!」
そして、豚の顔から出てきた鉱石を投げ渡す。
「〔魔流封石〕って……名前があったんですか?」
「いや今つけたんだ。命名権は発見者にあるからね、まあ〔魔流封玉〕の劣化版ってことで〔魔流封石〕さ」
「じゃ、エリ草とかも命名者がいるってことですか?」
「ああ、確か、その草はボクの知り合いのゲーム好きがつけたはずだね」
それを聞いて大いに呆れた。
なんにしろ、旋律さんから〔魔流封石〕を受け取った俺はお礼を言って音乗の家を出ると急いで学校へと向かった。湯かき棒はまたナップサックに入れておく。
旋律さんに俺の思いつきを話している間に宮直先輩からメールが届き、センパイはやはり〔異界〕に向かっていたらしい。なんとか説得して思いとどまらせようとしているが持ちそうもないということだった。
出る間際、旋律さんは思い出したようにこう言った。
「環境省の件ね、どうやら解決しそうだよ。も少し痛い目を見るかもしれない」
7
「悪い、つじっちともみっちは〔異界〕に入ったっす」
学校へとたどり着いた俺へ宮直先輩が謝る。センパイも大山も既に〔異界〕に潜ったようだった。
「そうですか……。でもありがとうございます」
となると俺が計画を実行するのは、まずはセンパイと大山を止めてからということになるわけだ。手間が増えたが、宮直先輩たちを責めることはできない。
「そういや、音乗たちはどうしてここに?」
「ああ、それは簡単っすよ。オールがピンチだから助……モガモガ」
宮直先輩の言葉を音乗と八咲が必死に押さえ、
「宮直先輩からメールが来たから手伝いにきたんだよ」
八咲が代表して早口で答えた。なんで焦っているのか俺にはよくわからない。
「ありがとな。朝早いのに」
「いやはや、毎日呼び出される身にもなってほしいものである」
そう答えたのは後野さん。だが髪が赤紫。つまり赤紫梟雀がまた身体を借りているらしい。
「悪いな、いつも」
「今見はどうしたんだ?」
「メールは打ったっすけど返事がないっす。ただのしかばねにはなってないと思うっすから、たぶん寝てるんっすね」
「起こすことはないだろ。寝かせとけ」
昨日はあの冷気噴出装置で方々を回り大活躍したらしいから今日は大いに疲れているだろう。それを思えばこそ、無理につき合わせることはないと考えた。
「でやっぱり大山先輩たちは昨日と同じ目的だよな」
確認するように八咲が尋ねてくる。
「それはそうだ」
「では昨日と同じく躑躅先輩方を止めに行くんですの?」
「今回は違う。俺は〔異界王〕と話し合いをする気だ」
そう言ってのけると、みんなが驚いていた。
「正気っすか……」
宮直先輩が驚いて呟いていたが、俺は正気ですし本気ですよ。
そしてこれこそが旋律さんに打ち明けた内容だった。
「具体的にはどうするつもりっすか?」
「宮直先輩たちはセンパイたちを止めてくれるだけでいいです」
「それだけでいいっすか?」
「ええ、〔異界王〕はおそらく俺しか説得ができないと思いますから」
そう言うと宮直先輩たちは呆気に取られたかのように押し黙った。
「まあいいや。よくわかんねぇーけど、オレらがやれることだけやろうぜ」
八咲は俺の考えていることがなんなのか知ろうともせずにそんなことを言った。
「確かにそうっすね。迷惑かけるのが友人って今朝言ったばっかりっすからねえ」
八咲の言葉を受けて、宮直先輩が笑った。
「音乗はいいのか?」
震える音乗に尋ねると、音乗は呆れたようにため息をついて、
「昨日も言ったでしょう。行くつもりがないなら来てませんわ」
「そうだったな」
俺がふと笑うと音乗も笑った。
俺のチームメイトは事情がわからなくとも手伝ってくれる、いいやつらばかりだった。
「ありがとな」
自然と言葉がこぼれる。
「我には訊かぬのであるか?」
不意に赤紫梟雀が尋ねてきた。
「あんたは後野さんへの愛のために行くんだろ」
後野さんへの愛に生きる赤紫梟雀は答えはひとつしかない。
「バレているであるか……」
「バレバレだっつーの」
とまあ覚悟を決めつつも緊張感をほぐした俺たちは〔扉〕を潜ろうとしていた、そんなときだ。
「誘っといておれを置いていくンじゃねぇーよ」
中世の騎士のような鎧を着た今見が姿を現した。
「重そうだな」
「強そうだな、と言え!」
いばる今見だが足が震えていた。
「ありがとな」
全員がそろい〔扉〕へと向かう途中、宮直先輩が思い出したようにこう言い出した。
「オールっち、話し合いに失敗したからって、やけになって死ぬのはなしっすよ」
「当たり前じゃないですか、なんでそんなことを?」
「張りつめた顔してるっす。もっと気楽に行かなきゃ成功するものも成功しないっす」
それに――と宮直先輩は言葉を続ける。
「うちの男性恐怖症治してもらってないっすからね、約束を破るのはなしっす」
「ええ。だから俺は死ぬ気なんてありませんよ」
「オール、オレとの約束も忘れるなよ」
「わたくしとの約束もですわ」
「当たり前だ」
俺は笑う。抱えていた不安が、少しだけ和らいだ。
俺は〔扉〕と向き合った。
初めて入るとき、俺はこの〔扉〕を見て足がすくんだ。けれど今は違う。俺は堂々と立ち、〔扉〕を見据えていた。
「行くぞ!」
俺は一歩を踏み出し〔扉〕を潜った。
潜った先、〔異界〕の俺たちが実習をいつもしている場所では既にセンパイと大山が〔異界生物〕と戦闘を繰り広げていた。
