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遊びだったと笑った若旦那は、全てを失う

作者: 百鬼清風
掲載日:2026/05/23

 港町ルヴェインは、夜になるほど美しかった。海沿いに並ぶ硝子灯が波へ滲み、石畳には酒場帰りの笑い声が流れている。潮風は少し冷たいが、この町で育った私には落ち着く匂いだった。

 帳簿を閉じた私は、店の窓から夜の港を見下ろした。船着き場にはまだ灯りが残り、遅い時間でも荷運びをしている人影が見える。夜半を回っているというのに、クラウスはまだ戻ってこなかった。

 カラン、と扉の鐘が鳴り、振り返るより先に肩の力が抜けた。こんな時間に帰ってくるなら、鍵を使う癖がある。扉の前に立っていたのは、困ったように眉を下げた従業員のミナだった。

「奥様……その……」

「旦那様なら、また戻らないのでしょう? そんな顔をしている時は、たいていそういう話だもの」

 先に言うと、ミナは申し訳なさそうに視線を伏せた。胸の前で指を組み合わせたまま、小さく息を飲んでから口を開く。言いづらい話を持ってきた時の癖だった。

「申し訳ありません……。南通りの劇場で、またあの方と一緒にいるのを見た者が……」

 あの方、とミナは言った。最近、この店では誰も名前を口にしなくなっている。けれど言われなくても分かっていた。王都から来た歌姫、リリアーナのことだ。

 金髪に青い瞳をした女で、笑うだけで男が金貨を落とすと言われている。海運商会ベルンハルトの若旦那であるクラウス・ベルンハルトも、今はその笑顔に夢中だった。

「そう。知らせに来てくれてありがとう、もう遅い時間なのに悪かったわね」

 そう返すと、ミナは苦しそうに唇を噛んだ。私が怒鳴らないことに、逆に居心地の悪さを覚えている顔だった。最初の頃なら、私も感情のまま問い詰めていた。

「たかが遊びじゃないか」

 けれど、クラウスは笑ってそう言った。そして周囲にいた者達まで、面白がるように笑っていた。男の甲斐性だとか、港町の商人なら愛人の一人くらい普通だとか、真面目すぎる妻は重いだとか、何度も同じ言葉を聞かされた。

 私は机の上へ視線を落とし、重ねられた請求書を指先で揃えた。東部航路の燃料代に倉庫修繕費、水夫への前払いまで並んでいる。数字を追うだけで、もう余裕が残っていないことは十分に分かった。

「奥様……今夜くらいは、お休みになってください。この数日、ほとんど眠っておられないでしょう?」

「まだ駄目よ。北海航路の積荷確認が残っているもの、今日中に終わらせないと朝が回らないわ」

「でも、明日も朝から商会連合の会議があるんです。このままでは、お体まで壊してしまいます……」

「私が行かなければ、誰が行くの? 旦那様は店にいないし、数字を見られる者も他に残っていないでしょう」

 そこまで言うと、ミナは口を閉ざした。視線だけが揺れ、何か言い返したそうに動いてから止まる。その反応だけで、答えは十分だった。

 この三年、商会を回していたのは実質的に私だった。



 三年前、私――エルザ・ベルンハルトは、港湾貴族ベルンハルト家へ嫁いだ。港を見下ろす大きな屋敷と、海沿いに並ぶ倉庫群を見た時、この町で生きていくのだと胸が熱くなったのを覚えている。

 クラウス・ベルンハルトは見た目の良い男だった。明るく人懐こいうえに話も上手く、初対面の相手でもすぐ懐へ入り込む。取引先からも人気があり、港では若旦那の顔を知らない者の方が少なかった。

 ただ、クラウスは数字に弱かった。驚くほど弱く、利益計算をさせれば仕入れ値を間違え、契約書を渡しても最後まで読まない。酒宴へ出れば気前よく金をばら撒き、その場の空気だけで話を決めてしまう癖があった。

