表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

王太子殿下が浮気? どうぞお好きになさってください。だって私が産む次期国王は、殿下の子じゃありませんから。

作者: ヨルノソラ
掲載日:2026/04/08

「シャル。今日もまた、見てしまった」


 学園のサロン、奥まった窓辺の席。午後の日差しがやわらかく差し込むその場所に、ユリウス・アルクサンバルクは呆れた顔で腰を下ろした。栗色の髪を無造作にかきあげる仕草には、長年の付き合いから滲む遠慮のなさがある。


 私──シャルロット・ヴァンディルージュ公爵令嬢は、白磁のカップに口をつけたまま、ゆっくりと視線を上げた。アールグレイの香りが鼻先をくすぐる。完璧な温度、完璧な抽出時間。学園のサロンの紅茶係は、今日も仕事に忠実なようだ、と私は胸の内でひっそりと評価する。


「何を?」


「殿下とベアトリーヌ嬢だ。中庭の薔薇園の奥──東屋の陰で、今度は身を寄せ合っていた。これで何度目だと思う?」


「さあ。数えていないわ」


「五回目だぞ。今月だけで」


「そう。よく数えているのね」


 私はカップを静かにソーサーへ戻した。かたん、と微かに澄んだ音が鳴る。


 ユリウスは小さく息を吐き、向かいの席で頬杖をついた。


 私はその仕草を、横目で眺めた。


 ──あなたが本当に呆れているのは、王太子殿下のことではないでしょう?


 私たちは、もう何も言わなくても、互いに分かるところまで来ていた。彼が「呆れた顔」を作るのは、他の生徒たちの目があるからだ。サロンには、まだ私たち以外にも数人の令嬢令息が残っていた。彼らが見ているところでは、私たちは「政略婚約に縛られた、節度ある幼馴染」を演じ続けなければならない。


 そういう約束なのだった。


「いいのか? 本当に」


 ユリウスは、少し声を落として尋ねた。


「何が?」


「殿下はお前の婚約者だろ。婚約者が、別の女と逢瀬を重ねている。普通なら泣くか、暴れるか、相手の女の頬を扇子で打つかするものだ」


「あら。ずいぶんと古典的な発想ね、ユリウス」


 私は微かに口角を上げ、それから細い指でカップの縁をなぞった。


「私にとって、殿下との婚約は父の領地と王家を結ぶための糸でしかないわ。糸の片方が腐っていようと、それは私の感情とは関係のない政務上の話。腹を立てる方が、かえっておかしいのよ」


「割り切りすぎだ」


「割り切らずに貴族の娘はやってられないわ」


 ユリウスは何も言わなかった。


 けれど、彼の指先が、テーブルの上で、ほんのわずかに動いた。私の指先まで、あと少しの距離。届かない距離。届かせてはいけない距離。私たちはサロンにいる。ここで触れることは、できない。


 私は、その指先から視線を外して、紅茶を一口飲んだ。


 §


 サロンを出てしばらく歩いた頃合いで、ユリウスが横に並んだ。


 校舎の裏手、人気のない渡り廊下。窓の外の中庭からは、まだ甲高い女の笑い声が風に乗って届いてくる。ベアトリーヌの声だった。


 ユリウスは、ちらりと中庭の方角に視線を流して、低く呟いた。


「あの女。本気で殿下を狙っているな」


「ええ」


「お前は、本当にそれでいいのか」


「ええ」


 私は短く答えた。


 ユリウスは小さく笑った。それは、サロンで作っていた「呆れ顔」とは違う、ごく素の、けれどどこか諦念を含んだ笑みだった。


「ベアトリーヌのほうも、俺のことなど見ていない。彼女の関心は最初から殿下にあった。俺との婚約は、彼女にとっても親が決めた政治的な縁でしかない。お互いの婚約者が、お互いに不貞を働いている。それを、お互いの『被害者』である俺たちが、こうして並んで歩いている。世間が見たら、なかなかの見物だろうな」


