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婚約者も商会も奪っていった自称ヒロインの義妹へ ~それ、莫大な借金と呪いつきの不良債権ですが、返品はできませんので~

作者: 看板猫
掲載日:2026/10/21

豪奢なシャンデリアの光が降り注ぐ伯爵邸の大広間には、甘ったるい香水の匂いと、冷ややかな嘲笑が満ちていた。


「お姉様、聞こえなかったのですか? もう貴女の居場所なんて、この家のどこにもありませんのよ」


扇越しに弧を描く唇。桃色のドレスを身にまとった義妹コレットは、まるで舞台劇の主役にでもなったかのように胸を張り、大勢の貴族たちの前で私を見下ろしていた。

その細い腰には、王都でも指折りの美貌と名高い公爵令息、カシアン様の手が回されている。

かつて私の婚約者だった男は、コレットの肩を引き寄せながら、汚らわしいものでも見るかのような目を私に向けた。


「そうだぞ、エレリア。貴様のように愛嬌もなければ、ただ部屋に引きこもって数字ばかり弄んでいる陰気な女など、私の隣に立つ資格はない。金の勘定しか能のない寄生虫め。美しいコレットこそが、我が妻に相応しい至高の華だ」


取り巻きの令嬢たちから、くすくすと忍び笑いが漏れた。

広間の上座に座る私の実父、クロイツ伯爵もまた、ワイングラスを揺らしながら忌々しそうに吐き捨てる。


「エレリア、恥を知れ。商会の代表という立場に胡座をかき、妹に嫉妬して嫌がらせばかり重ねていたそうだな。伯爵家の名折れだ。お前のような無能な娘は、我が家から叩き出す。今日限りでお前を廃嫡し、商会の全権も、カシアン殿との婚約も、すべてコレットに譲り渡すものとする!」


継母もハンカチを目元に当てながら、わざとらしい溜息をついた。


「ええ、本当に手のかかる娘でしたわ。コレットの爪の垢でも煎じて飲めばよろしかったのに。今まで我が家で飯を食わせてやった恩を忘れて、恩知らずなこと」


突き刺さるような言葉の刃。

かつての私なら、弁明しようとしたかもしれない。私は部屋で遊んでいたわけではない。先代が残した放漫経営の穴埋めのため、日に数時間の睡眠で帳簿と睨み合い、商会の破産を水際で防ぎ続けていたのだと。

社交界に出る暇さえ惜しんで、実家の名誉と財産を守るために働き詰めだったのだと。


だが、私は何も言わなかった。

ただ、自分の右手を見つめた。親指と人差し指の腹には、長年ペンを握り続けたことで消えなくなった硬いタコがあり、爪の隙間にはどれほど洗っても落ちない青黒いインクの染みが残っている。

家族のために捧げてきた私の十年間は、この人たちにとって「部屋で引きこもって遊んでいただけ」の無駄骨だったのだ。

胸の奥に、すっと冷たい風が吹き抜けた。微かな寂寥感。実の父親からも、一度として温かい言葉をかけられたことはなかったという冷厳な事実。しかし、その寂しさは一瞬で消え去り、代わりに澄み切った確信が残った。


ああ、もういいのだわ。

情に絆されて、泥舟の底に空いた穴を必死に指で塞ぎ続ける日々に、ようやく終わりが来たのだ。


「……お姉様? ショックで声も出ないのかしら?」


コレットが勝ち誇った笑みを深め、つかつかと歩み寄ってきた。私の耳元へ顔を寄せ、広間の誰にも聞こえないような小声で、愉悦に震える声を囁く。


「残念だったわね、エレリア。この世界の真のヒロインは私なのよ。悪役令嬢の貴女がどれだけ足掻いたって、すべての富も、最高の殿方も、最後には私が手に入れる運命なの。前世の知識がある私に勝てるわけがないでしょう? 貴女が築き上げた筆頭商会『銀の天秤亭』の栄光も、公爵家の権力も、ぜーんぶ私が美味しくいただいてあげるわ!」


