離宮
池の畔に建てられた離宮での会食と言えば楽しそうな催しに聞こえる。音楽と翡翠色の水面に心を癒され、地上の喧騒を忘れさせてくれる印象がある。しかし、実際に行われようとしている会食は違う。憂鬱な話が予想され、到着する前から剣呑な思いになりそうだ。
北州総管との約束とは言え、この国の運命が自らの双肩にのしかかっていると思うと、さすがの竜吉公主も気分を重くさせられたのだ。
憂鬱な心持を投げ捨てて、蓬莱山に帰りたい気持ちも皆無ではない。地上の趨勢の行方など興味はないと嘯くことは困難ではない。
言い訳などいくつでも用意することは出来る。
それだけに、竜吉公主は逃げ出そうとはしない。塀の奥に見える楼閣に表情を変えずに近づいていく。
衛兵が開いた扉から、楼閣が建てられている庭園の中に入ると、暑さを少しだけ忘れることが出来る。大樹の葉に遮られた陽光が鮮やかな色彩を映し出し、他ではあまり見られない野鳥の囀りに、蝉の騒々しさが薄められていく。
「下界の庭園も随分と趣向が凝らされていますね」
碧雲女がぽつりと呟くのを聞いて竜吉公主は優しく微笑みかける。気の重い会談になることは覚悟していたが、少しだけ心が和らぐ。
「宰相が時間稼ぎを行おうとしなければ良いのですが」
赤雲女が細い眉をへの字に曲げながら話しかけてくる。
「いや、それよりもっと複雑なことになっている可能性もあるぞ」
竜吉公主らの背後に着いてきていた楊戩が脅かすように言う。だが、竜吉公主は返事をしない。北州総監の補佐としてあらゆる可能性を想定しているつもりではあるが、全ての未来を予想することは不可能だ。だからと言って、楊戩の思いつきで述べた言葉に反論することに意味はない。所詮、彼も、北州総管の代理として彼の姿に変化している手前、自分自身に言い聞かせる程度の意味しかないかもしれないのだ。
庭園の入口から案内された一行は、楼閣の中に入り質素な部屋に通されて言葉を失った。
豪奢さが完全に排除されていたからではない。金銀の装飾が施されていなくても、年季の入った木材で丹念に造られた部屋は趣がある。避暑地として皇帝が鎮座しても十分に耐えうる品格がある。
漆を丹念に塗られた机と椅子は、実用美の粋を超えて芸術的ですらある。装飾として彫られている玄武(北)、白虎(西)、青竜(東)、朱雀(南)の椅子は、円形の机を取り囲むように各々の方角に置かれている。
竜吉公主は目を細めた。そして、珍しく解りやすい嫌悪の表情を見せる。
「遠いところご苦労様」
声の主である西王母は百虎の椅子に座していた。賓客の礼を取らずに、竜吉公主と楊戩を青竜と朱雀の椅子に座らせる。
「どうしてここにおるのじゃ?」
「それが、久しぶりに逢うた母に向かって発する言葉ですか」
西王母は笑顔を浮かべている。声質は猫が甘えるかのような喉声だが、言葉に棘がある。刺さったことに気づかせず体を蝕むような毒の棘だ。
竜吉公主は身体を後ろに僅かに傾け、赤雲女に視線を送る。だが、竜吉公主の座席の背後に立っていた赤雲女は、視線を合わせようとはしない。何も存在しない中空を大事そうに注視している。
「お久しぶりでございます。西王母様。こんな場所でお逢いできるなんて、なんて僥倖なことなんでしょうか。つい先日、蓬莱山でお話しさせていただいたのが、酷く昔のことに感じられます。やはり、これも色々とご縁がある所以……」
突如、話し始めた碧雲女の矢継ぎ早の言葉の塊は、西王母が挨拶をするかのように振った手によって止められる。
「変わらないわねぇ。あなたたち」
「お褒めに与りまして光栄ですわ」
碧雲女は、西王母の言葉に込められた意味など気にせずに軽々と答える。
「僭越ながら、庭園のお話でもお伺いしてもよろしいでしょうか?」
赤雲女は言う。言外に、これからの会談の邪魔であるとの意を含んでいる。
「止めなさい赤雲女。私を挑発して得られるものなどありませんよ。それに、わたしは回りくどい話は嫌いです。単刀直入に進めましょう」
西王母の言葉に、竜吉公主は口元を緩める。視線を動かし、西王母の横に坐している宰相を観察する。
「まあまあ、話し合いを始める前から言い争いをする必要などありますまい」
宰相、楊暄国は、両手を挙げて大業な仕草で矛を収めようとする。壮年でありながら美丈夫の容姿を留める暄国の口調は、柔らかである。しかし、表情には険しさが現れている。睥睨するかの視線を楊戩に向けている。
「この度は、このような会にお招きに……」
「口を慎みなさい。退出しなさい。とまでは言いません。ですが、求められるまでは言葉を発することを認めません」
西王母は、赤雲女の言葉を封じ目ながらあからさまに叱責をする。
「二人とも下がっててくれんかの」
竜吉公主は視線を西王母に向けたまま二人に向かって話しかける。不満そうな気配を感じながらも、優しい言葉を投げかけない。この場の緊迫感を遮断するかのように瞼を閉じただけだ。