「若旦那は華がある。細かいことは番頭がやれば、それで上手く回るものだ」

「商売なんて勢いだよ。港で大事なのは、難しい顔より景気のいい声さ」

 周囲はそう言って笑っていたが、私は笑えなかった。港も倉庫も船も、水夫達へ払う金も、全部数字で動いている。勢いだけで船を出せば、沈む時もあっという間だった。

 嫁いだ翌月から、私は帳簿へ触り始めた。最初は不足している数字を確かめる程度だったが、見れば見るほど抜けが多く、そのまま放っておけなかった。

 半年後には仕入れを管理し、一年後には取引先との交渉まで引き受けていた。値上がり前の燃料確保や、北海航路の積荷調整まで私が決めるようになり、気づけば番頭達も私へ確認を取りに来るようになっていた。

「助かるよ、エルザ。本当に、君が来てから商会の流れが良くなった気がする」

「君は本当に賢いな。父上が、良い嫁を迎えたと喜ぶのも分かるよ」

 最初のクラウスは、そう言って笑っていた。机へ向かった私の肩を軽く叩き、上機嫌のまま酒場へ出ていくことも多かった。

 変わったのは、商会が持ち直してからだった。赤字続きだった航路に利益が戻り、止まりかけていた取引も少しずつ動き始めると、周囲の声が変わっていった。

「奥様が口を出しすぎる。あれでは若旦那が飾りみたいじゃないか」

「商会の男衆を差し置いて、女が前へ出るものじゃない。港の笑い話になるぞ」

「若旦那の面子を潰してまで帳簿を握るなんて、あまり良い趣味じゃないね」

 クラウスは最初、それを笑って流していた。けれど酒宴から戻るたび、私を見る目が少しずつ変わっていった。

 そして、そこへ現れた。リリアーナが。



「エルザ、今夜、夕食はいらない。帰りも遅くなるだろうから、先に休んでいてくれ」

 ある晩、クラウスは鏡の前へ立ち、機嫌の良さそうな顔で髪を撫でながらそう言った。香油まで使っている匂いがして、外へ出る前だということは聞くまでもなく分かった。

「また劇場ですか? 先月も同じことを仰って、そのまま朝帰りだったでしょう」

「付き合いだよ。港湾組合の連中も来るし、顔を出さないと面倒なんだ」

 そう返したクラウスは、面倒そうに上着の襟を直していた。こちらを見ようともせず話す態度に、胸の奥が重く沈んでいく。

 リリアーナという女を愛人にして、仕事そっちのけで遊び歩いているのは分かっていた。

「先月も同じことを仰っていました。その付き合いで使った金額、覚えておられますか?」

「……いちいち管理するなよ。夫がどこで何をしてるか、全部把握しないと気が済まないのか」

 そこで初めて、クラウスの声が冷えた。私は机の上へ置いていた請求書から視線を上げ、小さく息を吐く。

「管理ではありません。最近は支払いが遅れている業者も増えていますし、今は散財している場合ではないと申し上げているだけです」

「ああもう!」

 クラウスが苛立ったように振り返り、そのまま声を荒げた。近くで控えていた使用人達の肩がびくりと揺れ、部屋の空気が一気に張り詰める。

「君はそればかりだな! 金だの帳簿だの契約だの、聞いてるだけで息が詰まるんだよ!」

「私は商会を守るために話しています。今のまま使い続ければ、いずれ回らなくなります」

「大袈裟なんだよ! どうせ最後は親父が何とかするに決まってるだろ!」

 吐き捨てるように言ったクラウスは、そのまま苛立たしげに視線を逸らした。そこで私は、ようやく理解したのだ。

 この人は、本当に何も分かっていない。先代はもう病床から起き上がれず、借金は年々増えている。南部航路は海賊被害で赤字が続き、倉庫街も老朽化したまま修繕費すら足りていなかった。