ヒロイン。悪役令嬢。前世。

相変わらず、時折口にする奇妙な言葉の数々。

義妹は自分を何かの物語の選ばれし主人公だと思い込んでいるらしい。だが、私にとってはどうでもいいことだった。

現実の経済と契約は、お伽話のように都合よく動いたりはしない。


私は深く一礼し、顔を上げた。

その表情には、彼女たちが期待していたであろう絶望も、悔し涙も微塵もなかった。


「かしこまりました、お父様、コレット。そこまで仰るのでしたら、私は謹んでその決定に従います」


私のあまりに落ち着いた返答に、カシアン様が訝しげに眉をひそめた。


「……なんだ、その態度は。強がりか? 今さら泣きついて許しを請うても遅いぞ」


「とんでもございません。カシアン様のご意志も、お父様のご決断も、痛いほど理解いたしました。ただ、貴族間の正式な婚姻の解消、ならびに商会の全権譲渡となれば、口約束というわけにはまいりませんでしょう? 後の世に禍根を残さぬよう、法に基づいた厳格な手続きを取るべきかと存じます」


私は広間の入口へ視線を向け、静かに手を叩いた。

重厚な扉が開き、一人の痩身の男性が歩み入ってきた。

丸眼鏡の奥に理知的な光を宿し、小脇に分厚い公証台帳を抱えた中年男。王国最高峰の権威を持つ公証人、ヨルグ氏である。


「……公証人だと?」


父が眉を寄せる。ヨルグ氏は貴族の威光にも眉一つ動かさず、無機質な一礼をした。


「王国公証役場所属、一級公証人ヨルグと申します。エレリア伯爵令嬢より、事前に緊急公正証書の作成および立会の依頼を受けて参上いたしました」


コレットが嘲るように鼻を鳴らした。


「あらあら、往生際が悪いこと。公証人を呼んで、少しでも手切れ金を毟り取ろうって魂胆かしら? 惨めねえ」


「いいえ、コレット。逆ですわ。貴女が一日も早く『銀の天秤亭』の真の所有者となり、カシアン様との輝かしい愛の結晶を確固たるものにできるよう、配慮したまでのこと」


私はヨルグ氏に目配せをした。彼は頷き、持参した漆黒の革袋から、鈍い銀光を放つ羊皮紙を取り出した。

その紙面には、王国法に基づき絶対不可侵とされる古代語の呪術刻印が施されている。


「こちらは『魔導契約書』でございます」


ヨルグ氏が平坦な声で説明を始めた。


「王国法第百二十条に基づき、当事者双方の血の署名をもって締結される絶対契約。一度締結されれば、王権をもってしても破棄は不可能。契約内容に記載された一切の権利、ならびに一切の義務が、不可逆的に新権利者へと移譲されます。また、魔導契約制度の規定により、この契約によって引き継がれた権利および責務は、将来にわたり第三者への再譲渡、委任、分割放棄を行うことが永久に禁じられます」


「魔導契約書……? そんな大層なものをわざわざ用意したのか?」


カシアン様が不審そうに紙面を覗き込もうとしたが、コレットがその腕にすがりついて甘ったるい声を上げた。


「いいじゃない、カシアン様! これにサインすれば、お姉様は二度と商会に口出しできなくなるってことでしょ? 後から『やっぱり返して』なんて言われても困るもの。完璧じゃない!」


