僥倖を望む
勝算が無いと思っていた。
そう言えば嘘になる。だが、勝算があったわけでは無い。この交渉で負ける根拠は何も無いが、だからと言って全てが自分の思い通りになると考えるほど竜吉公主は傲慢ではなかった。
西王母が傍観者となった今、楊暄国だけが論敵になる。論客としては取るに足らない存在である。
しかし、それだけに交渉は難航すると想像できた。暄国は言葉が足らず説得力がないのと逆の力がかかっているかのように物分りが悪いのだ。損得の計算が苦手な故に、警戒心が強く、騙されているのではないかと一歩も引かないところがある。
暄国の立場としては有利な状況にあるわけだから、多少の譲歩をしても良いはずだ。それなのに、相手を追い詰めるような言動をしている。謀反を起こすしかない心理に追い込んでいるのだ。
竜吉公主は、楊戩に感謝していた。
きっと、よこしまな理由だろうが、北州総管に成りすまし平然としている彼には余裕がある。他人ゆえの心の余裕だ。もし、当人であれば、いかに楊戩と雖も多少の苛立ちは感じていたに違いない。
そう感じさせるほどの物分りの悪さが暄国にはある。
けしかけることは無くなったとはいえ、争いが起こることを止めようとしない西王母の横で、暄国は発情期の猫のように騒ぎ立てている。
「商人に戻ればよいではないか」
「小官が商人に戻ろうとしても他のものが納得できますまい」
「他の者共も立ち去ればよかろう」
「そうは雖も職を失えば食に困るであろう」
「野の草でも食べればよかろう」
「そうもいきますまい」
「貴官が割符を返上すれば良かろう」
「それは難しいと申したではないか。今更、小官にどうしろと」
「商人に戻れば良いではないか」
「いや、だからな、暄国殿。小官の話を少しは聞いてくれぬか……」
永遠に繰り返されそうな雰囲気に竜吉公主はうんざりしながら西王母のことを横目で見る。
さぞかし、無駄な時間を消費して機嫌を悪くしているだろうと予測していたが、西王母は実に楽しそうにやり取りを眺めている。どうやら、力の戦いだけではなく、言葉の戦いも好んでいるようだ。首を時々深く頷かせている。
その様子を見て竜吉公主は落ち着くことが出来た。
暄国の理解力の悪さに交渉を打ち切りたくなる気持ちが湧きだしそうになっていたが、冷静に観察することが出来るようになっていた。
説得する手段は容易に見つかりそうにもなかったが、慌てる必要などない。過大な要求をしているわけでは無いのだ。暄国が譲歩するしかない。戦いになれば暄国が失うものの方が明らかに大きいのだ。
「暄国殿、話し合いは無駄ではないのか? もうそろそろ止めよう」
「何を言うか。まだ何も決まっておらぬ」
「小官らは、暄国殿の命に従う謂れは無い。それなのに全てを捨てて国を去れと言う。要求が過大過ぎるとは思わぬのか」
「貴官らは、陛下の命令ならば従えるというのだな」
売り言葉に買い言葉。暄国の言い草に根拠の陰影は全くない。
だからだろう。次の発言は楊戩らしからぬ不用意な返答だった。
「当然であろう。小官は帝国の臣下であるのだからな」
その言葉は明らかに不用心であった。故に楊戩は表情こそ冷静を保ったままであったが、居住まいを直した。言質を取られないかとの不安が透けて見えた。
竜吉公主は、視線を西王母に向けた。いわくありげに視線を合わせてくる自分の母親から言い知れぬ違和感が伝わってくる。罠に囚われた小動物を満足気に観察する猟師のような優越感が伝わってくる。
「何もこの場で全てを決める必要は無かろう」
竜吉公主が鐘のような重みのある声で話に割り込むと、暄国は開きかけた口を閉じる。しかし、すぐに思い出したかのように話を始める。
「公主殿の言われたいこともわかる。だが、この難局は、この場で陛下のご意向で打開していただいた方がよろしい」
わかったようなことを暄国は言うと両手を叩く。背後に立っていた衛兵が扉から立ち去ると、数分の後に部屋の外から大声で皇帝の来訪が告げられる。
「これで我らの悩みも解決だな」