 ベルンハルト商会は、もう昔のような巨大商会ではない。それでもクラウスは、まだ名門商会の若旦那でいるつもりだった。

 現実を見ているのは、私だけだった。



 それから半年後、リリアーナは堂々とクラウスの隣へ立つようになった。劇場でも夜会でも酒宴でも、隠そうとする様子すらなく、誰もが当然のように二人を眺めていた。

「まあ、若旦那様ったら、本気なのかしら。あれだけ毎晩通っていれば、町中に知れ渡るわよねぇ」

「奥様より愛嬌があるもの。男の人って、結局ああいう柔らかい女が好きなんじゃない?」

「エルザ様って怖いのよ。会っても数字の話ばかりで、息が詰まりそうになるものねぇ」

 そんな声も、もう何度聞いたか分からなかった。振り返れば止まる程度の陰口なら、港町では挨拶みたいなものだ。私は聞こえないふりをして、帳簿へ視線を落とし続けていた。

 好きに言えばいい、と本気で思っていた。商会さえ守れるなら、私個人がどう言われようと構わない。そう割り切らなければ、とても毎日は回らなかった。

 だが、その日の報告だけは違った。

「奥様、大変です。東倉庫の積荷が消えております、今朝の確認で数が合いません」

 倉庫番の男は顔色を変えたまま駆け込んできて、息も整わないうちにそう言った。私は手にしていた書類を置き、反射的に立ち上がる。

「……は? 何が消えたの、積荷番号は確認したの?」

「高級香辛料です。王都向けに押さえていた分が、三箱ほど無くなっております」

 背筋が冷えた。

 あれは王都向けの予約品だった。納期も決まっているうえ、遅れれば違約金どころでは済まない。ようやく押さえた品だっただけに、代わりも簡単には用意できない。

「盗難? 鍵はどうなっていたの、夜番は何をしていたのよ」

「いえ……その、搬出許可証があります。正式な手続きで出された形になっておりまして……」

「誰の許可で?」

 そう聞いた瞬間、倉庫番は苦しそうに喉を動かした。言いづらそうに視線を伏せ、それでも逃げずに答える。

「若旦那様の署名です」



「リリアーナへ贈った? あの香辛料を、まさか個人で持ち出したのですか」

 私が尋ねると、クラウスは露骨に面倒そうな顔をした。椅子へ深く座ったまま視線を逸らし、話を終わらせたそうに肩を竦める。

「だから何だよ。そのくらいで大騒ぎする必要があるのか?」

「何だよ、ではありません! あれは既に契約済みの商品です、違約になれば賠償まで発生します!」

 思わず声が強くなり、自分でも喉が熱くなるのが分かった。けれどクラウスは気にした様子もなく、苛立たしげに机の端を指で叩いている。

「たかが香辛料だろ。そんなに騒ぐほどの話には見えないけどな」

「金貨百二十枚分です! 今の商会に、簡単に穴埋めできる額ではありません!」

「うるさいな!」

 クラウスは苛立ったように机を叩き、そのまま不機嫌そうに私を睨みつけた。昔なら取り繕っていた笑顔も、今はもう残っていない。

「最近の君、本当に可愛げがないぞ! 顔を合わせれば金の話ばかりじゃないか!」

 可愛げ。今、この状況で、それを言うのか。

 胸の奥が冷えていく感覚だけが残り、怒りすら少し遅れて湧いてくる。私は数秒黙ったまま、机の上へ置かれた搬出許可証を見下ろした。

「リリアーナはな、君と違って俺を立ててくれるんだよ! 男が何を欲しがってるか、ちゃんと分かってる!」

 私はしばらく黙っていた。

 叫び返すより先に、喉の奥から溜息が漏れる。ここまで来ると、怒ることさえ馬鹿らしく思えてしまった。

「……商会のお金で愛人へ貢ぎ、それを指摘した妻へ可愛げがないですか」

「愛人じゃない! 彼女は俺を理解してくれる、君みたいに否定ばかりしない!」

「商会を潰してもですか? 今の使い方を続ければ、遠からず本当に回らなくなります」

「潰れない!」

 クラウスは怒鳴った。

「ベルンハルトを馬鹿にするな! うちは港でも名の通った商会なんだぞ!」

 その言葉を聞いた瞬間、私は完全に諦めた。

 この人は、自分が何の上に立っているのか、本当に理解していない。船員も倉庫番も荷運びも職人も、皆が積み上げてきた信用の上へ、ただ乗っているだけだった。



 三日後、港湾商会連合の晩餐会が開かれた。海沿いの大広間には硝子灯が並び、港町の商人達は酒杯を片手に談笑している。ベルンハルト商会の席へ座った私は、開宴前から周囲の視線が落ち着かないことに気づいていた。