「ふん、それもそうだな。エレリアが未練がましく商会にしがみつくのを防ぐには、都合がいい」


二人は契約書の末尾、大きな文字で書かれた『代表権の完全委譲』および『婚姻資格の変更』という表題だけを見て、満足げに頷いた。

その下にある、蟻の行列のような極小文字で記された膨大な追記事項や付属明細、債務引受条項の数々には、一瞥もくれようとしない。

財務と法務の基本すら知らない素人は、いつだって目先の権利の大きさに目を奪われ、付随する義務の重さに気付かない。


「では、新代表ならびに新婚約者となるコレット様、カシアン様。こちらの魔導針で指先を傷つけ、血の署名をお願いいたします」


ヨルグ氏が差し出した針を、コレットは何の躊躇もなく受け取った。

ちくりと指先を刺し、羊皮紙の署名欄へ赤い血を押し付ける。

続いてカシアン様も、尊大な笑みを浮かべたまま同様に血判を押した。

二人の血が紙面に触れた瞬間、羊皮紙に刻まれていた魔導紋章が紫紺の光を放ち、二人の手首へと細い光の糸となって吸い込まれていった。魂に刻まれる法的な縛鎖の証である。


「さあ、お姉様! 貴女もサインなさい! これで貴女は、正真正銘の無一文よ!」


コレットが興奮に頬を紅潮させて叫ぶ。

私はヨルグ氏から羽ペンと魔導針を受け取った。長年の労働で擦り切れた指先に針を立て、一滴の血を滲ませる。

そして、一切の躊躇なく、滑らかな筆致で自らの名前を書き入れた。

淀みなく、寸分の狂いもない、財務書類を何万枚と処理してきた完璧な署名。


最後の一画を書き終えた瞬間、長年胸を押し潰していた重苦しい鉛が綺麗さっぱり消え去り、手首に食い込んでいた見えない枷が砕け散った。


私は顔を上げ、呆気にとられるほど晴れやかな、そしてゾッとするほど美しい笑みを浮かべて、二人へ向けて優雅に淑女の礼をとった。


「すべての権利と、それに伴う一切の義務を貴女に譲渡いたしますわ」


その言葉の真意に、コレットもカシアン様も、広間の誰も気付かない。


「公証人ヨルグが証言いたします」

ヨルグ氏が分厚い台帳を音を立てて閉じた。「本契約は王国法に基づき、完全かつ不可逆的に成立いたしました。これより、『銀の天秤亭』の全資産・全負債の無限連帯責任、ならびにそれに付随する一切の魔導的責務は、コレット・クロイツ嬢および連帯保証人たるカシアン・ルーディス公爵令息へと完全に移行いたしました」


「ええ、ご苦労様でした、ヨルグ様」


私は背筋を伸ばした。

広間の床に転がっていた私の私物は、最初から小さな革鞄一つに収まる分だけだった。

母の形見の万年筆と、数冊の手帳。それ以外、この屋敷に私のものなど何一つない。


「それではお父様、お母様、コレット、カシアン様。どうぞ末永く、お幸せに」


振り返ることもなく、私は大広間を歩き出した。

着飾った貴族たちの群れが波のように割れ、誰もが私のあまりに潔い引き際、そしてどこか冷淡なまでの美しさに息を呑んでいた。

背後から「負け犬が、気取っちゃって!」というコレットの甲高い勝ち誇りの声が聞こえたが、それもすでに遠い世界の雑音に過ぎなかった。



伯爵邸の正門を一歩出ると、夜の冷たい空気が心地よく肌を撫でた。

王都の夜空には満天の星が広がり、吐き出す息が白く染まる。

肩の荷が下りるとは、こういう感覚を言うのだろう。肺の隅々まで、新鮮な空気が満ちていく。


「……エレリア様」


暗がりの中から、静かな声がかけられた。

門前に停まっていたのは、過度な装飾を排した、だが極めて堅牢で最高級の木材を使った大型の馬車だった。

その車体には、北方の守護者たる白銀の狼を象った紋章が刻まれている。

馬車の傍らに控えていたのは、漆黒の外套を纏った騎士だった。彼の手元には、辺境伯家直属の伝令官であることを示す銀の徽章が輝いている。


騎士は私を見るなり、胸に手を当てて深く頭を垂れた。


「北方辺境伯イライアス閣下より、お迎えに上がりました。長旅の支度はすでに整っております」


「わざわざ門前までお越しいただき、恐れ入ります。ですが、本当に私などでよろしかったのですか? 今しがた、実家から追放されたばかりの身の上ですが」


私が微笑むと、伝令官は真摯な面持ちで首を横に振った。


「閣下は常々仰っております。『王都の貴族共は、黄金の山を前にして泥団子を弄んでいる愚か者ばかりだ』と。エレリア様の卓越した財務手腕、相場の潮流を読む慧眼、そして何より泥沼の不正を暴き立てる冷徹な実務能力こそ、我が北方領地が最も渇望していた宝に他なりません。閣下は、貴女様のお越しを首を長くしてお待ちです」