「世間には、絶対に見せないけれどね」


 私はそう答えて、廊下の角を曲がった。


 ──そう。世間には、絶対に見せない。


 私とユリウスの関係は、もう半年以上も前から、「節度ある幼馴染」の枠を、はみ出している。


 最初は、一夜だけの過ちだと思っていた。私の十八の誕生日の夜、公爵邸の薔薇園で、ユリウスが私に小さな花束を差し出した。それは私が十二の頃から毎年、彼が誕生日に贈り続けてきた、白薔薇の花束だった。けれどその年だけは、彼の手が、ほんの少しだけ震えていた。


 私は、その震えに、応えてしまった。


 それから半年、私たちは時間を見つけては、人気のない場所で互いを確かめ合うようになった。公爵邸の温室の奥。アルクサンバルク侯爵領の別邸。王都の郊外にある、ユリウスの祖母が遺した小さな別宅。誰の目にも触れない場所を選んで、私たちは、これまで十年間ずっと禁じてきた言葉と、そして言葉ではないものを、すべて取り戻すように交わしてきた。


 誰にも、知られていない。


 父にも、ユリウスの父にも、学園の誰にも。もちろん、私の婚約者である王太子ザックバルドにも。


 知られてはいけない関係だった。なぜなら、私は王太子の婚約者であり、ユリウスは伯爵令嬢の婚約者であり、私たちはどちらも、その婚約を「破棄するつもりはない」のだから。


 §


 渡り廊下の突き当たり、人気のない教科書庫の前で、ユリウスは私の手を取った。


 鍵のかかった重い扉を、彼は手慣れた仕草で開けた。中は薄暗く、紙とインクの匂いがする。窓は天井近くにひとつだけあって、午後の光が斜めに差し込んでいた。古い参考書が積み重なった棚と棚のあいだに、わずかな空間があった。私たちが密かに重宝するようになって、もう何度目になるだろう。


 扉が閉まる音と同時に、彼の唇が私の額に落ちた。


 紙とインクの匂いと、彼の体温と、ほのかな麝香──これらが、私にとっての「ユリウス」という言葉の構成要素になりつつあった。サロンで作る「呆れ顔」の彼は、世間の彼。そして、こうして扉の閉じた狭い空間で私の額に唇を落とす彼は、私だけの彼。


「シャル」


「ええ」


「俺は、ベアトリーヌとの婚約を破棄する気はない。お前と申し合わせた通り」


「分かっているわ」


「お前も、殿下との婚約を破棄しないんだな」


「ええ。破棄するつもりはないわ」


 ユリウスは、私の頬に指先を滑らせた。彼の指は、いつものように少しだけ冷たかった。けれど、その冷たさが私の頬の熱を引き取っていく感覚を、私はもう、自分の身体の一部のように知ってしまっていた。


「シャル。本当に、それでいいのか」


「いいのよ」


 私は答えた。


「殿下が浮気をなさっていても、私はそれを咎めない。注意もしない。両家にも告げない。ベアトリーヌ様についても同じよ。あなたは彼女の不貞に気づいていても、何もしない。私たちは、表向きの婚約を、これからも続けていく」


「……つらくないか」


「つらくないわ。むしろ、これは私たちにとって、最も都合のよい形なの」


 私は彼の手を取り、自分の頬に押し当てた。


「殿下が浮気していらっしゃる限り、私への監視は緩くなる。殿下は私のことなど気にかけていらっしゃらない。私がどこで何をしていても、興味がない。だから私は、こうしてあなたと会うことができる。もし殿下が誠実な婚約者だったら──私はもっと、自由を奪われていたはずよ」


「皮肉な話だな」


「皮肉ね。でも、感謝してもいいくらい」


 私たちは小さく笑い合った。教科書庫の暗がりの中で、その笑い声は、不思議なほど親密に響いた。


 ユリウスは、私の額に唇を落としたまま、しばらく動かなかった。彼の片方の手が、私の腰のあたりに添えられている。それは抱きしめるというにはあまりに静かな仕草だったけれど、ただの幼馴染同士であれば決して行われない種類の仕草でもあった。