 理由は、すぐ分かった。

 クラウスがリリアーナを伴って現れたからだ。しかも彼は周囲の反応など気にも留めず、当然のような顔で彼女を私の隣へ座らせた。

「いやあ、リリアーナがぜひ来たいって言うからさ。こういう場も見てみたいらしくて、せっかくだから連れてきたんだ」

 クラウスは軽い調子で笑い、そのまま酒杯を取った。周囲でも乾いた笑い声が上がり、商人達は互いに顔を見合わせている。

 私は笑わなかった。

 するとリリアーナが、困ったように眉を下げながら私を見た。声だけを聞けば遠慮がちな女に聞こえるが、その瞳には別の色が浮かんでいる。

「ごめんなさい、奥様。私なんかが同席してしまって、ご迷惑ではありませんでしたか?」

「いいえ。旦那様が望まれたのでしたら、私から申し上げることはありません」

 そう返すと、リリアーナは小さく肩を竦めた。けれど口元には、薄く笑みが残っている。

「若旦那様、とても寂しそうでしたの。奥様はお仕事がお忙しくて、全然構ってくださらないって仰っていましたから」

 その言葉に、周囲の男達が苦笑した。

「商売人の妻は愛嬌も必要ですな。帳簿ばかりでは、男も家へ帰りづらくなるでしょう」

「ははは、たしかにベルンハルトの若旦那は窮屈そうにしておる時があるな」

 笑い声が広がった瞬間、低い声が大広間へ響いた。

「――その愛嬌で、契約品まで持ち出させたのか?」

 空気が変わった。

 談笑していた商人達が一斉に入口へ視線を向け、給仕達まで動きを止める。そこへ立っていたのは、黒髪の男だった。

 北部最大手、ヴァルツ海運当主のレオン・ヴァルツ。ベルンハルト商会が、今もっとも大きな借りを作っている相手でもある。

「レ、レオン殿……どうしてこちらへ」

 クラウスの声が揺れた。

 さっきまで笑っていた顔から血の気が引き、酒杯を持つ手まで落ち着かなく動いている。レオンはそんな様子を眺めたまま、感情の見えない声で口を開いた。

「香辛料の件は聞いている。予約品を横流ししたそうだな」

「そ、それは少し誤解があって……一時的なものなんだ」

「一時的?」

 レオンは表情を変えなかった。

「船を修繕する金も無く、倉庫を担保へ入れ、港湾税まで滞納している商会が、よくそんな言葉を使えたものだ」

 ざわり、と周囲が騒ぐ。

 商人達の目つきが変わり、さっきまで笑っていた空気は完全に消えていた。クラウスは何か言い返そうとしているが、言葉が上手く出てこない。

「ち、違う! ちゃんと立て直せる! ベルンハルトは、そんな簡単に潰れる商会じゃない!」

「その言葉を、積荷を待っている取引先へも言うつもりか?」

 レオンがそう返した瞬間、リリアーナの顔色も変わった。彼女はクラウスを見上げたまま、小さく唇を噛んでいる。

 ここまで商会が追い詰められているとは、知らなかったのだろう。

「エルザ夫人」

 レオンが私を見る。

 周囲の視線も一斉に集まり、大広間から笑い声が消えた。私は少しだけ考え、それから酒杯を置く。

「貴女はまだ、この商会へ残るつもりか?」

「いいえ。本日をもって、ベルンハルト商会から手を引きます」

 クラウスが勢いよく振り向いた。

「は? お、おい、何を言ってるんだ!」

「冗談ではありません。これ以上、私一人では支えきれません」

 クラウスは慌てたように立ち上がり、そのまま机へ手をついた。周囲の視線が集まっていることも忘れたように、焦った顔で私を見る。

「待て! 君が抜けたら、誰が帳簿を見るんだ! 取引先との話だって、全部君がやってただろ!」

「愛嬌のある方へお願いしては? 旦那様を立ててくださるのでしょう」

 周囲の空気が止まる。

 リリアーナの笑みが消え、クラウスは口を開いたまま言葉を失った。

「エルザ、さすがにそれは洒落にならないぞ!」

「私は商会を守りたかったのです。けれど旦那様は、最後まで遊びの延長でしか見ておられませんでした」

「だからって離縁なんて、そんな話になるわけないだろ!」

「ええ、離縁します」

 クラウスの顔色が変わった。

 今になって冗談ではないと気づいたのか、引き攣った笑みを浮かべながら私を見る。

「ま、待て! そんな顔をするなよ! 今のは言葉の綾というか、その場の勢いで……」

「旦那様は、いつも冗談でしたね。愛人のことも、横流しのことも、離縁の話も」

 私はそこで言葉を切った。

 そして真正面からクラウスを見たまま、最後まではっきりと言い切る。

「ですが私は、もう笑えません。笑い事ではすまないと、お気づきになるが遅かったですね」



 離縁は、一週間で成立した。

 先代当主は寝込んだまま口を出せず、クラウスも最後まで現実を理解していなかったらしい。「どうせそのうち戻るだろ」と周囲へ言っていたと聞いた時も、不思議と怒りは湧かなかった。

