遊びだったと笑った若旦那は、全てを失う
港町ルヴェインは、夜になるほど美しかった。海沿いに並ぶ硝子灯が波へ滲み、石畳には酒場帰りの笑い声が流れている。潮風は少し冷たいが、この町で育った私には落ち着く匂いだった。
帳簿を閉じた私は、店の窓から夜の港を見下ろした。船着き場にはまだ灯りが残り、遅い時間でも荷運びをしている人影が見える。夜半を回っているというのに、クラウスはまだ戻ってこなかった。
カラン、と扉の鐘が鳴り、振り返るより先に肩の力が抜けた。こんな時間に帰ってくるなら、鍵を使う癖がある。扉の前に立っていたのは、困ったように眉を下げた従業員のミナだった。
「奥様……その……」
「旦那様なら、また戻らないのでしょう? そんな顔をしている時は、たいていそういう話だもの」
先に言うと、ミナは申し訳なさそうに視線を伏せた。胸の前で指を組み合わせたまま、小さく息を飲んでから口を開く。言いづらい話を持ってきた時の癖だった。
「申し訳ありません……。南通りの劇場で、またあの方と一緒にいるのを見た者が……」
あの方、とミナは言った。最近、この店では誰も名前を口にしなくなっている。けれど言われなくても分かっていた。王都から来た歌姫、リリアーナのことだ。
金髪に青い瞳をした女で、笑うだけで男が金貨を落とすと言われている。海運商会の若旦那であるクラウス・ベルンハルトも、今はその笑顔に夢中だった。
「そう。知らせに来てくれてありがとう、もう遅い時間なのに悪かったわね」
そう返すと、ミナは苦しそうに唇を噛んだ。私が怒鳴らないことに、逆に居心地の悪さを覚えている顔だった。最初の頃なら、私も感情のまま問い詰めていた。
「たかが遊びじゃないか」
けれど、クラウスは笑ってそう言った。そして周囲にいた者達まで、面白がるように笑っていた。男の甲斐性だとか、港町の商人なら愛人の一人くらい普通だとか、真面目すぎる妻は重いだとか、何度も同じ言葉を聞かされた。
私は机の上へ視線を落とし、重ねられた請求書を指先で揃えた。東部航路の燃料代に倉庫修繕費、水夫への前払いまで並んでいる。数字を追うだけで、もう余裕が残っていないことは十分に分かった。
「奥様……今夜くらいは、お休みになってください。この数日、ほとんど眠っておられないでしょう?」
「まだ駄目よ。北海航路の積荷確認が残っているもの、今日中に終わらせないと朝が回らないわ」
「でも、明日も朝から商会連合の会議があるんです。このままでは、お体まで壊してしまいます……」
「私が行かなければ、誰が行くの? 旦那様は店にいないし、数字を見られる者も他に残っていないでしょう」
そこまで言うと、ミナは口を閉ざした。視線だけが揺れ、何か言い返したそうに動いてから止まる。その反応だけで、答えは十分だった。
この三年、商会を回していたのは実質的に私だった。
◇
三年前、私――エルザ・ベルンハルトは、港湾貴族ベルンハルト家へ嫁いだ。港を見下ろす大きな屋敷と、海沿いに並ぶ倉庫群を見た時、この町で生きていくのだと胸が熱くなったのを覚えている。
クラウス・ベルンハルトは見た目の良い男だった。明るく人懐こいうえに話も上手く、初対面の相手でもすぐ懐へ入り込む。取引先からも人気があり、港では若旦那の顔を知らない者の方が少なかった。
ただ、クラウスは数字に弱かった。驚くほど弱く、利益計算をさせれば仕入れ値を間違え、契約書を渡しても最後まで読まない。酒宴へ出れば気前よく金をばら撒き、その場の空気だけで話を決めてしまう癖があった。
「若旦那は華がある。細かいことは番頭がやれば、それで上手く回るものだ」
「商売なんて勢いだよ。港で大事なのは、難しい顔より景気のいい声さ」
周囲はそう言って笑っていたが、私は笑えなかった。港も倉庫も船も、水夫達へ払う金も、全部数字で動いている。勢いだけで船を出せば、沈む時もあっという間だった。
