Z-1 「残夢」
夢にまで見た──
なんて言葉は世間にはありふれていて、強く望む、とかって意味だけれど、実際に夢だった時の衝撃は、うん。言葉にできない。
ぼくは大きく息を吸い込んだ。
目を開いている。よし。暗い天井を見ている。よし。自分が覚醒したことは実感できているのだけれど、理解ができない。よろしくない。
「……嘘だろ?」
嘘じゃなくて夢だ。ぼくの中のもう1人の在川恵一が教えてくれる。
うるさい嘘だ。夢よりも嘘の方が、実体ある分だけマシだ。
などと自分と喧嘩していても話は進まない。かぶっていた毛布から手を伸ばして、ぼくは眼鏡をかけると枕元の携帯を確認する。朝。5時47分。アラームまでも2時間。
もうひと眠りするか。それは素敵な考えに思えた。今すぐに眠ることができれば、夢の続きを見られるかもしれない。
二階堂千香さん。
ぼくの好きな人。
目を見て、はにかんで、そしてようやくキスをした。
──その続きだ。
覚醒しつつあった体と脳みそに、催眠術をかけていく。眠れ眠れ。足の先から太もも、お腹、胸、腕。首をのぼって頭まで。名付けるなら「まどろみ」、その化け物に包まれて飲み込まれるイメージを、繰り返し思い浮かべる。
眠れ眠れ眠れ。
赤ちゃんみたいに丸くなってみる。
眠れ眠れ眠れ眠れ。
呼吸を深く、太極拳みたいに。
眠れ眠れ眠れ眠れ眠れ。
態勢が悪いのかと寝返りひとつ。
眠れ眠れれ眠れ眠れ眠れ眠れ眠れ眠れ眠れ眠れ眠れ眠れ。
……眠りの森の──そういえば、あのお姫様は花のトゲが刺さって寝たんだっけ。って違う。究明は明日だ。眠れ眠れ。……でも糸車が出てきたような。やめろ! 眠れ眠れ眠れ。「……お前も糸車にしてやろうか」。やめてやめて。眠りたいんよ。眠れ眠れ眠れ眠れ。
*
*
「グリム童話ですか?」
声をかけられて、ぼくは立ち読みしていた本を閉じた。振り向けば、いたのは藤崎いづみだった。
彼女が児童書担当なのは、身長で決められたとぼくはにらんでいる。仕事着である緑のエプロンは、どうにもビッグシルエットが過ぎた。
新刊整理や雑誌出しなどの開店準備はすでに各自終了していて、自動ドアのロックを外す10時まで待機している時だった。立ち読みは禁止だけれど、従業員だけの特権だ。「そ。グリム童話」
「なんでまた」
「ちょっと……眠る方法を探してて」
エプロンおばけは吹き出した。その姿は愛らしく、なんというか、その、二次元のアニメキャラみたいにも見える。その、あの平面っていうか、立体感がないというか、子供番組というか、子供というか。エプロンはアイロンが効きすぎているせいだろう、こうすとーんと。
そんな無礼な──自覚はある──見られ方をされてるとは露知らず、藤崎はぼくを指差し、からかいの言葉を吐く。
「それで茨姫ですか。在川さん、意外とメルヘン」
「存外そういう面があるよ」
「想定外です」
「心外な」
説明するのは面倒だったので、いつもみたく軽口で流す。
同じ国文学科の先輩・後輩の間柄である藤崎とは、同じ本屋に就職しても、だいたいこんな会話を繰り広げていた。言葉遊びや駄がつく洒落。
選ぶ語句のチョイスが、ぼくらは似ている。
「不眠対策なら、実用書コーナーの方が良くないですか」
まんま子リスのような動きで藤崎は駆けていくと、『病気・健康』棚の前に立ち、「んーっと」と言いながら首を動かす。髪の房が遅れてついていく。
目線を棚に沿わせてスライドさせていたが、結局藤崎は、平台に積まれていたムック本を手に取った。
「これとかどうですか──『よくわかるドリーム・ダイブ・アダプター』」
レジに入った時にそれなりに売った記憶がある。表紙に青と黒と銀、三つのヘルメットが並んだデザインだったので覚えていた。
「……あなたの夢をクリエイト?」
裏表紙を読みながら、藤崎はぼくにわかりやすくレクチャーしてくれるようだ。
「なんか、好きな夢を見られる機械です。つまり──眠れます」
以上解説終わり。
今の科学はここまで進歩したんですねすごいですね、としきりに頷く藤崎。首の動きに合わせて後頭部のちょんまげがぴょこぴょこ揺れる。こういうオモチャがあった気がするが思い出せない。
「でも──論外ですね」
探していた物とは少し違いますよね、と藤崎は本を戻しかけたが、その手をぼくは止めた。
確かに希望していたのは、眠る方法だったが──
「案外アリかも」
夢の続きを見ることはあきらめよう。
実際、今から眠ったとしても、今朝の夢の続きを見られるとは思えなかった。時間の経過とともにすでに記憶は曖昧になっており、現時点のぼくの脳裏には「二階堂千香とキスをした」という事象のみが焼き付いているだけだった。
だったら発想の転換。
想い人とキスをする夢、ではなく、
キスをする夢に出てきたのが、想い人──
……それいい。
これだったらいけそうだ。まずはとにかく情報収集だ。そう考えた時には、ぼくはすでに財布を出していた。
営業開始はもうすぐで、お客さんが入ってしまえばいつ売れてしまうかもわからない。次の入荷までは待てない。
ぼくの記憶も、気持ちも、とても持ちそうにない。