「シャル」


「なあに」


「俺は、お前と結ばれたかった」


「知っているわ」


「十二の頃から、ずっと」


「私もよ。十二の頃から、ずっと」


 ユリウスは、ふっと深い息を吐いた。それは、長年抱えてきた重荷を、ようやく半分だけ降ろせた者のため息のようだった。


「けれど俺たちは、結ばれない道を選んだ」


「ええ。私が選ばせたの」


 私は静かに彼を見上げた。


「ユリウス。あなたの家は、宰相の家。私の家は、王家に次ぐ公爵家。私があなたとの婚約を強行すれば、両家の力が一点に集中しすぎるわ。それを陛下は決してお許しにならない。あなたが私を妻に迎えるためには、いずれ宰相の地位を捨てるしかなくなる。あなたから宰相の道を奪うことは、私にはできない」


「だから、お前は王家に嫁ぐ」


「ええ。そして、あなたは伯爵家のベアトリーヌ様を娶る。両家の力は分散され、誰も私たちのことを警戒しなくなる。それが、最も自然な形なの」


 ユリウスは私の手を、ゆっくりと取り直した。


「シャル。お前は、本当にすべてを計算しているな」


「計算することしか、私にはできないもの」


「いいや」


 ユリウスは静かに首を振った。


「お前は、計算しながら、ちゃんと『俺』も入れている。それが、ただの計算高い女との違いだ」


「あら。誉めているの?」


「誉めている。十年ぶんの誉め言葉を、これから少しずつ、お前に返していくつもりだ」


 私は、彼の言葉を聞きながら、ほんの少しだけ目を伏せた。


 ──十年ぶんの誉め言葉。


 それを聞くために、私は十年待った。彼に「気づいているわ」と告げないで、彼が他の女と婚約することを止めないで、彼が私の隣で「友人」を演じきるのを黙って見ていた、その十年。


「ユリウス。その十年ぶんは、これからゆっくり、いただくわ」


「ああ。一生かけて、返していく」


 ユリウスは、私を腕の中に抱き寄せた。教科書庫の薄暗い空気の中で、私たちはしばらく、ただ静かに息を合わせていた。


 古い紙の匂いの奥で、彼の心臓の音が、私の頬に伝わってきた。


 ──私が一生をかけて聞きたかった音は、結局のところ、これだった。


 §


 翌日も、その翌日も、王太子ザックバルドとベアトリーヌ・モンロワ伯爵令嬢は、東屋で逢瀬を重ねていた。


 学園内では、二人の関係はもはや「噂」ではなく「公然の事実」として扱われ始めていた。ベアトリーヌは王太子の腕に堂々と寄りかかり、王太子は彼女の頬に手を伸ばすことを隠そうともしない。教師たちでさえ、二人の振る舞いを見て見ぬふりをするようになっていた。


 私とユリウスは、その光景を見ても、何ひとつ動かなかった。


 私は変わらず、サロンで紅茶を飲んだ。ユリウスは変わらず、図書館で歴史書を読んだ。私たちは互いに距離を保ち、誰の目にも「節度ある幼馴染」として映るように、慎重に振る舞い続けた。


 動くべきでない、というのは、私たちの戦略だった。動けば、私たちの関係が露見する危険が上がる。動けば、両家の親が「事を収めねば」と判断して、私とユリウスを引き離す方向に動き出す。私たちが望んでいるのは、引き離されないこと。だからこそ、表向きの私たちは、徹底して「気づかぬふり」を貫かねばならない。