嫁いだ翌月から、私は帳簿へ触り始めた。最初は不足している数字を確かめる程度だったが、見れば見るほど抜けが多く、そのまま放っておけなかった。
半年後には仕入れを管理し、一年後には取引先との交渉まで引き受けていた。値上がり前の燃料確保や、北海航路の積荷調整まで私が決めるようになり、気づけば番頭達も私へ確認を取りに来るようになっていた。
「助かるよ、エルザ。本当に、君が来てから商会の流れが良くなった気がする」
「君は本当に賢いな。父上が、良い嫁を迎えたと喜ぶのも分かるよ」
最初のクラウスは、そう言って笑っていた。机へ向かった私の肩を軽く叩き、上機嫌のまま酒場へ出ていくことも多かった。
変わったのは、商会が持ち直してからだった。赤字続きだった航路に利益が戻り、止まりかけていた取引も少しずつ動き始めると、周囲の声が変わっていった。
「奥様が口を出しすぎる。あれでは若旦那が飾りみたいじゃないか」
「商会の男衆を差し置いて、女が前へ出るものじゃない。港の笑い話になるぞ」
「若旦那の面子を潰してまで帳簿を握るなんて、あまり良い趣味じゃないね」
クラウスは最初、それを笑って流していた。けれど酒宴から戻るたび、私を見る目が少しずつ変わっていった。
そして、そこへ現れた。リリアーナが。
◇
「エルザ、今夜、夕食はいらない。帰りも遅くなるだろうから、先に休んでいてくれ」
ある晩、クラウスは鏡の前へ立ち、機嫌の良さそうな顔で髪を撫でながらそう言った。香油まで使っている匂いがして、外へ出る前だということは聞くまでもなく分かった。
「また劇場ですか? 先月も同じことを仰って、そのまま朝帰りだったでしょう」
「付き合いだよ。港湾組合の連中も来るし、顔を出さないと面倒なんだ」
そう返したクラウスは、面倒そうに上着の襟を直していた。こちらを見ようともせず話す態度に、胸の奥が重く沈んでいく。
リリアーナという女を愛人にして、仕事そっちのけで遊び歩いているのは分かっていた。
「先月も同じことを仰っていました。その付き合いで使った金額、覚えておられますか?」
「……いちいち管理するなよ。夫がどこで何をしてるか、全部把握しないと気が済まないのか」
そこで初めて、クラウスの声が冷えた。私は机の上へ置いていた請求書から視線を上げ、小さく息を吐く。
「管理ではありません。最近は支払いが遅れている業者も増えていますし、今は散財している場合ではないと申し上げているだけです」
「ああもう!」
クラウスが苛立ったように振り返り、そのまま声を荒げた。近くで控えていた使用人達の肩がびくりと揺れ、部屋の空気が一気に張り詰める。
「君はそればかりだな! 金だの帳簿だの契約だの、聞いてるだけで息が詰まるんだよ!」
「私は商会を守るために話しています。今のまま使い続ければ、いずれ回らなくなります」
「大袈裟なんだよ! どうせ最後は親父が何とかするに決まってるだろ!」
吐き捨てるように言ったクラウスは、そのまま苛立たしげに視線を逸らした。そこで私は、ようやく理解したのだ。
この人は、本当に何も分かっていない。先代はもう病床から起き上がれず、借金は年々増えている。南部航路は海賊被害で赤字が続き、倉庫街も老朽化したまま修繕費すら足りていなかった。
ベルンハルト商会は、もう昔のような巨大商会ではない。それでもクラウスは、まだ名門商会の若旦那でいるつもりだった。
現実を見ているのは、私だけだった。
◇
それから半年後、リリアーナは堂々とクラウスの隣へ立つようになった。劇場でも夜会でも酒宴でも、隠そうとする様子すらなく、誰もが当然のように二人を眺めていた。
「まあ、若旦那様ったら、本気なのかしら。あれだけ毎晩通っていれば、町中に知れ渡るわよねぇ」
「奥様より愛嬌があるもの。男の人って、結局ああいう柔らかい女が好きなんじゃない?」
「エルザ様って怖いのよ。会っても数字の話ばかりで、息が詰まりそうになるものねぇ」