買うことを告げると、藤崎は「予想外の展開です」と言いながらも会計してくれる。慣れた手つきで本を袋に詰め、札と小銭をキャッシャーに入れた。
「このことは口外しないように」
「記憶から除外しときまーす」
レシートごと受け取ったぼくはスタッフルームへと戻り、戦利品をロッカーに放り込んだ。エプロンをざっと正して再びフロアに出ていく。
すでにオープン時間を迎えていた。郊外型の書店とはいえ、開店待ちをする客はいる。早速在庫を尋ねられながらもぼくの頭は、仕事が終わった後の、感動の再開を夢見ていた。
*
*
「本が入荷したと聞いたんですけれど」
声でわかった。
ぼくは補充コミックを棚に差すのをやめて、すすすっと人込みを抜けると、さりげない仕草でレジをうかがう。ぼくクラスのマイスターになれば、声を聞くだけでわかってしまう。
カウンター前にあろうことか、天使が降臨していた。Tシャツとジーンズというラフな格好にも関わらず、その神々しさは失われていない。
二階堂千香さんだった。
名前しか知らない常連客。
年はぼくより少し上だろう。初めて予約しに現れた時のことは、今でもはっきり覚えている。
レジにいたぼくは声をかけられるまで意識していなかった。「あーはいはい予約ね」ぐらいの雑な態度で顔を上げようとして、あまりの良い香りにめまいを覚えた。髪の長い女。書類記入のために大き目のサングラスを外したその瞳を見た途端、ぼくは恋に落ちたのだった。
あぁ、とかうぅ、とか、なんだかわからない返答をしてしまった恥ずかしい記憶は、とっとと忘れてしまいたい。
悶絶しながらも目線はそらさない。コミック棚の影から様子を見続ける。これ以上近づくとあの芳香か、オーラかなにかで気絶しちまうぜ。
ふとレジにいる藤崎いづみと、視線が合った。藤崎はこっちを見て一瞬だけ片眉を動かしたが、すぐ営業スマイルを浮かべて接客に戻った。
なんだあいつ。
仕事上がりに確認したら、別になんでもないですよ、と言われた。
藤崎は素早い動きでエプロンを脱ぐと、ロッカーに放り込んだ。引っかかってずれたらしく、結った髪の位置をそそくさと直している。
その隣に立ち、ぼくもエプロンをはずした。ロッカーを開けると、今朝買った本の袋がある。その存在が今日は1日、頭から離れなかった。
「お先に失礼します」
ぼくの後ろを通り過ぎる時、藤崎がぽつりと呟くように言った。「ああいう人が、好みなんですね」
……ん? なんだそれは。
「ちょっと待って」
呼び止めると、藤崎は少しだけ、見たことない表情浮かべて、どこがいいんですか、と言った。二階堂さんを指していることだけはわかったが、意図が見えない。
「あの人の、どこが好きなんですか?」
なんだか不穏な空気が漂ってきた気がしないでもなくはないこともなかったが、ぼくの密かな恋心が全然潜んでいなかったことだけは明白だった。それ前提の会話が進行しようとしている。
藤崎に隠しごとをするつもりも、したつもりも、ぼくにはないのだけれど、後ろめたさ半分、恥ずかしさ半分で。
ぼくは適当に流すことにして、「顔が好み」と答えた。
「……綺麗な人ですよね」
「まつ毛もバッサバサしてる」
「まつエク綺麗ですよね」
「なのに化粧はナチュラル」
「ナチュラリストに謝ってください」
「でも濃くはないだろ。してて薄化粧ぐらい」
「薄化粧の概念が不明です」
「あと髪が綺麗」
「長いとシャワー大変ですよね」
「瑪瑙みたいでいい色だよな。あと、いつもいい匂いがする」
「この時間でも石鹸の匂いですよね」
「そうそう。清潔そうでいいよな。今日の恰好もそうだけれど、地味で清楚」
「地味ですかそうですか。あのバッグいくらか知ってます?」
「知らないけれど、昔のやつかな。10年くらい前には、あの金ピカのマークは見てた気がするぞ」
「10年以上人気とは思わないんですか」
「だから出回ってて、ブランド品でもそんなに高くないんじゃないかな」
「ハイブランドですよ」
「そうなの?」
「しかも今年の秋冬新作」
「最先端を押さえてるってことか。センスがいいのかな」
「センス、て……。BLばっか予約する人ですよ?」
「──藤崎」
それは聞き捨てならなかった。本屋の人間たる者、客の嗜好についてあれこれ言うべきじゃない。誰にだって、人とは相容れない趣味はある。いいじゃないか。猫も杓子もネットで済ます世の中。書店業界も厳しい時代を迎えている。そんな中、店頭まで来てくれて、購入していただけるお客様のありがたいこと。たとえ店舗特典目当てだって、ありがたやありがたや、だ!
どんな者がどんな物を好きでも、口に出すのはどんなものか。
そう思ったがいつもの軽口会話の途中だ。あまりまじめな言葉を口に出す気にはならなかった。
ふいにぼくが人差し指を立てると、藤崎の肩がびくんっと跳ねた。目が合う。その背後を指差し、ぼくはこう言うだけにとどめた。
「帰らないのか?」
「……」
不自然な間。不思議な表情。
不機嫌な「帰ります!」
言い捨てて、藤崎は去って行った。なんだか、よくわからない。
釈然としないが、いてもしょうがないのでぼくも帰ることにした。
次は「Z-2」。