対峙する相手はあひるの顔に岩肌の人の四肢、コウモリの翼を持った石鴨像鬼。センパイたちは自分たちを囲う石鴨像鬼へと自らの武器を振るっていた。振りおろす鉄殴棒と、横になぎ払う星殴棒の連続殴打が石鴨像鬼たちを次々と打ち砕いていく。
ただふたりに勢いはない。エンドレスで続く戦闘に疲労が溜まっているのだろう。〔異界王〕は遠くからふたりを狙って火炎球を打ちだしていた。
俺たちは号令もないままにその戦闘に加わる。
宮直先輩が突錐槍で石鴨像鬼の翼を打ちぬき、振り回して、周囲の石鴨像鬼ごと蹴散らし道を作る。その道に猪のごとく突進した八咲は獲物を喰らう獣のように猪槍牙剣を突き刺す。後ろに続く音乗や八咲は宮直先輩が打ちこぼした石鴨像鬼をまるで機械のような精密さで、確実に屠っていく。赤紫梟雀は紫電の網を発生させ、センパイや大山に襲いかかる石鴨像鬼の動きを封じ、センパイたちの負担を軽くしていた。今見は石鴨像鬼の灰色の拳を頑強な鎧で受けとめ、「これが製品の強さだ!」と自慢していた。自慢していただけだ。結局、今見に襲いかかっていた石鴨像鬼は八咲が倒した。「遊んでんじゃねぇよ」と八咲の怒号が飛ぶ。
俺はといえば〔異界王〕が放った火炎球へとその身を投げ出していた。
俺の身体に当たった火炎球は打ち消される。
ただ旋律さんの実験で立証されているようにこれは打ち消されたように見えるだけで、その実、俺の胸に寄生する〔魔流封玉〕に吸収されているのだ。胸が痛み出すが、もう慣れっこだ。
「どうして来たのよ」
センパイが俺に問いかける。
「そりゃチームですから」
俺はセンパイに自分の目的は言わなかった。センパイだって俺に自分の目的を言うことはなかったのだからおあいこ、ということにしておく。
「いい迷惑ね」
「宮直先輩曰く、友人なら迷惑をかけてもいいらしいですよ」
俺がそう言うとセンパイはなにも言わなくなった。石鴨像鬼が迫っていたからというのもあるがもしかしたら照れていたのかもしれない。でもそれは俺の推測に過ぎない。
けれどセンパイがどう思っているのであれ、俺が引きさがることはないのだ。
俺も石鴨像鬼の振りおろす腕を剣囲盾で弾き、すぐさま剣で突き刺す。
宮直先輩や八咲の健闘もあり、徐々に石鴨像鬼の数が減ってきた頃、センパイが石鴨像鬼の間を駆け抜け、〔異界王〕へと向かう。
俺もそれに気づき急いで追いかける。今のセンパイには〔異界王〕を倒すのは不可能なのだ。
センパイが背負う湯かき棒は、ただの湯かき棒だからだ。
センパイは単純だと紫苑さんが言っていた。だから紫苑さんが話しかけてこないのも、なにか事情があって話しかけてこないと思っているのだろう。
いやそれどころか昨日気を失ったままで今日にいたり、憎悪を引きずったままで〔異界〕に来たものだから、その湯かき棒がいつもの湯かき棒ではないとは気づいてないのかもしれない。
俺はセンパイを追うかたわら、戦っている宮直先輩に視線で合図を送る。
宮直先輩は頷き、大山にさりげなく近寄る。宮直先輩には大山を〔異界王〕に近づけないようにこっそり頼んでおいたのだ。「ありがとうございます」と小さく呟いて先を急ぐ。
〔異界王〕はセンパイの持つ湯かき棒を恐れているのかあまり近寄ってこない。それどころか、〔異界王〕はひと回り背が小さくなっているように見えた。
牽制だろう、〔異界王〕が火炎球をセンパイへと向けて放つ。センパイは、湯かき棒をにぎりしめ、火炎球を叩く。
〔反魔金属〕は運動エネルギーを得て、〔魔力〕を分解する。
けれどセンパイが持つ、その湯かき棒は、ただの湯かき棒だ。プラスチックでできた、ただの、湯かき棒。そのなかに〔反魔金属〕はない。
その湯かき棒は火炎球に当たり、そして一瞬にしてドロッと溶けた。
センパイと〔異界王〕の驚愕の顔。けれどそこに含まれている感情は正反対だ。
「なんでっ?」
思わずセンパイがこぼした言葉を聞いて〔異界王〕は火炎球を飛ばしながらセンパイへと超速で接近する。けれど俺は紙一重でセンパイと〔異界王〕の間に割り込む。
その間、俺は剣囲盾を投げ捨て、ナップサックから湯かき棒と〔魔流封石〕を取り出す。襲いかかる最初の火炎球を湯かき棒でかき消し、続く二発目、三発目を〔魔流封石〕で吸い込む。
接近しつつあった〔異界王〕は俺の行動を見て、直前で止まった。〔魔流封石〕をなにやら不思議そうな目で見ている。そして〔異界王〕の背丈は俺の見間違いではなく、やはり俺と同じぐらいにまで縮んでいた。
「どうして、キミがそれを持っているの?」
俺がにぎる湯かき棒が、自分の湯かき棒であると気づいたセンパイが尋ねる。
「昨日、借りたときにすり替えました。すいません……」
謝るとセンパイはなにか言おうと口を開いたが、それよりも早く俺は〔異界王〕にこう告げた。まるで喧嘩を売るように。
「話し合いだ、〔異界王〕!」
「果たし合い? 望むところだ」
そう言って動き出そうとする〔異界王〕に「違う、話し合いだ」と訴えかける。
「話し合い? そんなものができるとでも思っているのか!」
「思っているさ。思っているからこそ、こんな提案をしている!」
そう言うと俺をえぐろうとしていた腕はピクッと止まる。俺は湯かき棒を構えることもしてなかった。
「ちょっと……待ってよ。話し合いって、どういうこと? こいつは、父さんと母さんを殺したのよ! そんなやつと話し合いってどういうことよ?」
「そのまんまの意味ですよ。センパイに〔異界王〕は殺させない。センパイに復讐なんてさせてやらない」