長年、実の家族から「金の亡者」「引きこもりの無能」となじられ続けてきた。

だが、顔も合わせたことのない遥か北方の主は、私の作成した監査報告書と流通改革案の数々から、私の真価を正確に見抜いてくれていたのだ。

傷だらけだった指先が、じんわりと温かくなる。


「……ありがとうございます。期待を裏切るような仕事はいたしませんわ」


私が馬車のステップに足をかけた、その時だった。

静まり返っていた伯爵邸の敷地内から、けたたましい金属音が響き渡った。


――キィィィィン……!


それは、屋敷の結界基部に仕掛けられていた警報の鐘の音。

続いて、門外の夜道を馬に乗った集団が猛スピードでこちらへ駆けてくる地鳴りが聞こえてきた。

漆黒の馬に跨り、禍々しい外套を羽織った男たち。その手には、他国の悪徳金融機関の紋章が刻まれた黒塗りの旗が握られている。


「おや、もうお見えになったのね。予定より少し早いくらいですわ」


私は馬車の窓から、すれ違うように伯爵邸の門へとなだれ込んでいく債権者たちの集団を一瞥した。

警報の鐘は止まらない。それどころか、屋敷の屋根の隙間から、紫黒色の不吉な靄がゆらゆらと立ち上り始めているのが見えた。

封印が軋み始めている。契約履行の審判は、もう誰にも止められない。


「御者、馬車を出してくださいな。ここにはもう、私の用事は何一つありませんから」


「はっ、出発いたします!」


鞭の音が鳴り響き、最高級の馬車が滑らかに走り出す。

遠ざかっていく伯爵邸を背に、私は手帳を開き、王都の不良債権の残高の項目に、赤いペンで一本の取消線を引いた。


さようなら、お父様、お母様。

そして――せいぜい楽しんでちょうだいね、自称ヒロインのコレット。



◆ーーーー◆



翌日の昼下がり、王都の中心街に位置する筆頭商会『銀の天秤亭』の本館では、豪勢な祝勝会が開かれるはずだった。


「ふふん、今日から私がこの商会の女帝よ!」


豪奢な革張りの執務机に腰掛け、コレットは足を組んでワイングラスを傾けていた。

隣には、二日酔いの顔をしかめながらも満足げにソファに横たわるカシアンがいる。


「おい、コレット。早速だが、公爵家の今月の遊興費の決済を頼むぞ。昨夜の広間のワイン代や、カジノでのツケが溜まっていてね。エレリアの奴がうるさく制限していたせいで、ここ数ヶ月は窮屈で敵わなかったんだ」


「もう、カシアン様ったら甘えん坊なんだから! いいですわよ、この『銀の天秤亭』は王都一の商会なんですもの。公爵家の借金くらい、右から左へポンと払って差し上げますわ!」