そんな声も、もう何度聞いたか分からなかった。振り返れば止まる程度の陰口なら、港町では挨拶みたいなものだ。私は聞こえないふりをして、帳簿へ視線を落とし続けていた。
好きに言えばいい、と本気で思っていた。商会さえ守れるなら、私個人がどう言われようと構わない。そう割り切らなければ、とても毎日は回らなかった。
だが、その日の報告だけは違った。
「奥様、大変です。東倉庫の積荷が消えております、今朝の確認で数が合いません」
倉庫番の男は顔色を変えたまま駆け込んできて、息も整わないうちにそう言った。私は手にしていた書類を置き、反射的に立ち上がる。
「……は? 何が消えたの、積荷番号は確認したの?」
「高級香辛料です。王都向けに押さえていた分が、三箱ほど無くなっております」
背筋が冷えた。
あれは王都向けの予約品だった。納期も決まっているうえ、遅れれば違約金どころでは済まない。ようやく押さえた品だっただけに、代わりも簡単には用意できない。
「盗難? 鍵はどうなっていたの、夜番は何をしていたのよ」
「いえ……その、搬出許可証があります。正式な手続きで出された形になっておりまして……」
「誰の許可で?」
そう聞いた瞬間、倉庫番は苦しそうに喉を動かした。言いづらそうに視線を伏せ、それでも逃げずに答える。
「若旦那様の署名です」
◇
「リリアーナへ贈った? あの香辛料を、まさか個人で持ち出したのですか」
私が尋ねると、クラウスは露骨に面倒そうな顔をした。椅子へ深く座ったまま視線を逸らし、話を終わらせたそうに肩を竦める。
「だから何だよ。そのくらいで大騒ぎする必要があるのか?」
「何だよ、ではありません! あれは既に契約済みの商品です、違約になれば賠償まで発生します!」
思わず声が強くなり、自分でも喉が熱くなるのが分かった。けれどクラウスは気にした様子もなく、苛立たしげに机の端を指で叩いている。
「たかが香辛料だろ。そんなに騒ぐほどの話には見えないけどな」
「金貨百二十枚分です! 今の商会に、簡単に穴埋めできる額ではありません!」
「うるさいな!」
クラウスは苛立ったように机を叩き、そのまま不機嫌そうに私を睨みつけた。昔なら取り繕っていた笑顔も、今はもう残っていない。
「最近の君、本当に可愛げがないぞ! 顔を合わせれば金の話ばかりじゃないか!」
可愛げ。今、この状況で、それを言うのか。
胸の奥が冷えていく感覚だけが残り、怒りすら少し遅れて湧いてくる。私は数秒黙ったまま、机の上へ置かれた搬出許可証を見下ろした。
「リリアーナはな、君と違って俺を立ててくれるんだよ! 男が何を欲しがってるか、ちゃんと分かってる!」
私はしばらく黙っていた。
叫び返すより先に、喉の奥から溜息が漏れる。ここまで来ると、怒ることさえ馬鹿らしく思えてしまった。
「……商会のお金で愛人へ貢ぎ、それを指摘した妻へ可愛げがないですか」
「愛人じゃない! 彼女は俺を理解してくれる、君みたいに否定ばかりしない!」
「商会を潰してもですか? 今の使い方を続ければ、遠からず本当に回らなくなります」
「潰れない!」
クラウスは怒鳴った。
「ベルンハルトを馬鹿にするな! うちは港でも名の通った商会なんだぞ!」
その言葉を聞いた瞬間、私は完全に諦めた。
この人は、自分が何の上に立っているのか、本当に理解していない。船員も倉庫番も荷運びも職人も、皆が積み上げてきた信用の上へ、ただ乗っているだけだった。
◇
三日後、港湾商会連合の晩餐会が開かれた。海沿いの大広間には硝子灯が並び、港町の商人達は酒杯を片手に談笑している。ベルンハルト商会の席へ座った私は、開宴前から周囲の視線が落ち着かないことに気づいていた。
理由は、すぐ分かった。
クラウスがリリアーナを伴って現れたからだ。しかも彼は周囲の反応など気にも留めず、当然のような顔で彼女を私の隣へ座らせた。