復讐が正しいのか間違っているのかなんて、知ったこっちゃない。
けれどセンパイは復讐にとらわれすぎている。
そのせいで、センパイは前に進めていない。
それに復讐したところで前に進めるような気もしない。
正直、復讐に躍起になるセンパイなんて見てられないのだ。
だから俺はただ、それだけの気持ちでセンパイを救いたかったのだ。
「ふざけないでよ!」
センパイが怒り出す。当然だろう、俺はセンパイの復讐を阻もうとしているのだから。けれどセンパイの身体を紫電の網が襲い、それ以上、なにも言えなくなった。
その紫電を作ったのは当然、赤紫梟雀だった。
「早く話し合いをすませるのである」
大山もセンパイと同じように紫電に捕らわれている。
俺は再び〔異界王〕に向き合った。
けれど〔異界王〕はいつの間にか片手半剣――昨日、今見が落としたものを取り出し、俺に振りおろしていた。
「話し合いに応じろ、〔異界王〕!」
叫びつつ、俺は避ける。
「我輩様になんのメリットもない。ゆえに話し合う必要も余地もない!」
「あんたも見ただろう、この鉱石の力を」
〔異界王〕が軽く頷くのを見て俺は続ける。
「これをやる。これをやるから話し合いの場につけ!」
すると〔異界王〕は片手半剣を振りおろすのを止める。
「ふん。なるほどな。我輩様は話し合いをしようとするだけでそれがもらえるわけだ。でそれはなんだ? どうやって手に入れた? こちらの世界のものだとはわかるが、我輩様も見たことはないな」
「これは〔魔流封石〕。悪王豚蠅のなかから出てきたものだ」
「……事実か?」
「事実だ」
「だったら、交渉は決裂だ。話し合いする余地などない。悪王豚蠅を殺しておいてぬけぬけと話し合いだとふざけるな。おとなしく死ね!」
再度、片手半剣が俺を襲うが、俺はそれを転がるように避け、さらに訴える。
「ふざけてんのはそっちだ! しもべが……仲間が死んで悲しみ、憤怒するなら、センパイの怒りにも少しは同情しろ。俺がお前に復讐されるなら、お前はセンパイに復讐されるべきだ。そうだろう? あんたはセンパイの両親を殺したんだ、違うのか?」
違わないよな。
確かに〔異界王〕の言い分はわかる。俺は悪王豚蠅を殺しておきながら話し合いをしようとしているのだ。それでも訴える。
「あんたが悲しいって思うように、センパイだって悲しいんだ。わかったら、話し合いの場につけ!」
「……」
〔異界王〕はなにかを考えているようで、なにも言わなかった。やがて口笛を吹き、周囲にいた石鴨像鬼を後退させ、地面に腰をおろした。
「オールだったな……ひとまずお前の話を聞いてやる。ただし、我輩様がお前の申し出を受け入れるかどうかは別だ」
「それでいい」
ひとまず安堵した俺は〔魔流封石〕を〔異界王〕に投げる。
「いいのか?」
〔魔流封石〕を受け取った〔異界王〕が尋ねる。
「ああ、それが約束だっただろ」
「くく、確かに。だが、これをもらった瞬間、我輩様が裏切るということは考えなかったのか?」
「俺はあんたを信じる」
「根拠は?」
「赤紫梟雀も信じたから、というのが根拠だな。赤紫梟雀に愛情があるってことは少なくとも〔異界生物〕は感情を持ってるって思った。そのときから話し合いができるかもしれないってのは頭のなかにあったんだ。けど決め手がなかった」
「〔魔流封石〕が決め手だとでも?」
「ああ、それは〔魔流封玉〕と同じく流動する〔魔力〕を吸いとる」
「吸いとるだけか?」
たぶん、と俺が答えると、くくく、と〔異界王〕は笑った。
「だとすると〔魔流封石〕は決め手としては少々薄いな」
そう言って〔異界王〕は胸に〔魔流封石〕をはめた。
すると〔魔流封石〕が反応し、周囲の〔魔力〕そして〔異界王〕が〔魔流封石〕に吸い込まれていく。そう思いきや、再び〔異界王〕は姿を取り戻す。けれどその大きさはひと回り大きい。
「だが、〔魔流封玉〕によく似ておる。ただ手動になった分、手間がかかるようだな」
その後なにやら呟いた〔異界王〕だったが、その意味が俺にはさっぱりわからない。
「では、オール。話を聞いてやる」
どっしりと座った〔異界王〕はそう言った。
俺が一言目を発するのに合わせて二重の足音が響いた。それはセンパイと大山のものだった。赤紫梟雀の紫電の〔魔法〕が解けたらしい。
俺は赤紫梟雀に視線を送り、再び〔魔法〕を使うことを制止する。センパイたちを説得するなら、ここだ。
「オールくん、こいつと話し合うことはないわ。こいつは私たちの家族を殺したのよ!」
「お姉ちゃんの言う通りよ。こいつは生かしておいたらダメ。あたしたちのような不幸な人間がたくさん出るの」
センパイと大山の前に俺は立ちふさがった。
「どきなさい!」
センパイが俺の目の前に鉄殴棒を突き出す。
「どきません!」
センパイの怒鳴り声に負けじと声を張り上げ、俺は道を譲らない。
「こいつは私たちを不幸にした!」
「だから、こいつも不幸にする、ですか?」
センパイが続けようとした言葉を俺が続け、そして別の言葉を投げかける。
「センパイは勘違いしてる!」
「してないっ!」
怒鳴るセンパイを無視し、俺は訴えた。
「〔異界王〕が悪いんじゃない、〔異界〕と〔別界〕がつながったのが悪いんだ!」
俺はそう主張した。さらに俺の主張が続く。
「だからみんな不幸になったんです。宮直先輩は強姦されかけて男性恐怖症になったし、後野さんは生き返らせてもらったにしろ、一度は死んで、その記憶を持って生きてる。音乗は母親を、八咲は父親を亡くしてるし、さらに八咲は親友とだって離ればなれになった。今見だって、不幸なんだ」
