焼きたての香りが消えるころ、わたしの初恋も終わりを告げました。私は、もうあなたを待ちません。
焼きたてのパンは、少しだけ幸せの匂いがする。
幼いころから、ずっとそう思っていた。
朝早くから働くレオンのお父さん。
粉まみれになりながら笑うレオン。
窯から漂う香ばしい匂い。
私はその全部が好きだった。
「いつかこの店を、街一番のパン屋にするんだ」
まだ子供だったレオンは、得意げにそう笑っていた。
「そのときは、エマが隣でパンを焼いてくれよ」
まるで明日の天気を話すみたいに自然に告げられた言葉に、私は真っ赤になってうなずいた。
あれが、私の人生で一番幸せな瞬間だったのかもしれない。
だから、レオンが平民の特待生として、王都の名門学園へ進学が決まった日も、私は少しも疑わなかった。
経営を学んで帰ってくるだけだと。帰ってきたら、またふたりでパンを焼くのだと。
私はレオンに恥じないよう、地元の学園へ通いながら、休みのほとんどをパン作りに費やした。
成長して帰ってくる、レオンの隣に立つために。
けれど。
週に一度届いていた手紙は月に一度になり、やがて短い言葉だけになった。それでも私は、自分に言い聞かせていた。忙しいのだから仕方ない、と。
そして一年後。
初めて帰省するレオンのために、私は自分にできる最高のパンを焼いた。
幼いころ、ふたりで考えた。
『いつか絶対に看板メニューにしよう』と笑い合った、少しだけ変わったパンを。
けれど、帰ってきたレオンの隣には、見知らぬ女の人がいた。
白いレースのワンピース。
一度も小麦粉に触れたことなどなさそうな、綺麗な手。
「レオン、久しぶり」
声をかけると、彼は少しだけ眉をひそめた。
「ああ……久しぶり。」
素っ気なく言い捨てて、彼はそのまま通り過ぎる。女の人は私を頭の先から足元まで見つめて、くすりと笑った。
「ねえ。この子、従業員さん?」
レオンは少しだけ笑って答える。
「まぁ、そんなもん」
きゅっと結んだ髪も。
小麦粉まみれの手も。
急に、ひどく惨めに思えた。
――カラン。
店の扉が鳴る音に、はっと我に返る。
気づけば、レオンはもういなくなっていた。
とりあえず、今はパンを焼くことだけ考えよう。
そう思おうとしたのに。
店の前を通る人たちの声が、嫌でも耳に入ってくる。
「レオンくん、王都ですごい令嬢と付き合ってるんですってぇ」
「今日一緒にいた子でしょう? 綺麗だったわよねぇ」
「やっぱり世界が違うものねぇ」
ぎゅっと、布巾を握る手に力が入った。窯の中では、パンがこんがりと焼き色をつけていく。昔から大好きだった、焼きたての香り。
それなのに。
生まれて初めて、その匂いに鼻の奥がつんとした。
ぽたりと涙が落ちそうになって、私は慌てて顔を伏せる。
泣いちゃだめだ。
パンに塩気が増えてしまう。
そんなくだらないことを考えながら、私は必死に涙を堪えた。
その日の夜。
店じまいを終えた私は、ひとりで裏口の戸締まりをしていた。
昼間の出来事が、ずっと頭から離れない。
『まぁ、そんなもん』
たった一言なのに。
胸の奥に、小さな棘みたいに刺さっていた。
ぎぃ、と裏口の扉が開く音がする。振り返ると、そこにはレオンが立っていた。
「……レオン」
「まだいたんだ」
昔と変わらない声だった。なのに、どうしてこんなに遠く感じるのだろう。
「今日、帰ってくるって聞いてたから」
そう答えると、レオンは「あー……」と気まずそうに目を逸らした。
「悪い。昼間」
謝る気のない、軽い声。その態度に、胸が少しだけ冷える。
「隣にいた人……」
勇気を出して尋ねると、レオンはため息混じりに笑った。
「学園の友達」
「……そう」
「貴族なんだよ。ほら、うち最近ちょっと店大きくしただろ?」
レオンはどこか誇らしげだった。
「王都にはさ、親父の店なんか比べ物にならないような大商会の跡取りがゴロゴロいるんだ。繋がっといて損ない相手っていうか。卒業したら親父の店、もっと広げたいし」
知らない言葉ばかりだった。
昔のレオンは、「美味いパン焼けた!」って笑うだけだったのに。
「エマもさ、もう少し見た目気を遣ったら?」
不意に、レオンが私の髪を見る。
「せっかく顔は悪くないんだから」
どくり、と胸が鳴った。
昼間、あの女の人に笑われた髪。小麦粉が入らないよう、きつく結んだだけの髪。
「王都じゃ、ああいう格好の女の子ばっかだからさ」
悪気なんて、きっとない。だから余計に苦しかった。