「いやあ、リリアーナがぜひ来たいって言うからさ。こういう場も見てみたいらしくて、せっかくだから連れてきたんだ」
クラウスは軽い調子で笑い、そのまま酒杯を取った。周囲でも乾いた笑い声が上がり、商人達は互いに顔を見合わせている。
私は笑わなかった。
するとリリアーナが、困ったように眉を下げながら私を見た。声だけを聞けば遠慮がちな女に聞こえるが、その瞳には別の色が浮かんでいる。
「ごめんなさい、奥様。私なんかが同席してしまって、ご迷惑ではありませんでしたか?」
「いいえ。旦那様が望まれたのでしたら、私から申し上げることはありません」
そう返すと、リリアーナは小さく肩を竦めた。けれど口元には、薄く笑みが残っている。
「若旦那様、とても寂しそうでしたの。奥様はお仕事がお忙しくて、全然構ってくださらないって仰っていましたから」
その言葉に、周囲の男達が苦笑した。
「商売人の妻は愛嬌も必要ですな。帳簿ばかりでは、男も家へ帰りづらくなるでしょう」
「ははは、たしかにベルンハルトの若旦那は窮屈そうにしておる時があるな」
笑い声が広がった瞬間、低い声が大広間へ響いた。
「――その愛嬌で、契約品まで持ち出させたのか?」
空気が変わった。
談笑していた商人達が一斉に入口へ視線を向け、給仕達まで動きを止める。そこへ立っていたのは、黒髪の男だった。
北部最大手、ヴァルツ海運当主のレオン・ヴァルツ。ベルンハルト商会が、今もっとも大きな借りを作っている相手でもある。
「レ、レオン殿……どうしてこちらへ」
クラウスの声が揺れた。
さっきまで笑っていた顔から血の気が引き、酒杯を持つ手まで落ち着かなく動いている。レオンはそんな様子を眺めたまま、感情の見えない声で口を開いた。
「香辛料の件は聞いている。予約品を横流ししたそうだな」
「そ、それは少し誤解があって……一時的なものなんだ」
「一時的?」
レオンは表情を変えなかった。
「船を修繕する金も無く、倉庫を担保へ入れ、港湾税まで滞納している商会が、よくそんな言葉を使えたものだ」
ざわり、と周囲が騒ぐ。
商人達の目つきが変わり、さっきまで笑っていた空気は完全に消えていた。クラウスは何か言い返そうとしているが、言葉が上手く出てこない。
「ち、違う! ちゃんと立て直せる! ベルンハルトは、そんな簡単に潰れる商会じゃない!」
「その言葉を、積荷を待っている取引先へも言うつもりか?」
レオンがそう返した瞬間、リリアーナの顔色も変わった。彼女はクラウスを見上げたまま、小さく唇を噛んでいる。
ここまで商会が追い詰められているとは、知らなかったのだろう。
「エルザ夫人」
レオンが私を見る。
周囲の視線も一斉に集まり、大広間から笑い声が消えた。私は少しだけ考え、それから酒杯を置く。
「貴女はまだ、この商会へ残るつもりか?」
「いいえ。本日をもって、ベルンハルト商会から手を引きます」
クラウスが勢いよく振り向いた。
「は? お、おい、何を言ってるんだ!」
「冗談ではありません。これ以上、私一人では支えきれません」
クラウスは慌てたように立ち上がり、そのまま机へ手をついた。周囲の視線が集まっていることも忘れたように、焦った顔で私を見る。
「待て! 君が抜けたら、誰が帳簿を見るんだ! 取引先との話だって、全部君がやってただろ!」
「愛嬌のある方へお願いしては? 旦那様を立ててくださるのでしょう」
周囲の空気が止まる。
リリアーナの笑みが消え、クラウスは口を開いたまま言葉を失った。
「エルザ、さすがにそれは洒落にならないぞ!」
「私は商会を守りたかったのです。けれど旦那様は、最後まで遊びの延長でしか見ておられませんでした」
「だからって離縁なんて、そんな話になるわけないだろ!」
「ええ、離縁します」
クラウスの顔色が変わった。
今になって冗談ではないと気づいたのか、引き攣った笑みを浮かべながら私を見る。
「ま、待て! そんな顔をするなよ! 今のは言葉の綾というか、その場の勢いで……」