「どういうことだよ、おい……」
今見自身は気づいていなかった。だからこれを言うのは少し悪い気はしたがそれでも俺は言った。
「IMAMIは環境省と防衛省と共謀して、いや利用されているだけかもしれないが……〔異界〕の武器を対諸外国用の軍事兵器として転用している。変な言い方かもしれないけど〔異界〕とつながらなければ魔がさすことはなかった」
「そうだったのか」
そう呟いた今見だったがあまり驚きはないようだった。
「だから防衛省の役人が何度も親父のところに来てたのか……へっ、そういうことか……」
それどころか妙に納得し、ざまあみろ、と笑った。今見はあまりショックを受けてないようだった。
「それにセンパイ、〔異界王〕だって悪王豚蠅を……蘆永を失った。〔異界〕がつながらなければ俺に殺されることもなかった」
「けど、侵略してきたのは〔異界王〕じゃない。それはどういうことよ?」
「〔別界〕のお前らが先にこちらに侵略してきたであろう。挙句、それは絶えぬことはなかった。だから征服せねばおとなしくならないと思って侵略したまでだ。悪王豚蠅に聞いたがお前らも戦争で領地を奪い合った歴史があるらしいではないか」
「だから侵略していいって言うの? あんたのせいで、私の家族だけじゃない、たくさんの人が不幸になったよ」
「それは我輩様とて同じ。多くの部下を失った。もっともお前らが我輩様に刃向かう種族を殺してくれたのはありがたかったが……」
言い合うセンパイと〔異界王〕を見て俺は思った。やっぱりみんな不幸なのだと。
「センパイ、俺の話は終わってません、聞いてください!」
俺は声を張り上げて叫んだ。
センパイの罵声が止まり、視線が俺へと注がれる。
「センパイは俺が〔異界王〕の欠片――〔魔流封玉〕を持っているんじゃないかって思ってましたよね?」
センパイが頷くのを見て俺は言葉を続ける。
「けどセンパイは俺が〔魔流封玉〕を普通に――そう、例えばポケットのなかに入れて持っているんじゃないかってそういうふうに思ってる。そうでしょう? けどそれは勘違いなんですよ。俺も〔異界〕がつながったせいで不幸なんです」
「どう、不幸なのよ……」
「こう、不幸なんです」
俺はここに来るとき、鎖防護服を着てこなかった。
初めから話し合うつもりだったからというのもあるが、一番の理由は、やはりこれだ。
Tシャツを脱いで、それを全員に見せつける。
センパイは目を見開き、絶句した。誰もが声を出せずにいた。
「俺は祖父が……面舵大全が亡くなってから、ずっとこの〔魔流封玉〕とともに歩んできた。この学校に入ったのも、〔魔流封玉〕をはずす方法を探すためなんですよ」
「はずす方法はわかったの?」
センパイがおそるおそる尋ねた。俺は首を横に振る。それを見て、くくく、と〔異界王〕が笑った。
「嘘をつけ。お前はどうやら頭の回転が速いようだから、はずす方法をうすうすは気づいているんだろう?」
「どういうことよ?」
「大全というのは我輩様から〔魔流封玉〕を奪った老人だろう、その老人にも当然、〔魔流封玉〕が寄生した。あれはそういう仕組みだからな、そして大全に寄生した〔魔流封玉〕は大全の死後、ようやくはずれた。それがどういうことだか、オール、お前はわかっているんだろ?」
俺は無言を貫いていた。
「〔魔流封玉〕をはずす方法はひとつしかない。死ぬことだ。お前ははずす方法を知りながらも必死にほかの道があるはずだともがいていた。不幸だ、不幸だな、オール。はずすには死ぬしかない」
「待ってよ、〔反魔金属〕があるじゃない。これで大全さんは〔異界王〕から〔魔流封玉〕を取ったのよ?」
「勘違いするなよ、小娘。あれは我輩様の胸元の〔魔力〕をかき消した結果、取れただけに過ぎない。さて、どうする? 返答次第では我輩様が優しく優雅に殺してやってもいいぞ。元々それが目的だったからな!」
「どうするか、だと? そんなの決まってる!」
〔異界王〕に話し合いを提案する時点で俺は決めていた。
「俺は〔魔流封玉〕とともに生きるよ」
仮にほかにはずす方法があったのだとしても俺は、センパイのように不幸を背負い込むと決めていた。でなければセンパイを止めることなんてできやしない。
知ったような口をきくな、そう言われておしまいだ。
同じ境遇になってからでなければセンパイどころか、誰も救うことなんてできない。
すると〔異界王〕は笑った。
くっくっく、という笑いをかみ殺すような笑いではなく、「はーっはっはっは」という豪快な笑いだった。
「なるほどな。いい覚悟だ。でお前は我輩様になにを提案するのだ? まあ、〔魔流封玉〕を受け入れたと聞いた時点でわかったがな、〔魔流封玉〕を奪うのをあきらめろ、というのだろう」
「そうだ、その代わり、こちらはセンパイたちに復讐をあきらめてもらう。〔反魔金属〕も〔異界〕に持ち込まないと誓う」
「そんな……勝手に……お姉ちゃんの思いも知らないで……」
俺の提案に大山が反発する。けれどそれを制したのはセンパイだった。
「オールくん……私は復讐をあきらめたらたぶん、キミのこと恨むよ」
「そりゃ、当然の権利だと思います」
俺の祖父も〔異界王〕から〔魔流封玉〕を奪ったとき〔魔力〕汚染が進むとは思ってなかっただろう。そもそも教科書に書かれている通り、〔異界王〕に攻撃を加えられたのも偶然だったのだろう。
