B-1 「暴虐非道 -全年齢版-」
「じゃあ次は44番。そこのあなたです」
指を差されたのはパジャマを着た若い女性だった。彼女は自分の胸のプレートを確認し、もう一度リング上にいる初老の男に目を向けると、血の気が引いた顔でイヤイヤと首を振った。
だが、無駄だった。女の周囲にいた人間が一瞬にして、サングラスをかけた黒服の男に変わると女を羽交い絞めにし、担ぎ上げたのだ。そのままリングへと連行する。女の悲鳴が、この武道館のような場所に響き渡る。
リングの上に立つ老人はタキシード姿。シルクハットまでかぶって、紳士気取りだ。天井からの照明がスポットライトのように照らしていて、銀幕のスターのように見えなくもない。
「た、たすけて」
リングに上げられた女が、すがるように手を伸ばす。男はその手を取り、ニコリとほほ笑むと、女の細い腕を、まるでバナナでも握りつぶすかのように無造作に、ゆっくりと捻り上げた。
女の悲鳴がさらに高くなった。だが、その声は不自然なほど短く、唐突に途切れた。男はそのまま女を抱え上げると、次の瞬間には、影に隠されたかのように姿が見えなくなった。
「今宵はここまでに──いたしましょう」
男の言葉が合図だったか、女性の声で場内アナウンスが流れ始めた。
本日の催し物はこれで終了です。お忘れ物がないよう、みなさま、お気をつけてお帰りください。
まるで催し物だ。あまり現実感を感じられないまま、俺は出口に殺到する人込みに流されて会場を出た。
1階だった。窓の外は昼間のようで、明るい。ここはどこだったのか。見上げてみたがどこにも看板の類はなく、ありふれた5階建ての雑居ビルだった。
とぼとぼと俺は歩き出した。自宅の方角がわかっていたわけではないが、それらしい方向に、ただ歩く。何人もの人間と連れ立って歩いていたが、見知った顔はなかったし、皆一様に暗い表情を浮かべていた。
「……凄かったですね」
隣の男がそう呟くように言った。俺はああ、とも、ええ、ともつかない返事だけを返した。思い返したくもなかった。響き渡る悲鳴。目が合った女の最期。
突然、男に指を掴まれる。俺の──人差し指と中指と薬指。先ほど見た、女と同じだけの指。
「次もお呼びしますね」
隣にいた男は、壇上にいたあの老人だった。
*
そこで目が覚めた。歯を震わせていたのだろう、顎に痛みを感じた。目をやると隣で妻が、ルームライトを点けて読書をしていた。俺が差し伸ばした手に驚き、顔を上げた。
「あらあら。起きてしまったの?」
「……俺、いびきをかいてたか」
「いびきはなかったけれど、うなされてた。すごい歯ぎしり」
顎の痛みはそのせいか。
「怖い夢を見た」
「そうなの。どんな夢かしら?」
聞かれたが、俺は思い出す事ができなかった。つい先刻まで見ていた映像なのに、全くと言っていいほど、覚えていなかった。
ただ──ただただ怖かった。その感情だけが残滓となり、俺の脳にへばりついていた。
*
ふと気がつくと、俺は固い椅子に座っていた。プラスチック製の、青い椅子。野球場でよく見るやつだ、そう思ったが──ここは野球場だった。家の近所にある球場だ。隅だけ色が欠けたスコアボードに見覚えがあった。内野席には誰もおらず、外野席は満員だった。俺はレフト方向の中段ほどにいる。
ナイター照明が煌々と光を放ち、芝を青く、土を黒く浮かび上がらせる。マウンドにはしまい忘れたか、ヒーローインタビューで使うようなお立ち台があり、そこへ向かって何者かが颯爽と歩いているのが目に入った。双眼鏡がないとよく見えない距離なのに、何者かが着ている燕尾服とシルクハットに見覚えがあることに気が付いた。
不意に思い出し、俺は自分の胸に手をやった。小さな白いプレート。ゴシックで書かれた「52」の文字。前回と同じだった。
ザザ、とノイズを混えながら、それでも明瞭な女性の声でアナウンス。
「次は、14ばぁん、次は14番ー」
