怪奇
いささか夏の雰囲気を大いに見せびらかしてくれた7月の下旬から今に至って、どうも気持ちに身が入った気がしないとこういうことだろう。夏バテなのかどうか知らないが、このちょうどいい心地よさとも思える、窓から吹き付ける穏やかな風を浴び続けられるこの一部屋からは、嫌でも一歩も出たくはない気持ちにさせてくれる。ランニングシャツにパンツ一丁の姿。日に焼けて黄色くなり、至る処にぺんぺん草のごとくちぢれた畳の上で寝そべっているわけだ。そしてこの風のせいで、今日はやる気も起きないわけなんだと勝手な自己完結をおわらせる。つい、頭をもたげる。うっすらとぼやけた視界に、アルミサッシの窓枠が、陽炎に合わせた形で入り込んできた。時折聞こえるミンミンゼミなのかそれともアブラゼミセミかも知れないセミの多大なる騒音に等しい七日間の内の大合唱を耳に、ゆっくりとした時間の流れに身を任せようとしていた。
世間は夏休み真っ盛りである。子供は朝起きてラジオ体操から始まり、昼間のギラギラとした太陽の照りつく前の涼しい時間帯に何が何でも夏休みの宿題を親から強要され、必死こいて終わらせ昼食がてら友達と学校か地域にある共同プールで、もしくは親に連れてもらって海で海水浴でも楽しんでいる時間であろうか。なんともまあ羨ましい限りである。この先どんなきついことがあっても「あの時をよかったよなあ」、といえるんだから。思い出とは良い悪いをほどよくバランスよく取れているもので、良い事半々、悪い事半々。そしてどうでもよかったことは忘れてしまうものだ。
しかしながら、このままずっと寝たままと言うの居心地の悪い話にそこしずつ変わってもいく。勿論、空腹が原因だ。朝、寝過ごし朝食をとっていないこの身は、食欲を大いに満たしたいと腹の底からやんややんやと無言の抗議がせり上がってきているのだ。後、無言でもなく腹の虫も勢い良く鳴り出した。これ以上我慢してもクーデーターが起きることはないが、こちらが困る。むくりと、けだるい体をのそのそと起こして、三つ折した敷布団を部屋の隅に寄せた。窓に目をやる。
雑木林が視界に入った。別段珍しくもない光景だから、特にこれといっためぼしい感傷もうけなかった。雑木林はここだけではなく周り一帯に生えているからだ。ここは、ちょっとした寺の一部だからだ。寺だからだといって、こっちは別に坊さんの息子でも出家した人間でもない。ちょっとの間住み込みさせてもらっているだけで、そのちょっとの間と言うのが、ちゃんとした職に就いた時の場合だ。
現在無職、住所不定の怪しい人間にまで成り下がっている。そんな得体の知れない人物を快くというか半場引っこ抜きで寺に連れてかれたのがここの住職、親父の兄に当たり、一家の長兄。坊さん家業を継いだスキンヘッドのおっさん。俺から見て叔父に当たる戸塚勇。職に就くも直ぐに辞めて、家族にも連絡を付けることなく方々を点々とフラフラ彷徨っていた所を一体何処から俺の居場所を特定させたのか全くわからないまま、発見され、連行。そのまま家族を召喚されコテンパンに処刑というか私刑に近い説教を一日半ば無言のまま受けつつ叔父の方からこちらが預かると申し出た事から今に至っている。叔父の目論見は俺を後継か何かにしたい感じの雰囲気にもあの時には、叔父の背中からも感じられた。ずいぶん前だが、酒の席でおやじとそんな話を酒の入った呂律の回らない会話で興じていたのを遠目で見ていた記憶がある。叔父は隙あらば俺を丸坊主にする気満々だろうが、今の所、頭の上に閑古鳥が鳴いたことはない。いと見せかけ油断して「ズバッ」とされるかと1年近くも辛抱し、身構えていたが、そんな身振りも見せない叔父の姿勢に、いつしか俺も気を緩め、今や夏の朝はこのように昼ごろになってもイモムシのようにゆっくりとした起床時間にまでだらけきってしまった。住み込み初日の俺にこの姿を見せれば、どういう反応を見せるのか面白いかもしれない。と言っても本人なのだから、大体の反応は察しがつく。
そんなことを思い返しながら、寝室になっている離から顔を出す。本日の天気は雲一つない日本晴れ。嫌でも浴びたくない凶暴な直射日光が、所々雑草の頭を覗かせる地面をジリジリと焼き付ける音が聞こえてきそうでもある。ここから本堂まで数十歩だが、その僅かな距離でさえ躊躇したいほど気持ちが揺らぎだした。せめて雲が。雲がちょっとだけ太陽を隠してくれるのなら、頑張ってみようかなと気持ちになるんだが。案の定、憎たらしいほどの晴天に、雲の痕跡は一切見当たらなかった。