暄国は満足そうに述べる。勝利を確信していたのだろう。皇帝が林宗の兵権を取り上げればこの問題は解決する。そう単純に考えていたに違いない。
無論、林宗が兵権を素直に返さない可能性だってある。だが、暄国はそのような可能性を考えることが出来るはずなのに、状況を自分の都合の良いように解釈し、自らの政権が安泰すると思い込んでいるのだ。
「陛下、お忙しいところご足労下しまして臣といたしましては誠に感謝の念、甚だでございます。つきましては、以前に奏上いたしました懸案の件のご配慮賜ることが出来ますと……」
「暄国!!」
登場した皇帝は白虎の座に用意された一際豪奢な椅子に座ることなく、暄国を怒鳴りつける。
あまりの唐突な出来事に、座にいた全ての者が驚愕の表情を隠すのに注意を払う。場にいた人間の中で唯一、暄国だけは動揺を隠すことができず狼狽している。
当然だ。自分の味方になるはずの皇帝に、突如、叱責を受ければ誰でも身の危険を感じざるを得ない。
自分の背景に胡坐をかきすぎていた。宰相の権限を奪われれば、暄国は今までの自分の傍若無人な振る舞いの責任を取らされることになる。林宗だけではない。数多の怒りによって私的に裁かれることは間違いない。
故に、暄国はその場に平伏する。それまでの態度など何処へ行ったか。と言わんばかりに他人の目を気にせずに石の床に頭をこすりつける。
しかし、皇帝は暄国のことなど意にも解さない。自分で声を荒げながら存在を忘れたかのような態度で歩き出すと竜吉公主の前に立ち止まり険しい表情をする。
「どうなっているのだ? 何故、政務を執らぬのだ」
皇帝に叱責された竜吉公主は、顔を皇帝に向けると、僅かに首を傾げる。
憂いのある表情で視線を向けるが、皇帝は全く気にもせずに自分の話を始める。
「どうしてくれるのだ? お前が朝廷での義務を果たさなくなってから、この国には災いばかり起こる。大臣どもは自分勝手の権益ばかり気にし、役人たちは僅かな仕事すら放棄して利殖に走る。おかげさまで、皇妃が部屋から見える庭が荒れ果てていることに嘆いているのだ。朕は許せんのだ。皇妃が眉を顰める表情が一番嫌いなのだ。その表情を見る度に不安がお擡げ胃の中に焼けた石を呑みこんだような痛みを感じるのだ。この朕の苦痛、どう思うのだ」
皇帝は一気に言い終えると肩を上下させる。
「へ、陛下、今はそのお話ではなく……」
「暄国は黙っておれ!」
叱責された暄国は棒で打たれた野良犬となり小さくなる。だが、皇帝はみじめな姿をさらしている暄国のことなど気にもせずに竜吉公主に向かって話しかける。
「許してやっても良いのだぞ。今、戻るのならば何事もなかったこととしてやろう」
尊大な態度を取り続ける皇帝に言われて、竜吉公主は僅かに俯きながら小さく頭を振る。
「皇妃とは誰のことじゃ?」
「そんなこと、言わないとわからないのか。玉環のことに決まっているであろう」
「ならば、わらわはどのような立場にて政務を行えと言うのじゃ?」
「立場など知らぬ。今まで通りで良かろう」
「皇后に見てもらえば良いではないか。わらわは既に赤の他人じゃ。関係ない」
「馬鹿ものがっ、自分の職責を放棄するのか」
「放棄するも何もわらわの仕事ではないのじゃ」
「そんなこと関係あるかっ、朕がやれと言ったらやらんか」
平伏しながら顔を上げた暄国がポカンと口を開いている。それはそうだ。皇帝の言っている意味が解らない。今回の目的が忘れ去られ変な方向に話が進みだしている。
その場で皇帝の意図を理解できているものは誰もいない。本人ですら、何を言っているのか解っていない。
そう判断した竜吉公主は、小さく目を細めた。物事には始まりがあり終わりがある。用途に適した器があり、割れているものは捨てて交換せねばならない。長きに渡って造られた楼閣でさえ、頂に重しがあれば容易に崩壊する。
取り除けば良い。全ての現況を消してしまえば解決する。
竜吉公主は心の中で思考を巡らしながら霧露乾坤網に意識を集中した。