男の叫ぶ声がセンター方向から上がった。かと思いきや、リリーフカーがマウンドに向かう。そうして乗せられていた男を、運転していた黒い人影が蹴落とした。老人は足元に転がった、おそらく14番の男に手を伸ばす。
その手が一瞬、男の体に触れた。
血の音は聞こえず、悲鳴も上がらない。
ただ、男の姿がフッと消える。
何かが落ちたような、くぐもった音だけが響いた。
「次は、181ばぁん、次は181番」
前回はプロレス会場、今回は野球場を舞台とした、謎の老紳士による殺戮ショーだったが、そこには俺の意識はすでになかった。とある疑問が頭の中に浮かんでいたからだ。
番号が若すぎる。
満員だった前回の会場で読み上げられた番号は、「101」「7」「83」「106」「44」だった。外野席のみ満員のこの球場で呼ばれた番号は「14」と「181」。──そして俺は「52」番だ。
満員の会場も野球場も5000人は収容できるはずだ。それなのに最大で「181」だ。人数に対して犠牲者のプレートの数字が少なすぎる。ただ単に偏りがあった可能性はゼロではないが、限りなく低い。
考えに耽っていた頭を上げ、俺は隣の席を見た。隣人の黒い服には名札は無かった。「隣人」と言ったが、それは人ではなかった。顔が無いのだ。塗りつぶされているような、漆黒の人影。表面は風船のような質感をしているが、材料には見当もつかなった。コンクリートのように固くもあり、タピオカのように粘度を持っているようにも見えた。
左隣も黒い塊だった。上の席もその上も。見渡す限り、俺の周囲は黒人形ばかりだった。
「次は、166ばぁん、次は166番」
「次は、172ばぁん、次は172番」
「次は、50ばぁん、次は50番」
やはり標的とされる者は、全員で200人はいない。そして一日に殺害される数は5人。それは──たった今、50番の番号をつけられた女が消えた途端、試合終了のサイレンが鳴った事からも間違いない。
ならば──自分の番号が呼ばれる瞬間は、期待するほど、遠くはない。
その結論に、膝が震えた。脚だけでなく、俺は全身で──生きたまま肉をえぐられる痛みと、そしてそのまま殺される恐怖。想像するだけで──経験した事のない恐怖を感じていた。
肩をポンと叩かれる。顔を上げると、
「次も──お呼びしますね」
*
目が覚めると、肩に重い痛みがあった。怖い夢を見たせいで、全身に力を入れていたせいだろう。長時間の机仕事をした後の気分だが、それよりはるかに重苦しい。偏頭痛まで併発しているようで、俺は顔をしかめた。
「あらあら。痛み止め飲む?」
妻の申し出には、後でもらうよ、と答えた。テーブルには朝食とコーヒー。まずはカフェインを補給したかった。苦い刺激で、鈍いままだった脳が、ようやく活動を始める。
テレビを点け、報道チャンネルを選んだ。
朝食の間は妻との会話は無い。食事に集中するべきだという考えからだったが、もの寂しさを埋めるための音楽をかけるくらいなら、暗い話題ばかりであっても報道を選ぶ。この時間帯は妻と一緒に、栄養と情報を吸収するためのものに、いつ頃からか、なっていた。
けれど今朝は妻が話しかけてきた。どうやら機嫌が良いらしい。
「あなたの大学の近くで殺人ですって」
そう言ってソーセージをかじる。「あなたが心配。注意してね」という意味だと分かるが、器用なんだか不器用なんだか。微笑みたい気持ちを隠し、俺も映像に目をやった。被害者は21歳の若い女性で、頭を強く打った状態で発見されたそうだ。その表現は頭部に欠損があった状態で死体が発見された事を意味する。痴情のもつれか怨恨か、若い身空で哀れなことだ。自分の半分以下しか生きられなかった少女の人生には、憐憫しか覚えない。
顔写真が公開された。思っていた以上に、派手かましい雰囲気のない、涼しげな顔立ちをしていた。その顔が醜く歪み、消え去る姿を──俺は知っていた。もちろん会った事はない。名前に聞き覚えもない。なのに、俺は知っている。
ごくり。音を立てて喉が鳴った。
「44番」
自然と口をついて出た数字を、俺は知らない。