「旦那様は、いつも冗談でしたね。愛人のことも、横流しのことも、離縁の話も」
私はそこで言葉を切った。
そして真正面からクラウスを見たまま、最後まではっきりと言い切る。
「ですが私は、もう笑えません。笑い事ではすまないと、お気づきになるが遅かったですね」
◇
離縁は、一週間で成立した。
先代当主は寝込んだまま口を出せず、クラウスも最後まで現実を理解していなかったらしい。「どうせそのうち戻るだろ」と周囲へ言っていたと聞いた時も、不思議と怒りは湧かなかった。
戻るわけがない。
私はベルンハルト商会を去り、港外れの小さな事務所を借りた。潮風で壁は傷み、窓枠も少し歪んでいる建物だったが、今の私には十分だった。
持ち出したのは、自分の私財と帳簿の控えだけだった。店も船も倉庫も、ベルンハルトの名が付くものは何一つ持ってこなかった。
周囲は笑った。
「女一人で海運商売? そんなもの、長く続くわけがないだろう」
「無理無理。船も倉庫も持たない女が、港で何をできるっていうんだ」
「どうせ資金が尽きたら泣いて戻るさ。結局、名門商会の看板が無きゃ何もできない」
港の人間は噂が好きだ。酒場でも市場でも、誰かが失敗すれば面白そうに話題へする。けれど私は、もう一つ知っていた。商売で一番大事なのは、建物でも船でもない。信用だ。
◇
一ヶ月後、ベルンハルト商会は大混乱になった。最初に離れたのは、水夫達だった。港へ停泊している船の前では、苛立った声が毎日のように飛び交い、荷運び達まで不満を隠さなくなっていく。
「給金が遅れるうえに、遅れても説明一つ無いんじゃ、命を預ける気にはなれねえよ」
「修繕費まで削られてるらしいぞ。この前の船なんか、甲板の軋みが酷すぎて海へ出るのが怖かった」
そう言って、水夫達は次々ベルンハルトを離れていった。港では腕の良い船員ほど仕事を選べるため、一度不安が広がると流れは止まらない。
次に離れたのは、取引先だった。理由は単純だった。クラウスが契約内容を理解していない。その事実が、取引を重ねるたび露骨に表へ出始めたのだ。
「え、違約金って払う必要あるの? 商品は後で届ければ問題ないだろ?」
「港湾税ってそんな高いの? 前まで普通に払えてたんだから、少しくらい待たせても平気じゃないか?」
そんな状態で交渉になるわけがない。最初は周囲も苦笑していたが、納期遅れと未払いが続くにつれ、商人達の目つきは変わっていった。港で一度失った信用は、金より戻りづらい。
さらに致命的だったのは、保険組合だった。修繕不足のまま船を動かしたせいで事故率が急増し、積荷破損まで立て続けに発生した。保険組合は危険商会と判断し、ついに契約更新を拒否した。
結果、誰もベルンハルトの船へ荷を預けなくなった。
◇
「エルザ様!」
ある日、ミナが慌てた様子で事務所へ駆け込んできた。息を切らしたまま扉を閉め、顔色を変えたまま私を見る。
「北倉庫が差し押さえられました! さっき港の人達が騒いでいて……!」
「そう。とうとうそこまで来たのね」
「そう、って……! ベルンハルト商会ですよ!? 本当に潰れてしまうかもしれないんですよ!」
私は手にしていたペンを置いた。驚きは無い。むしろ、ここまで保った方が不思議なくらいだった。
「それと……若旦那様が、こちらへ来ています。今、外でかなり揉めていて……」
その瞬間、扉が勢いよく開いた。
「エルザ!」
入ってきたのはクラウスだった。以前よりずっと痩せている。高価だった上着には皺が残り、髪も乱れたままだった。
「戻ってきてくれ!」
開口一番、それだった。クラウスは息を荒げたまま机へ近づき、焦った顔で私を見る。
「商会がめちゃくちゃなんだ! このままだと本当に終わる!」
「でしょうね。今まで無理やり続けていただけですから」
「皆、君がいなくなってから変なんだ! 水夫も辞めるし、取引先も冷たいし、前みたいに話が通らない!」
私は少しだけ笑った。