私はずっと。あなたの隣でパンを焼ければ幸せだったのに。
それから数日間、レオンはほとんど店に顔を出さなかった。たまに見かけても、隣にはいつもあの令嬢がいた。まるで、自分の知らない誰かみたいだった。
あれから結局、一度もちゃんと話せないまま。
とうとう明日、レオンが王都へ戻る日になった。
だから私は、最後にひとつだけ賭けてみることにした。
『帰る前に、新作のパンを食べてほしいの。
将来の看板メニューにしたいと思ってる。
いつもの場所で待ってるね』
短い手紙を書いて、そっと折りたたむ。
「レオンのお父さん、ごめんなさい。これ、レオンに渡してもらえませんか」
そう言うと、レオンのお父さんは申し訳なさそうに眉を下げた。
「……ごめんな、エマちゃん。レオンのやつ、どうしちゃったんだか」
大きな手で頭を掻きながら、それでも優しく笑ってくれる。
「手紙は必ず渡すから」
その言葉に、また泣きそうになった。
私は、この人の焼くパンが好きだった。
朝早くから仕込みをして、街のみんなが笑顔になるパンを焼いて。
そんな優しいパン屋を継ぐレオンの隣で、ずっと笑っていたかった。
幼いころ、ふたりで夢中になって考えたパンがある。
甘いクリームを包んで、その上に砕いた木の実を散らした、少しだけ変わったパン。
「絶対この店の看板メニューにしような!」
小麦粉だらけの顔で笑ったレオンを、私は今でも覚えている。
だから私は、最後にもう一度だけ焼こうと思った。
あのパンを食べれば。焼きたての香りを嗅げば。
昔みたいに笑ってくれるかもしれない。
そんな馬鹿みたいな期待を、どうしても捨てきれなかったのだ。
閉店後の静かな店で、ひとり生地をこねる。
何度も失敗して、何度も一緒に笑った。
あの日の味を思い出しながら、私は丁寧にパンを焼き上げる。
焼きたてが一番美味しいから、と。
窯から出したばかりのパンをバスケットに入れて、呼吸を整える。
幼い頃、いつもレオンとパンを食べていた公園のベンチに座り、彼を待った。私の最後の、意地だった。
結局。
夜になっても、レオンは来なかった。
真っ暗になるまで待って、家に着いた私に
代わりに届いていたのは、短い伝言だけだった。
『今日は行けない』
その一言で、ようやくわかってしまった。
ああ。
もう、違うのだ。
私が待っているレオンは、もうどこにもいない。
焼きたてだったパンは、少しずつ冷めていく。
香ばしい匂いも、やがて薄れていった。
その香りが消えるころ。
私の初恋も、静かに終わりを告げたのだった。
翌朝、私は昨日誰にも食べてもらえなかったパンを朝食にした。
冷めても美味しいように。
そんな思いで何度も試作を重ねた自信作は、焼きたてではなくなっても、やっぱり美味しかった。
少しだけ甘いクリームと、香ばしい木の実。
幼いころ、ふたりで夢中になって考えた味。私はゆっくりと最後のひと口を飲み込む。それから残っていたパンを丁寧に包んだ。食べてもらえなかったことが悲しかったわけじゃない。
きっともう、食べてもらう意味がなくなってしまったのだ。
小さな便箋を一枚だけ添える。
『今までありがとう。お元気で。』
何度読み返しても、それ以上の言葉は思いつかなかった。
きっとこの手紙も、レオンに届くかどうかわからない。届いたとしても、レオンにとっては意味を成さないかもしれない。
それでもいいと思った。
このパンと一緒に渡せれば、それで十分だった。
私なりのけじめとして。長かった初恋に、ちゃんと終わりを告げるために。
レオンと看板メニューにするはずだったパンは、もう二度と焼かない。
それでも朝は来る。時間は過ぎていく。
レオンが学園に帰った、その最初の週末。
私はいつものように窯に火を入れて、生地をこねる。
焼き上がったパンの香りを嗅いだ瞬間、少しだけ肩の力が抜けた。
ああ、やっぱり好きなのだ。私は、パンを焼くことが。
だから――
パンを焼くことはやめられなかった。
レオンと看板メニューにするはずだったパンは、もう二度と焼かない。けれど、パンを焼くことはやめなかった。
ふと思う。
私はいつから、何のためにパンを焼いていただろう。
気づけばずっと。レオンの隣に立つために。
レオンの夢を叶えるために、パンを焼いていた気がする。
だから今度は。
自分のために焼いてみようと思った。
私は、街を出ることにした。
今度は誰かの夢のためではなく。私のためだけに。
誰かを笑顔にするパンを焼こうと思った。