けれど結果的に〔魔力〕汚染が進み、それは祖父のせいにされた。そのせいで俺は町から町へと転々としていた。
だから俺は祖父を恨んでいた。けれどいつの間にかその恨みはふと消えていた。
おそらく祖父の行いが正しいと気づいたからだ。
だから俺が恨んでいたようにセンパイも俺を恨んでもいい。
それでも俺はそのセンパイの恨みがいつか消えると信じる。
もしかしたら祖父もそれを信じていたから恨まれ続けても耐えていられたのかもしれない。
「わかったわ。じゃあ、あきらめる」
「お姉ちゃん……」
納得がいかないような顔で大山はセンパイの顔をながめた。
「いいの……いいのよこれで」
センパイはまるで自分を納得させるかのように大山に呟いた。
「お姉ちゃん、あたしが〔異界王〕を恨んでいたのはね、お姉ちゃんまで奪うんじゃないかって思ったからだよ」
大山は少し悲しげな表情をしていた。
「だってお姉ちゃんまでいなくなったらあたしは一人ぼっちだよ。おばさんたちも優しくしてくれるけどやっぱり今の家族はお姉ちゃんだけなの。そんなお姉ちゃんがひとりで〔異界王〕を倒すなんていうんだもの。そんなの無理に決まってる。お姉ちゃんが〔異界王〕に殺されてしまう。だからあたしも〔異界王〕を恨んでた。お姉ちゃんが死んだわけでもないのに、殺されてしまうかもしれない、それだけで」
なんてことはない、大山はセンパイが心配だった――いや守りたかったから〔異界王〕を倒すと言っていたのだ。もちろん、両親の復讐のためではなかったとは言い切れない。
けれどセンパイよりも復讐にはとらわれていなかった。ただただ姉のため、ただそれだけのために大山は動いていたのだ。
――言ったろ、紅葉はお姉ちゃん子だって――
今まで口をはさまなかった紫苑さんが口を出す。
「だから、突然〔異界王〕を倒すって言い出したのね」
センパイにもそのことが伝わったのだろう、うん、と大山が呟く。
「バカなんだから」
センパイは大山を、自分の妹を強く強く抱きしめた。
抱かれた大山は肩の荷がおりたかのように少しだけ泣いていた。しばらく抱き合ったあとセンパイは俺のほうを向いて、こう言った。
「オールくん、兄さんと話がしたいの」
大山がそれを聞いて驚いていた。
「兄さんがいるの?」
「黙っててごめん。私が持ち歩いていた湯かき棒にね、兄さんは宿ってるの」
「嘘……」
「嘘じゃないわ。けどごめん、証拠を見せられないわ」
「ううん、いいよ」大山は湯かき棒に触り「信じるよ」と笑みをこぼした。
「ということだ、〔異界王〕。センパイはあんたに復讐するのをあきらめた。その代わり、あんたは……」
「わかった。あきらめてやろう」
〔異界王〕はすんなりと俺の提案を受け入れた。その清々しさが逆に怪しくもあったが俺は素直にその言葉を信じた。
「意外だな。すんなり受け入れたのが逆に怪しいと思うかと思ったが……」
「少しはそう思ったけどな、俺はあんたを信じる、そう言ったはずだ」
「くくく、なるほどな。だからか。面白いな、お前は……」
ならば特別に説明してやる、〔異界王〕はそう言った。
「そもそもお前の胸に寄生する〔魔流封玉〕は我輩様にとってなんだと思う?」
「なに、って……〔魔法〕を吸いとるって無効化するってことは、〔魔法〕に対する防御っていうことだろう?」
「違う。我輩様にとっての〔魔流封玉〕はある種の生命維持装置だ。我輩様たちは〔肉体〕と〔魔力〕で構成されている。ただ例外で我輩様は〔魔力〕のみで存在している」
「だから侵略するために〔魔力〕で俺たちの世界を汚染してたんだろう?」
「そうだ、〔魔力〕のみで存在している我輩様は、我輩様の存在を維持できるほどの〔魔力〕が必要となるからな」
〔異界王〕は俺たちが理解できるように、ゆっくりと語り始めた。
「さらに〔魔力〕は体内から勝手に流出するようになっている。これを〔不純魔力〕といい、少し穢れが入ったものだ。〔魔法〕に含まれる〔魔力〕もこの〔魔力〕だ。そしてこの〔不純魔力〕は植物が吸収し新たな〔魔力〕に変える」
「こっちの世界の植物が二酸化炭素を酸素に変えるようなものか」
俺は思わず呟くが〔異界王〕がわかるはずがない。いぶかしんだ表情を向ける〔異界王〕に「独り言だ、気にしないでくれ」と謝ると〔異界王〕は言葉を続ける。
「ただ、我輩様が必要とする〔魔力〕は莫大で、植物から新しく〔魔力〕が生み出されるとしてもいずれ不足してしまう。ゆえに〔魔流封玉〕が必要だった。〔魔流封玉〕は流動する〔不純魔力〕を取り入れ、そして寄生しているものに自動的に必要な分だけの〔魔力〕を送りこむ。つまり植物以外での〔魔力〕循環器であり、そして我輩様にとっては生命維持装置である」
だからそれを持っていなかった〔異界王〕は〔魔力〕が不足し、一時期俺よりも背が低くなっていたのだ。そう考えて俺は気づく。
「だったらなおさら、〔魔流封玉〕が必要なんじゃないのか?」
それでも〔異界王〕は俺から〔魔流封玉〕を奪うのをあきらめると約束した。
「まあ待て。我輩様がお前に殺してやろうかと問うたとき、こう言っただろう。『元々それが目的だった』と。つまりあの時点で〔魔流封玉〕はもう必要がなくなっていた」
「どういうことだよ、それ……」
「お前がくれた〔魔流封石〕は〔不純魔力〕を取り入れ、〔魔力〕に変えるものだった」
「待て。じゃあ〔魔流封玉〕となにが違うんだ」