「変なのではありません。元に戻っただけです」
「何だよそれ!」
「今まで、私が繋ぎ止めていたんです。水夫も職人も取引先も、全部ぎりぎりで保っていただけでした」
クラウスは呆然とした顔で私を見た。まるで今まで一度も考えたことが無かったと言うように、口だけがわずかに動いている。
「嘘だ! ベルンハルトは名門だぞ! そんな簡単に崩れるわけないだろ!」
「その名門を、旦那様が潰したんです」
クラウスが息を呑んだ。そこで初めて、本当に追い詰められているのだと分かったのかもしれない。彼は数秒黙り込み、それから縋るような声を出した。
「……頼む。もう一度だけでいい、戻ってきてくれ」
「無理です」
「愛人とも別れた! リリアーナとも、もう会ってない!」
「だから?」
「え……」
クラウスは言葉を失った。今さら何を言われているのか、本気で理解できない顔だった。
「旦那様は、まだ分かっていない。問題は愛人だけではありません」
私はクラウスを見たまま、はっきりと言葉を続けた。
「信用です。働く人達を軽く扱い、妻を脅せば従うと思い、商売は誰かが勝手に支えてくれると考え続けた。その積み重ねで、皆が離れていったんです」
クラウスは何も言えなかった。ようやく目の前の現実を見始めたのか、震えるように息を吐いている。
「旦那様は、“失っても戻ると考え続けた。でも、一度壊れた信用は戻りません」
◇
「話は終わったか?」
低い声が聞こえ、事務所の空気が変わった。振り返ると、入口の前にはレオン・ヴァルツが立っている。クラウスの顔は目に見えて引き攣り、さっきまで私へ向けていた視線が一気に揺れた。
「ヴァルツ……どうしてここに」
「差し押さえ通知は届いただろう。北倉庫の件も、もう正式に処理へ入っている」
レオンは感情を交えずにそう言った。クラウスは慌てたように一歩前へ出るが、その動きにはもう以前の勢いが残っていない。
「ま、待ってくれ! もう少しだけ猶予をくれれば、必ず立て直す!」
「無い」
レオンは即座に答えた。
「港湾組合も、お前との取引停止を決めた。これ以上、未払いと事故へ付き合う気は無いそうだ」
「そ、そんな……! いきなり全部切るなんて!」
「安心しろ。船はこちらで買い取ってやる」
その言葉に、クラウスの顔へ一瞬だけ希望が戻った。
「ほ、本当か!? なら何とか立て直せる、船さえ残れば――」
「残りはしない。借金は、そんな額ではない」
その瞬間、クラウスの顔から血の気が引いた。
レオンは彼を見たまま、それ以上慰める言葉を一つも口にしない。数字として処理する相手を見る目だった。
「エルザ。北部航路の件だが、こちらとしては正式契約へ進みたい」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
私が頷くと、クラウスの動きが止まった。理解できないものを見るような顔で、彼は私とレオンを交互に見ている。
「は……? 何の話だ……?」
レオンが淡々と答えた。
「エルザさんは既に新会社を立ち上げている。北部航路の再編も、こちらと共同で進める予定だ」
クラウスの口が震えた。言葉を否定したいのに、何から否定すればいいのか分からない顔だった。
「……嘘だ。そんな話、聞いてない」
「船員も取引先も職人も、かなり流れたぞ。お前のところに残った人間の方が少ないくらいだ」
当然だった。皆、最初から誰が商会を回していたのか知っている。給金交渉も積荷調整も事故対応も、現場で頭を下げていた相手を見てきた。
「う、嘘だ……そんなの……あり得ない……」
クラウスは崩れるように椅子へ座り込んだ。呆然としたまま机を見つめ、ようやく自分の足元が消えていたことに気づいたようだった。
その姿を見ながら、私は思う。この人は最後まで、自分が中心だと思っていたのだ。皆が自分へ従い、商会も船も当然そこにあり続けると信じていた。