それが、私の新しい夢になった。
「エマちゃーん! 食パン二斤、包んでくれるかしら!」
「はーい!」
店の奥から返事をして、私は焼きたての食パンを棚から取り出した。
卒業後、私は隣町で小さなパン屋を開いた。
店の名前は『Le berceau』。
隣国から伝わる古い言葉で、「ゆりかご」という意味だ。私にとっての、始まりの場所。そんな願いを込めて名付けた。
店内に入れるのはせいぜい数人。決して大きな店ではない。けれど、壁紙も棚も、並べるパンも。全部が私のこだわりの詰まった自慢の店だった。
行列のできるような人気店ではない。
それでも、学校帰りの男の子が硬貨を握りしめてやってくる。
「これと、これください!」
「妹さんの分も?」
「うん!」
少し背伸びした笑顔に、思わず頬が緩む。店内の小さな飲食スペースで、兄妹が並んでパンを頬張る。
「おいしい!」
その一言だけで、朝早く起きて生地をこねた苦労なんて吹き飛んでしまう。
ああ。私はこういう店がやりたかったのだ。
あれからレオンとは一度も連絡を取っていない。忘れたと言えば嘘になる。初恋だったのだから。けれどもう、過去の人だった。
「エマ、今日もこれを」
顔を上げると、馴染みの客が立っていた。背が高くて、少し無愛想。けれど毎日のように通ってくれる常連さんだ。
「おはよう、アレン。あなた本当にこれが好きね」
「うまいからな」
短い返事に思わず笑う。彼が選ぶのはいつも同じパンだった。
クロワッサン生地を何層にも折り重ねたブリオッシュに、季節の果物をたっぷり乗せた、この店の看板メニュー。
私が初めて、自分のためだけに考えたパンだ。
「また来る」
「ありがとう」
アレンが店を出ていく。
その背中を見送りながら、私は次のパンを並べ始めた。
――カラン。
再び扉のベルが鳴る。
「いらっしゃいま――」
言葉が途中で止まった。そこに立っていたのは、レオンだった。
数年ぶりに見る姿は少し大人になっていたけれど、その顔を見間違えるはずがない。レオンもまた、店内を見回して目を細めた。
「店を開いたんだな」
「……久しぶり」
それだけを返す。
気まずい沈黙が落ちた。
やがてレオンが口を開く。
「あいつとは別れた」
興味もないのに、勝手に言葉が続く。
「最初から決まってたんだよ。卒業したら家が決めた相手と結婚するって。恋愛と結婚は別物で、学生時代の遊び程度だったって。」
自嘲するように笑う。
「パン屋の息子と結婚するわけないってさ」
私は何も言わなかった。言う必要もなかった。もう、言いたいことがなかったからだ。
「エマ」
レオンが一歩近づく。
「今からでも遅くない、」
懐かしい声だった。昔なら、それだけで胸が跳ねていた。
「やり直そう。」
少しも迷わなかったと言えば嘘になる。あれほど好きだった人だ。何年も夢を見た相手だ。
けれど。
私は静かに首を横に振った。
「ごめんなさい。」
レオンの顔が強張る。
「どうしてだよ!」
どうして。
その答えはとても簡単だった。
「私、今の生活が好きなの、」
店内を見回す。
焼きたてのパン。笑顔のお客さん。朝早く起きて生地をこねる毎日。全部。
「ここで自分のパンを焼くのが好き、」
だから。
「もう、あなたを待たない。」
レオンが息を呑む。
「エマ、意地を張るな。」
強ばった声でそう続けるレオンに、私はにこりと笑った。
「焼きたてのパンが食べたいなら、いつでも買いに来てください」
恋人ではなく。ただのお客さんとして。それだけで十分だった。レオンの顔が、カッと赤く染まる。
「エマ!」
突然、腕を掴まれる。
「昔は俺のこと好きだっただろ!」
その力に思わず顔をしかめた。
「離せよ」
低い声が響く。気づけばアレンがレオンの手首を掴んでいた。
「彼女に触るな」
「なんだお前」
「エマの恋人だ」
思わず目を丸くする。
当の本人も言ったあとで少し気まずそうに視線を逸らした。
レオンは何か言いたげに口を開いたが、結局何も言えず店を出ていった。
扉のベルが、からんと寂しく鳴る。
しばらくして。
「助かったわ。ありがとう」
私がそう言うと、アレンは頭をかいた。
「……事実にしてもいいけどな」
珍しく照れたような横顔に、思わず笑ってしまう。窓から差し込む夕陽が、焼きたてのパンを金色に照らしていた。ふわりと甘い香りが広がる。
焼きたてのパンは、今日も誰かを笑顔にする。幼い頃から、今も変わらず。
それで十分だった。