「最近、北の方が城の門を閉ざしていると聞く。何故か?」
二人が退出すると、暄国が口火を切った。完全に詰問する口調だ。
竜吉公主は瞼を開くと、細い眼で楊暄国のことを見る。
「夷狄が挑発的な動きを行っております故、我が方も備えを怠ることは出来ますまい。それとも国境が侵されることを許されますと?」
楊戩が強気で返答をすると、楊暄国の眉が吊り上る。美丈夫だった顔が憎しみで崩れていく。
「ならば、速やかに夷狄を排除するべきであろう。職務を果たせぬのであれば、北州総管の役を返上するべきであろう」
今すぐにでも立ち上がりそうな勢いを見せた暄国だが、机の上に固く握りしめた両拳を乗せたまま耐えている。
何らかの言質を得たいと考えている割には、行動が雑すぎる。元々、暄国は運と立場に恵まれていただけだ。北州総管である林宗ほどの権謀術数に通じているわけでも無いし、思慮深いわけでも無い。比較的に短絡的なのだ。
林宗とすれば、その部分も面白くない理由の一つだ。自分より明らかに劣った人間に頭を下げなければいけない。そのことに苛立ちを感じてしまうのだ。
もし、この場にいれば、表情こそ乱さないであろうが、嫌味の一言でも口にしたかもしれない。だから、この場にいないのは幸いであった。竜吉公主はもちろんのこと、楊戩も下界の権力構造に対して関心を持っていなかったのだ。
「西王母殿は、如何お考えですか?」
楊戩が西王母に話しかけたのは当然である。地上の権力構造より、仙界の力学を重視したのだ。
「そなた。わたくしのことを知っているのか?」
「ええ、存じております」
「無礼であろう。そなた。わたくしに地上の政治を語れと申すのか」
西王母が針のような返答をする。表情だけは笑顔を作りながらも、仮面の下で相手のことを明らかに見下ろしている。
「お伺いしたいのですが、西王母殿は何故、地上の政治の場にいらっしゃるのです」
楊戩は強烈な一撃を加える。西王母がこの場にいる意味は一つしかない。その理由を推測できるが故に楊戩の言葉は矛となり槍となる。
「そなた。幸運だな」
「ええ、よく言われます」
「わたくしの娘がこの場にいなければ、そなたは四人になっているぞ」
「それは人として数えられますまい。小官を四人分と評価されていることは恐悦でございますが」
「では、塵芥へと帰そうか?」
「何と光栄なことか。このような身を西王母様の仙術で地上と一つにさせるなどと。さぞや、後世まで語り継がれることでしょうな。西王母様に塵芥にされるまで恐れられた男として」
楊戩が大声で笑いだすと、西王母は小さく頷く。周囲をゆっくりと見やってから立ち上がろうとする。
「如何なされましたか?」
暄国が慌てた調子で声をかける。
「地上も人材がいるのに無粋な真似は出来ないと思いましてね」
西王母は澄ました顔で応じる。
「何とおっしゃる」
「やはり、地上の話は地上の人が決めることではないかと考えなおしましたの」
「それでは話が違うっ」
暄国の悲痛な叫びに西王母は目を細める。
「わたくしが、そなたと何らかの約束をしたとでも?」
冬の深夜を思い出すほどに空気が冷え込み重くなる。
西王母ほどの仙人であれば、仙術を行使せずとも暄国の鼓動を止めるくらいのことは容易にやってのける。視線で睨み付けるだけで魂の心胆を寒からしめ、呼吸を出来なくなるほどの威圧感を与えることが出来るのだ。
「いえ、そのようなことではございませぬが、折角、いらっしゃったのですからそれほど急いで帰られることもありますまいと」
暄国は言葉を選んでいる。だが、その様子はたどたどしく拙い。
「解りました。途中で退席することは礼を失しているかもしれません。地上の礼ですけれどもね」
西王母が座席に腰を掛けると、雰囲気が新たに引き締まる。暄国だけであるならば、与し易いと表情を緩めた楊戩の視線が再び鋭くなる。
西王母が積極的にこの会合を決裂させる意思はなくなったと思える。だが、ここに来た理由としては仙界再編を目論んでのことであろうし、利害関係は変化していない。つまり、交渉が失敗すれば良いことには変わりない。
だが、構図は簡単ではない。暄国は争いは望んでいない。彼の狙いは西王母の威光を利用して林宗から兵権を取り戻すことにある。何もせずに自分の都合の良い方に世界が動く。単純に考えているのだ。実力もなく運だけで権力を手に入れた男の単純さだ。
「お互いに身を引けば収まると思うのじゃ」
竜吉公主はその場を支配するかのように発言する。
林宗からは、可能であれば暄国の隠居、少なくとも現在の権益の維持を依頼されている。けれども、竜吉公主は国を二分する戦争の抑止、最低でも仙界が戦争に巻き込まれることがないことを優先している。
二者四様の思惑が絡まりあう。お互いの発言の裏に隠された意図を読み取りながら交渉は始まろうとしていた。