コレットは立ち上がり、執務室の奥にある巨大な魔導金庫の前へと歩み寄った。

重厚なミスリル合金で覆われた金庫。かつてエレリアが厳重に管理し、決して誰にも触れさせようとしなかった場所だ。

コレットは魔導契約によって手に入れた代表権の指輪をかざし、金庫の扉を開放した。

重々しい駆動音とともに、分厚い扉が左右に開く。


「さあ、見せてちょうだい! 私の華やかな生活を支える、眩いばかりの金貨の山を――」


コレットの声が、唐突に止まった。


「……は?」


ぽかんと口を開けたまま、コレットは金庫の中を凝視した。

そこにあったのは、山積みの金貨でも、燦然と輝く宝石でもなかった。

ただ冷たい鉄の棚の上に、一通の羊皮紙と、錆びた真鍮のコインが一枚だけ、ポツンと転がっていた。


「な……何よこれ!? お金は!? 金貨の山はどこへ行ったのよ!?」


パニックになったコレットが金庫の奥へ手を突っ込み、唯一置かれていた羊皮紙を引っ張り出した。

そこには、エレリアの端正な筆跡で、こう書かれていた。


『新代表コレット様へ。

金庫の残高は記載の通り、真鍮貨一枚(一〇〇センド)です。

本日正午の決済期限までに、他国金融組合への利払い金八千万センド、ならびに満期を迎える短期債権三億二千万センドを、速やかにご用意くださいませ。エレリア』


「は……? はちせん……さんおく……?」


コレットの頭が真っ白になった。

ゲームの知識では、ヒロインが悪役令嬢から商会を奪い取れば、自動的に無尽蔵の財力と莫大な権力が手に入ることになっていた。画面の右上に表示される所持ゴールドは、常にカンストしているはずだった。


そこへ、ノックもなしに執務室の扉が激しく蹴破られた。


「ど、どうしたんだ!?」


ソファから跳び起きたカシアンが怒鳴る。

踏み込んできたのは、黒い革鎧に身を包んだ屈強な男たち――帝国系闇金融ギルド『黒狗の牙』の取り立て屋たちだった。

先頭に立つ傷だらけの大男が、冷酷な笑みを浮かべて分厚い債権証書を机に叩きつけた。


「おいおい、新代表の就任祝いに来てやったぜ。噂通り、美人な妹さんに代替わりしたそうじゃねえか」


「な、何者だ無礼な! 私はルーディス公爵家のカシアンだぞ! 衛兵を呼ぶぞ!」


カシアンが叫ぶが、大男は意に介さず、書類をカシアンの鼻先に突きつけた。


「公爵令息様が何の用だ? ……ああ、ちょうどいい。アンタのサインもあるな。アンタが裏カジノで背負い込んだ一億五千万センドの借款、全額をこの『銀の天秤亭』が連帯保証するって契約書だ。前代表のエレリア嬢は、毎月毎月、神がかり的な相場予測と日々の自転車操業で利息だけはキッチリ払ってくれていたが……おい、今月の利息の引き落とし口座が空っぽだぞ?」


「なっ……ななな、何を言っている! あれはエレリアが勝手に処理していたはずだ!」


「そのエレリア嬢が代表権を降りて、すべての債務責務を新代表と連帯保証人に譲渡したんだよ! 昨日結ばれた王国公認の『魔導契約書』の写しが、うちのギルドにも届いてるぜ!」


大男がドスを利かせた声で机を拳で叩く。

机の上のクリスタル花瓶が跳ね、粉々に砕け散った。


「元本と利息、合わせて四億センドだ。耳を揃えて今すぐ払ってもらおうか。払えねえなら、この商会の資産も、アンタらの着ている服も、全部差し押さえだ!」


「そ、そんなの嘘よ!」

コレットが悲鳴を上げた。

「この商会は王都で一番儲かってるはずよ! お姉様が贅沢な暮らしを隠して、お金を独り占めしていたはずよ!」


「ハッ、おめでたい頭だな!」

取り立て屋の男が唾を吐き捨てた。

「儲かってたのは事実だがな、先代のクロイツ伯爵が作った鉱山投資の失敗と、この公爵令息の放蕩のせいで、商会の内情はとっくに火の車だったんだよ! エレリア嬢がたった一人で他国の為替差益を秒単位で操作し、危険な先物取引を百発百中で当てて、破産寸前の泥舟を無理やり浮遊させていただけだ! その舵取り役を追い出したんだから、沈むのは当たり前だろうが!」