 ある日、王太子が私に近づいてきたことがあった。


 学園の中庭、薔薇園の入り口。私が一人で歩いているところに、彼はベアトリーヌを伴わずに、わざわざ姿を見せたのだった。


「シャルロット」


「殿下。何かご用でしょうか」


「お前、近頃あまり私のことを構ってくれないな」


 王太子は、芝居がかった笑みを浮かべて私を見下ろした。彼の言葉には、わずかな試すような響きが混じっていた。


 ──この方は、私が何かを察していることを、感じ取り始めていらっしゃるのね。


 私は内心でそう確認しながら、ごく穏やかに微笑み返した。


「殿下は、近頃お忙しくていらっしゃるようでしたから。私からお声をおかけするのは、かえってご迷惑かと思っておりました」


「忙しい? 私が?」


「ええ。中庭の東屋でのお茶会など、いろいろとお役目がおありのようでしたから」


 王太子の頬が、ぴくりと引き攣った。


 私は、それを見ても表情ひとつ変えなかった。むしろ、ごく穏やかな顔のまま、薔薇の蕾に視線を落として、いかにもどうでもよいことを話すような口ぶりで続けた。


「ベアトリーヌ様とのご懇談は、たいそう実りあるものと伺っておりますわ。私のことはどうかお気になさらず、これからもごゆっくりお過ごしくださいませ」


「な、何を……」


 王太子は、明らかに動揺していた。けれど、彼が動揺している理由を、彼は私に言うことができなかった。なぜなら、それを言葉にした瞬間、彼の不貞を彼自身が認めることになるからだ。


 私は、その沈黙を、ごく自然に受け流した。


「殿下。私は、殿下の婚約者でございます。それは変わりませんし、変えるつもりもございません。陛下より頂戴したこの縁を、私は誠心誠意、お務め申し上げる所存です」


「シャ、シャルロット……」


「ですから、殿下も、どうかご自分のなさりたいように、お過ごしくださいませ。私はそれを咎めるつもりも、申し上げるつもりも、両家の親に告げ口するつもりも、ございません。私たちの婚約は、これからも何ひとつ、変わらないのですから」


 王太子は、しばらく言葉を失っていた。


 私の言葉は、表向きには「寛容な婚約者」のそれだった。けれど、彼の内側では、その寛容さこそが何よりも恐ろしいものとして響いているはずだった。なぜなら、私が「咎めない」と告げたということは、私が彼の不貞を完全に「知っている」ことを認めたに等しいからだ。


 知っていながら、咎めない。


 知っていながら、何もしない。


 それがどれほど不気味な距離感であるか、王太子もさすがに薄々感じていたらしい。


「……シャルロット。お前は、私のことを、どう思っている?」


「殿下は、私の婚約者でいらっしゃいますわ。それ以上でも、それ以下でもございません」


 私はそう答えて、深く頭を下げた。


 王太子は、しばらく私を見つめていた。けれどやがて、彼は何も言わずに踵を返して、立ち去った。


 ──結構ですわ、殿下。これからもどうか、お互いに「気づかぬふり」を続けてまいりましょう。それが、私たち全員にとって、最も穏やかな道でございますから。


 ──そして、私が「気づかぬふり」を続けてさしあげているうちに、あなたの王家の血は、静かに、密やかに、別の血と入れ替わっていくのです。


 ──あなたはそれに、最後まで気づかない。


 薔薇園の蕾が、風にゆっくりと揺れていた。


 §


 季節が、ひとつ進んだ。


 学園の春は終わり、初夏の風が中庭の薔薇を揺らすようになった。王太子とベアトリーヌの関係は変わらず続いていた。私とユリウスの関係も、変わらず続いていた。


 表向きの世界では、何ひとつ動いていなかった。


 王太子は私の婚約者のままで、ベアトリーヌはユリウスの婚約者のままで、私たちは皆、一年後には予定通りの相手と結婚するはずだった。私は王太子妃となり、いずれは王妃となる。ユリウスはベアトリーヌを娶り、宰相職を継ぐ。それぞれの家の血筋を、それぞれの家の婚約者と共に、次の世代へとつないでいく。


 ──それが、表の物語。


 けれど、裏の物語は、別のところで動いていた。


 §


 初夏の、ある夜のこと。


 私はユリウスの祖母が遺した王都郊外の別宅にいた。月の明るい夜だった。窓の向こうには小さな池があり、月光が水面に銀の道を描いていた。


 ユリウスは、ベッドの上で私の隣に横たわっていた。彼の指は、私の銀の髪を、ゆっくりとすいていた。


「俺たちは、相変わらずだな」


「ええ。相変わらずよ」


 私は、彼の胸に頬を寄せたまま、ゆっくりと目を閉じた。彼の心臓の音が、私の頬に伝わってくる。十年間ずっと、この音を聞きたいと思いながら、聞けなかった。今、それが、私の頬のすぐ下で鳴っている。