「〔魔流封玉〕は寄生しているものに自動的に必要な分だけの〔魔力〕を送りこむ。もっとも、もとから〔魔力〕を持っているものに対してだけだがな。対して〔魔流封石〕はそれがない。けれどその程度の違いでしかない。自動的に〔魔力〕を送りこんでくれぬのならば、〔魔流封石〕から手動で取り込めばいい。結局、我輩様がお前を殺そうとしていたのは我輩様の存在が危ぶまれていたからだ。だからそれがなくなった以上、〔魔流封玉〕に固執する意味もない」
「そうだったのか」
つまり俺が〔魔流封石〕を持ってきた時点で、俺が殺される理由はほぼなくなっていたということだろう。けれどそれは仮定の話だ。
センパイの復讐をあきらめさせ、〔異界王〕が話し合いの場についたからこそ、今があるのだ。
俺は安堵していた。いや安堵してしまった。まだ終わってなどいないのに。
それを証明するかのように〔異界王〕は言った。
「なにを安堵したような顔をしている。我輩様は〔別界〕への侵略はやめんぞ」
そうなのだ。俺は〔異界王〕にそのことを提案していない。
「ふざけんな!」
今まで口をはさまずにいてくれた八咲が吼える。
「我輩様は別に侵略を取りやめてもいい。我輩様は王だからな、多くのものがつき従い、逆らうものは殺せばいいだけの話だ。けれど〔別界〕はそうもいくまい、そちらには何人もの王が寄り添う機関があるのだろう? その王たち全員が足並みそろえて侵略を中止するとは到底思えない。我輩様もしもべどもの意志統率には苦労しておるからな」
「どうするのよ、オールくん? 私が復讐をあきらめたところで、野放しにしておけばこいつはまた私のような復讐者を産むわよ」
「ならば、どうする? 我輩様を殺すか?」
「今日、俺はここに殺し合いに来たんじゃない、話し合いに来たんだ。俺は〔異界王〕とは戦わない!」
「じゃあどうするのよ?」
「どうするもこうするも、俺は侵略するのをやめろと訴えになんて来ちゃいない」
センパイがそれを聞いて、なにか言おうとしていた。表情を見るからに怒鳴ろうとしていたのだろう、けれど俺はセンパイがなにか言うよりも早く、こう言った。
「協力してくれ、〔異界王〕! あんたは知ってるんだろ。この世界の隔絶の仕方を!」
「ふん、それを知ってどうする? なぜ我輩様がそれを知っていながら今までそれをしようとしなかったのか、その意味がわかるか?」
言われてみればそうだ。隔絶の仕方を知っているなら、とっくに〔異界王〕がやっているはずだ。そうすれば〔扉〕はなくなるのだから、こちらからの侵略者は訪れない。
「簡単だ。我輩様は王ゆえにいろいろなやつらに命を狙われている。ゆえにそれを行おうとすればその隙に殺されてしまう。しかもそんなおりに〔魔流封玉〕を奪われ、存在が危ぶまれた。そんな状況で隔絶などできるはずがない。唯一できたのは〔魔力〕を流出させない特殊な物体で作らせた我が城に居座り、命令を出すだけだった」
「けど今は違うんじゃないか? お前の存在は危ぶまれていない」
「しかし我輩様を狙う刺客がいるのは確かだ。城に居座っているときもどれほどの刺客が襲ってきたと思っている?」
「だったら俺たちが動く。あんたの知っている方法を使って俺たちが世界を隔絶する」
「結局、なにも変わらんよ。お前たちがなにかをしていると勘ぐれば、動くやつは動く」
「そこで〔異界王〕あんたの出番だ。大きく暴れて注意を引きつけてくれ」
「囮になれ、と?」
「言い方を悪くすればそうだ。けど役目を逆にした場合とどっちのほうが、成功確率が高いと思う?」
「それはお前の提案通りのほうだろうな」
〔異界王〕は考えた挙句、そう答えた。
「だったら協力してくれ」
俺は嘆願する。すると〔異界王〕はこう言った。
「ただひとつ、難点があるぞ」
そして続く言葉は俺たちを大いに驚かせた。
「お前らのうち、ひとりは〔異界〕に残ることになる」
「……きちんと説明してくれ」
状況を把握するため、俺は〔異界王〕にそう頼み込んだ。
「隔絶の仕方は簡単だ。この世界には〔旧き壁〕というものがある。この〔旧き壁〕は全部で百八個あり、それを押す順番によってあらかじめ封印されている――〔失魔法〕が解き放たれる。ちなみに今ある〔扉〕は〔旧き壁〕の押し間違えによって出現した。本来なら我輩様を殺す〔失魔法〕が発動する算段だったらしい。我輩様はそのおかげで今も生きているわけだが、それは関係ないな」
「ようは、その〔失魔法〕で世界はつながった、そうだろ?」
「そうだ。そして逆も然り。出現したときとは逆の押し方で世界は隔絶される。しかし先も述べたように我輩様が動けば、刺客が動くため我輩様はそれができないでいた」
「で、なんで俺たちのひとりが〔異界〕に残ることになるんだ?」
「〔旧き壁〕はなんの予兆もなく《〔失魔法〕を発動する。つまり百八個目の〔旧き壁〕に触れたとたん、〔失魔法〕は発動し、〔扉〕は瞬時に消滅する。ゆえに最後に〔旧き壁〕を押したひとりはここに残らなければならない」
最後の〔旧き壁〕を〔異界王〕に押してもらうことも考えたが、囮となった〔異界王〕にどれほどの〔異界生物〕が襲いかかってくるかわからない。
「ほかに方法はないのか? 例えば最後のひとつだけ、お前の部下が押すとか……」
「途中でそれに気づかれたら隔絶どころの問題ではないぞ」
それはその通りだ。だとしたら、誰かが残るしかないのか――いや誰かがなんて考える必要なんてなかった。