 戻るわけがない。

 私はベルンハルト商会を去り、港外れの小さな事務所を借りた。潮風で壁は傷み、窓枠も少し歪んでいる建物だったが、今の私には十分だった。

 持ち出したのは、自分の私財と帳簿の控えだけだった。店も船も倉庫も、ベルンハルトの名が付くものは何一つ持ってこなかった。

 周囲は笑った。

「女一人で海運商売? そんなもの、長く続くわけがないだろう」

「無理無理。船も倉庫も持たない女が、港で何をできるっていうんだ」

「どうせ資金が尽きたら泣いて戻るさ。結局、名門商会の看板が無きゃ何もできない」

 港の人間は噂が好きだ。酒場でも市場でも、誰かが失敗すれば面白そうに話題へする。けれど私は、もう一つ知っていた。商売で一番大事なのは、建物でも船でもない。信用だ。



 一ヶ月後、ベルンハルト商会は大混乱になった。最初に離れたのは、水夫達だった。港へ停泊している船の前では、苛立った声が毎日のように飛び交い、荷運び達まで不満を隠さなくなっていく。

「給金が遅れるうえに、遅れても説明一つ無いんじゃ、命を預ける気にはなれねえよ」

「修繕費まで削られてるらしいぞ。この前の船なんか、甲板の軋みが酷すぎて海へ出るのが怖かった」

 そう言って、水夫達は次々ベルンハルトを離れていった。港では腕の良い船員ほど仕事を選べるため、一度不安が広がると流れは止まらない。

 次に離れたのは、取引先だった。理由は単純だった。クラウスが契約内容を理解していない。その事実が、取引を重ねるたび露骨に表へ出始めたのだ。

「え、違約金って払う必要あるの? 商品は後で届ければ問題ないだろ?」

「港湾税ってそんな高いの? 前まで普通に払えてたんだから、少しくらい待たせても平気じゃないか?」

 そんな状態で交渉になるわけがない。最初は周囲も苦笑していたが、納期遅れと未払いが続くにつれ、商人達の目つきは変わっていった。港で一度失った信用は、金より戻りづらい。

 さらに致命的だったのは、保険組合だった。修繕不足のまま船を動かしたせいで事故率が急増し、積荷破損まで立て続けに発生した。保険組合は危険商会と判断し、ついに契約更新を拒否した。