 私は、しばらくその音を聞いていた。


 そして、ごく静かに、ささやくように告げた。


「ねえ、ユリウス」


「ああ」


「私、決めたことがあるの」


「なんだ」


「これから先、私は予定通り殿下に嫁ぐわ。表向きは、何ひとつ変えない。陛下にも、世間にも、誰にも、何も悟らせない。私は王太子妃となり、いずれは王妃となる。それは予定通り」


「ああ」


「あなたはベアトリーヌ様と結婚する。これも予定通り。あなたは宰相職を継ぎ、伯爵家の血と侯爵家の血を結んだ嫡男を、世間にお披露目することになる。それも予定通り」


「……ああ」


 ユリウスの指の動きが、ほんのわずかに止まった。


 彼は、私が何を言おうとしているのか、まだ理解しきれていなかった。けれど、何か重大なことが告げられようとしていることだけは、感じ取っていた。


 私は、ゆっくりと目を開けた。月光が、天井に水面の波紋を映している。


「でもね、ユリウス。一つだけ、予定通りではないことをしたいの」


「なんだ」


 私は、彼の頬に手を伸ばした。指先で、彼の口元の輪郭をなぞった。


 そして、月の光のなかで、ごく静かに告げた。


「この国の未来を、あなたの子に担ってほしい」


 ユリウスの呼吸が、止まった。


 私は彼の頬に手を置いたまま、続けた。


「私が王太子妃となり、いずれ次代の王太子を産むことになるわ。その子は、王家の血を引く正統な後継者として、この国に迎え入れられる。世間は誰一人疑わない。陛下も、王妃陛下も、そして殿下ご自身も、その子を『次代の王』として可愛がられることになるでしょう」


 月の光が、ユリウスの目に映って、わずかに揺れた。


「けれど、その子の本当の父親が誰であるか──それを知っているのは、この世にたった二人。あなたと、私だけ」


 ユリウスは、しばらく言葉を失っていた。


 月光の中で、彼の喉が小さく動いた。何かを言おうとして、けれど言葉が見つからず、何度か呼吸の形だけが空中に置き去りにされた。


 やがて彼の指が、ゆっくりと動いて、私の手を取った。彼の指は、いつもよりずっと冷たかった。けれど、その冷たさの奥に、確かに熱が宿っていた。


「シャル。お前は……本気で、それを言っているのか」


「本気よ」


 私は答えた。


「殿下は、私を愛していらっしゃらない。ベアトリーヌ様を愛していらっしゃる。それなら、殿下の血を後世に残す義務など、私にはない。私は王家に嫁ぐけれど、王家の血を継ぐつもりはないの。私が産むのは──私が愛した人の子よ」


「シャル」


「ユリウス。あなたは宰相の家を継ぎ、ベアトリーヌ様との間に嫡男をもうけることになる。それはアルクサンバルク侯爵家の血筋を残すための、必要な役目。私はそれを止めない」


 私は、彼の頬を撫でた。


「けれどね、ユリウス。あなたが本当に残すべき子は──王家の中にいるのよ。この国の頂点に座るべき子は、宰相家の片隅ではなく、王宮の真ん中で育つの。あなたの血は、私の身体を通じて、この国の未来そのものになるわ」