「だったら、俺が……」
残ると言い切る前に、
「マツリが残るよ~」
後野さんがそう言った。赤紫梟雀のようにハキハキとしてない、ゆったりとしたその口調は、後野さんの姿を見るまでもなく後野さんの口調だ。
後野さん自身を確認しても当然のように髪の色は後野さんが本来持つ灰色に近い黒色だった。
だからつまりその発言は本人の意志によるものだ。
「マツリは一度死んで~ポイちゃんに助けられた~」
ポイちゃんというのはおそらく赤紫梟雀のことだろう。
「それでね~、ポイちゃんが乗り移って、マツリを治してくれている間に、すごいすご~いポイちゃんの愛情が伝わってきたの~。それで~マツリはポイちゃんに恋してしまったんだと思う~」
戦場カメラマンを彷彿とさせるようなゆったりとした口調で、後野さんはそう言った。
「だから~マツリ、残ってもいいよ~。ポイちゃんがいるから~全然、さびしくないし~」
「けど両親が心配するんじゃ」
「両親はいないよ~。〔異界生物〕が壊した建物にペッチャンコに~されちゃったんだ~」
そう語るときの後野さんは少しさびしげな目をした。
俺はそこで初めて後野さんの境遇を知った。けれど、それでも後野さんは赤紫梟雀を慕っている。
それはすごいことだった。
「……本当にいいんですね?」
「いいよ~」
その言葉に迷いはなかった。赤紫梟雀との、〔異界生物〕との、恋を選んだ。そういうことだろう。
「じゃあすいませんが、お願いします」
それでもなんだか申し訳ないように感じて俺は謝った。
「わかってる~。任せてよ」
「祭、本当にいいの?」
心配になったセンパイが後野さんに声をかける。
「いいとも~。でも~、つーちゃんと別れるのは少しさびしいかも~。けどもう決めたことだから~。悲しいお別れにならないように~最後は~、笑顔でね~」
「うん。わかった。ごめんね、ひどいことも言ったのに。私、まだ謝ってない」
ごめんね、とセンパイが呟くと、後野さんはニヒヒと独特の笑いを見せて、「とっくに許してるよ~」と明るく弾んだ声を響かせる。
「それと音乗にはやってほしいことがある」
俺は静かに経緯を見守っていてくれた音乗に言葉を投げかける。
「なんですの?」と反応した音乗に俺は続けて、
「上とかけ合って全世界の〔潜者〕を引き上げるように旋律さんに言ってほしい」
「確かに、〔潜者〕が〔異界〕にいたら取り残されてしまいますものね」
「そういうことだ」
「わかりましたわ。それではかけ合ってみますわ」
そう言って音乗は〔扉〕を潜り俺たちの世界へと帰っていく。
「あとはみんなで手分けして〔旧き壁〕を押そう」
「けど順番が大事なんっすよね、遠距離の意志疎通ができないと手分けしてなんて無理っすよ」
「なんのための我輩様だ。〔魔法〕を使えば意志の疎通などたやすいわ」
そう言って〔異界王〕が指を鳴らす。
なにも変化が起きてないように感じられたが、
「なにが起きたっすか?」
宮直先輩の声が頭に響き、意志疎通ができていることに気がついた。
「それと〔旧き壁〕は世界中にあるから移動にはこいつらを使え」
〔異界王〕が再び指を鳴らすと雷駄馬という馬に雷の翼を生やした〔異界生物〕が出現した。頼りなさそうなアホ面をしているが大丈夫なのだろうか。
「それでは行くぞ」
そう言ってからは速かった。
〔異界王〕は飛び立ち、そして近隣の森を燃やし始めた。森に住む〔異界生物〕たちが飛び出してくる。
〔異界王〕曰く自分をつけ狙う一党らしい。それを機に様々な〔異界生物〕が〔異界王〕に襲いかかる。
しかしやはり王というべきだろう、それらを軽々と倒していく。
さらに〔異界王〕が指を鳴らすと、〔異界王〕の後ろに、数匹の〔異界生物〕が現れる。〔異界王〕の側近たちだろう。側近たちは王の命令に従い、動き始めた。
俺たちはその間に、点在する〔旧き壁〕へと向かい〔異界王〕の指示に従って押していく。
そしてとうとう、百八個目の〔旧き壁〕へとたどり着く。
後野さんとの別れということもあり、俺たちはその〔旧き壁〕へと集まっていた。
「じゃあ、ここでお別れだね~」
立ち止まった後野さんをセンパイが抱きしめる。目尻には涙が溜まっていた。
それから宮直先輩も後野さんを軽く抱きしめた。別れを惜しむように。
そして俺たちは雷駄馬に乗った。
後野さんは見送るためか俺たちを見ていた。
「待つのである」
そんなとき、赤紫梟雀の声がした。
見れば、赤紫梟雀が後野さんの横に立っていた。
「ポイちゃん~、どうして……?」
後野さんが驚いて声を出した。
「後野さんの身体から離れて大丈夫なのかよ?」
俺が尋ねると、赤紫梟雀は笑う。
「マツリ嬢の身体は修復し終えているから大丈夫である」
「で、どうして出てきたんだ? お前も俺たちとの別れを悲しんでいるってことか?」
「惜別に対してはあまり感慨がわかないのである」
「じゃあなんで?」
「マツリ嬢を連れて帰るのである」
「待ってよ~! ポイちゃん、なにも言わなかったじゃない~!」
「ここに残っていいとは言ってないのである」
「でもマツリはここにいたい~! ポイちゃんと一緒にいたい!」
「ダメである。ここは人間が住めるような場所ではないのである」
「でも……」
引きさがらない後野さんに赤紫梟雀は蹴りを入れる。
「どうして?」
腹にケガを負った後野さんは、泣きそうな表情になっていた。
「去るのである!」