「そんな……そんなの、ゲームの設定に……シナリオに書いてなかった……!」


ガタガタと震えるコレットの足元から、不意に冷気が立ち上った。

黒い靄が、床板の隙間からじわりと染み出してくる。


「ひっ……!? な、何これ!?」


コレットが叫ぶと同時に、彼女が身につけていた豪奢な桃色のシルクドレスが、端からボロボロと黒い灰となって崩れ始めた。

胸元を飾っていた大粒のダイヤのネックレスが、煙を上げてただの黒炭へと変色していく。


「ぎゃああっ!? 熱い! 私のドレスが! 宝石がぁっ!」


「おい、これはまさか……」

カシアンの顔から血の気が引いた。

男の指に嵌められていた公爵家の家紋入り黄金リングが、ドロリと黒い泥のように溶けて床へ滴り落ちる。


「『担保の呪縛』だ……!」

金融業者の男たちが、慌てて後ずさりをして執務室の外へ逃げ出した。

「ちっ、期日を一刻過ぎただけで発動しやがった! 先代が禁忌の魔導融資で結んだ、悪魔の連帯保証契約だ! 支払いが一日でも滞れば、当事者の所有する贅沢品から順に灰に変え、最後には命そのものを吸い尽くす呪縛だぞ!」


「うわああああっ! 助けてくれ! 私の服が! 髪がぁっ!」


カシアンが床を転げ回り、コレットは半狂乱になって髪を掻きむしった。

どれほど豪華な調度品も、絨毯も、絵画も、次々と黒い灰となって消滅していく。執務室全体が、まるで焦土のような惨状へと塗り替えられていく。


「あ、あいつだ……! エレリアだ!」

灰まみれになり、下着同然のボロ布を纏った姿になったカシアンが、目を血走らせて叫んだ。

「エレリアを呼び戻せ! あいつに全部戻せばいい! 商会も、借金も、この呪いも、全部あいつの仕事だったんだ! あいつに押し付け直せば、私たちは助かるんだ!」


「そ、そうよ……! 通信魔導具よ! お姉様に連絡して、今すぐ戻ってこさせなさいよ!」


コレットは灰の中から、奇跡的に無事だった緊急用の通信水晶を掴み上げ、狂ったように魔力を注ぎ込んだ。だが、回線はすぐには繋がらず、彼女たちはその後何日にもわたって狂乱の呼び出しを続けることとなるのだった。



◆ーーーー◆



王都から遥か北へ、馬車に揺られること数日。

険しい山脈を越えた先に広がっていたのは、見渡す限りの白銀の世界だった。

針葉樹の森が雪の衣を纏い、澄み切った冷気の中に、重厚な石造りの北方辺境伯城が威容を誇っている。


「――素晴らしい。これほど短期間で、我が領の過去三期分の流通滞留の原因を特定し、改善案まで纏め上げられるとは」


暖炉の薪が爆ぜる温かな執務室で、北方辺境伯イライアス閣下は、私が提出した書類束を前に感嘆の息を漏らしていた。


彫りの深い精悍な顔立ちに、氷を思わせる鋭い灰青色の瞳。鍛え上げられた長躯に、飾り気のない軍服風の執務服を纏っている。

社交界では「北の冷酷な氷狼」などと恐れられている御方だが、その瞳の奥には、領民と実務への深い慈愛と誠実さが宿っていた。


「お褒めに預かり光栄です、イライアス様。ですが、これは基本的な帳簿の突合を行ったに過ぎません。北方の物流は寒冷期における街道の凍結損耗率が過大に見積もられておりましたので、魔導融雪炉の配置転換を行えば、輸送コストは即座に三割削減できますわ」


私が紅茶を一口啜りながら微笑むと、イライアス様は執務机に両肘をつき、真剣な眼差しで私を見つめてきた。


「君が来てくれて、本当によかった。王都の伯爵家が君をどのような扱いにしてきたか、報告を受けるたびに私の胸は怒りで煮えくり返っていたのだ。あのような無能共のために、君の才能をすり減らす必要など毛頭なかった」


「……ありがとうございます。でも、もう終わったことです」


「いや、終わったのではない。ここから始まるのだ」


イライアス様は立ち上がり、私の前まで歩み寄ると、恭しく片膝をついた。

北方の主たる高貴な身分でありながら、実務の長たる私への最大限の敬意を示す所作。

彼は私の、インクで染まった右手をそっと両手で包み込んだ。


「エレリア嬢。我が領地の最高財務官として、そして――いずれ我が隣に立つ生涯の伴侶として、君を心から歓迎する。君の能力を正当に評価し、君の尊厳を決して傷つけさせないと、北方の白銀の狼の名にかけて誓おう」