 ユリウスは、それでもしばらく、動かなかった。


 月光の中で、彼の睫毛が震えていた。それは怒りでも、戸惑いでもなく、もっと深い、根のところから揺り動かされた者の震えだった。


「それがどれほどの危険を伴うか、分かっているのか。もしばれたら、お前は反逆罪で処刑される。俺もだ」


「分かっているわ」


 私は静かに頷いた。


「分かったうえで、言っているの。私が産む子は、私が愛した人の子であってほしい。それは、私の──生涯でただひとつの、贅沢なの」


 ユリウスは、長い長い息を吐いた。


 そして彼は、ゆっくりと、ゆっくりと、私の手を自分の口元へと運び、その甲に唇を落とした。それは、誓いの口づけのように、長く、深かった。


「恐ろしい女だ」


「ええ。知っているわ」


「俺は、その恐ろしさを、十年以上前から愛している」


「知っていたわ」


 私たちは、月光の中で、ただ静かに笑い合った。


 ユリウスは、私を腕の中に抱き寄せた。彼の腕は、いつもより少しだけ強く、私を引き寄せた。


「シャル。一つだけ、約束してくれ」


「なに?」


「お前が、俺の知らないところで、誰にも気づかれずに耐えなければならないとき──俺はお前のすぐ近くにいる。たとえ会えない日が続いても、たとえお前が王宮の奥深くに閉じ込められても、俺はずっと、お前のすぐ近くにいる。それだけは、忘れないでくれ」


「ええ、忘れないわ」


 私はそう答えて、彼の胸に頬を寄せた。


 窓の外では、池の水面が、銀色に揺れていた。


 ──これから先、私たちが共に過ごせる夜は、数えるほどしか残っていない。


 ──けれど、その数え切れる夜の一夜一夜を、私たちは何十年分にも引き伸ばして、生涯のどこかにしまっておく。


 ──そして、私の腹の中で芽吹くであろう小さな命は、その夜たちの結晶として、いつか王宮の真ん中で育っていく。


 ──この国の未来を、私とユリウスの愛が、静かに塗り替えていく。


 私は目を閉じた。


 ユリウスの心臓の音が、いつもより少しだけ速く、私の頬に伝わってきていた。


 §


 翌朝、私は別宅を出て、公爵邸に戻った。


 何事もなかったかのように朝食を摂り、いつもの時間に学園に登校した。サロンでは、いつもと同じ完璧な温度のアールグレイが用意されていた。私は窓辺の席に座り、紅茶のカップを口元に運んだ。


 中庭の方角からは、今日もまた、甲高い女の笑い声と、男の低い相槌が、風に乗ってかすかに届いてくる。


 ベアトリーヌと王太子。


 二人は今日も東屋で逢瀬を重ねている。今日も、明日も、来週も、来月も、きっと結婚式の前日まで、彼らはそうやって過ごし続けるのだろう。誰にも咎められず、誰にも止められず、自分たちが世界の中心だと信じて。


 私は、その声を聞きながら、ほんの少しだけ口角を上げた。


 ──どうぞ、ごゆっくり。


 私は内心で、二人にそう囁いた。


 私はカップを傾け、紅茶の最後の一口を飲み干した。


 完璧な温度。完璧な抽出時間。


 学園のサロンの紅茶係は、今日も仕事に忠実なようだ。


 §


 サロンの扉が開いて、ユリウスが入ってきた。


 彼は私の向かいの席に腰を下ろし、いつもの呆れ顔を作って、低く呟いた。


「シャル。今日もまた、見てしまったぞ」


「あら、何を?」


「殿下とベアトリーヌ嬢だ。今度は東屋ではなく、特別棟の渡り廊下で抱き合っていた」


「そう」


「いいのか? 本当に」


 私は、ゆっくりと顔を上げて、ユリウスの目をまっすぐに見た。


 サロンには、まだ私たち以外の生徒もいた。だから、私はいつもと同じ「冷静沈着な公爵令嬢」の表情のまま、いつもと同じ口調で答えた。


「ええ。私は、何ひとつ気にしていないわ」


 ユリウスは、わずかに目を細めて、私を見つめ返した。


 その瞳の奥に、私は私だけが読み取れる小さな光を見た。それは、昨夜の月光の名残のような、誰にも見せない種類の光だった。


 私は紅茶のおかわりを侍女に頼みながら、心の中でひっそりと付け加えた。


 ──何ひとつ、気にしていないわ。


 ──だって最後に勝つのは、私たちなのだから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