近づこうとする愛しの人に赤紫梟雀は突然、怒気を孕んだ声を出す。わざとだ。わざと怒ることで、どうにかして後野さんを俺たちの世界に帰そうとしているのだ。
「行くわよ」
センパイがそれに気づいて後野さんの手を引く。
「で、でも~」
「いいから……彼の気持ちを考えるのよ」
赤紫梟雀は悲しげな目で後野さんを見ていた。
「……」
後野さんはもうなにも言わなかった。
「あとはお前がやってくれる、ってことでいいんだよな?」
「ふむ。なにか裏があるとは考えないのであるか?」
「今更、それを聞くのかよ。俺は何度でも言ってやるよ。信じてる、ってな」
「そうであったな」
赤紫梟雀は納得して頷き、そして笑った。
「〔扉〕が消失したら、これをマツリ嬢に渡してほしいのである」
それは赤紫梟雀の羽根だった。
「わかった。絶対に渡す」
俺はその羽根を受け取って雷駄馬に乗る。
「赤紫梟雀!」
また会おうな、俺はそう言おうとした。けれどそれは再び〔扉〕が開くということだ。そしてそれはまた新たな不幸を呼ぶのだろう。それを防ぐために〔扉〕を閉めるというのに、俺たちの再会のために開いてしまっては本末転倒だろう。
だから俺はその代わりとなる言葉を紡ぐ。
「じゃあな!」
「うむ。さよならである」
雷駄馬に指示を出して俺たちは空を駆ける。
赤紫梟雀はずっと俺たちを見守り続けていた。
〔扉〕の前で、意志疎通の〔魔法〕を介して、〔扉〕に入ることを赤紫梟雀に伝えた。
赤紫梟雀は別れをすませたあとだからだろう、なにも言わなかった。
俺は〔扉〕を潜る。
荒れたグランド、年季が入った校舎。少しだけ薄暗い空――見慣れた光景が俺たちを迎える。
俺たちは別れを惜しむように〔扉〕を振り向いた。
けど、そこに〔扉〕はもうなかった。
「終わったんだな……」
俺は呟いた。
そして思い出したように赤紫梟雀の羽根を取り出す。
「それは……?」
羽根に気づいたセンパイが尋ねる。
「赤紫梟雀が後野さんに渡してくれって」
俺は後野さんにその赤紫色の羽根を渡す。
けれどその羽根は後野さんが受け取る前に変化を起こした。赤紫色の羽根は、金色に輝き、空へと舞いあがる。そして弾けた。
その弾けた光はハートをかたどった。さながらハート型の花火だった。
愛に生きた赤紫梟雀の最後の愛情表現だった。
後野さんはそこで初めて声に出して泣いた。
異なる生物同士の恋物語の終わりだった。
8
それから三日が経った。
世界は〔扉〕が消えたことでてんやわんやになっていた。〔潜者〕を生業としていた人は突然職を失う形になったが日本では大半が環境省の役員を兼任していたので大した問題が起こらないようだった。ほかの人たちも環境省が中心となって職探しを手伝っているらしい。
世界にただよう〔魔力〕は旋律さんの見解だと、地球の浄化能力によって数年後には完全になくなるらしかった。
ちなみにIMAMIは軍事兵器開発が露見し、それに加担していた社長や社員は全員解雇され、加担していた環境省、防衛省の役人も一新された。解雇された役人の天下り云々も問題視されているが、それは政治家が解決する問題だろう。
今見はの問題で少しだけ気まずそうにしていたが、本人が妾の子だったこともあったりして「あの親父はクソだぞ」と相変わらずの皮肉を飛ばしていた。
当然、俺たちにも変化があった。
〔扉〕がなくなり、世界が〔異界〕と断絶したことで〔異界専門学科〕は不要になった。そのため、俺たち〔潜者〕見習いは希望すれば、違う高校に編入できるという特例処置が取られた。ただ、通常の授業を行ってなかったということで、全員が一年生からやり直しみたいだ。
俺たち五班は全員が編入を希望し、前日まで手続きに忙殺されていた。
全員が一年生になるということもあり、センパイとは同級生になる。なんだか複雑な気分だ。
それとボンクラとトドビーバーがつき合い始めた。昨日、俺たちの知らぬ存ぜぬところでなにかあったらしい。俺はふたりの恋路を生暖かく見守ろうと、そう決めている。
俺個人としてはなにも変わってない。
俺の左胸には〔魔流封玉〕が寄生していた。
受け入れると決めたのだから後悔はまったくない。
ワイシャツに袖を通し、ボタンをとめる。
新しく変わった黄土色のブレザーを着る。濃紺色のスラックスは既にはいている。ネクタイは赤いままだ。
「行くか」
誰に言うこともなく俺はひとり呟いて外に出る。
「遅いわよ」
センパイの――いや躑躅……さんの声が響く。俺と同じ黄土色のブレザーに紺と白のチェックのスカート、赤の帯リボンをつけたその姿は新鮮だった。
今日、新しい高校へと初登校となるわけだが、チームメイト全員|(今見を除く)から一緒に行こう、とお声がかかっていた。
だからまあ、全員で待ち合わせをしていたわけだが、躑躅さんが迎えに来てくれるとは思いもよらず、なんだか嬉しい。
ちなみにセンパイではなく躑躅さんと呼んでいるのは本人から「これからは同級生だからセンパイなのはおかしい」とご指摘があったからだ。ごもっとも。
けれど年上なので呼び捨てにするわけにもいかず、俺は躑躅さんと呼ぶことにした。躑躅さんはそれを聞いて少し頬をふくらませていたが、俺にどうしろと。
ちなみに躑躅さんは湯かき棒を背負っていなかった。もう持ち歩く必要はないからだ。
歩きがてら、今、湯かき棒をどうしているのか尋ねると躑躅さんは言った。
「今は湯加減の調整に使っているわ」
俺はそれを聞いて微笑んだ。
今でも、躑躅さんは――
彼女は湯かき棒を振るっている。