第2話 店をやめる ― 少し距離ができた夜
あれから数週間、俺は週に一度のペースで「コニーヨ」に足を運んでいた。
仕事の疲れやストレスを少しでも忘れられる場所、それがこのコンカフェだった。
週末の夜、ビルの外から見えるネオンの光に導かれるように、中へ足を踏み入れる。
カウンターに座る常連たちの笑い声が響く中、俺の視線は自然と碧に向いた。
いつも端っこに座り、ソフトドリンクを手にして控えめに笑う彼女――碧。
あの落ち着いた低い声と、顔の可愛さのギャップは何度見ても飽きない。
俺にとって、この店に来る楽しみの半分は、碧に会うことだった。
「お、今日も来たんやな」
碧はいつも通りの低い声で、でも少し笑みを浮かべて挨拶してくれる。
「せや、楽しみやしな」
俺はハイボールを頼みながら答えた。
グラスを手に取り、ゆっくりと喉に流し込む。香ばしい炭酸の刺激が、少しだけ気持ちを解きほぐしてくれる。
でも、その日、碧の雰囲気がいつもと少し違っていた。
笑顔はあるのに、目の奥に少し影があるように見える。
「…なんか、今日、元気ないな」と、内心で呟く。
碧が軽く息を吐き、目線を少し逸らしてから、ゆっくり口を開いた。
「…あのさ、私、ちょっと店やめることにしたんや」
その言葉に、俺の手が一瞬止まる。
「え…急なん?」
思わず声が裏返りそうになった。
「うん…店長とどうも馬が合わへんくてな。気ぃ使いすぎて疲れたわ」
彼女は控えめに、でも自然体で話す。
正直、店長と馬が合わないくらいで辞めるのかと思ったけど、碧の顔を見て納得した。
無理して笑ってるけど、目が少し疲れてる。
俺はグラスを握りしめたまま、どう言葉を返すか迷った。
「そ、そうか…せやけど、寂しいな」
自然と漏れた言葉に、自分でも少し驚く。
碧はにっこり笑うけど、いつもの軽やかさは少し薄れていた。
「ごめんな…急で」
頭を下げる碧の仕草に、胸がきゅっとなる。
「いや、ええねん。仕方ないことやし」
そう言いながらも、心のどこかで、少しだけ悔しい気持ちが芽生えていた。
俺と彼女の関係は、まだ始まったばかりやのに、もう少し距離ができるのかと思うと、やっぱり寂しい。
その後の一週間、俺は店に足を運んだものの、碧はいなかった。
カウンター越しに笑い合う時間が消え、静かな店内だけが俺を迎える。
いつもなら、ハイボールを傾けながら少し無邪気に話すことで笑い合える時間があったのに、今はそれがなくなった。
スマホを見て、碧にメッセージを打とうか迷う。
「元気にしてるかな…」
でも、急に距離ができたことで、どう書けばいいか分からず、結局送れない。
少し大人ぶって自分を納得させるしかなかった。
次の週末、再び「コニーヨ」に向かう。
店の扉を開けると、いつものネオンと音楽が迎えてくれる。
しかし、碧の席は空いたまま。
カウンターの隅に座る俺の視線は、どうしても空席に吸い寄せられる。
常連たちの笑い声の中、俺はひとり静かにハイボールを傾ける。
「…やっぱ、あの子おらんなると、寂しいな」
心の中でつぶやくと、グラスが少し震えた。
でも、あの低い声、あの独特な笑顔が、頭から離れない。
店長と合わへんってだけで辞めたとしても、また会える日があるかもしれん――
そう信じて、俺は静かに次の週を待つことにした。
空席のカウンターを見ながら、少しだけ想像する。
碧は今、何してるんやろ。
学校の課題に追われてるんやろか、それともただゆっくり寝てるんやろか。
思わず微笑んでしまう自分がいて、同時に胸が締め付けられる。
日々の忙しさに流されつつも、俺の中で碧の存在は少しずつ大きくなっていた。
会えない寂しさと、また会えるかもしれん期待が入り混じり、心がざわつく。
その夜も、俺はハイボールをゆっくり傾けながら、店内を見渡す。
いつかまた、カウンターの端に碧が座り、低い声で笑いかけてくれる日を願いながら。
少し距離ができても、関係が終わったわけじゃない――
そう信じて、俺は静かに次の週を待つのだった。