 結果、誰もベルンハルトの船へ荷を預けなくなった。



「エルザ様!」

 ある日、ミナが慌てた様子で事務所へ駆け込んできた。息を切らしたまま扉を閉め、顔色を変えたまま私を見る。

「北倉庫が差し押さえられました! さっき港の人達が騒いでいて……!」

「そう。とうとうそこまで来たのね」

「そう、って……! ベルンハルト商会ですよ!? 本当に潰れてしまうかもしれないんですよ!」

 私は手にしていたペンを置いた。驚きは無い。むしろ、ここまで保った方が不思議なくらいだった。

「それと……若旦那様が、こちらへ来ています。今、外でかなり揉めていて……」

 その瞬間、扉が勢いよく開いた。

「エルザ!」

 入ってきたのはクラウスだった。以前よりずっと痩せている。高価だった上着には皺が残り、髪も乱れたままだった。

「戻ってきてくれ!」

 開口一番、それだった。クラウスは息を荒げたまま机へ近づき、焦った顔で私を見る。

「商会がめちゃくちゃなんだ! このままだと本当に終わる!」

「でしょうね。今まで無理やり続けていただけですから」

「皆、君がいなくなってから変なんだ! 水夫も辞めるし、取引先も冷たいし、前みたいに話が通らない!」

 私は少しだけ笑った。

「変なのではありません。元に戻っただけです」

「何だよそれ!」

「今まで、私が繋ぎ止めていたんです。水夫も職人も取引先も、全部ぎりぎりで保っていただけでした」

 クラウスは呆然とした顔で私を見た。まるで今まで一度も考えたことが無かったと言うように、口だけがわずかに動いている。

「嘘だ! ベルンハルトは名門だぞ! そんな簡単に崩れるわけないだろ!」

「その名門を、旦那様が潰したんです」

 クラウスが息を呑んだ。そこで初めて、本当に追い詰められているのだと分かったのかもしれない。彼は数秒黙り込み、それから縋るような声を出した。

「……頼む。もう一度だけでいい、戻ってきてくれ」

「無理です」

「愛人とも別れた! リリアーナとも、もう会ってない!」

「だから?」

「え……」

 クラウスは言葉を失った。今さら何を言われているのか、本気で理解できない顔だった。

「旦那様は、まだ分かっていない。問題は愛人だけではありません」

 私はクラウスを見たまま、はっきりと言葉を続けた。

「信用です。働く人達を軽く扱い、妻を脅せば従うと思い、商売は誰かが勝手に支えてくれると考え続けた。その積み重ねで、皆が離れていったんです」

 クラウスは何も言えなかった。ようやく目の前の現実を見始めたのか、震えるように息を吐いている。

「旦那様は、“失っても戻ると考え続けた。でも、一度壊れた信用は戻りません」



「話は終わったか?」

 低い声が聞こえ、事務所の空気が変わった。振り返ると、入口の前にはレオン・ヴァルツが立っている。クラウスの顔は目に見えて引き攣り、さっきまで私へ向けていた視線が一気に揺れた。

「ヴァルツ……どうしてここに」

「差し押さえ通知は届いただろう。北倉庫の件も、もう正式に処理へ入っている」

 レオンは感情を交えずにそう言った。クラウスは慌てたように一歩前へ出るが、その動きにはもう以前の勢いが残っていない。

「ま、待ってくれ! もう少しだけ猶予をくれれば、必ず立て直す!」

「無い」

 レオンは即座に答えた。

「港湾組合も、お前との取引停止を決めた。これ以上、未払いと事故へ付き合う気は無いそうだ」

「そ、そんな……! いきなり全部切るなんて!」

「安心しろ。船はこちらで買い取ってやる」

 その言葉に、クラウスの顔へ一瞬だけ希望が戻った。

「ほ、本当か!? なら何とか立て直せる、船さえ残れば――」

「残りはしない。借金は、そんな額ではない」

 その瞬間、クラウスの顔から血の気が引いた。

 レオンは彼を見たまま、それ以上慰める言葉を一つも口にしない。数字として処理する相手を見る目だった。

「エルザ。北部航路の件だが、こちらとしては正式契約へ進みたい」

「はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします」

 私が頷くと、クラウスの動きが止まった。理解できないものを見るような顔で、彼は私とレオンを交互に見ている。

「は……? 何の話だ……?」

 レオンが淡々と答えた。

「エルザさんは既に新会社を立ち上げている。北部航路の再編も、こちらと共同で進める予定だ」

 クラウスの口が震えた。言葉を否定したいのに、何から否定すればいいのか分からない顔だった。

「……嘘だ。そんな話、聞いてない」

「船員も取引先も職人も、かなり流れたぞ。お前のところに残った人間の方が少ないくらいだ」

 当然だった。皆、最初から誰が商会を回していたのか知っている。給金交渉も積荷調整も事故対応も、現場で頭を下げていた相手を見てきた。

「う、嘘だ……そんなの……あり得ない……」

 クラウスは崩れるように椅子へ座り込んだ。呆然としたまま机を見つめ、ようやく自分の足元が消えていたことに気づいたようだった。

 その姿を見ながら、私は思う。この人は最後まで、自分が中心だと思っていたのだ。皆が自分へ従い、商会も船も当然そこにあり続けると信じていた。

 でも違う。皆、生きるために働いていた。だから、信用できる相手についていっただけだ。



 半年後、私のランベル海運は北部航路を中心に取引を広げ、港でも名前を聞かれる商会になっていた。利益だけを比べればベルンハルト商会の最盛期より小さいが、事故率は低く、水夫達が辞めることもほとんど無い。