でも違う。皆、生きるために働いていた。だから、信用できる相手についていっただけだ。
◇
半年後、私のランベル海運は北部航路を中心に取引を広げ、港でも名前を聞かれる商会になっていた。利益だけを比べればベルンハルト商会の最盛期より小さいが、事故率は低く、水夫達が辞めることもほとんど無い。
無茶な航路を組まず、修繕費も削らず、契約書も最後まで確認する。ただそれだけのことを続けただけで、港の空気は驚くほど変わった。
「エルザ様、最近は本当にいい顔をしておられますね。前みたいに、ずっと張り詰めた顔をしていません」
昼下がりの事務所で帳簿を閉じると、向かい側にいたミナが笑いながらそう言った。窓から吹き込む潮風で書類の端が揺れ、以前のような重苦しい空気は残っていない。
「そうかしら。毎日数字ばかり見ているから、自分では前と変わらないつもりだったのだけれど」
「変わりましたよ。前は、商会が壊れないように一人で支え続けていましたから」
私は少し考え、閉じた帳簿へそっと手を置いた。ベルンハルト商会にいた頃は、毎日どこかが崩れかけていた。航路も帳簿も人間関係も、止まれば終わる気がして、気を抜く余裕など無かった。けれど今は、自分で積み上げたものが形になっていく感覚がある。
その時、事務所の扉が開いた。
「仕事中だったか。だが、新造船の件で少し確認したいことがある」
入ってきたのは、レオン・ヴァルツだった。
ここ最近、彼は妙にこの事務所へ顔を出す回数が増えている。しかも毎回、「近くを通っただけだ」と同じような言い訳を口にするのだ。
「また突然ですね。三日続けて現れておいて、偶然と言われても信じられません」
「本当に近くを通っただけだ。毎回そこまで疑われる筋合いは無いと思うが」
横で聞いていたミナが、堪えきれないように口元を押さえている。
私は呆れたように息を吐き、机の上へ置かれた書類を片付けた。
「それで、本日はどういったご用件でしょうか。今度こそ、本当に仕事のお話なんですよね?」
「ヴァルツ海運側として、共同運航の契約を提案したい。条件は既にまとめてある」
レオンはそう言って書類を差し出した。
私は契約内容へ目を通し、利益配分の欄を見たところで眉を上げる。こちらへ割り振られている比率が、予想していたよりかなり大きい。
「利益配分、こちらが多すぎませんか。この条件では、そちらの利益がかなり減ると思います」
「問題無い。ランベル海運の信用を考えれば、それでも十分に成立する契約だ」
「それでも普通は、もう少しそちらへ利益を多くします。こちらばかり有利な条件に見えます」
そう返すと、レオンは真顔のまま私を見た。
「貴女は、自分の価値を低く見積もりすぎる。貴女の商会に、人も商売も集まっているだろう」
私は言葉に詰まった。ベルンハルト商会にいた頃、私は仕事の話をするたび、可愛げがないだの重いだのと陰で笑われていた。帳簿を抱えて走り回っても、返ってくるのは「怖い女だ」という言葉ばかりだった。
けれどレオンは、契約書の数字も現場の積み重ねも正面から見て話をする。私が何をしてきたのかを、最初から仕事として扱っていた。
「……ありがとうございます。そういう言葉を向けられたのは、初めてかもしれません」
そう返すと、レオンは少しだけ視線を逸らした。
「礼を言われるほどの話ではない。当然の評価を、そのまま口にしただけだ」
「照れてます?」
「照れていない。余計なことを言うくらいなら、契約書を最後まで確認してくれ」
耳が少し赤い。私はそこで初めて、肩の力を抜いて笑った。
窓から吹き込む潮風が書類を揺らし、港には新しい船がゆっくり入ってくる。甲板の上では水夫達が忙しそうに動き、その姿を見ているだけで胸の奥が少し温かくなった。
今なら、自分の足で前へ進んでいけると思えた。
完。
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