その温かな掌から伝わる確かな熱に、私の胸の奥がじんわりと震えた。

道具として搾取されるのではなく、対等な人間として、必要不可欠な存在として認められることの喜び。


「……はい。謹んで、お受けいたしますわ」


私が答えた、まさにその瞬間だった。

執務室の隅に置かれていた大型の通信魔導具が、けたたましい警報音を鳴り響かせた。

緑色の魔導光が激しく明滅し、通信の強制接続を要求している。


「何事だ?」


イライアス様が眉をひそめる。契約の最終登録と見届けのため王都から同行していた公証人のヨルグ氏が、眼鏡を押し上げながら通信機を一瞥した。


「王都のクロイツ伯爵邸、ならびに『銀の天秤亭』新代表からの緊急魔導回線でございますな。公証役場の回線を中継して、強制接続をかけてきているようです」


「私宛、ですわね」


私がクスリと笑うと、イライアス様は灰青色の瞳に冷徹な光を宿し、「構わん、繋ぎたまえ」とヨルグ氏に命じた。


ヨルグ氏が印を結び、通信機のスイッチを起動する。

部屋の中央に巨大な立体映像が浮かび上がった。


映し出された光景に、私は思わず眉を上げた。


『ひ、ひぃぃぃっ! エレリア! エレリアァッ!』


そこにいたのは、かつての華やかな公爵令息の面影など微塵もない、薄汚れた灰まみれの男だった。

カシアン様は髪の半分が焦げ落ち、襤褸切れを身体に巻き付け、鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにして床に這いつくばっていた。

その背後には、同じく泥と灰に塗れ、爪を噛みながら狂乱の形相で叫ぶコレットの姿がある。


『お姉様! どういうことよこれぇぇぇっ! 金庫にお金が一銭もないじゃないの! 借金取りが何十人も押し寄せてきて、家中のものが全部灰になって……! 呪いが、呪いが私を殺そうとしてるのよぉっ!』


さらに後ろからは、クロイツ伯爵夫妻が「屋敷の財産が差し押さえられた!」「お前が何とかしろエレリア!」と喚き散らす声が響いている。

かつて私を「能無し」「寄生虫」と罵倒し、大広間から追い出した者たちの、見るも無惨な成れの果てだった。


「あら、皆様。ご機嫌麗しゅう。お元気そうで何よりですわ」


私が優雅に紅茶のカップをソーサーに置くと、カシアン様が血走った目で映像に縋り付いてきた。


『エレリア! 頼む、助けてくれ! 私の悪かった! お前を愛しているんだ! コレットのような悪女に誑かされていた私を許してくれ! 今すぐ王都に戻って、この借金を……あの四億センドの負債を帳消しにしてくれ! お前ならできるだろ!? 昔みたいに、帳簿をちょちょいと弄って、為替で稼いでくれればいいんだ!』


「ちょちょいと、ですか?」


私は冷ややかな笑みを深めた。


「私が毎夜、胃を痛めながら各国の為替市場の動向を秒刻みで監視し、船の難破リスクを計算し、貴方様がカジノで作った天文学的なツケを帳消しにするためにどれほどの血を吐く思いをしてきたか……それを『ちょちょいと弄る』とお考えでしたのね」


『お姉様! 契約を破棄しなさいよ!』

コレットが金切り声を上げた。

『こんなの無効よ! 詐欺よ! 悪役令嬢がヒロインを騙したのよ! 魔導契約なんてキャンセルして、商会の代表も、カシアン様も、借金も、呪いも、全部貴女が引き取りなさい! そうよ、返品よ! 全部返品するわ!』