 無茶な航路を組まず、修繕費も削らず、契約書も最後まで確認する。ただそれだけのことを続けただけで、港の空気は驚くほど変わった。

「エルザ様、最近は本当にいい顔をしておられますね。前みたいに、ずっと張り詰めた顔をしていません」

 昼下がりの事務所で帳簿を閉じると、向かい側にいたミナが笑いながらそう言った。窓から吹き込む潮風で書類の端が揺れ、以前のような重苦しい空気は残っていない。

「そうかしら。毎日数字ばかり見ているから、自分では前と変わらないつもりだったのだけれど」

「変わりましたよ。前は、商会が壊れないように一人で支え続けていましたから」

 私は少し考え、閉じた帳簿へそっと手を置いた。ベルンハルト商会にいた頃は、毎日どこかが崩れかけていた。航路も帳簿も人間関係も、止まれば終わる気がして、気を抜く余裕など無かった。けれど今は、自分で積み上げたものが形になっていく感覚がある。

 その時、事務所の扉が開いた。

「仕事中だったか。だが、新造船の件で少し確認したいことがある」

 入ってきたのは、レオン・ヴァルツだった。

 ここ最近、彼は妙にこの事務所へ顔を出す回数が増えている。しかも毎回、「近くを通っただけだ」と同じような言い訳を口にするのだ。

「また突然ですね。三日続けて現れておいて、偶然と言われても信じられません」

「本当に近くを通っただけだ。毎回そこまで疑われる筋合いは無いと思うが」

 横で聞いていたミナが、堪えきれないように口元を押さえている。

 私は呆れたように息を吐き、机の上へ置かれた書類を片付けた。

「それで、本日はどういったご用件でしょうか。今度こそ、本当に仕事のお話なんですよね?」

「ヴァルツ海運側として、共同運航の契約を提案したい。条件は既にまとめてある」

 レオンはそう言って書類を差し出した。

 私は契約内容へ目を通し、利益配分の欄を見たところで眉を上げる。こちらへ割り振られている比率が、予想していたよりかなり大きい。

「利益配分、こちらが多すぎませんか。この条件では、そちらの利益がかなり減ると思います」

「問題無い。ランベル海運の信用を考えれば、それでも十分に成立する契約だ」

「それでも普通は、もう少しそちらへ利益を多くします。こちらばかり有利な条件に見えます」

 そう返すと、レオンは真顔のまま私を見た。

「貴女は、自分の価値を低く見積もりすぎる。貴女の商会に、人も商売も集まっているだろう」

 私は言葉に詰まった。ベルンハルト商会にいた頃、私は仕事の話をするたび、可愛げがないだの重いだのと陰で笑われていた。帳簿を抱えて走り回っても、返ってくるのは「怖い女だ」という言葉ばかりだった。

 けれどレオンは、契約書の数字も現場の積み重ねも正面から見て話をする。私が何をしてきたのかを、最初から仕事として扱っていた。

「……ありがとうございます。そういう言葉を向けられたのは、初めてかもしれません」

 そう返すと、レオンは少しだけ視線を逸らした。

「礼を言われるほどの話ではない。当然の評価を、そのまま口にしただけだ」

「照れてます?」

「照れていない。余計なことを言うくらいなら、契約書を最後まで確認してくれ」

 耳が少し赤い。私はそこで初めて、肩の力を抜いて笑った。

 窓から吹き込む潮風が書類を揺らし、港には新しい船がゆっくり入ってくる。甲板の上では水夫達が忙しそうに動き、その姿を見ているだけで胸の奥が少し温かくなった。

 今なら、自分の足で前へ進んでいけると思えた。



完。

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― 新着の感想 ―
両親は息子をどういう育て方をしたのか・・・ 現実世界でも2代目・三代目が金遣い荒く潰れるケースがよくあるから結構、現実味のある話でしたね。 おそらく、彼と一緒にばか騒ぎしていた人達は雇ってもらえてない…
こういう当たり前のことをしていた人が周りに正当に理解されて、何もしていなかった人がちゃんと落ちぶれる話、好き! ミナがかわいらしいというオプションもついて、なお良き!
どんなに大きく立派な商船だろうが、船体のあちこちに穴を開け積み荷を囓るネズミが居る限り沈むのは時間の問題だ罠。 先代が息子を切れなくて賢い嫁さんを迎えたのだろうが、まるっと無駄だった訳だ。 「旦那を立…
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