返品。

実に彼女らしい、身勝手極まりない言葉だった。

美味しいところだけを掬い取り、都合の悪い現実に直面すれば、駄々をこねて元の持ち主に押し付け直せばいいと思っている。


だが、この世界を動かしているのは、ゲームの甘っちょろい設定ではない。

冷酷な法と、厳格な数字なのだ。


「ヨルグ様」


私が促すと、公証人ヨルグ氏が前に進み出た。

彼は通信の向こうで喚き散らすコレットとカシアン様へ向けて、無機質な視線を眼鏡の奥から突き刺した。


「王国一級公証人ヨルグが通告いたします。貴方様方が署名・血判を捺印された契約書は、王国最高位の『魔導契約』でございます。契約条項第八条第四項――『新権利者は、本契約の締結をもって対象商会の全資産、ならびに既存の全債務、潜在的保証債務、呪詛担保義務の一切を包括的かつ不可逆的に承継するものとする』。また同条第六項――『いかなる理由があろうとも、締結後の契約破棄、無効の申し立て、第三者への再譲渡、ならびに原権利者への債務の再移転は永久に不可能とする』」


ヨルグ氏は淡々と、だが絶望的な宣告を突きつけた。


「本契約はすでに王国公証総局に登録され、魔導の因果律に定着しております。契約の解除は、国王陛下の大権をもってしても不可能です。貴方様方が背負われた債務は、全額を完済するか、あるいは自己の全存在をもって清算するまで、決して消滅することはございません」


『う……嘘よ……! 嘘でしょおおおおおっ!?』


コレットが頭を抱えて絶叫した。


『私はヒロインなのよ!? なんでこんな目に遭わなきゃいけないのよ! チート能力は!? 逆ハーレムは!? どうして借金取りに追われて服まで灰にされなきゃいけないのよぉぉぉっ!』


「ヒロインか何か存じませんが」


私は立ち上がり、通信映像のコレットの瞳を真っ向から見据えた。

一切の慈悲を削ぎ落とした、絶対零度の声。


「貴女はご自分で仰ったはずですわ。『悪役令嬢の持っているものをすべて奪ってやる』と。私はその望み通り、貴女にすべてを差し上げました。富を生み出す権利も、そしてそれを維持するために背負わねばならない泥沼の義務も、すべてです」


『エレリア! 頼む、エレリアぁぁぁっ!』

カシアン様が涙を流して画面に手を伸ばす。

『お前がいないと駄目なんだ! 公爵家も取り潰しになってしまう! 愛しているんだ、エレリア!』


「お断りいたします」


私は冷然と言い放った。


「不良債権の返品はお受けできませんわ」


『あ……あ、ああああっ……!』


通信の向こうで、ドカンと扉を破る轟音が響いた。

「おい! 時間切れだ! 残りの財産を全部差し押さえろ! 令息も令嬢も鉱山送りだ!」という金融業者の怒号と、伯爵夫妻の悲鳴が重なり合う。

黒い呪いの靄が画面全体を覆い尽くし、コレットの狂乱の叫び声が響き渡る中――


私は躊躇なく、通信切断のボタンを押した。


プツン、と光が消え、執務室には再び静寂が戻った。

薪が爆ぜるパチパチという音だけが、心地よく耳に届く。


「……ふう」


私が小さく息を吐くと、隣に立っていたイライアス様が、優しく私の肩を抱き寄せてくれた。


「見事な決着だったな、エレリア」


「お見苦しいところをお見せいたしました、イライアス様」


「滅相もない。己の責任を他人に押し付け、甘美な果実だけを貪ろうとした者たちへの、当然の報いだ。彼らの声が、この北方の地に届くことは二度とない」


イライアス様は窓の外を指し示した。

執務室の大きな窓からは、白銀に輝く雄大な山脈と、活気に満ちた北方領の城下町が一望できた。

寒冷の地でありながら、煙突からは温かな煙が立ち上り、人々が力強く生きている息吹が感じられる。


「ここが、君の新しい居場所だ。君の知識と手腕を、今度はこの大地と、君自身の幸せのために使ってほしい」


「はい……!」


私は胸に手を当て、深く微笑んだ。

もう、身勝手な家族のために身を削る必要はない。

数字を弄ぶだけの空虚な帳簿合わせではなく、人々を豊かにし、愛する人と共に未来を築くための仕事が、ここにはある。


机の上に広げられた北方領の新しい開発計画書。

私は母の形見の万年筆を手に取り、迷いのない確かな筆致で、新たな人生の第一歩となる署名を書き入れた。


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